ウホッ!いい日本史… 前近代日本男色略史
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そしてその儀式では、少年が道場で頭部に水を注ぐ灌頂を受けて仏の化身たる稚児へと変貌し一切衆生を救うということになっており、さらに稚児は儀式の夜には、無垢清浄な「法性花」(肛門)に淫欲と男根を慈悲を持って受け入れて、僧に対しても救いを与えます。
たぶん児灌頂なんてものの正体は、女色を絶たねばならない坊主どもが性欲抑えきれずに少年の尻を掘るようになって、なんとなく後ろめたいから、適当な儀式をでっち上げて必死こいて言い訳したってだけなんでしょうが、男色行為を神聖な儀式に仕立て上げているあたり、一応我が国は男色大国を名乗っても差し支えないかと思われます。もっとも少年を仏にでっち上げる過程を間に挟んでる点で、美しい少年を愛することをそのまま神へと至る道と捉えた古代ギリシアの哲学者プラトンなんかと比べて、正々堂々たる雄々しさに欠け、姑息と言うかヘタレというか、なんとなく情けなせこい雰囲気が漂ってはいるわけですが。
とにかく今回は、そんなヘタレの男色大国日本の前近代の男色史について、マニアになる気はないけど大ざっぱに知っておきたいって程度の人の役にでも立てるよう、簡約された概説を作ってみました。
日本史上に記された男色の最初の例は『日本書紀』(七世紀以前からの伝承をもとに八世紀成立)の「神功皇后紀」中にある伝説だとされています。
そこでは、友である小竹祝(しぬのはふり)の病死を嘆いた天野祝(あまのはふり)が死体に寄り添って心中したので、両者を同じ墓穴に合葬したところ、これが「阿豆那比之罪(あづないの罪)」として神の忌むところとなり、日の光が失われ、両人を別々に埋葬し直して日の光の復活を得たということが記されています。この「あづないの罪」とは男色の罪のことで、非生産的行為である男色が太陽の再生=再生産・豊穣を阻害する共同体的禁忌とされていたのだと、解釈されています。
そして、禁ずると言うことは、普及・流行の程度はともかく、その様な行為を思いつき、その様な行為に及ぶ者がいたということであり、日本における男色の存在は、七、八世紀以前、歴史と伝説の混濁する太古の時空にまで溯り得るということになります。
とはいえ、日本史の初期においては男色に関する伝承・記録は極めて乏しく、『万葉集』(八世紀)に男同士の思慕の情を記した大伴家持らの歌など存在しはするものの、未だ思慕・敬愛・恋慕を示す語句の十分に分化しない時代のことで、これを男色と言うほどの性愛的なものとは断定しがたいらしいです。
すなわち古代日本においては男性間の思慕の情に性愛的の色彩が加わることは、無くはないが、まれであったということになるでしょう。
その後、男色の存在を示すものと確信できる史料が登場するのは中世までなく、ようやく10世紀も後半になって天台宗の源信(恵心僧都)の仏教書『往生要集』が、男色を罪とし、男色者の地獄にて受けるべき責め苦を描写しています。このような僧侶を読者に書かれた書物で敢えてその様な記述がある点から、当時の僧侶の男色生活がうかがえると言われます。
この後の物語や詩歌等に現れる上流社会の男色の盛行に際しても、僧侶、とりわけ天台や真言といった山岳仏教僧の、召使いの少年たる稚児を対象にした男色はとくに著しいものなのですが、人里離れた深山に籠もって求道する山岳仏教僧が女の得にくい山寺の話とて手近に女体の代用物を求めて男児に思い至ったのは至極当然の着想と言うべきで、我が国の男色は、山岳仏教の始祖の一人、真言宗の開祖空海(9世紀)に始まるとの近世期の俗説も当たらずとも遠からず、端緒を一人の著名人に押し付ける安直さはともかくとして、男色文化の起源を9世紀に天台、真言の仏教革新運動が山奥に寺院を建立したあたりに求めるのは、文献上の確証はないにしても、ほぼ真実と言って良いのではないかと思われます。
そして11世紀には記録や物語からいくつか男色の存在を見ることができますが、それらのうち、藤原資房の日記『春記』においては、弟の資仲や、能書家で知られる藤原行成の息子行経らが、童子の乙犬丸(乙丸)を寵愛して贈り物による浪費や乙犬丸を交えた内裏での乱交を行い、天皇や貴族社会の嘆きを買っていることを記しています。貴族社会に男色が相当程度流行し始めた証と言えるでしょう。
13世紀に成立し、それ以前の多数の信ずべき王朝秘話を伝えているとされる『古事談』には、11世紀の関白藤原頼通が、長季なる者を若気すなわち男色対象の少年としたとの話を見ることが出来ますが、これも当時の貴族社会の男色の流行を物語るものです。
そして12世紀には、藤原頼長の日記『台記』が、甚だ切なくいつものように相手とともに精を漏らして感慨深いだの、受け身に回って不快の後に景味があっただのと生々しい行為内容まで語る赤裸々ぶりで、自らの男色を記しているほか、鳥羽法皇が美童を側近く召して寵愛したことも記しています。ちなみに鳥羽法皇が男色愛好の余り、少年を化粧して婦女の如く装わせたために、化粧の風俗が貴族達に普及することになったと言います。ここに至って男色は、上流社会において何はばかることのない当然の趣味となり、風俗を先導するほどの存在になったと言えるでしょう。
なおこの11世紀以降の貴族社会の男色流行の発生源ですが、先に少し触れたように同時期の歌集や物語に僧侶の男色が著しいので、この頃の男色文化の中心には僧侶があり、彼等の稚児趣味が、貴族達の僧侶への信任や皇子の出家・入寺等を媒介に、貴族社会へと伝染し、貴族層の男色文化の開花へと繋がったのだろうと考えられています。
ところで12世紀も後半ともなると、地方を基盤とする新興政治勢力としてかねてより台頭してきていた武装豪族いわゆる武士の一部が、僧と貴族から成る都の上流階級の勢力を圧迫して上流社会の新たな成員としての地位を確保することとなり、これを経由して、武士の間にも貴族を模倣した男色趣味が広まって行くこととなりました。それを示すものとしては13世紀半ばの『岩清水物語』があり、これは旧来流行の貴族社会男女間の恋物語でありながら、主人公が武士であり、作中に主人公と貴族の男色記事が織り込まれているとのことで、貴族的男色趣味の新たな担い手の登場がそこに表現されています。
商工業の活性化に象徴される民衆的勢力の台頭・富裕化という近世的社会変動のはじまった14世紀以降は、男色文化の世界にも世相を反映した変化が生じ、上流階層に専有されていた趣味が下層へも伝播する形で、男色の大衆化が発生、男色文化は社会全体に広まって最盛期を迎えることになります。
この時代、乞食扱いして卑しめられた猿楽児童の世阿弥を寵愛するあまり、同席で食器を同じくて祇園祭を見物し、物議を醸した足利義満をはじめとして、時の最高政治権力者たる足利の歴代将軍は、猿楽演技者の少年の容色を愛玩して猿楽を庇護、結果、猿楽は隆盛を極めることとなりました。ところで文化において上の趣味に下が倣い、都の風に諸国が焦がれるのは割と自然な流れであって、なおかつ時勢として下層の実力向上が見られるとあれば、そこにさらなる商機を見出して、猿楽諸座は盛んに地方巡業をも行い、これを通じて猿楽およびそれに伴う少年売春の隆盛は諸国にも波及していきます。結果、この時代に日本人は、都に限らず地方まで、大小豪族から庶民に至るまで、普遍的に男色を大いに愛好するようになっていきました。
それを示すものとして、16世紀前半の柴屋宗長の旅行記『宗長手記』などは、各所に、男色少年である若衆の売色を行う者について記しており、地方への男色の浸透を大いに物語っています。
そして、このような社会全般への男色普及の中で、男色は歌のやりとりに象徴されるかつての高尚繊細な色合いを失っていき、その男色の卑俗化・粗雑化の中で、新たな男色の一形態として、武人と小姓間の、主君への殉死も辞さない緊密苛烈な侠者的の男色愛情関係が生まれていくことになります。
一方、民衆的勢力の台頭の蔭で、旧来の男色文化の中心的な担い手であった貴族、僧の勢力は従来にも増して決定的に衰退していき、それとともに彼等の男色文化上の存在感も低下していきました。とはいえ、それでもこの時代、貴族はともかく僧侶たちは、なお男色文化の一方の雄ではありました。僧侶もしだいに民衆的俗的の時代思潮の浸透を受けており、男色的恋情を高尚優雅に和歌に詠み込むようなことも少なくなって、独特の趣ある高雅な男色文化の高峰としての地位は手放しつつありましたが、それでもこの時代の僧侶男色文化はその結晶として、僧侶と稚児の愛欲・悲恋を主題に描写した男色小説、稚児物語の多数を残しており、これは文学史上に異彩を放っています。
ところで14世紀以降の仏教界の新種の男色少年についても一言しておきましょう。12~13世紀に興った禅宗では、僧の食事の案内をする喝食という役目の者がいて、老若選ばずこの役目に当てられていたのですが、しだいに喝食は艶姿優れた少年の役割となり、14世紀までに喝食は、髪型の違いを除いては、稚児とほとんど変わるところのない男色少年へと堕落していったそうです。そしてこの喝食はしばしば足利将軍の賞翫に供され、歴代将軍の禅宗への厚い帰依を維持するのに貢献していたそうです。
ちなみに、この時代には男色盛行の裏で、少年の誘拐および人買が他の時代に抜きんでて横行したという事実が指摘されています。
以上のような最盛期を経て、一般庶民に至るまで男色愛好が日本社会に完全に浸透したおかげで、その後、17世紀以降の江戸幕府治下の時代、男色売買は、時に幕府の禁圧を受けながらも、かなりの盛行を保ちました。
17世紀半ばまでの、初期の歌舞伎演者、歌舞伎若衆による売色流行、それ以降の歌舞伎演者野郎による、18世紀前半の元禄~享保期を頂点とする売色流行、その他役者として大成できず売色をもっぱらとする蔭間の存在、あるいは様々な行商少年による売色などなど、時の流れとともに多少の流行り廃りはあれど、時代を通じて活発な男色売春の存在を見ることが出来ます。
なお「かげま」の語は18世紀後半、明和~天明の頃には、男色営業者の総称となってしまったこと、また近代に入って大正昭和の都会に蠢く浮浪的人物にも新聞雑誌の報道者によって「かげま」の語が当てられたことを、付け加えておきましょう。
参考資料
岩田準一著『本朝男色考 男色文献書志』 原書房
服藤早苗著『平安朝の女と男 貴族と庶民の性と愛』 中公新書
田中義成著『足利時代史』 講談社学術文庫
『南方熊楠コレクション第三巻 浄のセクソロジー』 河出文庫
田中貴子著『性愛の日本史』 ちくま学芸文庫
稲垣足穂著『少年愛の美学』 河出文庫
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