2009年 05月 08日
「文観」補足~寺社勢力は南北朝動乱でどう変わった?~
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以前、後醍醐天皇に仕えて宗教勢力の人脈を利用し、権勢を振るった怪僧の伝記を書きました。
今回はこの「文観」の補足ではありますが、残念ながら立川流については扱いません。お題は、南北朝における寺社勢力について補足です。
上記レジュメでも少し述べたと思いますが、平安中後期以降の我が国では寺社勢力が極めて大きな力を持っていました。宗教的な権威で朝廷や幕府を恐れさせただけでなく、数多くの荘園を持ち圧倒的な経済力を誇っていたのです。当時は「仏陀法」が慣習法として普及しており、どのような過程であれ仏に寄進されたものは永遠に仏のものであると考えられていました。これが拡大解釈され、一旦寺社の所領となった土地は永遠に寺社のものでありそれを侵すと仏罰が当たると信じられていました。また、支配領域内の豪族と主従関係を結び、境内に抱える下級僧侶「行人」にも武勇に長けた人員が多数いましたから武力も相当なものでした。後述するように最先端の技術も寺社は兼ね備えていた上、寺社同士での熾烈な武力闘争が慢性的に続いていましたから、世俗の武家に先駆けて本格的な城郭建築が十四世紀ごろには作られつつあったようです。また武器製造業も抱えており、南北朝動乱期には南朝攻撃に当たろうとする畠山義深が根来寺に弓の納入を求めています。幕府の軍勢も兵器調達を寺社に頼っていたのですね。こんな状況でしたから、かなり後になっても寺社領の荘園は比較的武士の侵食を受けずに済んでいたようです。
更に、海外との交易にも積極的で当時最先端の技術や知識をほぼ独占していたに近い状況だったのです。漢籍の知識や議論は学侶の独壇場でしたし、京における医師・芸能・職人・土倉(金融業)の大多数は叡山が祇園社を通じて支配しておりほとんど中央には税を納めていませんでした。また鎌倉期には、土地を巡る訴訟で弁論に長じた僧侶に代理人を依頼する事例も珍しくなかったそうです。
そして、宗教的権威を振りかざして実力行使に出る事もしばしばだったのは知られていますね。春日の神木や日吉の神輿を掲げて強訴に出られると、貴族ばかりでなく武士達も神罰仏罰を恐れて手を出せなかったのです。一方で当事者である下級神人や行人達は、そうした畏怖からは解き放たれていたようです。神輿を泥へ故意に突っ込んで汚し、祟りや穢れにおびえる朝廷に修理させたり、神輿が古くなると自分達で壊したり血で汚したりして朝廷に新品を作らせたりしていたのです。また、奈良の寺社を焼討した平重衡は後世まで悪人の代名詞とされましたが、寺社同士の騒乱では相手の寺に放火することはしばしばでしたし時には自らの伽藍に火をつける戦術が取られることもありました。そうした暴挙に対する僧兵への罰則といえば写経して懺悔すれば終わりだったようです。実際に神仏の祭祀に従事していると却って無神論的な感覚になるようですね。それに海外からの知見も拍車をかけたのではないでしょうか。宗教勢力である寺社で、一足早く現世中心主義が広がっていたといえます。
さて、こうした寺社勢力に南北朝の動乱はどのような変化をもたらしたのでしょうか?まず特筆すべきは寺社が中央政権から軍事動員されるのが通例になったことでしょう。従来、源平合戦や鎌倉期においては寺社を動員しようとする動きが見られた事はありましたが、必ずしもそれは有効には働きませんでした。寺社は自らの利害を図って動きはしましたが、戦乱の当事者として働こうとはあまりしていません(平家による南都焼討という例外はありますが)。ところが、南北朝動乱の幕開けである元弘の変では、護良の指導の下に後醍醐が叡山に動座(実際には替え玉でしたが)し、叡山全体がこれを迎えて幕府軍と戦うという事態が生れています。それだけにとどまらず、尊氏が背いた時にも叡山に二度にわたって後醍醐が篭城しています。尊氏はそれに対して叡山と対立する園城寺を動員し、園城寺側もそれに応じて足利方に味方するのが通例となりました。また、吉野も後醍醐を迎え入れて全山を挙げて足利方に抵抗し六十年に渡る南朝の拠点として活躍しています。このように、南北朝期になると寺社勢力は中央政権の求めに応じて頻繁に動員されており、時には一方の陣営の拠点にすらなっています。その強大な軍事力を当てにされているといえ、かつてに比べると寺社の主体性が弱くなっているといえます。
また、長い戦乱において動員される僧侶側にも思想的な変化が見られたようです。かつては、建前上は戦いへの参加は禁じられており、現に南北朝期にも賢俊(尊氏の護持僧)が陣中に従う事について「釈門の儀に非ず」「一流の恥」と心中の葛藤を記していますし時宗僧が従軍する際も護身用の甲冑装着のみが許されるなど建前を重んじる動きはあります。
一方で、延文二年(1357)に北野社別当職を争っていた慈昭は「およそ世上擾乱に際しては、軍陣に馳せ参じ、無二の忠節を表すのが、僧俗一同の傍例」であり今回の軍功については「たとえ新恩を望んでも、少しも高望みとは思わない、まして求めているのは相伝の職の還補ではないか」と述べています。また、大山寺へ宛てた書状には「御祈祷」ならびに「戦功」に対して「兵糧」にあてるよう所領を寄進するという内容のものもあります。元来、恩賞を寺社に与える際には神仏に帰依するための寄進という形式をとるのが通例でした。それが、あからさまに軍功への恩賞という俗人と同じ表現がなされるようになっています。やはり現世中心主義が従来と比較して明らかに表に出るようになったのです。こうした変化の背景を考えて見ましょう。
上記のように寺社勢力が朝廷や幕府に要求を通すやり方は、自分達が信じていない宗教的権威を振りかざして相手を恫喝するという、言い方は悪いですが外部の人間に対するペテンにも見えるものでした。しかし、産業の発達に伴い寺社外部にも現世中心的な風潮は広がっていきます。従来は都市といえば京(祇園社の門前町という側面が強くありました)や奈良に代表されるように、寺社境内やその周辺が多かったのですが、この頃から地方の村落にも小規模ながら都市の原形といえる商業地域が成長し現地民の自治が広がったのが一例です。また、貴族や武士も子弟を寺社に入れた後も一族間で交流はありますから、寺社内部の現世中心主義が彼らを通じて広がった面もあると思われます。その結果、従来の方法は通用しなくなっていく。現に、十四世紀ごろから馬借が祇園社に抗議した際に境内に火をつけようとしたり、佐々木導誉が叡山の末寺と争った際に寺に放火したり、楠木正成・高師直らが軍事作戦として寺を焼き払うといった事例がしばしば見られるようになっていきます。
また、鎌倉政権・足利政権は禅宗を保護し、彼らを中央政権の管理が利く御用寺社として育成していきました。足利期には禅宗寺院に多くの荘園が付与され、彼らを通じて海外交易が行われ先進的な文物がもたらされるようになっていきます。こうして寺社勢力の優位性は少しずつ弱くなっていきます。中央政権の軍事的要求を寺社が無碍に出来なくなった背景にはそうした変化が影響していそうです。
平安・鎌倉期において寺社は圧倒的な社会的実力を持っていましたが、行人の合議によって方針が決められており定まった政治的指導者が存在しませんでした。これは寺社が一種の非権力空間として社会的弱者・政治的敗者への救済の場となったり、境内都市での自由な経済活動を可能にするという利点もありましたが、政治的活動が寺社間・寺社内部の闘争や自分達の利権追求に留まり、長期的で日本全体を視野に入れた政略戦略が寺社からは生まれなかった原因にもなりました。また、寺社内部・寺社間で熾烈な利権争いが行われ、寺社同士の潰し合いが行われたため寺社による覇権確立がなされる事はありませんでした。この点では、為政者として「徳政」を意識し一定の思想に基づいて政治方針を定め、社会のあるべき姿を追求していた幕府やそれに倣って法治の体裁をとろうとする朝廷と対称的でした(まあ、宗教勢力が政治思想を持てばそれはそれでカルト化の危険が生じるという別の問題がある気はしますが)。その潜在力に関わらず時代を動かす主流になりえなかった寺社は、圧倒的な社会的実力ゆえに逆に不安定要因という側面が否定できなくなっていました。加えて、中央政権にしてみれば強大な力でしばしば横槍をいれ反撃もできない相手ということで何としても押えつけたいと思ったであろう事も想像に難くありません。かくして、中央政権は少しずつですが強かに実力をつけ寺社の力をそいでいき、力関係は徐々に変化していったのです。
南北朝以後も叡山や興福寺、高野山や根来寺といった寺社勢力は中央政権から一定の独立性を保っていますし、侮れない経済力・武力を持つ存在として戦国末期まで存続します。しかし、南北朝期は寺社勢力にとって中央政権への屈服の第一歩となる「終わりの始まり」であった、その意味で南北朝は近世の幕開けと呼んでもさほど不当ではないのではないかな、と思います。
【参考文献】
寺社勢力の中世 伊藤正敏 ちくま新書
日本の中世寺院 伊藤正敏 吉川弘文館
法と言葉の中世史 笠松宏至 平凡社
寺社勢力 黒田俊雄 岩波新書
帝王後醍醐 村松剛 中公文庫
戦国期の室町幕府 今谷明 講談社学術文庫
関連記事(2009年5月20日新設)
「南朝五忠臣」
宗教的快感と性的快感
男のしるし、皇統の危機
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「文観」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/monkan.html)
以外の南北朝レジュメは、
「南北朝関連発表まとめ」
にまとめてリンクしています。
「南北朝は『近世』なのか」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/kinsei.html)
「世界史序説 ~歴史を理解したふりをするための文明論略説~」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/my/preface.html)
が今回の話題に関連しています。
「文観」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/monkan.html)
今回はこの「文観」の補足ではありますが、残念ながら立川流については扱いません。お題は、南北朝における寺社勢力について補足です。
上記レジュメでも少し述べたと思いますが、平安中後期以降の我が国では寺社勢力が極めて大きな力を持っていました。宗教的な権威で朝廷や幕府を恐れさせただけでなく、数多くの荘園を持ち圧倒的な経済力を誇っていたのです。当時は「仏陀法」が慣習法として普及しており、どのような過程であれ仏に寄進されたものは永遠に仏のものであると考えられていました。これが拡大解釈され、一旦寺社の所領となった土地は永遠に寺社のものでありそれを侵すと仏罰が当たると信じられていました。また、支配領域内の豪族と主従関係を結び、境内に抱える下級僧侶「行人」にも武勇に長けた人員が多数いましたから武力も相当なものでした。後述するように最先端の技術も寺社は兼ね備えていた上、寺社同士での熾烈な武力闘争が慢性的に続いていましたから、世俗の武家に先駆けて本格的な城郭建築が十四世紀ごろには作られつつあったようです。また武器製造業も抱えており、南北朝動乱期には南朝攻撃に当たろうとする畠山義深が根来寺に弓の納入を求めています。幕府の軍勢も兵器調達を寺社に頼っていたのですね。こんな状況でしたから、かなり後になっても寺社領の荘園は比較的武士の侵食を受けずに済んでいたようです。
更に、海外との交易にも積極的で当時最先端の技術や知識をほぼ独占していたに近い状況だったのです。漢籍の知識や議論は学侶の独壇場でしたし、京における医師・芸能・職人・土倉(金融業)の大多数は叡山が祇園社を通じて支配しておりほとんど中央には税を納めていませんでした。また鎌倉期には、土地を巡る訴訟で弁論に長じた僧侶に代理人を依頼する事例も珍しくなかったそうです。
そして、宗教的権威を振りかざして実力行使に出る事もしばしばだったのは知られていますね。春日の神木や日吉の神輿を掲げて強訴に出られると、貴族ばかりでなく武士達も神罰仏罰を恐れて手を出せなかったのです。一方で当事者である下級神人や行人達は、そうした畏怖からは解き放たれていたようです。神輿を泥へ故意に突っ込んで汚し、祟りや穢れにおびえる朝廷に修理させたり、神輿が古くなると自分達で壊したり血で汚したりして朝廷に新品を作らせたりしていたのです。また、奈良の寺社を焼討した平重衡は後世まで悪人の代名詞とされましたが、寺社同士の騒乱では相手の寺に放火することはしばしばでしたし時には自らの伽藍に火をつける戦術が取られることもありました。そうした暴挙に対する僧兵への罰則といえば写経して懺悔すれば終わりだったようです。実際に神仏の祭祀に従事していると却って無神論的な感覚になるようですね。それに海外からの知見も拍車をかけたのではないでしょうか。宗教勢力である寺社で、一足早く現世中心主義が広がっていたといえます。
さて、こうした寺社勢力に南北朝の動乱はどのような変化をもたらしたのでしょうか?まず特筆すべきは寺社が中央政権から軍事動員されるのが通例になったことでしょう。従来、源平合戦や鎌倉期においては寺社を動員しようとする動きが見られた事はありましたが、必ずしもそれは有効には働きませんでした。寺社は自らの利害を図って動きはしましたが、戦乱の当事者として働こうとはあまりしていません(平家による南都焼討という例外はありますが)。ところが、南北朝動乱の幕開けである元弘の変では、護良の指導の下に後醍醐が叡山に動座(実際には替え玉でしたが)し、叡山全体がこれを迎えて幕府軍と戦うという事態が生れています。それだけにとどまらず、尊氏が背いた時にも叡山に二度にわたって後醍醐が篭城しています。尊氏はそれに対して叡山と対立する園城寺を動員し、園城寺側もそれに応じて足利方に味方するのが通例となりました。また、吉野も後醍醐を迎え入れて全山を挙げて足利方に抵抗し六十年に渡る南朝の拠点として活躍しています。このように、南北朝期になると寺社勢力は中央政権の求めに応じて頻繁に動員されており、時には一方の陣営の拠点にすらなっています。その強大な軍事力を当てにされているといえ、かつてに比べると寺社の主体性が弱くなっているといえます。
また、長い戦乱において動員される僧侶側にも思想的な変化が見られたようです。かつては、建前上は戦いへの参加は禁じられており、現に南北朝期にも賢俊(尊氏の護持僧)が陣中に従う事について「釈門の儀に非ず」「一流の恥」と心中の葛藤を記していますし時宗僧が従軍する際も護身用の甲冑装着のみが許されるなど建前を重んじる動きはあります。
一方で、延文二年(1357)に北野社別当職を争っていた慈昭は「およそ世上擾乱に際しては、軍陣に馳せ参じ、無二の忠節を表すのが、僧俗一同の傍例」であり今回の軍功については「たとえ新恩を望んでも、少しも高望みとは思わない、まして求めているのは相伝の職の還補ではないか」と述べています。また、大山寺へ宛てた書状には「御祈祷」ならびに「戦功」に対して「兵糧」にあてるよう所領を寄進するという内容のものもあります。元来、恩賞を寺社に与える際には神仏に帰依するための寄進という形式をとるのが通例でした。それが、あからさまに軍功への恩賞という俗人と同じ表現がなされるようになっています。やはり現世中心主義が従来と比較して明らかに表に出るようになったのです。こうした変化の背景を考えて見ましょう。
上記のように寺社勢力が朝廷や幕府に要求を通すやり方は、自分達が信じていない宗教的権威を振りかざして相手を恫喝するという、言い方は悪いですが外部の人間に対するペテンにも見えるものでした。しかし、産業の発達に伴い寺社外部にも現世中心的な風潮は広がっていきます。従来は都市といえば京(祇園社の門前町という側面が強くありました)や奈良に代表されるように、寺社境内やその周辺が多かったのですが、この頃から地方の村落にも小規模ながら都市の原形といえる商業地域が成長し現地民の自治が広がったのが一例です。また、貴族や武士も子弟を寺社に入れた後も一族間で交流はありますから、寺社内部の現世中心主義が彼らを通じて広がった面もあると思われます。その結果、従来の方法は通用しなくなっていく。現に、十四世紀ごろから馬借が祇園社に抗議した際に境内に火をつけようとしたり、佐々木導誉が叡山の末寺と争った際に寺に放火したり、楠木正成・高師直らが軍事作戦として寺を焼き払うといった事例がしばしば見られるようになっていきます。
また、鎌倉政権・足利政権は禅宗を保護し、彼らを中央政権の管理が利く御用寺社として育成していきました。足利期には禅宗寺院に多くの荘園が付与され、彼らを通じて海外交易が行われ先進的な文物がもたらされるようになっていきます。こうして寺社勢力の優位性は少しずつ弱くなっていきます。中央政権の軍事的要求を寺社が無碍に出来なくなった背景にはそうした変化が影響していそうです。
平安・鎌倉期において寺社は圧倒的な社会的実力を持っていましたが、行人の合議によって方針が決められており定まった政治的指導者が存在しませんでした。これは寺社が一種の非権力空間として社会的弱者・政治的敗者への救済の場となったり、境内都市での自由な経済活動を可能にするという利点もありましたが、政治的活動が寺社間・寺社内部の闘争や自分達の利権追求に留まり、長期的で日本全体を視野に入れた政略戦略が寺社からは生まれなかった原因にもなりました。また、寺社内部・寺社間で熾烈な利権争いが行われ、寺社同士の潰し合いが行われたため寺社による覇権確立がなされる事はありませんでした。この点では、為政者として「徳政」を意識し一定の思想に基づいて政治方針を定め、社会のあるべき姿を追求していた幕府やそれに倣って法治の体裁をとろうとする朝廷と対称的でした(まあ、宗教勢力が政治思想を持てばそれはそれでカルト化の危険が生じるという別の問題がある気はしますが)。その潜在力に関わらず時代を動かす主流になりえなかった寺社は、圧倒的な社会的実力ゆえに逆に不安定要因という側面が否定できなくなっていました。加えて、中央政権にしてみれば強大な力でしばしば横槍をいれ反撃もできない相手ということで何としても押えつけたいと思ったであろう事も想像に難くありません。かくして、中央政権は少しずつですが強かに実力をつけ寺社の力をそいでいき、力関係は徐々に変化していったのです。
南北朝以後も叡山や興福寺、高野山や根来寺といった寺社勢力は中央政権から一定の独立性を保っていますし、侮れない経済力・武力を持つ存在として戦国末期まで存続します。しかし、南北朝期は寺社勢力にとって中央政権への屈服の第一歩となる「終わりの始まり」であった、その意味で南北朝は近世の幕開けと呼んでもさほど不当ではないのではないかな、と思います。
【参考文献】
寺社勢力の中世 伊藤正敏 ちくま新書
日本の中世寺院 伊藤正敏 吉川弘文館
法と言葉の中世史 笠松宏至 平凡社
寺社勢力 黒田俊雄 岩波新書
帝王後醍醐 村松剛 中公文庫
戦国期の室町幕府 今谷明 講談社学術文庫
関連記事(2009年5月20日新設)
「南朝五忠臣」
宗教的快感と性的快感
男のしるし、皇統の危機
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「文観」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/monkan.html)
以外の南北朝レジュメは、
「南北朝関連発表まとめ」
にまとめてリンクしています。
「南北朝は『近世』なのか」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/kinsei.html)
「世界史序説 ~歴史を理解したふりをするための文明論略説~」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/my/preface.html)
が今回の話題に関連しています。
by trushbasket
| 2009-05-08 01:45
| NF








