秋も深くなってきました。京都でも、先月に時代祭が終わりましたね。南北朝好きとしては、時代祭行列には「室町時代」代表に「室町幕府執政列」、「吉野時代」代表として「楠公上洛列」が登場する事が特筆ポイントでしょうか。
関連サイト:
「平安神宮」(https://www.heianjingu.or.jp/index.html)より
「行列の概要」(https://www.heianjingu.or.jp/festival/parade.html)
そして楠木正成といえば。これまた先日に発売された『逃げ上手の若君』でも登場、湊川合戦で足利尊氏と渡り合い壮烈な戦死を遂げる場面が描かれました。
さて、この時の古戦場として知られる湊川、実はそれ以前から歌枕でもあったようで。今回はそれについて少し触れておこうと思います。個人的に、「湊川」といえば楠木正成なイメージしかありませんでしたから、少々意外。
まあ、南北朝好きの方にとってはもはや常識かもしれませんが、改めて。湊川は神戸市の中心部を北から南に流れる川で、六甲山地が源流。かつては兵庫区と中央区の間を流れて大阪湾に注いでいましたが、明治時代に治水対策として長田区寄りになるよう河川修復が行われました。それ以降の流路は「新湊川」とも呼ばれます。言うまでもなく、古戦場は旧湊川。湊川神社があるのは中央区ですね。まあ、古来から流路は変わってきたようですけども。
早くから名は知られていたようで、例えば天平年間の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』にも摂津国の宇奈五岳の東に弥奈刀川があると記されています。この宇奈五岳、会下山のことではないかと言われているとか。
さて、上で少し述べた通り、湊川は王朝時代において歌枕として知られていたそうです。実例を見ていきますと。『千載和歌集』における藤原範兼の
みなと川 うきねのとこに きこゆなり
いく田のおくの さをしかのこゑ
〈超意訳〉
湊川に浮かぶ船の中、心落ち着かず眠れぬまま横になっていると、生田の地の奥で悲しげに泣く牡鹿の声が聞こえてきた。
や、『拾玉集』における慈円の
湊川 鹿の音おくる 松風の
遠ざかりゆく 舟をしぞ思う
〈超意訳〉
湊川で松風に乗って聞こえる鹿の鳴く声も次第に遠ざかっていくのにも、舟が進んでいくのを感慨深く思われる。
といったあたりが挙げられます。西行『山家集』にも
みなと川 苫に雪ふく 友舟は
むやひつつこそ 夜をあかしけれ
〈超意訳〉
湊川で私の舟と連れ立って航行する舟を見ると、苫に雪が吹き付けている。杭に繋ぎ止めて夜を明かしているようだ。
といった歌があります。
少し語句解説しておくと、「うきね」は「浮き寝」すなわち「水鳥が水に浮いたまま寝る」「船の中で寝る」に加えて「心落ち着かず安眠できず横になっている」という意味が。最後は「憂き」がかけられていますね。「さをしか」は牡鹿、「さ」は接頭語です。「苫」は茅や菅で編んだ筵、「友舟」は「伴舟」ともいい連れ立って航行する船のこと。「むやふ」は「舫う」(もやう)と同じで舟と舟を繋ぎ止めたり杭に船を繋ぐ事を指す動詞です。
他には今参照している『新後撰和歌集 中』巻第十一日 恋歌 一にもこんな歌が。
宝治百首歌奉りし時寄湊恋 山階入道左大臣
せきかねぬ 物思ふ袖の みなと川
今はつつまぬ 名をやながさん
〈超意訳〉
恋に悩み涙を堰き止める事もできず袖が濡れてしまい、まるで港に打ち寄せる波のようだ。湊川の流れに、今はかくれもなく知れ渡った浮き名を流し去ってしまいたいものだ。
ここでも語句解説。「袖の港」とは涙で袖が濡れるのを、港に打ち寄せる波にたとえた表現だそうで。「つつむ」とは「心のうちに秘める」、「人目を憚る」といった意味で、「名を流す」とは「評判になる」特に「艶聞が広まる」事を意味します。川の流れに例えているのは明らかですから「水に流す」すなわち「なかったことにする」というニュアンスとかけていると思われます。
なお、余談ながらこの「山階左大臣」こと洞院実雄については
こちらに説明があります。
有名な古戦場であり、なおかつ歌枕としても知られていた場所、探せばまだあるのかも。
【関連記事】
『精選版 日本国語大辞典』小学館
『大辞泉』小学館
『日本歴史地名大系』平凡社
『新後撰和歌集 中』吉田四郎右衛門尉刊行
『日本人名大辞典』講談社
松井優征『逃げ上手の若君13』集英社
関連記事:
神戸の歌枕としては、ここも有名。
湊川が漢詩の題材になるのは近世、明治でしょうから、楠公さん絡みが原則になるのは「まあそりゃそうだ」としか。
近世以降になると和歌で「湊川」を詠んだケースも楠公さん絡みが多そう。