※注意 ひょっとしたら、将来的に週刊少年ジャンプ連載中漫画『逃げ上手の若君』作中展開のネタバレが含まれる可能性があります。それでも構わない、という方のみ自己責任にてお読みいただければと存じます。
「足利直義は、戦下手である」
かつてそう言われた事がありますし、僕もそう思っていた時期がありました。しかし、その戦歴を追い直して見ると、予想外の結果だった。いつぞや、そんなお話をいたしました。
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こうして見ると、存外悪くありません。直義の奮戦が戦勝に貢献し、足利方の命運を開いたケースもありますし。
とは言え。「戦下手」と評された事があるのも、不当ながら理由のない事ではありません。中先代の乱、手越河原の戦いと「足利一族そのものを存亡の危機に叩き込む大敗」を一度ならず二度しているのは、「偶然ではない」と見る余地はあるかも。それも、「立て続けに」ですし、「兄・尊氏が出てくるや一気に逆転」ですからね。
まあ、「勝敗は兵家の常」と言ってしまえばそれまでですし、「尊氏が特殊だからあれと比較してはいかん」という見方もそれはそれで成り立ちうるかとは思います。ただ、「戦下手」ではないにせよ、直義には何かしらの「弱点」というか「苦手分野」が軍事行動において存在するのかも。そう勘ぐる余地はあるかもです。
という訳で、今回はその辺りを考察して見ようかと。まあ、素人の考察なんで、見る人から見たら根拠薄弱な推論・妄想が多めかも。あらかじめ寛恕を乞うた上で、話を進めてまいります。
まず、直義が戦場で大失敗した事例です。
・中先代の乱
・手越河原の戦い
意外ながら、「大敗」といえるレベルなのはこの二つのみ。共通点としては、
諏訪頼重・
新田義貞といった強敵相手だった事、そして兄・尊氏不在の状況で自らが総司令官として前線に臨んでいた事です。
次に、直義が勝利した、もしくは勝利に大きく貢献したのは
・多々良浜の戦い
・西からの上洛戦
が挙げられます。尊氏が総大将として鎮座する状況で、先鋒として、もしくは別働隊指揮官として戦果を挙げた事例と言えるでしょう。多々良浜では足利一門の危機を打開する勝利を呼び込みましたし、備中福山では新田一族が守る城を落としながらの進軍。中央政権から派遣された軍勢を相手に攻勢で勝利できる将才を示したものと見る事はできそう。
同時代人の目から見れば、十分に「輝かしき当代の名将」として映るレベルかも。
あと、直義が勝利した事例として
・打出浜の戦い
があります。この時、直義は総大将ではありますが、最前線から離れた八幡に本陣を構えていました。最高司令官を務める際も、前線から距離を置いた総司令部でどっしり構えて戦略を練っている分には問題ないと思われます。
可もなく不可もなし、な事例としては
・豊島河原の戦い
戦勝で勢いに乗る北畠顕家・脇屋義助を相手に、兵力の優勢に助けられたとはいえ終日にわたり互角な戦いを演じています。
・湊川の戦い
楠木正成の「死兵」によって一時は危地に陥ったようですが、尊氏の助けもあり凌ぎ切りました。
・薩多山の戦い
尊氏との決戦。直義は伊豆国府にいたようで、やはり前線から離れています。敗れたとは言え相手は尊氏、責めるのは酷かも。
これらの事例は加点も減点もなし、といった所でしょうか。上二つは尊氏の下で先鋒・別働隊を率いた事例。最後は、前線から距離を置いて総司令官を置いた事例。やはり、これらの形なら大きな問題はないようです。
傾向を独断と偏見でまとめてみます。
・尊氏が総大将として手綱を握っている状況で先鋒、もしくは別働隊指揮官として戦場に出た場合は勇将と呼んで差し支えない果敢な戦いぶりを見せる。
・その中には、劣勢を覆したり、中央政権の軍を相手に攻勢で勝利したり、といった事例もある。将才そのものは兄の名を辱めぬレベルと言って良さそう。
・総大将を務める際も、前線から少し離れた所の司令部でどっしり構えて戦略を練っている場合は、問題はない。
・ただし、総司令官、方面軍司令官という立場で前線に出ざるを得ない場合には、問題が生じる可能性がある。
戦績を概観すると、こんな所でしょうか。
劉邦や劉備の配下に例えるなら。内政能力は疑問の余地がありませんから、蕭何の役割はできる。帷幕で謀を巡らせる事はできそうですから、張良・陳平や法正・龐統の役回りも務まりそう。別働隊や先鋒で勇将ぶりを発揮しますから、曹参や張飛・趙雲・魏延といった役目も問題ないでしょう。こう見ると、智勇を併せ持った、高いレベルでマルチに活躍できる人材ですね。有能ぶりを改めて認識。
まして、「戦下手」とはとても呼べるものではありません(張飛や趙雲、魏延を「弱将」呼ばわりする人は、流石に皆無に近いのでは)。しかしながら独立した一戦線を担って前線を指揮する韓信・関羽といった立場の適性はひょっとしたら欠いている可能性がある。それだけの話なんだと思います。
思えば劉邦・劉備も大敗の経験はありますが、一方で一軍の総司令官として大勝利の経験も多数ありました。直義も一方面司令官として更に挽回の機会があればあるいはやれたのかもですが、めぐりあわせに恵まれなかったとはいえるかも。あ、でも、ひょっとしたら直義は「一方面司令官として」「前線で」という状況を敢えて取らないようにしていたのかも。直義が総大将として最前線から距離を置いた司令部で全体指揮をとっていた事例は、いずれも政権樹立後の事。中先代の乱、手越河原という二つの大敗が立て続けにあったのでその反省を活かしたのか、もしくはその体験がトラウマになったのか。実際のところどうだったのかは分かりませんが、事実上の政権担当者としては「政権を、そして足利家を存亡の危機にさらす事態は避けねばならない」という責任感からそうした判断をした可能性は十分ある気がしてきました。
ついでながら、なぜ方面軍司令官として前線に出すと問題が起こりうるのか。それについても妄想して見ようかと思います。
まあ、そもそもが「方面軍司令官としての適性に問題あるかも」という話自体が僕の勝手な推論に過ぎないので、ここから先は、そこが否定されるとガラガラと崩れるレベルの駄弁に過ぎませんけど。
直義を政治家として見ると、「政局が急変した際には、従来積み上げてきた方針を崩壊させかねない短絡的な動きに出る傾向がある」という指摘は目にした事があります。当否はともかく、思い当たる節は無きにしも非ず。
まずは、中先代の乱で敗れて鎌倉から逃れる際、身柄を預かっていた囚われの政敵・護良親王を殺害した事例。亀田俊和先生は、状況から北条時行らが護良を擁立する事は考えにくいと指摘。また、少なくともこの時点で直義に建武政権から離脱する意志は無かったとも推論されています。だとすると、そんな中での護良殺害は理屈に合いません。実際、亀田先生からは「単に足手まといだったから」「秒読みに追われてはずみで」(亀田俊和『足利直義 下知、件の如し』ミネルヴァ書房 24頁)と評される始末。
極め付けは、観応の擾乱序盤。執事・高師直との対立が表面化し、師直排除を目論んだ直義はあろう事か暗殺の策謀という形で先制攻撃に出ています。少なくともこの時点では、師直は一方的被害者と言える有様。
そして政争に敗れ挽回を図ろうとした直義は、なんと南朝に降伏。これまで政権担当者として長年にわたり培ってきた、北朝・光厳上皇との信頼関係を踏み躙る結果に陥ってしまいます。
確かに、「危急の場面に陥ると、長期的視野を欠いた短絡的行動に出る」と評されてもやむを得ない面はあるように見えます。直義特有の特徴かはともかくとして。
これは僕の勝手な妄想ですが、「普段は聡明で冷静沈着ながら、想定外の事態が起こるとパニックになり、取り乱した結果、平常時なら考えられないような短絡的な挙に出る」、直義はそんな一面がある人物だったのかも。護良親王殺害についても案外、三河に逃れて冷静さを取り戻してから「しまった!取り返しのつかない事を…」と顔面蒼白になってた可能性は感じます。
そして更に妄想に妄想を重ねますと。前線で想定外の事態に直面し、自分が全責任を持って即時の判断をしないといけなくなった時に。パニックに陥り、頭の中が真っ白になり、その結果として本来の将才を半分も発揮できないままに、大敗する。そんな所だったのかも、などと思ってしまいます。
一見すると完璧超人にすら見えたであろう冷静かつ聡明な人物に潜む、想定外事態での脆さ。そう考えると、直義に対してなんだか少し親近感も湧いてきます。無論、このイメージが実像かどうかは分かったものではありませんけど。
最後に、改めてもう一度。これは、僕が直義の戦歴や政局での動きを題材に、素人考えで妄想した内容に過ぎません。あくまでも話半分でご覧頂ければと存じます。間違っても、鵜呑みにはしないように。乱筆乱文で妄想を書き散らした事につきましては、返す返す御容赦の程を。
【参考文献】
亀田俊和『足利直義 下知、件の如し』ミネルヴァ書房
亀田俊和『征夷大将軍・護良親王』戎光祥出版
森茂暁『足利直義 兄尊氏との対立と理想国家構想』角川選書
兵藤裕己校注『太平記』(一)〜(六) 岩波文庫
『日本古典文学大系太平記』一~三 岩波書店
『京大本梅松論』京都大学国文学会
『日本大百科全書』小学館
『世界大百科事典』平凡社
小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳『史記列伝 三』岩波文庫
小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳『史記世家 下』岩波文庫
井波律子訳『正史 三国志5 蜀書』ちくま学芸文庫
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※2021/2/21 少し加筆。