聖徳太子未来記と野馬台詩~「話は聞かせてもらったぞ!日の本は滅亡する!」「な、なんだってー!」
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一九九九年七つの月、
恐怖の大王が空より来らん。
アンゴルモワの大王を蘇らせん、
マルスの前後に幸運で統べんため。
大概の方は御存知だと思いますが、ノストラダムスの詩の一つです。この詩を五島勉氏の著作「ノストラダムスの大予言」シリーズがネタにし、人類滅亡という解釈を導き出して話題を呼びました。漫画「MMR」もノストラダムスを引き合いに出して終末論を語っていましたっけ。
それだけ、不安を煽る予言に惹かれる人が多いのでしょう。時は遡って十四世紀、朝廷さえも二つに分かれ日本全国が分裂した南北朝の動乱においても例外ではありませんでした。いや、世の中も個人の運命も明日知れない時代でしたから現代とは比べ物にならぬほどそうした予言が気になったでしょう。「太平記」には有名な逸話が収められています。楠木正成が天王寺合戦で鎌倉幕府軍を破った後、四天王寺で聖徳太子が書いた「未来記」を閲覧しました。そこには、
人皇九十五代に当たつて、天下一(ひとたび)乱れて主安からず。この時、東魚来つて四海を呑む。日西天に没すること三百七十余箇日、西鳥来り東魚を食う。その後、海内一に帰すること三年。獼猴(NF注:猿)の如くなる者天下を掠むること三十余年、大凶変じて一元に帰す。
とあり、後醍醐天皇が一旦敗れて流罪となるもやがて幕府が倒れて天皇による統一が実現し、その政権も三年で尊氏に倒されるという未来が予見されていたそうです。無論出来すぎの話で事実とは考えられませんが、後世の虚構とあっさり片付ける事も出来ません。というのは、同時代の人々は結構本気で聖徳太子の予言を重視していたようなのです。
例えば、後醍醐天皇の乳父(乳母の夫)である吉田定房は後醍醐が隠岐に流された後も朝廷に留まっていましたが、その時期に藤原家倫から多くの文書に交えて「聖徳太子未来記」五十巻、「太子勘未来記」「陸奥未来記」といった数種類の「未来記」を上申させています。何でも正成が読んだのと同様な内容が書いてあったらしく、定房は後醍醐が近い将来に再起するという予言と受け止めそれに基づいて後醍醐還幸を求める運動に出たようです。
後醍醐も聖徳太子の予言を信じていたようで、「四天王寺縁起」なる書を読んでその予言性に感激し自ら手印を押しています。この書は寛弘四年(1007)に四天王寺金堂の金六重塔から慈蓮という僧が偶然発見したという怪しいといえば怪しい経歴を持っています。
また、足利政権と南朝が分かれた後の北朝康永元年(1342)、関東で南朝方の勢力扶植を図っていた北畠親房は結城親朝を味方に誘うため送った文面で「聖徳太子御記文の如くんば、御運を開かるべきの条」と書いています。聖徳太子の予言をも引き合いに出して南朝に味方する事を説いているのです。
こうしてみると、「太平記」作者の文飾だけでなく同時代の人々は真剣に聖徳太子の予言を重んじており、政治・軍事的判断の参考にされる事すらあったのです。
聖徳太子への尊崇は早くからあったようですが、鎌倉期には広く人々の信仰を集めるようになり救世観音と同一視されていました。それに伴い予言者であると信じられるようになったようで、早くも十世紀「聖徳太子伝暦」にその傾向が認められます。そして、やがて太子が書いた予言書の存在が信じられるようになります。上述した「四天王寺縁起」はその早い例でしょう。
「古事談」によれば、天喜二年(1054)に聖徳太子廟の近辺を掘ると地中に箱型の石があり中に「御記文」が見つかったという話が伝えられているそうです。一説では怪しんで廟内部を調べると太子の棺から遺体が消え去っていたという伝説もあるようで。また「玉葉」によれば建久二年(1191)に勝賢僧正が「未来記」を後白河法皇の前で読み上げ、後白河はそれに魅了されてしまったそうです。また慈円は「愚管抄」巻七で「世滅松に、聖徳太子の書きをかせたまへるも、あはれにこそ、ひしとかないてみゆれ」(世も末の時代となり、聖徳太子が書き残された内容も、感慨深いほどに、ぴたりと合致している)と述べています。そして藤原定家の日記「明月記」は、安貞元年(1227)四月十二日に瑪瑙の石箱に聖徳太子の予言が刻まれていたと記しています。何でも
人皇八十六代の時、東夷来りて、泥王国を取る。七年丁亥歳三月、閏月あるべし。四月二十三日、西戎来り、国を従へ、世間豊饒となるべし。賢王の治世三十年、しかる後、空より獼猴、狗、人類を喰らふべし
という内容だったとか。「人皇八十六代の時、東夷来りて」という辺りに承久の乱による朝廷の敗北と最高権力者の流罪という事態の世間に与えた衝撃が伺えます。それにしても、ノストラダムスの予言もそうでしたが人類滅亡をもたらしそうな事物は空からくると決まっているようです。なお、「明月記」は天福元年(1233)十一月二十日の条でも四天王寺で未来記が披露され人々が押し寄せて参詣した記事を残しています。とはいえ、全ての人が無条件に「未来記」を信じていたわけでは勿論ありません。寺社や怪しい人物が自己の立場を正当化するため利用する例も多く、「未来記」といえば胡散臭いものの代名詞のように見る向きはあったようです。
以上のように、昔から聖徳太子未来記は人気で、南北朝という明日知れぬ時代においてそれが頂点に達したという事でしょうね。そういえば南北朝以前の事例も源平合戦から承久の乱にかけての武家政権成立という前例なき事態が生じていた時代のそれでした。
さて、南北朝期に人気を博した予言は「未来記」だけではありませんでした。「野馬台詩」と呼ばれる詩もまた不吉な未来を予言するものとして広く信じられていました。この「野場台詩」とは奈良時代に渡唐した吉備真備によって解読され日本に伝来したとされる詩で、中国梁王朝の宝誌和尚によるものと言われています。宝誌和尚もまた聖徳太子と同様に早くから伝説化され観音の化身と信じられるようになった人物です。また、町を往来して詩を賦し、それが予言のようであったとも伝えられます。
「江談抄」「吉備大臣物語」「吉備大臣入唐絵巻」は以下のような伝説を伝えています。真備は唐で皇帝に才能を警戒され次々に試練を与えられましたが突破、最後にこの「野馬台詩」解読を命じられました。流石の真備も文字列がばらばらなこの詩を解読できず途方にくれましたが、長谷観音・住吉神に祈りを捧げたところ天から蜘蛛が降りてきて詩の上で糸を吐いて歩き回りました。その糸を辿って読むと、無事解読できたということです。要は文字を都合よく並べ替えたと取れなくもないですね。そうして解読した詩は以下の通りです。
東海姫氏国 百世代天工
(東海の姫氏の国では 百世を経て天に代わり人が治めるようになった)
右司為扶翼 衡主建元功
(有力な臣下が補佐し 賢君が政道を行う)
初興治法事 後成祭祖宗
(初めにはよく法治体制を整え 後にはよく祖先を祀る)
本枝周天壌 君臣定始終
(天地は広大で 君臣とも関係は良好である)
谷塡田孫走 魚膾生羽翔
(しかし谷が埋もれ貴人が逃げ惑い 魚の膾から羽が生え飛ぶように乱れる)
葛後干戈動 中微子孫昌
(葛が蔓延るように乱世となり 中頃には衰え成り上がり者が栄える)
白龍游失水 窘急寄胡城
(白龍が水を失うように王威は衰え 窮して辺境の城に身を寄せる)
黄鶏代人食 黒鼠喰牛腸
(黄鶏が人に代わって食し 黒鼠が牛の腸を食うように下剋上となる)
丹水流尽後 天命在三公
(水の流れが尽きたように天命は王から貴族に移る)
百王流畢竭 猿犬称英雄
(百の王で流れは尽き 以降は猿と犬が英雄を称して争う)
星流鳥野外 鉦鼓喧国中
(星が野外に流れ 戦の鐘や太鼓が国中に響く)
青丘与赤土 茫々遂為空
(青々とした丘や赤土の大地も ついには空となり天地は崩壊する)
かなり抽象的で、国の普遍的な興亡を表した詩です。特定の内容を表しているとは限らないようにも思われますが、古来より我が国の将来を告げた予言と信じられてきました。「東海姫氏国」は本来東方の異民族の国という一般名詞らしいですが、中国から東の海にあり女性を始祖とする国と解釈され日本と考えられたようです。また蜘蛛の糸を意味する「野馬台」も「ヤマト」と読める事がそうした解釈を補強したとされます。この詩がどのように予言として解釈されたかを少し見てみましょう。
早い例では八世紀末の「延暦九年注」に「丹水流尽後 天命在三公」が称徳女帝の後に天武系が絶え官人となっていた天智系の光仁天皇が即位した事を意味していると述べています。また十三世紀の「叡山略記」は「黒鼠と云へるは、道鏡禅師也。三公と云へるは、光仁天皇に当ると云々」といっており十六世紀「野馬台縁起」も同様の解釈です。
さてこの詩の解釈が最も色々載せられているのが室町期に出版された一群の詩文解釈書「歌行詩」(「長恨歌」「琵琶行」「野馬台詩」の解釈を載せているのでその名があります)。「歌行詩」は「黄鶏」が平将門で「黒鼠」が平清盛に相当すると述べる一方、異説も掲載しており「黒鼠」に関しては「玄恵抄云、道鏡也」、「黄鶏」は「玄恵抄には、白壁大納言(NF注:光仁天皇)を黄鶏と云也」と述べています。また末尾の「青丘」・「赤土」を日本と解釈する一方、玄恵の解釈として「青丘」が「新羅国」(朝鮮半島)で「赤土」が「蒙古国」とも言っています。この詩から元寇を読み取る向きは多いらしく、上述「野馬台縁起」も「猿」がムクリ(モンゴル)を意味すると述べています。元寇の与えたインパクトの大きさが偲ばれますね。ところで玄恵は南北朝期の僧侶であり、「太平記」編纂にも関与したとされる人物です。彼が「野馬台詩」解釈の権威と後世に見なされていた辺り、南北朝から室町にかけて多くの人がこの詩に興味を示した事がわかります。いわば「室町ミステリー調査班」(略してMMR)とでも呼ぶべき人々がいたのかも知れませんね。
さて、「野馬台詩」は多く存在する「聖徳太子未来記」にも強い影響を与えていたようです。「聖徳太子日本国未来記」と称される書などは「黒鼠、朝食を噉らわかしかば、黄龍、金殿に登らん」「牛馬は人のごとくに言語し、魚膾、羽を生じ虚空に飛ぶ」と明らかな「野馬台詩」からの改変が見て取れます。それもあってか、仏法紹隆寺本「歌行詩」に掲載された聖徳太子未来記の一種「瑪瑙記文」には「弓箭の器尽き、蒙古に国を奪われん」と元寇の恐怖を想起させモンゴル再来による滅亡を示唆している箇所があったりします。こうした恐ろしい未来を予言する未来記の数々に、人々は「つまり最初から…… 聖徳太子(または宝誌和尚)はすべてを預言していたんだよ!!!」「時空を超えてあなたは一体何度―――我々の前に立ちはだかってくるというのだ!!聖徳太子(あるいは宝誌和尚)!!!」という思いを抱いたのではないでしょうか。
しかし、こうした予言は恐怖を煽るだけではありません。いわば飴と鞭で、しかるべき事をすれば破滅は避けられると述べている場合もあります。上述「瑪瑙記文」もモンゴルによる亡国は禅宗を奉じた罰による述べており、暗に禅排撃を求めています。こうした「予言」は同時代人の要求を通すための道具として利用されている事は言うまでもありません。近衛家陽明文庫に存在する未来記注釈書も、
やがて五穀が枯れ失せて、飢渇することが十七度あり、天下の将軍が滅ぶこと四十九はあるだろう。其後は、空中から獼猴が出現して、蒼生(NF注:民)を食ってしまうだろう。日本は神国であるから、和国といい、神慮の助けをもととしなくてはいけない。信仰の力が堅固な人は、子孫は繁栄するだろう。
と恐怖を煽り立てた後に希望を示しています。
「そうだ だからこそ我々はハルマゲドンを信じて世を悲観してはいけない!!それこそ奴らの思うツボ!死んではいけないんだ!!!」(「MMR」7巻P41)
「あきらめない!!それがオレたちにできる唯一の闘い方なんだよ!!」 (同13巻P259)
と言わんばかりです。こうして神仏への信仰を集めたわけですね、分かります。
ところで、不思議な事に「野馬台詩」には彼らにとって直近の問題である南北朝を解釈した部分が見られません。後世に「猿」と「犬」を足利第三代将軍義満と、彼と対立していた鎌倉公方足利氏満と解釈したものがある程度です。これはどうしたことでしょうか。考えて見れば「野馬台詩」で解釈された事件は道鏡にせよ光仁天皇即位による天智系復活にせよ将門の乱にせよ清盛にせよ元寇にせよ、皇室にとって重大事件という共通項があります。そして南北朝動乱も朝廷の分裂という皇室にとって未曾有の重大事でした。そして当時の数え方では第九十五代目の天皇が後醍醐。そう、「百王流畢竭」すなわち流れが尽き滅亡するとされる「百王」がすぐ近くだったのです。まあ、実際のところ「百」というのは数多くのという意味で言葉のあやですけれど、それでも混乱期の中で実際に「百代目」が迫るとなると
「ここまで来ると偶然ではない…もはや『必然』―!!」 (同13巻P157)
と思わずにはいられなかったでしょう。それでも人々はその行く末を占い何とか希望を見出すため、予言詩に過去の皇室重大事件を当てはめて手がかりにしようとしたのではないでしょうか。しかし結局、「野馬台詩」における南北朝解釈が残されていないところからして、玄恵ら碩学たちにとっても目の前に展開する乱世については
「オレにだって……わからないことぐらい…ある…」(同13巻P86)
と言うしかない状況だったと思われます。
予言に過去を当てはめて解釈するのは現在や未来を知りたいから、というのはよく理解できます。してみると、過去を記述して分析し未来を予測すると言う点では歴史学の延長上にあると言えそうです。先が読めない混乱期であった南北朝において、人々は胡散臭い予言にもすがりたくなったのは寧ろ当然であり、それが「未来記」や「野馬台詩」への強い関心を呼んだのでしょうね。
余談ながら、南北朝動乱より後の時代にも、「猿」「犬」を細川勝元・山名宗全と解釈したり(「応仁記」)「黒鼠」を土一揆の事と考えたり「野馬台詩」人気は相変わらずでした。また慶安元年(1648)に四天王寺宝庫から「聖徳太子日本国未来記」が出現するなど「未来記」も命脈を保っていたようです。人間の世が続く限り、予言への興味が尽きることはなさそうですね。
【参考文献】
中世日本の予言書 小峯和明 岩波新書(今回は主に本書に準拠)
日本古典文学大系太平記 一 岩波書店
楠木正成 植村清二 中公文庫
MMRマガジンミステリー調査班 全13巻 石垣ゆうき 講談社
関連記事:
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「天狗じゃ、天狗の仕業じゃ!」
二つとも、南北朝の動乱を背景に跋扈した怪しげな話です。
「『遠祖は正成』―庶民から見た楠木氏―」
正成らには怪しげなイメージが付いて回るようです。
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「日本民衆文化史」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html)
南北朝関連発表は
「南北朝関連発表まとめ」
にまとめてリンクしています。
関連サイト:
「原田 実 Cyber Space」(http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/)より
「日本の予言書-『野馬台詩』『聖徳太子未来紀』『竹内文献』-」
(http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/column/text9.htm)
「太平記 現代語訳」(http://www5d.biglobe.ne.jp/~katakori/taiheiki/)
かなり砕けた訳になっています。
「人類キバヤシ研究所」(http://f31.aaa.livedoor.jp/~mmrondul/)より
「MMR AA倉庫」(http://f31.aaa.livedoor.jp/~mmrondul/MMR/AA/)