ホントは恋せぬ平安貴族 ~恋などするのはバカばかり 賢者は恋より金を数える~ from 『うつほ物語』
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これは学問・芸術に優れる藤原仲忠とその母が、零落の極みから理想的な繁栄に至るまでを、色恋を軸に描き出した物語なのですが、その過程で登場する多彩な個性と経歴を持つキャラクター群が、作品の大きな魅力となっています。
例えば、恋に歌にの風潮を尻目に政治的打算をあらゆる色欲・愛情に優先させ着実に権力掌握に向かう大政治家の源正頼、自ら博徒を率いて女の掠奪に乗り出す武闘派皇子の上野の宮、父母親戚を失って貧困に陥り周囲に長年軽んじられながらついには学才を認められて立身を遂げた苦学生の藤原季英などなど、ひたすら色恋に耽るのが一般の平安文学の登場人物でありながら、色恋という枠に収まらないキャラクターがてんこ盛り。
そして、こんなキャラクター達の織りなす物語は、恋の時代平安朝の恋の物語を描きながら、他方で、色恋に対する冷めた分析的視線を忘れず、恋愛というものを相対化する内容になっています。
そこで、今回は、この『うつほ物語』の視線を頼りに、平安時代の色恋と男女関係の実態を、色恋の外部から批判的に検討してみたいと思います。平安人にとって、恋愛とはいったいいかなるものだったのか?
(以下、原文引用は『新編 日本古典文学全集』小学館から。)
さて、この非恋愛的要素を多分に含む物語にも、平安物語の登場人物として一般的な色好み=ヤリチンなキャラクターも当然いて、最も典型的なキャラとしては源仲頼という人物がいます。
この男、並ぶ者無き琴・笛の達人にして、その他あらゆる技能に優れた名声高く帝の信頼も厚い俊英、容姿に優れた桁外れの色好みという設定で、「天女が降りてくる世になったら我が妻たるにふさわしい人物も出てこよう。だが今天下に我が妻とすべき者はいない(天女下りたまふらむ世にや、わが妻の出で来む。天の下には、わが妻にすべき人なし)」(「嵯峨の院」)などと考えてるとか……。
なんか人間、モテすぎると、二次元・二次元、三次元はイラネってほざく非モテをこじらせたヲタの人と大差ない境地に達してしまうようですが、まあ、それはさておき、この男、こんなこと考えてたくせに、意外にも、貧乏弱小貴族の在原忠保の美貌の娘を妻として、しかも妻を溺愛して他の女は眼中になく、おとなしく御機嫌に暮らしてたりします。
で、当時、若い男の生活や出世は妻の実家が支えるものだったのですが、忠保はこの人物が貧しい自分の婿として妻と仲睦まじく居着いてくれたことを、たいへん光栄に思い、わずかな家財を売り払い質入れして、微力ながらも心を尽くして世話をしてたりします。
なんだか、色男の恋愛ちょっと良い話って感じですね。でも、こんなヤリチン男究極型のちょっと良い感じの純愛エピソードを描きながら、それでも恋の良い話だけでは終わらずに、その最中に、恋の時代の虚像を剥いでくれるのがうつほクオリティー。
心温まる結果はともかく、そこに辿り着くまでの過程における忠保夫妻の思考が、当時の社会に置ける恋愛の位置づけを見事にえぐり出してくれます。
忠保の妻は、なにゆえ仲頼を婿に選んだのか、その理由を明かしつつ、当時の男女関係の実像がいかなるものかを、娘に語って聞かせます。
今の世の男は、まづ人を得むとては、ともかくも、『父母はありや、家所はありや、洗はひ、綻びはしつべしや、供の人にものはくれ、馬、牛は飼ひてむや』と問ひ聞く。顔かたち清らにて、貴にらうらうじき人といへど、荒れたる所にかすかなる住まひなどして、さうざうしげなるを見ては、あなむくつけ、わがいたつき、わづらひとやならむと思ひ惑ひて、あたりの土をだに踏まず。『などかその人には住まぬ』といへば、『法師籠りをりき。俗籠りをりき』といひてあたりにも寄らず。あやしき者の子、孫、顔かたち鬼のごとくして、頭はひた白に、腰は二重なる嫗なれど、猿を後手に縛る者といへ、徳ありし者の妻ぞ、子ぞといふ者をば、天下の人もえ聞き過ごさで、いひ触れ惑ふ今の人なれば、かかる所に、一日片時、立ちとまる人もあらじと思ひて、多く徳あるよき人をも聞き過ごし、わが子をや、人笑はれに、あはあはしく思はせむ。『その人住みしかども、今は来とぶらはず』といはせたてまつらじとて、ここら聞き過ぐしつれど、さのみいひてやあらむ。宿世に任せてこそはあらめ。また天下いまし通はず、見うんじたまふとも、例のあだ人なればと、ただに思はせむとてこそは。
(「嵯峨の院」)
<訳>
今の世の男は、まず妻を娶ろうとするといっては、とりあえず「世話をしてくれる両親はいるか、住居はあるか、衣服の洗濯や修繕はできるか、従者たちにものを与えてくれるか、馬や牛は飼っているか」と問い尋ねるものです。顔かたちが清らかに美しく、上品で利発な女であっても、荒れた住処でみずぼらしい暮らしをして、みじめな様子でいるのを見ては、ああ鬱陶しい、こんな女は妻にすれば苦労・悩みの種となるだろうなどと尻込みして、近くの土さえ踏まぬよう逃げていくのですよ。「あの女の所に婿として通うんじゃなかったのか」と問われれば、「坊主とデキて住まわせていた、つまらない男とデキて住まわせていた」などと理由をでっちあげて、近寄らないようするものなのです。それなのに一方では、卑しい者の子や孫で、顔かたちは鬼のよう、頭は真っ白く腰は二重に曲がった老婆という者で、猿を後手に縛ったような姿であっても、財産のある者の未亡人だ子だという者ならば、世間の人は無視したりせず、言い寄り持てはやす今の時代の人ですから、このような我が家に、一日片時とも、婿として居つく人はいないだろうと思って、多くの財産ある人からの縁談も聞き流し、我が子に、婿に逃げられたことで人から嘲られ軽んじられるような目には遭わすまい。「その人は以前通ってきていたけれど、今はもう訪ねて来ないようだ」などと噂させまいと、ずっと縁談を聞き流してきたのです。そうはいっても、それならいっそ高望みして万が一の幸運に賭けてみようかと。それにまた、まったく通ってこず、疎んじられたとて、あの浮気者のことだからと、どうにか世間を納得させられようと、敢えてあの方を婿に選んだのですよ。
ぶっちゃけ、恋の時代の平安朝でも、恋より何よりまずは金。多くの人にとっては恋愛なんて二の次です。
恋愛恋愛言ってるヤツなんて、阿呆な逸脱者なわけですよ。
そういえば
名だたる色好みの藤原兼雅について世の人々は冷たく評しました。すなわち、
「卑しき者をとりすゑて、いふかひなくまつはされたまふぞ。色好みのはてはかくぞあるや。あやしき者にとまるとは」などと、安からず聞こえける。
(「俊蔭」)
<訳>
「卑しい女を連れ込んで、みっともなく溺愛して側に仕えさせているよ。色好みのなれの果てはこういうものだ。身分の低い女にくっつくものだとか」などと、容赦なく噂していた。
エロいことばっか考えて、冷静な家族計画できないやつは、世間一般から見て、阿呆なのです。
まあ、貴族の結婚と言えば、一族郎党に至るまで運命を大きく揺るがす重大事でしょうから、キンタマの赴くままに行動されてはみんな迷惑というもので、色好みなんかバカにされても仕方ありません。
で、色好みの典型みたいなキャラクター達を通じてさえこの描写ですから、色好みの型を外れたキャラクターの描写においては、もっと激しくうつほクオリティー。恋の時代の雅な虚像を力の限り剥ぎまくり。
三春高基という政務に長けた人物で、華美な中央政界に背を向け、諸国の統治に辣腕を振るい、しかも戦いや荒れる獣も容易く鎮定してしまう、文武兼備の皇子がいるのですが、この男、超ドケチ生活で世の嘲りを受けつつ莫大な富を蓄えていたところ、なぜだか突然、絶世の美女あて宮を妻に娶ろうと思い立ち、あて宮の父、源正頼相手に、激しく色好みを批判しつつ、財力を誇示して、結婚のなんたるかを語り出します。
……これはみな貴人、好き者ども、いささかに構へ渡らふ心もなし。ただものの音を上手に弾き、和歌もいささかに人のそしりは取らじ、仮名書き、和歌よみ、容貌よき女をば、雲の上地の下を求めても懸想し、笑ふ人をば耳にも聞き入れず、人の田畑を作り、商はば、労して貯へ、渡らひごとすれば、口を開きてをる人をば、婿には取りたうぶべきものか。
……若き時にたくはへ渡らひ心ある人につきて、家刀自づき、家の内になきものなくてある人なむ、行く先頼もしき。末の世衰へて果つる、家貧しき人の聞くぞかし。心浮きたるにつき、さては宮仕えなどする人は、世ところも知らで、親の後の世うしろめたく、末の世わろきものなり。かの君はなほここにおはせさせたまへ。
(「祭の使」)
<訳>
……このような者は皆、風流人の好き者で、少しだって工夫して世を渡ろうという心構えの無い連中です。ただ楽器の音を巧く弾いて見せ、和歌においては少しの遅れもとるまいと、仮名を書き、和歌を詠み、容姿の美しい女を、雲の上や地の下までも求め探して懸想して、真っ当な人間のあきれた笑いなどは軽く無視して、人が田畑を作り商売しているのを、勤勉に貯え生活しているのを、大口開けて馬鹿にして笑っているようなこんな連中を、婿にお取りになってはいけません。
……若いときに蓄えと生活の心構えある人に嫁いで、一家を治める主婦となるこそ理想で、家の中に不足のない人こそが、将来頼もしいのです。子孫の代で衰えて没落するなどと、家の貧しい人にはよく聞きます。浮気者に嫁いだり、チャラチャラ宮仕えなどする人は、いつでもどこでも、亡き親の名前を汚して回り、晩年は不幸になるのです。ですから、あて宮様は、やはり、私のところにお寄越しなさいな。
なお、宮仕えしている女はきらめく才女で素敵なキャリアウーマン、主婦はダメとか考えて、高基の発想が理解できない人がいるといけないんで注記しておきますが、
当時の貴族生活において、主婦は家族共同体の切り盛りする実際的な才幹を求められる仕事であり、家政能力のない低能女は没落してしまい、それは当然の報いみたいなエピソードが、『うつほ物語』にも登場しています。
そしてその一方、宮仕えしている才女の皆さんは、お后を中心とするサロンに侍って、主人の威光を傘に調子こいてふんぞり返りつつ、色とか恋とかこねくって貴族男子の夜のお相手を務める、高級娼婦との区別のいまいちハッキリしない、一種のホステスなお水なお姉様方だったそうです。
だから、ここで高基が、主婦を評価して宮仕えを軽侮しているのは、華美軽薄な中央政界に背を向けた実利思考の敏腕実務家という、堅実確実な彼の性格からすれば、当然なわけですね。
でまあ、高基の発言からハッキリ分かることは、要するに、イケメンとかファッションとかそんな浮っついた恋愛してるやつは世間一般的に無能で、そんなものより大事なのは金ということですね。
だから、恋愛恋愛さかった男を子供に持ってしまうことは、親にとっては嫌なものだったらしく、多くの子を持った正頼の妻の大宮は、その気持ちをこう語ります。
世の中に苦しかるべきものは、若き人の好いたる、子にて持たるわざなりや。見苦しういみじきものを見るこそ、いと命長くなりなまほしけれ。
(「国譲」上)
<訳>
世の中でつらいことと言えば、若い人の好色な者を、子に持ってしまうことですよ。見苦しく情けない者を世話していると、心配で心配でいつまでも長生きしていなくてはと思ってしまいます。
というわけで、恋愛恋愛騒ぎまくった平安朝の貴族様も、実は一部の声のでかい阿呆が騒いでいただけで、恋愛の輪の外には、冷めた人々が大勢居て、せっせと打算と銭勘定の男女関係、堅実確実な家族経営を展開していたというわけです。
世の中、恋より金が第一。これが、雅な恋の時代平安朝の実像である。
参考資料
『新編 日本古典文学全集 うつほ物語 ①②③』小学館
高橋享著『叢刊・日本の文学12 色好みの文学と王権 -源氏物語の世界へ-』新典社
中村真一郎著『色好みの構造-王朝文化の深層-』岩波新書
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偉大なるダメ人間シリーズその7 本居宣長(当ブログ内に移転しました)
http://trushnote.exblog.jp/14529117/
本居宣長
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2001/011214.html
恋愛モノ大好きな少女趣味のキモオタ学者本居宣長は、そのくせ、「やまと心」を雄々しさでもなく色恋でもなく実生活上の智恵としたそうです。実は、日本人は、恋より実利なのでしょうか?
日本民衆文化史
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html
うつほにも触れられています。
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