四十歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て(松原泰道『南無の会辻説法 日のくれぬうち』水書房 9頁)
真偽の程は不明ながら、リンカーンの発言として、しばしばこのような事が言われるようです。さて。文豪・森鴎外(1862-1922)が自身の顔に劣等感を持っていたらしい事。しかしそれでも、
人間は親から貰った顔のままではいけない。その顔を自分で作って行って立派なものにしなくてはいけない(小堀杏奴著『晩年の父』岩波文庫 132頁)
という信条を持っていた事。それについては
以前お話したかと思います。実際、鴎外の次女・小堀杏奴によれば、
その言葉の通り、晩年の父の顔は実に立派な美しさを感じた(同書 同頁)
のだそうで。しかし、彼女の証言だけでは、身内贔屓の可能性も否定はできません。そこで、家族以外の人々が壮年期以降の鴎外の顔立ちについてどう評価したか、今回は少し見てみようかと思います。
・芥川龍之介
「鴎外の顔」について話す際、芥川龍之介は外せないかと思います。有名な話ですし。芥川は夏目漱石門下ですが、鴎外とも交流がありました。さて、大正五年(1916)に師・漱石が没した時の事。漱石の葬儀において受付を務めていた芥川は、参列者の一人であった鴎外についてこのように述べています。
その人の顔の立派なる事、神彩ありとも云うべきか、滅多に世の中にある顔ならず。(芥川龍之介『森先生』より)
やはりその場にいた江口渙(※1)によれば、芥川はこの時に
いい顔をしているな。じつにいい顔だな。(江口渙『わが文学半生記』青木文庫 83頁)
と「感嘆おくあたわずという風に、何度も同じ言葉をくりかえした」(同書 同頁)のだそうです。なお、芥川は鴎外に対して「恐怖に近い敬意」(芥川龍之介『文芸的な、余りに文芸的な』より)を表しているものの、手放しで評価している訳ではありません。具体的に申しますと、学識を絶賛し小説・戯曲の完成度を高く評しつつも、その作品内容について「何か微妙なものを失つてゐる」と手厳しい一言を下しています(同書より)。しかし、それをさしおいても、芥川の眼には、五十代半ばを迎えた鴎外の顔は感銘を受けざるを得ないものとして映ったようです。
なお、江口も鴎外の面貌について
精力家らしく赤味をおびてつやつやした顔。つよい光を放つするどい眼。ややとがった鼻。きゅっとかたくむすんだ口もと。ことに気持のよいほどひろく見える額のへんには、いかにも豊かな知性と創造力とがつねにわきあふれてやまない感じがはっきり出ている。(江口渙『わが文学半生記』青木文庫 82頁)
と印象深げに評しています。
・与謝野鉄幹
鴎外が没したのは、大正十一年(1922)の事。この時、鴎外の通夜へ最後の別れのため駆けつけた文学者たちの中に、与謝野鉄幹の姿もありました。鉄幹がこの時を題材に詠んだ歌の中には、鴎外の死顔を評したものもあります。
隅に立ち 万里と共にささやきぬ 「先生の顔 基督と似る」(クラウス・クラハト、克美・タテノ=クラハト『鴎外の降誕祭 森家をめぐる年代記』NTT出版 305頁)
「万里」とは、鴎外の通夜に居合わせた歌人・平野万里(※2)の事。
先生の 臨終の顔 「けだかさ」と 「安さ」のなかに まじる「さびしさ」(同書 306頁)
鉄幹から見る鴎外の顔は、キリストを思わせるような神々しさ・気高さを帯びたものであったようです。
鴎外に比較的近い人々の証言ではありますが、壮年期以降の鴎外が「自分の顔に責任を持った」生き様をしていた事を改めて伺わせる話ですね。壮年期を迎えた暁には少しでも顰みにならえるような自分でありたい、そう思わされる話でした。
【参考文献】
松原泰道『南無の会辻説法 日のくれぬうち』水書房
小堀杏奴著『晩年の父』岩波文庫
江口渙『わが文学半生記』青木文庫
クラウス・クラハト、克美・タテノ=クラハト『鴎外の降誕祭 森家をめぐる年代記』NTT出版
『日本大百科全書』小学館
『日本人名大辞典』講談社
※1 江口渙(1887-1975)
東京出身、東京帝国大学英文科中退。夏目漱石門下。大正六年(1917)『児を殺す話』、同七年(1918)『労働者誘拐』を発表し作家として名を挙げる。後にマルクス主義に接近し、プロレタリア文学の指導的立場の一人となる。戦後は新日本文学会や日本民主主義文学同盟で重きをなした。
※2 平野万里(1885-1947)
歌人。本名は久保。埼玉県出身、東京帝国大学卒業。与謝野鉄幹に師事し、『明星』主要歌人の一人として活躍。満鉄や農商務省の技師であった。歌集『わかき日』がある。
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