男色の対象年齢を日本史をもとに考える ~男の娘の華の命をどこまで延ばすか菊の露~
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今回は男色的欲望の対象たり得る年齢の範囲について日本の男色文化をもとに考察してみようと思います。
なんだか前近代日本男色略史をまとめた余談っぽく見えますが、実はこっちの構想の方が先にあって、そのための予備知識を簡潔にまとめてたところ、いろいろ付け加わって男色略史になりました。
というわけで、この記事の前に前近代日本男色略史を読んでいただくほうが、話が理解しやすくなるのではないかと思います。
ウホッ!いい日本史… 前近代日本男色略史
http://trushnote.exblog.jp/8076521/
では男色的欲望の対象年齢についてですが、この点、日本男色史について最もまとまった研究をしたとされる岩田準一氏は「およそ男性間における特異なる愛情たるや、その愛せらるる相手の年齢は、愛せんと欲する者の年齢によって相違あるもののごとく、概略これを例うるに、年若き少年を愛する人は、おおよそ二十年代をばのぼらざるべく、それよりようやく齢を算して四五十年代の人に至っては、二三十年代の愛童すらいとわざるがごとく、さらに老齢に傾きてなおこの愛欲に執着する者には、かえってはるかに齢少なき十年代の少年をいとおしまんとするがごとき傾きあるは、例外のものは暫くおき、一般にこの道の通則なのである。」(『本朝男色考 男色文献書志』 原書房 253~254頁)と述べています。
これから、欲情する側の年齢を無視するかたちで強引にまとめると、一般論として、男色的欲望の対象となる能力は、十代を盛期として三十代まで備わっているということになりそうです。
その道の達人が言うのですから、これだけで結論は出ているような気がしますが、これで終わっては記事として内容が薄すぎます。せっかくですから、もう少し検討してみることにしましょう。
まず、これ以上の年齢の肉体が男色の対象となることもそれなりの頻度ではあったようです。
例えば室町期まで日本男色文化の先導役であった寺院での男色など、「高野六十那智八十」という言い回しで、高野山では六十歳、那智山では八十歳という老齢になっても稚児として男色の相手を勤めさせられることが少なくないと伝えています。
もっとも、この数字に関しては、高野と那智の産物である紙について、それぞれ一帖が六十枚、八十枚であることにかけたと言われており、そのまま受け入れるわけにはいかないのですが、それでもかなりの年齢になっても男色の対象とされることが少なくなかったと言うことはできそうです。
とりあえず六十が揶揄の対象となっているわけですから、差し当たり、五十歳前後まではそれなりの頻度で男色の客体とされていたと解釈しておきましょう。
とはいえ寺院における男色の一般的状況としては、稚児や喝食は一応、七歳から二十五歳までの範囲に限られたとのことです。
そして権力者の寵愛を受けたとか、出自が低くて僧の地位を確保できないとかの理由で、元服や出家得度によって成人して少年姿を逃れることが、なかなかできない場合もあったようですが、それでも男色の対象となる通常の年齢が、この範囲をそれほど大きく逸脱することはなさそうです。例えば、十五世紀、興福寺大乗院門跡の尋尊に賤民身分から買い取られて寵愛を受けた愛満丸など、二十六歳まで稚児として過ごしてから元服や出家得度によって成人することなく遁世させられ、なおも尋尊の寵愛衰えぬ二十八歳の時、自殺するに至っています。これは男色的寵愛のみが賤民身分から脱出した生活を支える状況の中で、稚児としての立場を保てなくなってきたための自殺だと考えられています。つまり年齢に追いつめられつつあることを自覚し、今の寵愛と生活がもはや長くないことに絶望して自殺したと言うことでしょう。
これらから、寺院のように男色に駆り立てる圧力が強い先鋭的な男色空間での男色関係においては、欲望の対象として強く求められる年齢は、七から三十歳程度までで、それ以上の者でも四十代までの者ならしばしば対象とされたと結論しておきましょう。
先鋭的な男色地帯である室町期までの寺院を見るだけでは、社会全体に適用できる一般論を考察するには不十分なので、さらに、室町期の男色普及および大衆化を経た後の、江戸時代の男色についても見てみることにしましょう。
まず十七世紀半ば寛永・正保の頃までは、男子を二十四、五まで元服させず大若衆と呼んだ室町・戦国期の風習が残っていたそうですし、この大若衆を一般人まで好んで男色の対象にしていたとか。またそれくらいの年齢の男性を愛好する風はその後にも残っていたようです。
ただし男子売色者については、通常は、十八から遅くて二十歳頃までに限界を迎えたらしいです。例えばかげまは十七、八、二十ともなると上がりといって勤めを止め、大道商人になったり、運が良ければ檀那の情けを受けて他のマシな仕事に就いたりしたと言われますし、井原西鶴の『男色大鑑』では二十すぎて勤めをするのは異常事態としています。商売だけあって限界の判断が厳しいのでしょうか?
とはいえ、『男色大鑑』はそれに続けて、三十四、五まで若衆顔して人の懐に入る滑稽なこともあるといった内容が記されているそうなので、それ以上も無いわけではなかったようです。
また、野郎として舞台に立つことを目指しながら芸が未熟で出稼ぎに出された、あるいは結局野郎になれなかった、もしくは野郎やかげまが身を落としてといった事情で、都市部を離れて田舎周りするようになった一種の旅役者の飛子という者がいるのですが、この飛子など三十歳四十歳の者もいて、身だしなみをつくろって十代二十代の少年のように化け、僧侶や田舎の大尽をとろかしたりしたそうです。なお、ごく特異な例外としては齢六十を超えてなお相手と仲睦まじくいた、荻野八重桐というかげまがいたそうですが、さすがにこれは、ここで考慮に入れるわけにはいかないでしょう。
売色者の限界年齢と大若衆のことを考え合わせれば、江戸時代の男色の対象年齢の上限としては、二十代半ばが一つの節目となりますが、『男色大鑑』の記述や飛び子の例から見て、それを超えた場合でも、都会で磨かれた容貌を整えるための高度な技術・洗練を身につければ、四十歳前後まではどうにかなったということでしょう。
なお、下限に関しては、かげまは十一、二歳からだったそうですし、オランダ商館に医師として滞在した17世紀のドイツ人エンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』には静岡の興津に関する記事で十から十二歳くらいの少年の売春のことを書いているそうですから、江戸時代の男色の対象年齢の下限はだいたい十歳ということになりそうです。
これらからすると、一般男性が男子に性的欲望を向ける場合、通常は、十から二十代半ばまでがその対象たり得、それ以上の者でも身だしなみを整えれば三十代までは、欲望を喚起し得たと言うことになります。
強く愛好される年齢と限界年齢ともに、寺院の場合より十下がっています。対象年齢の下限も少し上がってますね。さすがに女体と接しやすい一般社会では、男を性欲の対象とするための条件が一回り厳しくなっています。
さて、以上から無理矢理結論を引き出すと、男色の欲望の対象とできる年齢は通常、十歳から三十代です。
ただし男色的欲望の誘導に努力を要しない上限として二十代半ばという年齢があるので、二十代後半および三十代の男性が男色の対象となるには、身だしなみを整える技術に十分気を配ることが必要です。
女体が得られず追いつめられた人だと、上限の判断が年上に五から十年ほど広がります。また年下方向では対象年齢下限が七歳まで下がります。
参考資料
岩田準一著『本朝男色考 男色文献書志』 原書房
『南方熊楠コレクション第三巻 浄のセクソロジー』 河出文庫
細川涼一著『逸脱の日本中世』 ちくま学芸文庫
『スーパー・ニッポニカ Professional for Windows Ver.1.0』
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岩田氏と書簡を取り交わして男色に関する議論をした人物です。
おまけ
この画像見て「詐欺だろ…」と思ったら負け (VIPPERな俺)
http://news23vip.blog109.fc2.com/blog-entry-250.html
化粧は人間の外観をがらっと変えることができます。ちょっと技を身につければ年齢や性別を克服して男性の性欲を喚起するくらい、わけないのかもしれません。
リンクを変更(2010年12月8日)