南北朝・室町を中心に性的年齢の範囲について考える
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前の記事では数え十一歳の少女を浚って手を出した後醍醐天皇ですが、幼い少女以外も好んで食指を伸ばしていたようで、年上趣味の方面でも戦果を重ねていたようです。
後醍醐の皇子の中で最も知られているのが、鎌倉倒幕戦で活躍し戦後は足利尊氏と対立して失脚した護良親王でしょう。その護良の母は民部卿三位と呼ばれる女性ですが、「本朝皇胤紹運録」「権門跡譜」によれば源(北畠)師親女の事だとされています。「増鏡」によれば彼女はそれ以前には後醍醐の祖父・亀山院に仕え子を産んでいますから、後醍醐は祖父の女性を寝取ったという事になりますね。さて彼女は弘安百首歌で歌を出し後醍醐が誕生した正応元年(1288)には自らの歌集「権大納言典侍集」を編纂していますから、この時期には歌人として一定の評価を得ていた事が推測されます。どれほど歌人として早熟だったとしても後醍醐より少なくとも十五は年上だったでしょう。そして護良は「天台座主記」によれば嘉暦二年(1327)に数え二十歳だったそうですから延慶元年(1308)生まれという計算になります。そうすると、民部卿三位は護良を生んだときに少なくとも満年齢でも三十五歳という事に。もっとも源師親女と護良の母である民部卿三位は別人だという説もありますが、「民部卿局」が元弘三年(1333)に北畠具行(後醍醐の側近、鎌倉倒幕計画へ参画し捕らえられて幕府により処刑された)供養のため所領を大徳寺に寄進した文書が残されておりこの時期の「民部卿三位」が北畠一族である事が示唆されています。するとやはり護良の母は後醍醐より年長の師親女である可能性が高いと考えられます。
その他にも後醍醐は、洞院実雄の娘で父・後宇多院に仕えた女性との間にも同じ時期に皇女を儲けています。実雄は後醍醐が生まれる十五年前に亡くなっていますから、彼女もまた少なくとも十五は年上だったことになります。
以上より、後醍醐は十歳そこそこの少女から三十代後半までを性愛の対象としていた事が分かりますね。
次は十五世紀半ばの足利政権第八代将軍義政。彼の正室である日野富子は昔から「悪女」と呼ばれ現代でも毀誉褒貶の激しい女性ですが、ここで挙げるのは彼女ではなく側室今参局です。今参局は足利政権で実務官僚を輩出していた大館氏出身で元来は義政の乳母であったとされています。その生年は不詳ですが、義政の母・日野重子は応永十八年(1411)の生まれですから、ほぼ同年代とすると永享八年(1436)生まれの義政より二十前後ほど歳が離れていた事になります。義政が富子と結婚したのは康正元年(1455)でしたが、この時期に既に今参局は側室として政治にも強い影響力を持っていたようで「碧山日録」にも「大相公の嬖妾某氏、曾て室家の柄を司り」と実質的正室のような存在であった事が記されています。その権勢は烏丸資任・有馬持家といった義政側近と共に「三魔」(烏丸、有馬、御今の三人の「ま」で終わる人物)として京童に非難されるほどでしたが、最後は富子の子を呪殺した疑いで長禄三年(1459)に流罪となり自害に追い込まれています。義政はその死後も想いを残していたようで、初七日や四年後に追善供養をしたという記録がのこされています。推測するに、彼女の母性への甘えがいつの間にか男女の愛へと発展したものでしょうか。しかし、天下に号令する将軍の身としては影響するところが大きすぎました。ともあれ、義政は四十前後までは女性を性的対象とし得るようです。
この二例からは、十四世紀から十五世紀の支配階層においては三十代後半から四十代までは性的対象になり得る事が推測されます。サンプル数が少ないのが問題ですが、結論だけ見ると、現在と基本的には変わらないと言えそうですね。これらの例では女性が非難を受けるケースもありましたが、飽くまでも権力者の寵愛を笠に着て専権を振るった事に対するものばかりであり、こうした年齢の女性を性的対象とする事自体は異例とは見られておらずある程度一般化できると考えて良いでしょう。どの時代においても閉経年齢は平均して五十歳前後であったそうです(http://www.miyake-clinic.gr.jp/senmon/senmon_28.htm)から、これまた下限と同じで生物学的には想定範囲内ですね。物語世界では、光源氏が六十歳近い源典侍と契りを結んだり「伊勢物語」で在原業平が九十九歳の老女と契ったりといった逸話がありますが、現実世界においてはここまではやらないのかもしれません(業平は実在の人物ではありますが、「伊勢物語」は業平に事寄せた作り話も多いです)。しかし、当時は婚姻年齢が早かった事を考慮すると、いわゆる「親子丼」をする事は不可能じゃない範囲だな、と思っていたところそうした実例にぶつかりました。
問題の人物は足利第三代将軍義満。彼は二回正室を迎えていますが、二度目の正室・日野康子は応永元年(1394)頃に義満の下に嫁いで栄華を共にしています。彼女の母は、「教言卿記」によれば「池尻殿」と呼ばれる女性で泉阿なる人物の養女であったそうです。しかし一方でこの頃に義満の側室にやはり「池尻殿」が存在し、応永八年(1401)には義満の娘を産んでいます。更にやはり「教言卿記」によると応永十二年(1405)には「池尻殿」が産んだ三歳になる若君が食い初めの儀式をしたという記事があるのです。康子の母と義満側室「池尻殿」とは別人と考える事も可能ですが、義満が催した仏事における側室「池尻殿」の願文は他の妻妾とは異なり一家の繁栄を謝する内容となっており康子や日野重光(康子の同母弟、義満に引き立てられていた)の栄達を意味すると考えるのが自然でしょう。また彼女がしばしば康子と行動を共にしているのもその推測を補強します。おそらく、「池尻殿」は夫が亡くなった後に一族の繁栄のため最高権力者・義満に近づいたのでしょう。彼女は応永三十一年(1324)に数え七十歳で没したとされていますから、義満の子を産んだ際には数えで五十近かったことになります。閉経年齢かなりギリギリですが、年齢を感じさせない妖艶な女性であった事が想像されますね。それにしても義満は美少年・世阿弥を寵愛し更に女性関係も相当派手だったようで、守備範囲も美少年から女性なら生殖可能な限界年齢あたりまでと相当なものですね。しかしまあ、家のためといえ娘の夫に我が身を差し出す「池尻殿」も平然と「親子丼」を食う義満も僕の神経では理解できかねるものが正直あります。
しかし、古代にだって后の母・藤原薬子を寵愛した平城天皇のような例があります。薬子は藤原縄主との間に三男二女を儲け、長女が当時皇太子だった平城に嫁いだ際に自らも近づいて関係を持ました。桓武天皇に咎められて一時は関係が途切れていましたが、即位後に再燃して内侍(後宮を取り締まる女官)として取り立てられています。最初に平城に近づいた時におそらく(娘が婚姻する年齢だったことから)三十歳前後だったでしょうし、即位後には若くとも三十代半ばだったと想像されます。平城は病弱のため弟・嵯峨天皇に譲位するもののやがて薬子と共に政権奪回のためクーデター計画を立て失敗する事になりますがこれはまた別の話です。
それだけでなく、十世紀末に藤原氏の政争に巻き込まれ若くして出家・退位に追い込まれた花山法皇も出家後に多くの女性と関係を持ち、中でも愛人に使える女房・平某女とその娘・平平子とに同時期に手を出して子を産ませたと伝えられます。流石にこうした無軌道な振る舞いは悪評を呼び、当時の一条天皇からも不興を買ったようです。…探せば結構いますね「親子丼」を召し上がった貴人。確か律令では「親子丼」を禁じていたはずなのですが。それだけ律令が形骸化しつつあったという事なんでしょうかね。
こうした事から考えて、いつの時代でも三十代後半や四十代までは性的対象となりえたといえそうですね。好色な人物であれば、年長の女性でも若くても魅力的であれば問題にしない事もままあったでしょう。そうした流れで「親子丼」を食う男も時に見られたようですが、さすがにこれは見境ない行為として見られ名誉とはされなかったと言ってよさそうです。
【参考文献】
帝王後醍醐 村松剛 中公文庫
乳母の力 田端泰子 吉川弘文館
日本の歴史10下剋上の時代 永原慶二 中公文庫
日野富子 吉村貞司著 中公新書
人物叢書足利義満 臼井信義 吉川弘文館
日本の歴史4平安京 北山茂夫 中公文庫
天皇たちの孤独 繁田信一 角川選書
日本古典文学大系14-18源氏物語 岩波書店
伊勢物語 大津有一校注 岩波文庫
性と日本人 樋口清之 講談社文庫
標準産科婦人科学 編集 丸尾猛・岡井崇 医学書院
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歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「後醍醐天皇」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2001/010706.html)
「政治家・足利義政」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021025c.html)
「日本民衆文化史」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html)
「足利義満」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/yoshimitsu.html)
「護良親王」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/moriyoshi.html)
後醍醐天皇、足利義満、花山天皇については
よろしければ、社会評論社『ダメ人間の日本史』
もご参照ください。
「花山天皇 華やかな王朝時代の若き帝王は政治行為も性行為もフリーダム」
「後醍醐天皇 幼女誘拐・セックス宗教 どんとこい 政治工作のためだもの ~理由が何だろうがダメなものはダメ~」
「足利義満 性愛グルメの行き着く先は親子丼、タブー破りは蜜の味」
収録
(著作紹介2010年6月27日加筆)
関連サイト:
「WACOAL SIGHT」(http://www.wacoal.co.jp/sight/knowledge/index.html)
より「KNOWLEDGE」(http://www.wacoal.co.jp/sight/knowledge/html/k0601.html)
女性の閉経年齢について
「三宅産婦人科医院」(http://www.miyake-clinic.gr.jp/index.html)より
「なぜ閉経するの?」(http://www.miyake-clinic.gr.jp/senmon/senmon_28.htm)
生涯にわたり生殖するほかの動物と異なり、人間の女性が一定年齢で閉経する理由について考察しています。
「物語学の森」(http://www.asahi-net.or.jp/~tu3s-uehr/index.html)より
「源典侍について」(http://www.asahi-net.or.jp/~tu3s-uehr/kisoen-06.htm)
「Yahoo!グルメ」より「親子丼」(http://recipe.gourmet.yahoo.co.jp/U000860/)
…特に深い意味はありません。