タマはなくても矢弾は撃てる、ナニは無くとも槍は立つ いけいけ宦官大将軍
|
この去勢された男性を宮廷に奉仕させるという風習は、西洋にも見ることができ、「ベッドを守る人」というギリシア語が現在の宦官(英語だとeunuch)という単語の語源となっていて、そこには特別な奉仕を行う彼らの地位がよく現れていると言えます。なおイスラム教徒は宦官をよく使ったことで知られており、イスラム教国の宮廷では宦官の大量使用が行われていたそうです。
ちなみに、この宦官という存在ですが、去勢のもたらす肉体的・精神的な変容の結果、ある程度共通した特質を備えることになるらしく、大体の宦官は心身両面で柔弱な傾向にあるそうです。すなわち、若いときに去勢した宦官ならば肥満傾向にあってしまりがなく、力は弱いと言われます。そして宦官達は、つまらぬ事で頻繁に怒りあるいは涙し、かと思えばすぐに機嫌を直すという、一貫性と強靱さを欠く気まぐれな性格であるとか。また彼らは、情け深く融和的・協力的な性格で、女子供やペットといった弱者をかわいがる一方、強者には迎合して尻尾を振るとされており、仲間・相方(宦官が女官と夫婦のように過ごすことがある)との団結心・親愛の情が非常に強いそうです。
これは専ら裏方・下働きとして他人の意志におとなしく仕える形でこそ活きる性格といえるでしょうが、もちろん宦官の全てが少しの例外もなくそうであったわけではなく、強烈な人格を保って他を圧倒し、剛毅・勇猛と言えるだけの活躍を示した宦官も史上には存在しています。今回は、そんな猛宦官の内でも特に目覚ましい活躍をしたと言える、武勲に輝く宦官名将を、東西の歴史から一人ずつ取り上げてみたいと思います。
まずは東洋史上で華々しく活躍した宦官名将ですが、ひょっとすると他にも優れた宦官武将がいるかもしれませんが、とりあえずは宋代の童貫(1054~1126年)の名を挙げておけば良いかと思います。
この宦官は中国の有名な古典娯楽小説『水滸伝』でも悪役を務めさせられた、宋末の有名な奸臣の一人で、1100年頃から大臣の蔡京らとともに暗君の徽宗に取り入って政権を握り、私腹を肥やして財政と軍政の破綻を勢いづかせた人物です。ですから、彼は武勲があっても手放しでほめられるような人物ではないのですが、それでもその目覚ましい武勲は一応は名将と呼ぶに値します。
彼は蔡京とともに宮中と政府を掌握して政治的実権を手にすると、軍隊での栄達を狙って、まずは軍の目付役となり、やがては独立の軍司令官としてチベット族への征服を成功させ、70万人ものチベット族を帰服させています。さらに彼はその後、西北方の強敵であった西夏をも大いに破っています。こうして彼はその名声を轟かせ、その名は北方の脅威であった大国遼にも知れ渡り、国内では領枢密院事(参謀総長代行)として閣議に列席するまでにその地位を高めます。
その後も童貫の意気は老境に入ってなお衰えを見せません。権力を握って以来、将士や軍需品業者からの収賄で二十年にわたって十二分な富を蓄えつつ、いつしか齢六十を数え、いい加減優雅な引退生活に入って良い頃合いとなったにもかかわらず、彼は遼が満州における女真族の独立勢力金の台頭で弱体化していることを知ると、自ら遼への外交使節団に副使として参加、遼の内情を研究して、金と同盟しての遼征伐を企画するに至ります。ところが遠征準備が整った頃、江南の富豪方臘による大規模な反乱が起こったため、宋は対遼遠征軍を反乱討伐に転用、童貫は15万の軍勢で、江南の地を荒らしながら反乱を鎮圧しました。童貫は老いてなお武勲を挙げたことを、戦国時代の名将廉頗にも勝り唐代の名将李靖のようなものだと、大変誇りましたが、これは反乱軍の烏合の衆に北伐用の一大精鋭軍をぶつけたもので、現地にもたらした被害のひどさもあり、誇るに値するかは微妙なようです。それでも、童貫の武勲がさらに一段積み重なったこともまた事実ではあります。
ところが、これまで幾多の武勲に飾られてきた彼も、以降はいまいち振るわなくなってしまいます。江南の反乱討伐から帰った童貫は、続けて休む間もなく遼討伐にかり出され、軍の疲労と準備不足のせいで遼軍の前に大敗、同盟軍の金軍に援助を求めることでどうにか戦争自体は勝利にもちこむという状況に陥りました。
そして、この援軍の報酬の件で揉めて宋金関係が悪化し、金軍が大々的に侵入して来ると、宋軍には到底これを支えるだけの力はなく、彼は無様にも指揮下にある兵士を前線に残して逃走していきます。なおこの侵入によって、恐怖に駆られた皇帝は皇太子に譲位して逃亡しますが、するとまもなく童貫は、新皇帝が従来の指導者の失政を厳しく追及する中、処刑されています。
この最末期の無様さと賄賂にまみれて私腹を肥やした奸臣ぶりから言って、彼が名将として語られることはあまり無さそうですが、異民族の脅威のまえに劣勢に立って苦しみ続けた宋代にあって、立て続けに異民族に勝利したわけですし、一応は老境に入ってまで武勲を立てたのですから、実は彼はそこそこの名将ではないかと思います。短期的な視野の中で目の前にある軍事力を行使するという点に限って評価すればのことですが。
ちなみに童貫は、たるんだ肉体を持つ通常の宦官とは違って、肉体的にも強健で、その首は処刑の際に三度斬りつけても落ちないほど固く、身のこなしは彪のようであったそうです。
次は西洋の東ローマ帝国ユスティニアヌス帝時代の宦官ナルセス(478~573年)です。こちらは肉体的には虚弱で小柄ながら、軍事的な能力に関しては疑問の余地無く名将として扱われている人物で、その戦術的な手腕は、歩兵の用兵なら同時代の最高の武将で史上屈指の名将であるベリサリウスにも優るという評価すらあるくらいです。
ナルセスは、若い頃は宮中で家政や婦女子への奉仕といった宦官らしい任務に当たりつつ、追従や説得の技量を磨く日々を送り、やがて皇帝の護衛になるなどして次第にその地位を高め、ついには侍従長にまでのし上がっていったそうです。
そして532年には、首都コンスタンチノープルで起きた暴動に際して、時機を得た軍事行動と巧妙な買収工作で鎮圧に貢献し、その後も、エジプトでの総大司教位をめぐる騒動の鎮圧や、会計係就任、イタリア遠征軍への援軍および遠征軍の監視など、次々に政治的・軍事的に重要な任務を与えられました。もっともイタリアに援軍した際には、主将のベリサリウスに反抗して作戦全体を麻痺させ、解任されるという失態を犯しています。
こうして様々な職務で、政治的・軍事的な手腕を磨いた彼は、551年には、バルカン半島を荒らしに来たフン族やゲピダエ族、ロンバルド族といった蛮族たちに対する作戦を担当し、さらに、一時の征服の後で帝国の支配から離れつつあったイタリア半島への再征服作戦をも委ねられます。彼は、十分な戦力を与えるのでなければ再征服事業には同意しないと皇帝を説き伏せ、十分な戦力を確保、帝国とイタリアの支配権を争っていた東ゴート王国を552年のタギナエの戦いにおける見事な勝利を経て滅亡へと追い込みます。さらに彼は、イタリア侵入を図った北方のフランク族、アレマンニ族に対し554年のカシリヌムの戦いで勝利し、やがてこれをイタリアから撃退、イタリア半島の支配を確保することに成功しました。
そしてこれ以後、彼はユスティニアヌスの信任を受けて長らくイタリア総督の地位を保持しますが、ユスティニアヌスの死後の567年解任され、ナポリ付近の別荘で隠退生活に入りました。
彼は、無茶な作戦に反対するとともに十分な軍事力を確保するよう皇帝を説き伏せることができた点で、どんなに無茶な命令にも、ごく一部の例外を除いて、唯々諾々と服従しつづけたベリサリウスより、ある意味優秀な人材だったと評価することも可能ではあります。もちろん軍人をどう政府の統制下に置くかという問題も絡んで、ナルセスの方が優れているとは簡単に決めつけることのできない問題ではありますが。とにかく、ナルセスはベリサリウスと比肩し得る名将とは評価して良いかと思います。
参考資料
三田村泰助著『宦官 側近政治の構造』 中公新書
宮崎市定『水滸伝 虚構の中の史実』 中公文庫
エドワード・ギボン著『ローマ帝国衰亡史 6』朱牟田夏雄/中野好之訳 ちくま学芸文庫
『Encyclopaedia Britannica, 2007』
エイドリアン・ゴールドワーシー著『図説 古代ローマの戦い』遠藤利国訳 東洋書林
関連記事(2009年5月17日新設)
羅切-日本における宦官的風習について および 中国の宦官名将たち
結婚に関する歴史の一真理 ~モテない男は悟りを開く~ 歴史上に見る「結婚しなくても平気になった人々」
涼宮ハルヒの名将の憂鬱 後編
れきけん・とらっしゅばすけっと/京都大学歴史研究会関連発表
C.W.C.Oman『中世における戦争術 378~1515』(翻訳)
http://www.geocities.jp/trushbasket/data/my/oman.html
偉大なるダメ人間シリーズその4 ベリサリウス(当ブログ内に移転しました)
http://trushnote.exblog.jp/14529104/
ベリサリウス
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/1999/990430.html
中国民衆文化史
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020607.html
書き忘れていた参考資料を追加。(12月19日)
リンクを変更(2010年12月8日)