『日本楽府』より、観応の擾乱関連の作品を見る~『吾是璽』~
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作品を味わう前に、その背景となった状況を簡単にご説明しておきましょう。将軍・足利尊氏とその弟・直義。長らく協力して政権運営をしてきた二人でしたが、色々あって両者を推戴する派閥の争いが深刻化、修復不可能に陥ります。そこで尊氏とその子・義詮は、それまで敵対していた南朝へ降伏し敵を直義一派に絞るという選択をしたのです。かくして、一時は消滅寸前にまで追い詰められていた南朝がにわかに再浮上。それまで足利政権が擁立していた北朝は廃立され、南朝を正統とする体制が立てられました。しかし足利政権と南朝の蜜月関係は長続きせず、やがて南朝は足利方に奇襲攻撃をかけます。この時に、多くの北朝皇族たちも南朝によって拉致されました。
で、困ったのは義詮。南朝との関係は破綻してしまうし、北朝を改めて擁立し直すにしても天皇も治天の君(天皇家家長)もいない。更に皇位を象徴する「三種の神器」(※1)も南朝に回収されてしまった。という訳で、ないないづくしでした。結局、幸いに拉致を免れていた皇子を天皇として擁立し、その祖母にあたる広義門院を治天の君とする事で北朝がなんとか再建されました。この時に即位したのが後光厳天皇です。とはいえ、相当な無理をしての事でしたから、以後は朝廷の正統性確立にかなり苦労したようです。
遙拝天照大神。可以擬神鏡。而以尊氏。義詮換宝剣。如神璽則良基雖不肖准之。何疑之有。
(『本朝通鑑 第十二』国書刊行会 3959頁 旧字体は新字体に変換しています)
<超意訳>
天照大神を遙拝し、大神を鏡とみなせばよろしゅうございましょう。更に武の守りたる尊氏・義詮父子を宝剣とみなし、神璽につきましては不肖ながらこの良基めがその役目を致しまする。何の問題がありましょう。
吾是璽
公是劍。吾是璽。
不妨白板樹天子。
天潢分流誰認津。
目無宗廟有權臣。
借問君璽刻何文。
(坂井松梁編『詠史詩集 日本楽府詳解』青山堂139-140頁)
<読み下し>
公は是れ劍。吾は是れ璽。
妨げず 白板 天子を樹るを。
天潢 分流す 誰か津を認めん。
目に宗廟無く 權臣有り。
借問す 君の字 何の文を刻するや。
<超意訳>
「将軍尊氏公は、いわば神器のうち宝剣にあたります(※2)。そして私は、いわば神璽。
正当な手続きでなくとも天子を擁立するのに、何の問題がありましょうや。」
たたえられた水からの流れが分かれ渡し場が分からないかのように、皇室の流れも南北両朝に分裂し、いずれが正統か分からなくなった。
そんな中、人々の目に映るのは国家ではなく良基のような権勢ある臣下のみ。
さて良基さんよ、ちょっとお伺いしたいのだが、璽を自認する貴方にはどんな印章の文字が刻まれているのやら。
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関連サイト:
「韻と平仄を検索するページです」(http://tosando.ptu.jp/kensaku.html)
・白板 正式な辞令・資格がなく役職にある事。その代わりに白板をもって諸侯に任じたためそう呼ばれるとする文献もありました。西晋が戦乱によって滅亡した際、晋の皇子の中に難を逃れ南方に亡命できた人もいました。その皇子はそこで帝位に就き、晋王朝を復興させたのです。この国を東晋と呼びます。この時、やむを得ない事ではありますが、即位にあたっては、帝位を象徴する玉璽もなく正式な手続きを踏めませんでした。そこを敵方からはつかれ、東晋の皇帝は「白板天子」と呼ばれたそうです。再建された北朝も正式な手続きを踏めず、正統性に不安があったのは上で述べた通り。
・天潢 手元の解説書によれば、「積水」、すなわち集まりたたえられた水の事だとか。
・津 渡し場の事。
・宗廟 天子が祖先の霊魂をまつる場。非常に重んじられ、国家そのものを意味するようにもなりました。
・借問 試みに質問する。
藤原良基の議論、雄壮宏大、天地を包容するに足る、卓見、良基の如き南朝に右袒し、北朝に左袒する、当時の事情其れ知るべきなり、已に此剣璽あり、区々たる刻文何ぞ須ゐるを要せんや。(同書 141頁)
坂井松梁編『詠史詩集 日本楽府詳解』青山堂
『日本大百科全書』小学館
『世界大百科事典』平凡社
『大辞泉』小学館
『大辞林』三省堂
『角川新字源改訂版』角川書店
菅原武『漢詩詩語辞典』幻冬舎ルネッサンス
亀田俊和『観応の擾乱』中公新書
『梅花無尽蔵注釈 第三』八木書店
宮崎市定『九品官人法の研究 科挙前史』東洋史研究会
大庭脩『唐告身と日本古代の位階制』皇學館大学出版部