どれほど兵は神速を尊ぶか? ~歴史的に行軍速度を探求し戦争術評価の尺度とする試み~
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少なくとも私にとってはそうです。
そこで今回は、そういった比較論を行う際の一つの尺度を打ち立ててみようと思います。尺度を導くために着目するのは、各所で優れた兵の証として、時に闘うことよりも貴ばれる速さです。
もっとも、優れた用兵とは与えられた状況に応じて最大限目的達成にふさわしい行動を、費用と効果の均衡に配慮しつつ、実行することであり、本来、時代背景と具体的状況から切り離して単一の尺度によって優劣を評価することなどできるはずがありません。
ですからここでやることなど所詮お遊びに過ぎないのであって、その点了解の上で、真面目に構えたりせず気楽に読み流して下さい。
対象は前近代の農耕文明圏の軍隊です。
通常行軍速度
まずは参考までに、西洋史上の諸軍の進軍速度を見てみましょう。
フィリッポスとアレクサンドロスのマケドニア軍は迅速な行軍で知られており、その速度は一日平均15マイル(24キロ)です。余談ながら、輜重隊なしで騎兵や軽装歩兵からなる特殊軍団ならば一日40~50マイル(64キロ~80キロ)の行軍が可能とされます。
ローマ軍も迅速に行軍しており、ローマ軍の規定では通常の行軍は一日25キロとされます。
参考までにそれ以上だと、強行軍で一日30~35キロとなり、最強行軍だと昼夜兼行で可能な限りだそうです。
ナポレオン軍も迅速な移動で知られていますが、急速移動の要求されない状況での通常の行軍速度は上記の例ほど速いわけではなく、一日10~12マイル(16~19キロ)だそうです。
ただ、この前の時代の用兵例をいくつか見てみると、スペイン継承戦争のマールバラ公はライン川からドナウ川までの250マイル(400キロ)を35日(一日に11キロ)で走破してその時点での常識外の大機動とされていますし、同じくスペイン継承戦争のオイゲン公がアディジェ川からトリノまで230マイル(370キロ)を60日(一日に6.2キロ)で移動したのはマールバラの機動作戦に準じると評価されており、七年戦争のフリードリヒ大王がロスバッハからロイテンまでの170マイル(270キロ)を12日(一日に23キロ)で走破したのも機動戦の好例とされています。
これらが当時の優れた用兵と扱われていることを考えると、ナポレオンの通常の行軍速度は十分迅速と言えます。
この他迅速な行軍を行った例としては、古代エジプトのトトメス3世はメギドの戦いの際、エジプトからガザまでの9日間の行軍で一日平均15マイル(24キロ)の速度を達成しています。通常の行軍なのか短期的に力を振り絞ったのか区別しがたい事例ですが。
なお鈍足な行軍の例として、国家や軍隊の組織力が低下していた上に慎重な戦略が支配的であった西欧中世の軍隊の例を見てみましょう。
リチャード1世の行った第三回十字軍は、比較的素早く進軍していた時期では81マイルを19日(一日に6.9キロ)、20マイルを5日(一日に6.4キロ)で行軍した例が見られますが、遅い時期には補給線を要塞化しつつ一日1キロに満たない速度で進軍していました。
30キロを超えると強行軍となるローマ軍の規定から言って、前近代の軍隊が無理なく実施可能な通常行軍速度の限界は、一応、一日30キロ弱であると考えられますが、諸々の事例から見て、一日20キロ以上進軍していれば最高水準と言って良いでしょう。
速いとされるナポレオン軍の行軍でも通常時は一日10キロ台に過ぎないことを思えば、一日10キロ以上の速度で進軍すれば迅速と言えるかと思います。時代によっては一日10キロ強で常識はずれの速さだそうですし。
鈍足な中世の軍隊でも速いときは一日6キロ強は出しているので、一日6キロを下回れば鈍足、上回れば遅くはないと言えるでしょう。
急襲作戦
上で検討したのは長期的に維持可能な行軍速度であり、今度は、東西の歴史上に偉業・神業として讃えられる神速の用兵例を少しばかり集めて、それをもとに前近代の軍隊の短期的・瞬発的移動の速度の限界がどの辺りにあるかを考えてみましょう。
ガウガメラの戦いで約五万の兵力を率いてペルシアの大軍を撃破したアレクサンドロスは、昼夜兼行で翌朝までアルベラまでの56マイル(90キロ)を追撃しています。
アレクサンドロス死後の後継者戦争においてアンティゴノスは五万の兵力を率いて七昼夜で約300マイル(480キロ)を踏破、敵軍を奇襲して撃破しました。一日あたり69キロになります。
第二次ポエニ戦争のイタリア半島における戦いで、ローマの武将クラウディウス・ネロは、メタウルスの戦いに加勢するため、指揮下にある兵力から精兵7千を選り抜いて、その兵士を可能な限りの軽装にさせるとともに、食料も携帯せず道筋にある町に食事を用意させ、800キロの距離を、一昼夜に100キロ以上の速度で強行軍しました。
イギリスのバラ戦争で、エドワード4世はテュークスベリーの戦いの前に給水もままならない土地で一日32マイル(51キロ)の進軍を行ったそうです。
ナポレオン戦争でアウステルリッツの戦いに参加するため、ダヴーの軍団は約8千の兵力でウィーンから強行軍、55時間で80マイル(130キロ弱)を踏破したと言います。これは24時間で56キロになります。48時間少々で140キロとも言いますが、これならば24時間で約70キロです。
日本では本能寺の変に際して、秀吉は、約三万の軍で備中高松城を包囲していたところ、変を知って備中高松から80キロを一昼夜で踏破して姫路に帰還しました。ただし部下の多数は秀吉と同時には到着していません。
なおそこから秀吉は、改めて出撃準備を整えた後で決戦に向けて出発、姫路を出て四日後、110キロほどの道のりの山崎で決戦しており、これは平均すれば一日28キロ程度になりますが、この際、出撃当日の夜中には姫路から50キロほどの兵庫に達し、出撃翌々日の午前中には姫路から80キロの尼崎に到着、そこから近隣に滞在する諸勢力の参集を待ちつつ進んでいます。
また秀吉は、賤ヶ岳の戦いにおいて、途上の村々に道沿いに用意させた食事で補給を行いながら、二万の軍で大垣から木之本までの50キロを、午後2時から午後9時の間に駆け抜け、休息の後決戦。
中国の三国時代の司馬懿は宛から千二百里(520キロ)の道のりを8日で踏破し上庸城を攻略。これは一日で65キロの速度になりますが、両地点間の距離は地図を見る限り直線距離で300キロ弱であり、街道の曲折を考慮してもせいぜい400キロ程度、一日当たり約50キロの行軍とするのが妥当に思えます。
余談ながら同じく三国時代の武将で急襲を得意とした夏侯淵についての伝承を取り上げておくと、彼は三日で五百里(220キロ)と言われており、これは一日で67キロとなります。なお夏侯淵が神速を発揮した十分具体的な用兵例を見つけられなかったので、あくまで余談ということにしておきます。
これらの例の内いくつか凄まじい速度を発揮しているものがありますが、アレクサンドロスの戦闘後の追撃や、兵士の大半が遅れている秀吉の高松城からの移動は、行進直後に大規模決戦を控えていないので、決戦への余力を残しておかねばならない事例とは同列には論じられません。
クラウディウス・ネロの軍は行軍後に決戦に参加しているが、これは主力を成す他の軍勢に加勢するため、独立の戦闘集団としての能力を放棄して行動したのであり、また少数精鋭でイタリア半島の街道網の充実の恩恵を受けつつ進軍するという恵まれた状況にあるので、特殊な事例と言えるでしょう。
したがってこれらの一日に80~100キロ以上という行軍速度は上述の特異な用兵の中でもさらに特異な例外中の例外として、検討対象から排除しておくことにします。
山崎の戦いに向けた秀吉の姫路からの行軍は彼の指揮下にない諸勢力の結集を図りつつの進軍であり、純軍事的な観点のみで進軍速度が決まったわけではないですし、それ相応に平均速度も遅いので、これも検討対象から除外してよいと考えられます。ただ出撃初日に達成した一日50キロという行軍は、作戦中の戦闘まで間のある一時点での部分的なもので、証拠としての価値は幾分低いにせよ、決戦を目指す軍隊に可能な行軍速度の限界値をうかがわせてくれるものとして、多少の意味はあるでしょう。
こうして残った、一日に50~70キロという速度が、前近代の軍隊がまともな戦闘能力・作戦能力を維持しつつ実行する短期的・瞬発的移動の限界値と言って良いでしょう。
速度を元にした軍隊・用兵家の評価
以上より前近代の軍隊は、通常の状態で、一日6キロ以上の行進速度を維持できれば並以上の組織、一日10キロ以上の行進速度を維持できれば優れた組織、一日20キロ以上の行進速度を維持できれば最高水準の組織であるといって良いかと思われます。
そして戦闘能力を維持しながら一日50キロ以上の行軍ができれば、その指揮官は軍隊の能力を限界まで引き出していると言ってよく、すなわち最高の用兵家の一人に数えてよいでしょう。
ところで、この文章は最初に言った通りただのお遊びですので、尺度云々って話のことは忘れて、歴史上の軍隊の進軍の速さを集めた参考事例集としてでも使ってもらえればよいのではないかと思います。
事例集としても不完全ですが、無いよりはましでしょう。もともと様々な行軍速度を参照しやすいよう、個人的なメモをまとめていたところ、いつの間にか変質して記事になっただけなので、その使い方のほうこそ本来のものです。
参考資料
アーサ-・フェリル著『戦争の起源』鈴木主税/石原正毅訳 河出書房新社
F.E.Adcock著『The Greek and Macedonian Art of War』
大牟田章著『アレクサンドロス大王 「世界」をめざした巨大な情念』 清水新書
塩野七生著『ローマ人の物語』 新潮社
C.W.C.Oman著『THE ART OF WAR IN THE MIDDLE AGES A.D.378-1515』
John Gillingham著「Richard I and the science of War in the Middle Ages」
『グラフィック戦史シリーズ戦略戦術兵器事典③ ヨーロッパ近代編』 学研
デイヴィッド・G・チャンドラー著『ナポレオン戦争-欧州大戦と近代の原点-』君塚直隆/糸多郁子/竹村厚士/竹本知行訳 信山社
『グラフィック戦史シリーズ戦略戦術兵器事典② 日本戦国編』 学研
桑田忠親著『新編日本合戦全集』 秋田書店
高柳光壽著『本能寺の変/山崎の戦 新書戦国戦記4』 春秋社
陳寿著『正史三国志』今鷹真/井波律子/小南一郎訳 ちくま学芸文庫
『歴史群像シリーズ 17三国志・上、18三国志・下』 学研
関連記事(2009年5月15日新設)
涼宮ハルヒの名将の憂鬱 後編
Oman『中世における戦争術 378~1515』(翻訳)について補足
覇者の胃袋 ~粗食、偏食、暴飲暴食の帝王たち~
れきけん・とらっしゅばすけっと/京都大学歴史研究会関連発表
F.E.Adcock『ギリシア人とマケドニア人の戦争術』(翻訳)(当ブログ内に移転しました)
http://trushnote.exblog.jp/14618338/
C.W.C.Oman『中世における戦争術 378~1515』(翻訳)
http://www.geocities.jp/trushbasket/data/my/oman.html
アレクサンドロス
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/1999/991022.html
『晋書』 宣帝紀(翻訳)
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2003/030704.html
『軍事史概説 戦略と戦術の東西文明五千年史』(当ブログ内に移転しました)
http://trushnote.exblog.jp/14455184/
リンクを変更(2010年12月8日、21日)