今回は、久々に読書案内。お題として亀井勝一郎『大和古寺風物誌』を扱いたいと思います。
関連サイト:
「青空文庫」(http://www.aozora.gr.jp/)より
「亀井勝一郎 大和古寺風物誌」(http://www.aozora.gr.jp/cards/001870/files/57496_60805.html)
亀井勝一郎(1907-1966)は近現代の評論家です。北海道函館出身、東京帝国大学美術科を中退。当初はマルクス主義者として活動していましたが、やがて日本古来の伝統や仏教思想・美術に傾倒し文芸評論家として多くの著作を残すようになります。
今回ご紹介する『大和古寺風物誌』は彼の代表作の一つ。奈良の諸寺を訪問した際の感慨を記したもので、現代文明のありようを見つめ直す性質を強く有しています。なお、本作で触れられている寺院は斑鳩宮、法隆寺、中宮寺、法輪寺、薬師寺、唐招提寺、東大寺、新薬師寺になります。中でも法隆寺を始めとした、斑鳩の諸寺が多めですね。
さて、本作の中でも印象的だったのは、中宮寺の思惟菩薩を称え世相に思いをはせた一節でした。個人的にも頷ける面は少なからずあったので、多少引用させていただきます。亀井はまず、仏像のたたえる微笑から繊細さや柔軟さ、思いやりを読み取り、
善をのみなつかしむのではない。悪をもなつかしむのだ。いっそ善悪を分別せぬ人間の在りのままの相に身を沈めて行くのだと云った方がよい。
と述懐。こうした微笑は
必ずしも心和かな時の所産でなく、却(かえ)って憤怒(ふんぬ)に憤怒をかさねた後の孤独な夢であったかもしれない
と思考を巡らした上で、
真勇は必ず微笑をもって事を断ずる。真の勇猛心は必ず柔軟心を伴う。
とも述べています。様々な人間の業を受け止めるに到るまでの苦しみは、確かに想像を絶するものがありそうですね。
そこから亀井は戦中を回想し、「常に正しいことだけを形式的に言う人、絶対に非難の余地のないような説教を垂れる人」に辟易させられた事から「正しいことを言ったからとて、正しいとはいえないという微妙な道理をいやになるほど痛感した」とこぼした上で
正しい言説、正しい情愛といえども、微笑を失えば不正となる。
とピシリ。
それをふまえ、己の信ずる正義を振り回す事で他人を傷つける事の罪深さに思いをはせています。
生硬な信仰は無信仰よりも罪悪的だ。人に懺悔(ざんげ)を強(し)い、告白を聞いて裁断し、触るべからざる悲しみに触れて、一層人の心を傷つけるような信仰者がある。
という一節は、心にとどめたいものです。作者は戦時中を念頭に置いて語っているのですが、現在にも十分通用する言葉ではないかと思います。上述した通り、個人的にも強く心に残りましたので長め・多めに引用した次第。
大幅に話がそれました。本作についてまとめましょう。亀井が大和の諸寺を巡る中で思いをはせたのは、古寺がたどった栄枯盛衰、そして当時の人々が伽藍や仏像に込めた切実な祈り。『大和古寺風物誌』はそれらへの思いが全体を貫いた、良質な随筆・紀行文と言えるかと思います。奈良観光を思い立った人、太古の昔に思いをはせたいひとにもおすすめの一作ではないかと。
【参考文献】
上記作品の他、下記を参照。
『大辞泉』小学館
『美術人名辞典』思文閣
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