「偉大なるダメ人間シリーズその7 本居宣長」またまた補足―本居宣長・青年期の挫折―
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そうした宣長にとっての「母の恩」の中で最も大きかったのが、医師の道を選ぶ際のそれだったでしょう。宣長は寛延元年、十九歳のときに伊勢山田の紙商人・今井田氏に養子に行き翌年に家督を継いだものの、寛延三年末には離縁となり実家に戻ってきています。この際、母の勧めにより京へ上って医師となり、それで身を立てながら好きな学問をするという道を選んだ事は知られています。彼の人生の転機となった出来事の一つであり、母との関係で言えば最大の出来事であったであろうこの事件をもう少し詳しく見てみましょう。
この件については、宣長自身に「ねがふ心にかなはぬ事」(「家のむかし物語」)があり、また「あきないのすぢにはうとくて、ただ書をよむことをのみこのめば、今より後、商人になるとも、事ゆかじ」(同書)と母にも評された様に商人として適正を欠くとみなされたためであるとされています。実際、この時期に宣長が記した日記(「今井田日記」)には商売について言及した場所がなく、代わりに念仏百遍を毎日唱え頻繁に伊勢参宮をしていた事が詳細に書かれています。また、しばしば松坂の実家に帰っていたようで、養家に馴染めずホームシックであった事が伺われます。また、十六歳の時に叔父の木綿問屋で一年間修行するため江戸に行っていた時期にも、日記には江戸で何をしていたかには触れていません。商人としての仕事は、宣長にとっては口にしたくもないほど嫌なものだったのでしょう。
しかし考えてみれば、宣長の家は代々の商家であり彼自身も商人となる事を幼少期から期待されていたはずです。ましてや、他家と契約を結んでの養子関係なわけですから、個人レベルで心に適わない事があるからと言って破談にするのは許される事だったのでしょうか?商人に適性がないというなら、なぜ商家に養子に出したのか、という話にもなったはずです。この離縁は、宣長の母にとって相当な精神的打撃であり面目を失う出来事であったと考えて間違いないでしょう。中々の親不孝息子だったわけですね。
実は、国学者にはこうした人々が結構見られます。例えば国学の祖といわれる契沖は、当初住職をしていましたが檀家との人間関係に悩んで辞職し、一時期は自殺も考えたほどだといいます。その後、隠遁生活に入り古典研究に目覚めたわけですが。宣長が師と仰いだ賀茂真淵も、婿入り先の家業であった旅籠に嫌気がさし三十四歳で仕事から離れて学問に専念。また、平田篤胤も医師を開業したものの二年後の三十四歳頃に廃業しています。他にも二十八歳で商家を捨てた橘曙覧や煙管屋老舗に生まれながら二十五歳で隠遁した村田了阿なんてのもいます。彼等はそれ以降は正業につかず、真淵のように運が良い者は学問を大名に認められてお抱えになっていますがそれ以外は定期収入のない身の上になっています。宣長もまた、通常ならば彼等と同様にニート街道一直線であったに違いありません。
しかし、宣長にはここで再チャレンジの機会が与えられたのです。息子の養家からの破談に一旦は心痛めた母親でしたが、「京にのぼりて学問をし、くすしになるこそよからめ」(「家のむかし物語」)と考えを改め医師として身を立て好きな学問をさせる事としました。全くもって母の愛は偉大です、冒頭で述べた宣長の母への感謝の言葉もこの時を回想してのものでしたが、当然の感想でしょうね。それからも、母は京の宣長に仕送りを続けながら手紙で激励を続けています。宝暦四年、二十五歳の宣長に贈った手紙には「此所そもじ取そこなひ取はづし申され候」ならば自分は「此世よりまよひ申候」から精進するように、もし「此所取そこなひ候」ったなら「おやノはぢ申様はなく候。大ふかうと存候。」と書き送っています。宣長は十五歳で元服していますし当時はそんなものだったようですから、現在の感覚で言えば三十過ぎ位に相当しますかね、社会的には。そんな歳になっても親から仕送りを受け、このようなこまごまとした心配をされていたのですな。何とも過保護な、とも思いますが実際に「取そこなひ」をしていますから、やむを得んでしょうね。
このように母親が心配でヤキモキしていた頃、京で宣長先生は大酒を飲んだり色町遊びを覚えて通人を気取っていたようで、本当にダメダメです、この人。通常なら既に一家の主になってるはずの年齢で親の脛齧って何をやってるんだか。まあ、流石にこれほどまでに母に世話になり心配もかけていたことに罪悪感を感じたのか根は真面目だったのか、これ以上身を持ち崩す事はなくきちんと医者になって社会復帰しましたけどね。その後は開業医として没する直前まで学問と両立させながら活動していましたから、若い頃に比べると社会的に成熟したのでしょう。後年にこれを回想して「母なりし人のおもむけにて、くすしのわざをならひ」(「玉勝間」)と述べており母の意向に応えられた事を喜び誇っているようですが、それまでにどれだけ裏切って苦労をかけたかについては述べていません。まあ、円熟してから振り返ってみれば、「若さゆえのあやまち」としてなかったことにしたい黒歴史だったであろう事は想像に難くありませんが。
宣長は、他の国学者たちと比べると一般世間とうまく折り合っている印象がありましたが、同程度には社会不適合者の資質があったのですね。というか、三十四歳まで家業に精を出した真淵や六年間は苦手な商売も踏ん張った曙覧、医師開業以前には飯炊きやら色々な日雇い仕事で身を立てていた篤胤とかの方が世間の荒波に揉まれて頑張っていたと言えなくもありません。そんな宣長が一般社会から脱落せずにすんだのは彼自身の巻き返しもさることながら母親が寛大(というか過保護)でしっかりしていたのが何より決定的だったといえます。なるほど、こりゃ母親に一生頭が上がらないわけですよ。僕自身がかけた宣長マザコン疑惑を弁護しようとして母親との関係を調べてみたわけですが、彼のダメ人間ぶり(まあ、よくある範囲内ではありますが)が改めて浮き彫りになる結果となってしまいました。やれやれ。でもまあ、そんな引きこもりニート予備軍だった宣長を救ったのが懐の深い母の愛でした。環境に恵まれ、本人もそれを自覚したのが社会復帰できた秘訣なんでしょうね。
【参考文献】
本居宣長(上)(下) 小林秀雄 新潮文庫
人物叢書本居宣長 城福勇 吉川弘文館
人物叢書契沖 久松潜一 吉川弘文館
人物叢書賀茂真淵 三枝康高 吉川弘文館
人物叢書平田篤胤 田原嗣郎 吉川弘文館
「橘曙覧の世界」に生きる 鈴木善勝 日本文学館
下戸の逸話事典 鈴木眞哉著 東京堂出版
本居宣長の思想と心理 松本滋著 東京大学出版会
関連記事(2009年5月17日新設)
本居宣長関連発表まとめ
<過去記事・発表紹介>絢爛たる国学者たち
三島由紀夫について少し述べる~日本近代文学の幕を下ろす男~
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「本居宣長」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2001/011214.html)
「偉大なるダメ人間シリーズその7 本居宣長」(当ブログ内に移転しました)
(http://trushnote.exblog.jp/14529117/)
「引きこもりニート列伝その5・偉大なるダメ人間シリーズその6 足利尊氏」(当ブログ内に移転しました)
(http://trushnote.exblog.jp/14529111/)
今思えば、尊氏と同程度には青年期の宣長も「引きこもりニート列伝」に名を連ねる資格があるかも。
「引きこもりニート列伝その32 平田篤胤」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/neet32.html)
本居宣長については
よろしければ、社会評論社『ダメ人間の日本史』
(「本居宣長 国学大成した大学者は、骨の髄から重度のキモオタ」収録)
もご参照ください。
(著作紹介2010年6月27日加筆)
関連サイト:
「本居宣長記念館」
(http://www.norinagakinenkan.com/)
「マザコンといえば―All About」
(http://tag.allabout.co.jp/002170000000000000/index.htm)
リンクを変更(2010年12月8日)