あけましておめでとうございます。本年も、「とらっしゅのーと」をよろしくお願い申し上げます。
世の中は、学問に何を求めるべきなのか。すぐに役立つような学問に重点をおくありようは、是か非か。この問題は、昔から議論の対象になってきたように思います。殊にこの頃は、我が国に経済的余裕がないのもあって、切実な問題となっているようです。それだけに、喫緊の用件が優先される中で、割を食って研究もままならない分野も多いとか聞きます。
とはいえ。何が役に立って何が立たないのか。それを決定するのはなかなかに困難です。現在は無用に思えても、少し後になると大いにものを言ったりする。そういった分野も珍しくないかと思います。ましてや、現代は世の中の変化がこれまでになく急激な時代。何が重要かの判断する事は従来以上に悩ましいといえます。
そもそも。役に立つかどうかだけで価値を決めてしまって良いのか、という問題もあったりします。不要不急なものこそが、人間の文化を形作ってきたと言えるのですから。
この問題に関して、近代の文豪・森鴎外が『渋江抽斎』中で以下のように言及しています。
学問はこれを身に体し、これを事に措(お)いて、始(はじめ)て用をなすものである。否(しからざ)るものは死学問である。これは世間普通の見解である。しかし学芸を研鑽(けんさん)して造詣(ぞうけい)の深きを致さんとするものは、必ずしも直ちにこれを身に体せようとはしない。必ずしも径(ただ)ちにこれを事に措こうとはしない。その矻々(こつこつ)として年(とし)を閲(けみ)する間には、心頭姑(しばら)く用と無用とを度外に置いている。大いなる功績は此(かく)の如くにして始て贏(か)ち得らるるものである。
この用無用を問わざる期間は、啻(ただ)に年(とし)を閲するのみではない。あるいは生を終るに至るかも知れない。あるいは世を累(かさ)ぬるに至るかも知れない。そしてこの期間においては、学問の生活と時務の要求とが截然(せつぜん)として二をなしている。もし時務の要求が漸(ようや)く増長し来(きた)って、強いて学者の身に薄(せま)ったなら、学者がその学問生活を抛(なげう)って起(た)つこともあろう。しかしその背面には学問のための損失がある。研鑽はここに停止してしまうからである。
(いずれも森鴎外『渋江抽斎』より)
当座の役に立つかどうかに社会の判断が流れるのは、ある程度やむを得ないものがある。しかし、学問は本来そのようなものではない。大きな成果を期待するならば、世代レベルで見守るような深い懐と長い視野がなければならない。当座の要求に左右される事は、学問の損失である。鴎外の言葉を要約すると、こうなりそうです。
思い出されるのが、彼の随筆『空車』。そこでも、鴎外は「無用に思えるけれどスケールの大きな偉大な存在」を称える旨を表明していました。学問でもなんでも、「無用の用」という事を念頭に置いて観るべきである。鴎外はそのように考えていたようです。
まあ、とはいえ。実際問題として使えるパイは有限ですし、ましてやこの厳しい御時世です。なかなか思うようにはいかないでしょうけれど、それでも頭の片隅に置きたい考えだと考えます。こうした視野が社会全体にあるかどうかは、それこそ数十年というスパンで差となって現れるのではないか、そう思います。
【参考文献】
『大辞泉』小学館