三国志の時代と日本
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参考
偉大なるダメ人間シリーズその2 諸葛亮(当ブログ内に移転しました)
http://trushnote.exblog.jp/14529083/
さて、孔明をヒキコモリのキモオタ扱いするだけでは何なので、真面目に三国志について書こうかとも思ったのですが、三国志への興味は既に薄まって久しく、今の実力や意欲では書けることも書きたいこともたいしてありません。
この際、三国志内部で話を広げることはあきらめて、三国時代の日本について、三国志の諸国を含めた東アジア情勢の中で、考えてみることにしました。
中国で、ヒキコモリのキモオタが天下三分とかほざいた結果、華北の魏、長江中下流域の呉、四川の蜀の三国が争覇戦を行うようになった紀元前3世紀、日本では、邪馬台国とか言う国が、魏に使者を送って金印をもらったりしてたわけですが、この邪馬台国とはどの程度の存在だったのでしょう。
これについて、標題や著者名は忘れてしまったのですが、以前、魏から金印を貰った国は大月氏と邪馬台国の二カ国しかなく、邪馬台国は魏から非常に優遇されており、これは魏が、邪馬台国の位置を実際より南西に認識し、邪馬台国を呉の背後を脅かすことができる勢力と捉えていたからである、という論文を読んだことがあります。
そこで、邪馬台国が本当に当時の東アジアでそんなに存在感があったのか、戸数からごく簡単に検討してみようと思います。
まずは『三国志』の「東夷伝」を元に、満州から朝鮮半島に存在する東夷諸勢力の内の強力なものについて、戸数を大ざっぱに計算してみましょう。
夫余王
夫余の戸数は8万戸とされる。ただ、国ごとに主君が居るとされており、また中国から見て高句麗などの勢いある異民族勢力の牽制に役立つ程度の存在として描かれており、後述する高句麗支配下の戸数を考えると、夫余王の勢力が8万戸全てに及んでいたかは、多少疑問もある。5~8万戸弱か。
高句麗
高句麗自体の戸数は3万戸であるが、沃沮の5千戸、濊の2万戸などを支配していたようなので、その勢力は6万戸程度かと考えられる。
辰王
辰王は馬韓の一国である月支国に宮廷を起き、弁韓と辰韓の合計二十四カ国4、5五万戸のうち十二カ国を支配したとされる。すなわち弁韓と辰韓における辰王の勢力は2~3万戸であろう。辰王が馬韓でどの程度の勢力を有していたかは不明だが、馬韓は全体で五十余国10余万戸、各国の戸数が4、5千戸~1万余戸とされているので、差し当たり、月支を1万戸程度と考えこれを下限とするとともに、上限を10余万の3分の1程度、約4~5万と考える。辰韓と入り交じっていた弁辰の十二カ国にも辰王の勢力が及んでいて不思議はないので、弁辰の各国が弁韓および辰韓の各国と同程度の戸数を有し、辰王の支配も同程度に及んでいると考えて、ここでの辰王の勢力を1万戸程度としておく。以上より辰王の勢力は、2~3万戸+1~5万戸+1万戸=4~9万戸とする。
次いで邪馬台国の戸数を計算してみましょう。
邪馬台国自体の戸数は7万余戸だが、この他、投馬国5万余戸、奴国2万余戸など、支配下にある諸国の一部について戸数が判明しており、戸数の分かる8カ国(邪馬台国含む)で合計15万戸以上に達する。邪馬台国支配下で戸数が不明の国が21カ国あるが、これらの各国の戸数については、過大評価を避けるため、倭の諸国の戸数記録の最低数1千余戸前後を上限、東夷諸国の記録された最低戸数である弁韓と辰韓の弱小国の6~7百戸前後を下限とし、これら諸国の合計戸数を1~2万程度とする。以上より邪馬台国の勢力は少なくとも16~17万戸程度となる。
これらの計算から見て、邪馬台国の力は、量的には、東夷諸国の中で突出していたと言えるでしょう。邪馬台国単体でも十分に強大であり、従属諸国を含めれば、その勢力は他の追随を許さない規模になります。邪馬台国は、大陸諸国と比べて騎馬や武器製造技術で遅れを取っていたでしょうから、東アジアにおけるその軍事的地位は戸数ほどに優越していたとは思えませんが、それでも外交上の存在感は相当であったと考えられます。
そして邪馬台国が中国の分裂状態を背後から牽制するに足る勢力だったのか、魏、呉、蜀の戸数を見てみましょう。
これら三国の戸数は、魏66万戸、呉52万戸、蜀28万戸と伝えられています。
邪馬台国支配下の戸数は少なく見て16~17万戸ですから、邪馬台国は外観上は中国の分裂状態の背後を脅かすに十分な勢力であった言えるでしょう。
それなりに邪馬台国は凄かったんですね。
周辺諸国から抜きん出た存在で分裂した中国諸国を脅かすに足る(と見える)勢力。
呉の背後を脅かしたい魏が願望のあまり勝手に事実誤認したのか、はたまた邪馬台国が魏をペテンにかけたのか、いずれかは知りませんが、なるほどこれだけの勢力が呉の背後にあることになれば、優遇されるわけです。
なお今回語った内容について一つ補足しておきます。中国と邪馬台国などの勢力差が非常に小さいですが、ここで挙げた中国の戸数は当時の中国社会の真の人口からはかけ離れています。当時の中国は国家権力の衰退期にあり、政府は実際の人口のごく一部しか把握することができていませんでした。ですからこの勢力比は中国の三国政府と邪馬台国の勢力比ではあっても、当時の中国社会と日本社会の実力の比にはなっていません。
参考資料
陳寿著『正史三国志』今鷹真/井波律子/小南一郎訳 ちくま学芸文庫
宮崎市定著『中国史 上』 岩波書店
鬼頭宏著『人口から読む日本の歴史』 講談社学術文庫
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http://kurekiken.web.fc2.com/data/2003/030704.html
『晋書』 武帝紀(翻訳)
http://kurekiken.web.fc2.com/data/2004/040514.html
孫呉の軍事指導者と国家戦略
http://kurekiken.web.fc2.com/data/2002/020524a.html
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