2009年 04月 04日
教科書が教えない漢文古典~「遊仙窟」と日本~
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日本は、昔から中国古典の影響を強く受けてきました。四書五経を始めとする儒教経典、「老子」「荘子」といった老荘思想、「孫子」「呉子」といった兵法、「史記」「漢書」といった史書、「文選」「白氏文集」といった詩文、そして近世以降の「三国演義」「水滸伝」など。そしてこれらと同様、日本に大きな影響を与えた作品の一つに「遊仙窟」があります。
しかしこの「遊仙窟」、その割に余り一般には知られていません。そこで、今回は「遊仙窟」が日本古典文学に与えた影響について少し述べたいと思います。
まず「遊仙窟」とは何かを説明すると、張文成によって書かれた唐代の伝奇小説。内容は、主人公が君命を奉じて黄河河源に至る途中で道に迷い神仙世界に入り、崔十娘とその嫂により歓待されるというものです。
この作品は、成立から間もない(というよりほぼリアルタイムの)八世紀に日本へ伝わり、「万葉集」などに影響を与え長らく貴族の必須教養となっていたようです。という訳で以下では、日本文学に与えた具体的な例を幾つか挙げていきたいと思います。
最初に「遊仙窟」の影響が明らかに見られるのが「万葉集」です。例えば第五巻で大伴旅人が「遊於松浦河序」で「遊仙窟」の世界観を意識し、更に「下官対曰」(私は申し上げた)という「遊仙窟」中の表現を用いています。旅人の子である大伴家持も第四巻で坂上大嬢に贈った歌十五種の中に「遊仙窟」を意識したものが幾つかあるようです。まず、
は十娘が主人公の夢に現れたため手をとって引き寄せたが触れられなかったという場面を念頭においていると考えられています。次に
は、末尾で十娘との別れを惜しむ際に「悲しみでやつれて衣はだぶついて日ごとにゆるみ、あの人が結んでくれた帯は毎朝緩んでしまう」と嘆いたのが元ネタといわれます。そして
は作中の「不憶呑刀、腹穿似割」(刀を飲み込んだわけでもないのに、腹が割かれたように痛む)という表現を意識したものというのが定説となっています。
この他にも、山上憶良は「沈痾自哀文」で「遊仙窟曰九泉下人、一銭不直」(「遊仙窟」は死人には一文の値打ちもないと言っている)と述べて引用しています。
そして平安期に入っても「遊仙窟」文中の表現は愛好されていたようです。この頃、貴族たちの間で歌や詩文の一節を口ずさむ「朗詠」が流行していましたが、藤原公任「和漢朗詠集」や藤原基俊「新撰朗詠集」、そして「九十首抄」といった朗詠の元ネタ集にしばしば「遊仙窟」が引用されています。同様に鎌倉初期に藤原孝範が編纂した故事金言集「明文抄」にも「遊仙窟」の引用が多いのです。定番な人気作品の名台詞をピックアップして口ずさむのは現代のオタクもよくやりますが、そういう見方をすれば「遊仙窟」は「北斗の拳」「ガンダム」「ジョジョの奇妙な冒険」といった作品群みたいな感じで重んじられていたという事が出来ますね。
また、「倭名鈔」は十世紀に源順が漢語を分類して文例・語釈および字音と和語を示した辞典ですが、そこでも用例でしばしば「遊仙窟」が引用されており、「遊仙窟」の貴族社会における普及ぶりがしのばれます。
更に空海や紫式部、「源平盛衰記」、そして後には近松門左衛門や井原西鶴(特に「好色一代女」など)、山東京伝や滝沢馬琴「南総里見八犬伝」にも「遊仙窟」から影響されたと思しい表現が散見され、この傾向は近代政治小説「佳人の奇遇」にまで及ぶようです。
そんな「遊仙窟」がなぜ現在は知られず教科書にも出ていないのでしょう。原因は二つほど考えられます。まず、一つ目の原因として「遊仙窟」は日本への影響に反して本場中国では早くに散逸し、後世の漢文学からは忘れられた存在となった事が挙げられます。近代に入り、魯迅が日本に残っていた写本を「再発見」し文学史的評価を与える事で初めて中国でも知られるようになったのです。二つ目の原因は、主人公とヒロイン十娘の情交が直接描かれている事ではないかと思います。まあ早い話が、(現在判明している限りで)中国史上では「飛燕外伝」の次に古いエロ小説な訳です。
作中では、結構きわどい表現が出てきたりします。例えば梨を剥くため刀を貸してほしいと頼まれた際に、主人公は
と詠んでいます。それから弓矢遊びをした後には
といった感じ。何だか性行為を連想させる言い回しですね。実際、「刀と鞘」「筆と硯」「柄杓と盞」「箭と弓」は男性器・女性器を暗喩する表現とされています。こうした比喩によってエロシーンの直接描写をぼかしているようです。肝心の情交場面を言葉どおりに現代語訳しますと、
といった具合です。これだと大した描写ではないとは思います。一方、「中国艶本大全」ではこの部分を暗喩を直接化してこう解釈しています。
一気にエロ小説っぽくなりました。なるほど、これを学校教科書に掲載するのを躊躇うのは十分理解できますし教師としても読むことを勧められないのも分かります。かといって上記の日本古典文学への影響を考えると存在そのものが抹殺されるのは問題ですし、難しいですね。
さて、平安末期になると「遊仙窟」を引用したり作品世界構築の参考にするだけでなく、作品自体に関する伝説も語られるようになりました。平安末期に平康頼が編纂した仏教説話集「宝物集」や鎌倉初期に藤原成範が編纂したといわれる中国逸話集「唐物語」は、作者張文成が女帝則天武后との情事を書き綴ったのが「遊仙窟」の成り立ちだと記録しています。…中国逸話集はともかく、なぜ仏教説話集がそんな話を書き残しているんでしょう。ともあれ、詩文の引用や物語世界の趣向に惹かれていたように見せかけつつ、実は何だかんだいってしっかりエロ本として認識し興味を持っていた事がこの一件でバレバレですね、我々の御先祖様たち。で、高貴な方のエロネタを妄想してハアハアしていた様子が目に浮かぶようです。
更に、後世の日本では「遊仙窟」の神秘化がなされました。例えば醍醐寺本「遊仙窟」奥書や「明文抄」には、以下のような話が伝わっています。大江維時が天皇に「遊仙窟」の読み方を講義するよう求められたが誰も読み方を知らない。そんな時に木古嶋の神主が読み方を伝授され知っていると聞いて訪れ、教わり改めて天皇に侍読したというのです。慶安五年本「遊仙窟」には同様の話に尾鰭がつき、維時は七日間精進潔斎してから神主に教わり、その後神主は姿を消したため恐らく神の化身であろうという内容になっています。記された年号からは、十四世紀にはそうした誇張された伝説が生まれていた可能性があるようです。まあ、こうした事態が生じたのは故事の引用やらエロ関係をわざと変則的な読み方で韜晦したりしたため読みにくかったせいもあるようです。
あと、ついでの豆知識。流行の副産物として「遊仙窟」に残された訓点(漢文を日本語にして読むための記号)が古代日本語研究の手がかりになったりしてるそうですよ。
それにしても、舶来のエロ小説それも本国では忘れられた作品を、成立するや否や取り入れみんなで数百年にわたり愛好して必須教養にした挙句、読み方を神に伝授され(エロ部分を理解できるようにし)た上で内容を恐れ多くも帝に奏上するという高貴で神秘な書物という扱いにまで至るとは。自分たちで作り出した文化作品だけでなく、外国文化の受け入れに際してもhentaiぶりを遺憾なく発揮したものといってよいでしょう。流石は日本、昔から「始まって」ます。
【参考文献】
遊仙窟 張文成作 今村与志雄訳 岩波文庫
中国艶本大全 土屋英明 文春新書
日本大百科全書 小学館
大辞林 第二版 三省堂
関連記事:
「『大陸土産は世界最強ォォーッ』―市民革命直前期の、とある文学―」
「エロマンガ大王 後白河法皇 ~日本エロマンガの歴史は天皇家より始まる~」
「偉大なるダメ人間シリーズ外伝その6 フィギュアを愛好した三国志の英雄」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「日本民衆文化史」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html)
「中国民衆文化史」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020607.html)
「物語の消費形態について―いわゆるオタクを時間的・空間的に相対化する試み―」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/kouroumu.html)
「物語の消費形態について―いわゆるオタクを時間的・空間的に相対化する試み―その2」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/genji.html)
しかしこの「遊仙窟」、その割に余り一般には知られていません。そこで、今回は「遊仙窟」が日本古典文学に与えた影響について少し述べたいと思います。
まず「遊仙窟」とは何かを説明すると、張文成によって書かれた唐代の伝奇小説。内容は、主人公が君命を奉じて黄河河源に至る途中で道に迷い神仙世界に入り、崔十娘とその嫂により歓待されるというものです。
この作品は、成立から間もない(というよりほぼリアルタイムの)八世紀に日本へ伝わり、「万葉集」などに影響を与え長らく貴族の必須教養となっていたようです。という訳で以下では、日本文学に与えた具体的な例を幾つか挙げていきたいと思います。
最初に「遊仙窟」の影響が明らかに見られるのが「万葉集」です。例えば第五巻で大伴旅人が「遊於松浦河序」で「遊仙窟」の世界観を意識し、更に「下官対曰」(私は申し上げた)という「遊仙窟」中の表現を用いています。旅人の子である大伴家持も第四巻で坂上大嬢に贈った歌十五種の中に「遊仙窟」を意識したものが幾つかあるようです。まず、
夢の逢は苦しかりけり覚(おどろ)きてかき探れども手にも触れねば(第一首目)
【夢の中での逢瀬というのは苦しいものだ、目が覚めてあの人を探っても手にも触れないのだから】
は十娘が主人公の夢に現れたため手をとって引き寄せたが触れられなかったという場面を念頭においていると考えられています。次に
一重のみ妹が結ばむ帯をすら三重結ぶべく吾が身はなりぬ(第二首目)
【一重だけあの人が結んでくれた帯だって、今や三重に結ばないとほどけてしまうほど私の体は分かれた悲しみにやつれて衣がだぶだぶになってしまった】
は、末尾で十娘との別れを惜しむ際に「悲しみでやつれて衣はだぶついて日ごとにゆるみ、あの人が結んでくれた帯は毎朝緩んでしまう」と嘆いたのが元ネタといわれます。そして
夜のほどろ出でつつ来らく遍多数(たびまねく)なれば吾が胸截ち焼く如し(第十五首目)
【夜が明けぬうちにあの人との逢瀬から出る事が幾たびにも及んだので、私の胸は割かれ焼かれたように痛むのである】
は作中の「不憶呑刀、腹穿似割」(刀を飲み込んだわけでもないのに、腹が割かれたように痛む)という表現を意識したものというのが定説となっています。
この他にも、山上憶良は「沈痾自哀文」で「遊仙窟曰九泉下人、一銭不直」(「遊仙窟」は死人には一文の値打ちもないと言っている)と述べて引用しています。
そして平安期に入っても「遊仙窟」文中の表現は愛好されていたようです。この頃、貴族たちの間で歌や詩文の一節を口ずさむ「朗詠」が流行していましたが、藤原公任「和漢朗詠集」や藤原基俊「新撰朗詠集」、そして「九十首抄」といった朗詠の元ネタ集にしばしば「遊仙窟」が引用されています。同様に鎌倉初期に藤原孝範が編纂した故事金言集「明文抄」にも「遊仙窟」の引用が多いのです。定番な人気作品の名台詞をピックアップして口ずさむのは現代のオタクもよくやりますが、そういう見方をすれば「遊仙窟」は「北斗の拳」「ガンダム」「ジョジョの奇妙な冒険」といった作品群みたいな感じで重んじられていたという事が出来ますね。
また、「倭名鈔」は十世紀に源順が漢語を分類して文例・語釈および字音と和語を示した辞典ですが、そこでも用例でしばしば「遊仙窟」が引用されており、「遊仙窟」の貴族社会における普及ぶりがしのばれます。
更に空海や紫式部、「源平盛衰記」、そして後には近松門左衛門や井原西鶴(特に「好色一代女」など)、山東京伝や滝沢馬琴「南総里見八犬伝」にも「遊仙窟」から影響されたと思しい表現が散見され、この傾向は近代政治小説「佳人の奇遇」にまで及ぶようです。
そんな「遊仙窟」がなぜ現在は知られず教科書にも出ていないのでしょう。原因は二つほど考えられます。まず、一つ目の原因として「遊仙窟」は日本への影響に反して本場中国では早くに散逸し、後世の漢文学からは忘れられた存在となった事が挙げられます。近代に入り、魯迅が日本に残っていた写本を「再発見」し文学史的評価を与える事で初めて中国でも知られるようになったのです。二つ目の原因は、主人公とヒロイン十娘の情交が直接描かれている事ではないかと思います。まあ早い話が、(現在判明している限りで)中国史上では「飛燕外伝」の次に古いエロ小説な訳です。
作中では、結構きわどい表現が出てきたりします。例えば梨を剥くため刀を貸してほしいと頼まれた際に、主人公は
自重して固く友情を守っているが
もういとしくてたまらない
悔しいけれど頭を尖らせて
一日中皮(さや)の中に納まっている
(「中国艶本大全」P70)
と詠んでいます。それから弓矢遊びをした後には
榦(やがら)をちじめると、とどかないし
頭(あたま)をあげれば、はずれすぎる
臍の下に入れるなら
百発射てもあたる数は多かろう
(「遊仙窟」岩波文庫P80)
といった感じ。何だか性行為を連想させる言い回しですね。実際、「刀と鞘」「筆と硯」「柄杓と盞」「箭と弓」は男性器・女性器を暗喩する表現とされています。こうした比喩によってエロシーンの直接描写をぼかしているようです。肝心の情交場面を言葉どおりに現代語訳しますと、
あでやかな顔が眼一杯になり、かぐわしい匂いが鼻を裂くばかり、心はうわの空で制する人もなく、愛情がこみあげてとめどがなかった。紅い褌に手をさしいれ、翠の被に脚をまじえた。二つの唇を口にあてて、片臂で頭をささえ、乳房のところをつかみ、内腿のあたりを撫でさすった。口を吸うたびに快感がはしり、抱きしめるたびにうれしさがこみあげた。鼻がつんと痺れ、胸がつまった。しばらくして、眼がちらつき、耳がほてり、血管がふくらみ、筋がゆるんだ。こうしてはじめて、逢いがたさ、めずらしさを感じ、かたじけなさ、もったいなさを知った。わずかの間に、数回もあい接したのである。
(「遊仙窟」岩波文庫P90)
といった具合です。これだと大した描写ではないとは思います。一方、「中国艶本大全」ではこの部分を暗喩を直接化してこう解釈しています。
まぶしいほどの体だ。ぷんといい香りがした。頭に血がのぼり、抑えられなくなってきた。紅い褌に手を挿し込み、翠の被に脚をからませた。
口を押しつけ、腕を首に回す。もう一方の手で乳房を触りながらわって入り、髀子(ほと)にあてがいこすりつけた。ぐっと食い締められ、なんともいえない心地がしたので、押しつけて奥まで入れた。
先がむずむずしてきた。まつわりついてくる。あっと言う間に鈴口がしびれて雁首が熱くなり、筋張ったとたんにいってしまった。
こんなすばらしいお宝にめぐり会ったのは初めてだったから、時間をおしんで夜の明けないうちに二、三回しようと思った。(「中国艶本大全」P79-80)
一気にエロ小説っぽくなりました。なるほど、これを学校教科書に掲載するのを躊躇うのは十分理解できますし教師としても読むことを勧められないのも分かります。かといって上記の日本古典文学への影響を考えると存在そのものが抹殺されるのは問題ですし、難しいですね。
さて、平安末期になると「遊仙窟」を引用したり作品世界構築の参考にするだけでなく、作品自体に関する伝説も語られるようになりました。平安末期に平康頼が編纂した仏教説話集「宝物集」や鎌倉初期に藤原成範が編纂したといわれる中国逸話集「唐物語」は、作者張文成が女帝則天武后との情事を書き綴ったのが「遊仙窟」の成り立ちだと記録しています。…中国逸話集はともかく、なぜ仏教説話集がそんな話を書き残しているんでしょう。ともあれ、詩文の引用や物語世界の趣向に惹かれていたように見せかけつつ、実は何だかんだいってしっかりエロ本として認識し興味を持っていた事がこの一件でバレバレですね、我々の御先祖様たち。で、高貴な方のエロネタを妄想してハアハアしていた様子が目に浮かぶようです。
更に、後世の日本では「遊仙窟」の神秘化がなされました。例えば醍醐寺本「遊仙窟」奥書や「明文抄」には、以下のような話が伝わっています。大江維時が天皇に「遊仙窟」の読み方を講義するよう求められたが誰も読み方を知らない。そんな時に木古嶋の神主が読み方を伝授され知っていると聞いて訪れ、教わり改めて天皇に侍読したというのです。慶安五年本「遊仙窟」には同様の話に尾鰭がつき、維時は七日間精進潔斎してから神主に教わり、その後神主は姿を消したため恐らく神の化身であろうという内容になっています。記された年号からは、十四世紀にはそうした誇張された伝説が生まれていた可能性があるようです。まあ、こうした事態が生じたのは故事の引用やらエロ関係をわざと変則的な読み方で韜晦したりしたため読みにくかったせいもあるようです。
あと、ついでの豆知識。流行の副産物として「遊仙窟」に残された訓点(漢文を日本語にして読むための記号)が古代日本語研究の手がかりになったりしてるそうですよ。
それにしても、舶来のエロ小説それも本国では忘れられた作品を、成立するや否や取り入れみんなで数百年にわたり愛好して必須教養にした挙句、読み方を神に伝授され(エロ部分を理解できるようにし)た上で内容を恐れ多くも帝に奏上するという高貴で神秘な書物という扱いにまで至るとは。自分たちで作り出した文化作品だけでなく、外国文化の受け入れに際してもhentaiぶりを遺憾なく発揮したものといってよいでしょう。流石は日本、昔から「始まって」ます。
【参考文献】
遊仙窟 張文成作 今村与志雄訳 岩波文庫
中国艶本大全 土屋英明 文春新書
日本大百科全書 小学館
大辞林 第二版 三省堂
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「偉大なるダメ人間シリーズ外伝その6 フィギュアを愛好した三国志の英雄」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「日本民衆文化史」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html)
「中国民衆文化史」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020607.html)
「物語の消費形態について―いわゆるオタクを時間的・空間的に相対化する試み―」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/kouroumu.html)
「物語の消費形態について―いわゆるオタクを時間的・空間的に相対化する試み―その2」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/genji.html)
by trushbasket
| 2009-04-04 19:07
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