19世紀後半のハプスブルク帝国では、帝都ウィーンの改造が行われていました。その一環として王立宮廷歌劇場の建設が進められていたのですが、1865年のこけら落としを前に設計者であるエドゥアルト・ヴァン・デア・ニルとアウグスト・フォン・ジッカルツブルクはすでにこの世の人ではなくなっていました。デア・ニルは自殺し、その直後にジッカルツブルクは病で急死していたのです。彼らは重要な任務を担う栄光を妬んだ人々によって様々な中傷を受けていましたが、中でも彼らを圧迫したのはこの噂でした。なんでも、時の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が歌劇場のデザインを気に入らず、
宮廷歌劇場は『沈んだ箱』みたいだ(菊池良生『哀しいドイツ歴史物語』ちくま文庫 224頁)
ともらしたというのです。これが、二人の精神を大きく打ちのめしたのは間違いないとされています。何ともむごい話です。
さて、この二人の建築家の悲劇は、皇帝にも少なからぬショックだったようです。以降、フランツ・ヨーゼフは公式の場で何らかの感想を求められると、決まって
素晴らしかった、大いに満足している。(同書 231頁)
と答えるのみであったとか。自分の不用意な一言が人を殺してしまう、それを思い知った皇帝は自身の個人的感情・乾燥を表に出すことはなくなったのです。それはかなり徹底しており、
・助言者の具申が的外れであってもそれを口に出さない
・狩猟の際、自分の目の前を明らかに前もって用意された獲物が横ぎった時も、全てを承知でその獲物だけを撃つ
・身体の不調があっても、侍医に熱がないと言われればその通りにふるまった
・自分のベッドに虱を見つけた際も、黙っていた
といった逸話が伝えられています。ここまで来ると、痛ましさすら感じますね…。
似たような話は、我が国にもあります。1928年におきた張作霖爆殺事件における責任者の処分を巡って、昭和天皇は首相・田中義一を叱責。当初、田中は責任者を厳罰に処する方針で奏上していましたが、周囲の反対で処分は軽微なものに。これが、天皇の不興をかったのです。その責任を取る形で田中は内閣総辞職し、まもなく急死しました。それに自責の念を覚え、天皇は以後、政府の方針に口を挟まないようになったというのは有名です。
また、徳川中期以降の大名も、身の回りの世話をする者が粗相をしても鷹揚に接することが定められていたといいます。これも、怒りを表明すればその相手が切腹に追い込まれる事になるためでしょうから、上記の例と同様に考えてよいかと思います。
身分が高すぎると、その影響力の大きさゆえにかえって自身の想いを口に出せなくなる。人の生死を左右するわけですから致し方ないとはいえ、いたわしい話ですね。また、それゆえの問題が生じたりもしますから、彼らのとった道を全肯定するのは問題あるでしょう。しかし、それでも、己ゆえの犠牲者を出すまいとした君主たちの苦悩と自制には充分な敬意・尊重の念が払われて然るべきかと。
こうした君主たちほどではないにせよ、社会的地位の高い人物は、現在でも発言には慎重である必要があるのは変わらないと思います。彼らのように他人を追い詰める結果になりかねないし、あるいはその影響力を利用したい人に悪用されたりしかねませんから。上記の君主たちを見習え、とか、自身の想いを口にだすな、などと無茶を言う気はありません。ですが、影響力を考えて、なるべく人に要らざる刺激を与えないよう、言葉を選んでもらいたいものだな、とは思います。
【参考文献】
菊池良生『哀しいドイツ歴史物語』ちくま文庫
『内閣総理大臣ファイル』GB
磯田道史『殿様の通信簿』新潮文庫
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立場が上でも下でも、発言に注意を払う必要性があるのは変わらないようです。
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「軍事史概説 戦略と戦術の東西文明五千年史」
フランツ・ヨーゼフ1世や昭和天皇といった君主たちについては、社会評論社『戦後復興首脳列伝』『敗戦処理首脳列伝』で扱っています。興味のある方は御参照いただけますと幸いです。
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※2015/3/1 少し、言い回しを変えました。