2009年 05月 23日
こんな可愛い子が女の子のはずがない ~千年の昔に発見された萌えの真理~ 古典文学の男の娘を題材に
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中世物語文学(10世紀初め頃~14世紀頃に隆盛)において、男性の美は女性性に求められ、男に対して、女にして見てみたいだのなんだの言って、女みたいな顔した男にハァハァする例が、初めの頃から終わりの方まで、あちこち一々挙げてられないほど溢れてます。
挙げ句の果てに、『恋路ゆかしき大将』(14世紀初め頃)なんか、主人公の恋路ゆかしき大将について
<訳>
帝が、……この大将を寵愛し側に付き従えている様子は、怪しいほどの状態で、世人も風変わりな(←たぶん胸部や股間の突起の有無が)楊貴妃と喩えて呼んでいた。正妻である大将の妹をこのように寵愛するのであれば問題ないのだが、……
とか言っていて、
なんと、男を楊貴妃呼ばわりです。
で、こんな風に男性の美に女性性を求める、ステキに無敵なジャパニーズHENTAI魂は、そこからの当然の流れと言うべきか、物語文学史上に、男の美少女キャラ、瞬間的な単発ネタではなしに女の格好をした男、今風に言うなら男の娘をも生み出しています。
とはいえ、我らのご先祖様は、男性の美に女性性を求めつつも、女性的な男性の美と女性の美を全く同じに見ていたわけではなかったりします。
これをハッキリ分かる形で示しているのは『しら露』(14世紀初め頃)の、主人公の妹の姫君について描写した際に男性との美の比較に筆の及んだ一節で、
<訳>
姫君の瑞々しくしなやかに美しいところは、さすがに女性らしく見えて美しいのであるが、鮮烈に優しげな魅力を備え、上品な美しさの際だつ点で、どうして男に匹敵することが出来るだろうか。
とあり、
美貌の鮮烈さ(けざやか)と際だち(たぐひなげ)の点で、男性の持つ美は女性の美に優っていると言っているのです。
もちろん女にして眺めたいような美貌の男性限定でしょうが、
そこんところのハードルを越えた美貌の男性=女性的な容姿の男性の持つ女性美は女性の持つ女性美よりも上ということです。
(ひょっとしたら、このような中世人の美意識からすると、美しくない男と美しくない女の比較でも、男が勝っているという可能性はありますが、それはまあ今回の検討の対象外としておきましょう。美貌を持たぬ男と女を比較した容姿の優劣論なんて、おそらく、どこにも見当たらないでしょうから。)
そして、こういった男の美のほうが女より上という美意識は、
女の格好した男である男の娘キャラを造形する際にも適用されており、
男の娘キャラも、
単にチンコ生えた女として描かれるのではなく、
女性的女性美とは異なる女性的男性美(あるいは男性の備えた女性美ということで男性内女性美)の持ち主として描かれています。
例えば、
物語文学史上には、圧倒的な魔性を誇る最強の男の娘として、『風に紅葉』(14世紀初め頃)に出てくる女装の若君が君臨してるのですが、
登場時に「限りなく美しい小柄な女の子がいる(限りなううつくしげなる女のささやかなるぞゐたる)」(『中世王朝物語全集 15』笠間書院 35頁)と描写され即座に主人公を虜にしそのまま「稚児(男色の対象の少年)」(同書 37頁)としてエロ事に突入した、
この男の娘でさえも、その美貌は女性的女性美と完全に一致しているわけではないのです。
すなわち、
<訳>
なるほど、よく見れば男性的と見える顔つきであるのも、……
ところで、こういった男の娘の美は、女性の女性美とは異なり、しかし女性として装いを凝らしているのですから、通常の男性内女性美とも異なるはずです。つまり、それは第三の女性美と言って良いはずなのです。
そして、男性の持つ美が女性の持つ美と比べて優っているということですから、
それは女性的女性美を超えた男性内女性美をその真価を発揮するよう女性的に装飾したものなわけで、
つまりは人類の持つ最高の女性美ということになるはずです。
そうです、
すなわち、
こんな可愛い子が女の子のはずがない
現代日本のオタク文化では、男の娘キャラの可愛さに対して、
こんな可愛い子が女の子のはずがないと言って讃えるのですが、
こんな可愛い子が女の子のはずがないは、日本キャラクター文化の千年にも及ぶ伝統だったんだよ!!
ということで、ここからは、日本のキャラクター文化が中世物語文学(10世紀初め頃~14世紀頃に隆盛)以来の長い伝統の中で見出し伝承してきた最高の萌え容姿、究極の女性美、男の娘の美について、さらなる探求を行い、
いったいそれが具体的にどのようなものになるのか考察してみようとおもいます。
とはいえ、物語上に美貌を語る文章は数多ありますが、比喩とか抽象的な文言でなしに、具体的な表現というのは、なかなか無かったりします。
そして、オトコの娘が出てくる話というのは、いかに日本人がHENTAIとはいえ、やはり例外に属するわけで、この考察に使える素材を十分に提供してくれる物語は『とりかへばや物語』(12世紀末頃)だけだったりします。
というわけで以下の引用する素材は全て『とりかへばや物語』(『新編 日本古典文学全集』小学館)の男の娘を形容する文章です。
まずは、女の命とか言われることもあるらしい髪。
<訳>
御髪は……物語で扇を広げたような状態などと度の過ぎた表現をされるものほどは多くはなく、むしろこれこそが魅力的で、……
とありオトコの娘の髪はボリュームの点で女の娘より軽やかで、そこが魅力。
女性より男性の頭髪は抜けやすいそうですから、そのせいでしょうか?
次いで、顔の装い
<訳>
そうは言っても恥ずかしいので気取って化粧したりはしないが、とりわけ巧みに化粧したかのような色艶である。汗に濡れた額髪が描き出す曲線はわざわざひねりを付けたかのように垂れ掛かっており、可愛らしく優しげな魅力がある。白粉で白く塗りまくったのは非常に気味の悪いものだったのだなあ、顔というものはこんな感じに見る方が良かったのだと考えさせられる。
というわけで、化粧しすぎないのが男の娘の魅力。
これは男の娘の容姿の魅力というよりは白粉がキモいってだけにも見えますが、
まあ、女同士の過剰な競い合いが常人の美意識をはるかにぶっちぎり美しさまで振り落として謎の領域に達するってことは、少なくないわけで(例えば過度のダイエットとか無茶なコルセットとか)、
そういう女の娘同士の見栄の張り合いによる斜め上の美容追求、過剰な女度の積み上げをしていないところが、男の娘の魅力ということでしょうか。
女性美が本来男性を生殖に駆り立てるためにある以上、男の好みこそ女性美の尺度なはずで、女性だけで女意識を基準に美を競ったら女性美が失われるってことでしょう。
で、この場面で、
この男の娘が女度の煮詰め過ぎを免れたのは、恥ずかしがった事による偶然の産物ですが、
オトコの娘が否応なしに男としての身体からの何らかの束縛を受けざるを得ないとすれば、
その滅ぼしきれない男性意識の欠片は、より高い女性美を達成するための助けとなり、それが男の娘の魅力となる可能性が、示唆されているのだと言えるかも知れません。
次いで、体格。
少女時代(?)は、
<訳>
十二歳であったが、未熟に発育の遅れたところもなく。体つきはすらりとして瑞々しい様子はこの上ない。
ということでなかなか、発育良好。
そして、成長後に男に迫られた際には、
<訳>
すらりとして、小柄な触り心地こそないものの、欠点と見るようなものでもない。
ということで、体格の点では、すらりと伸びた体つきが男の娘の魅力。
そりゃあ、娘とはいえ男ですから、出るとこ出て引っ込むとこ引っ込んだ、メリハリある豊かな曲線的デザインにはなりませんし、成長すれば背丈もだいぶ高くなりますからねえ。
ちなみに、この男の娘、女としてはデカいが男としては小さく、結局のところ、女にしか見えないような小柄な人物なんてことはありません。
男として相応にデカくてしっかりした体格です。
なぜかというと、『とりかへばや物語』ではストーリーが進行するとこの男の娘と姉の男装の女君が、男装と女装をやめて入れ替わるのですが、
それにともない男姿になった元男の娘と男装の女君の体格を比較した箇所があって
<訳>
あちらの男装の女君は少し小柄で男としては小さい方であったのが不満な点だったのであるが、まだ年が若いため我慢できていたところ、こちらの本物の男君は今少し重々しくて不満な点もなくお見えになる。
つまり、男として満足のいくそれなりに重々しいしっかりした体格。
ということで、まとめると、
オトコの娘の魅力は、
豊かすぎない髪と、
すらりと良く伸びた長身。
男の美意識を保って女を目指し、男の好みを外さないとこ。
なお、この男の娘、
ゴツい以外にもアレなところがあります。
入れ替わりの前に男装の女君の秘密を知って肉体関係を持ったのに捨てられた男が、
入れ替わり後に、
男君(元男の娘)に対し女だと思って言い寄って袖に掴みかかり、明け行く空の下、顔を間近で見るという場面があるのですが、
<訳>このように近くで会話なさってみると、本物の男であることはまた明らかであって、何度考えてもわけが分からず、すぐには離さず立ちつくしていた。あれ以来、まだこれほど近くで顔を見ることも無かったのだが、しだいに明け行く空の明るくなった中でじっくり御覧になったところ、お髭のあたりなどとりわけ真実男であるようなので、……
というわけで髭もある。
男女入れ替わりなんて幻想全開なストーリーのくせに、変なところで現実主義ですね。
ですが、
髭でも成れるオトコの娘。
ゴツくて髭の萌えキャラも全然OKとは、貪欲な萌え魂というか底知れない度量というか、さすが、我ら先祖にふさわしい。
ところで、髭とゴツさがあってさえ、「こんな可愛い子が女の子のはずがない」が成り立つのだとすれば、
「こんな可愛い子が女の子のはずがない」は、単なる物語上のご都合主義的設定ではなくて、
リアルから経験的に導き出された理屈で、リアルに適用できるのではないかって気がしてきました。
もちろん、これについては、多くの方に異論があるでしょう。髭でゴツいのに男の娘なんてしょせんフィクション、物語の上だけの存在、現実には無理と考える人が大半なのは当然だと思います。
だがちょっと待って欲しい、
今回具体的に取り上げた物語作品は全て、
物語作成・享受層である貴族階級に男色が広まり、美童に女装させるような現象が見られ、その影響で男の化粧の風俗が普及するなどした(11~12世紀)後の時代の物ばかりという点に着目すべきではないだろうか。
そして、そこからは、
ゴツくて髭の素体から可愛い男の娘が作れるという話は、
フィクション上のみの実現不可能な幻想などでなく、実際にそう信じられていて、そうであった可能性が高いと考えることが出来はしないだろうか。
どういうことかと言いますと、
実際に男が男を性の対象としていて、子供とはいえ女装させた男に萌える輩までおり、成人男性まで化粧の風俗が広まっているという社会であれば、
髭もそろい体躯もゴツい男に真剣に女装させてみる人間が出てこないはずがなく、
その際、それを巧く装わせるだけの技術の蓄積も無いはずがない。
そして、それは実際巧く行き、女性を上回る女性美を醸し出してくれたのでしょう。
男色以前の時代から存在する、女にして見てみたい男を良しとする美意識が、男を女みたいに扱う時代を経て、全く萎えず、より具体的に色々語るようになっているのがその証拠です。
オトコの娘の髭とかゴツい体格とか、一見、幻滅させてくれそうな要素を、平然と描写してあると言うことは、
オトコの娘を製作・観賞してみた貴族層の集団的な総意として、髭とかゴツい体格は克服可能だったってことなのです。
髭とかゴツさが克服できなかったのなら、それを物語の理想世界に持ち込んだりせず、ありえないほど小さくてすべすべの男を描いて誤魔化すはずなんですよ。
つまり、
こんな可愛い子が女の子のはずがないは、リアル日本の歴史的真理だったんだよ!!
そういえば、近年の女装指南書に、
男顔は顔のパーツが際だっていて顔立ちをハッキリさせやすいから化粧に圧倒的に有利で、化粧すると見違えるように変わってしかも美人とか、
だから女性モデルは男顔とか、
疑ってる男にこそ実際に化粧で変わってもらいたいとかいう内容が書いてあったんですが、
嘘かと思ったのに実はアレって本当だったんですね。
参考資料
『新編 日本古典文学全集』小学館
『中世王朝物語全集』笠間書院
『スーパー・ニッポニカ Professional』小学館
三葉『オンナノコになりたい!』一迅社
関連記事
男色の対象年齢を日本史をもとに考える ~男の娘の華の命をどこまで延ばすか菊の露~
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足利義満
http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/yoshimitsu.html
物語の消費形態について―いわゆるオタクを時間的・空間的に相対化する試み―その2
http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/genji.html
日本民衆文化史
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html
リンクを変更(2010年12月8日)
挙げ句の果てに、『恋路ゆかしき大将』(14世紀初め頃)なんか、主人公の恋路ゆかしき大将について
上は、……この大殿を思しまとはすさま、けしからぬまでにて、世人もやう変はりたる楊貴妃にたとへてぞ申しける。御妹の中宮にかく聞こえたらばや目やすからまし、……
(『中世王朝物語全集 8』笠間書院 19頁)
<訳>
帝が、……この大将を寵愛し側に付き従えている様子は、怪しいほどの状態で、世人も風変わりな(←たぶん胸部や股間の突起の有無が)楊貴妃と喩えて呼んでいた。正妻である大将の妹をこのように寵愛するのであれば問題ないのだが、……
とか言っていて、
なんと、男を楊貴妃呼ばわりです。
で、こんな風に男性の美に女性性を求める、ステキに無敵なジャパニーズHENTAI魂は、そこからの当然の流れと言うべきか、物語文学史上に、男の美少女キャラ、瞬間的な単発ネタではなしに女の格好をした男、今風に言うなら男の娘をも生み出しています。
とはいえ、我らのご先祖様は、男性の美に女性性を求めつつも、女性的な男性の美と女性の美を全く同じに見ていたわけではなかったりします。
これをハッキリ分かる形で示しているのは『しら露』(14世紀初め頃)の、主人公の妹の姫君について描写した際に男性との美の比較に筆の及んだ一節で、
なまめかしうなよびたる方は、さすがに女しと見えてをかしけれど、けざやかに愛敬づき、らうらうじき様のたぐひなげるは、いかで男に及び給はん。
(『中世王朝物語全集 10』笠間書院 201頁)
<訳>
姫君の瑞々しくしなやかに美しいところは、さすがに女性らしく見えて美しいのであるが、鮮烈に優しげな魅力を備え、上品な美しさの際だつ点で、どうして男に匹敵することが出来るだろうか。
とあり、
美貌の鮮烈さ(けざやか)と際だち(たぐひなげ)の点で、男性の持つ美は女性の美に優っていると言っているのです。
もちろん女にして眺めたいような美貌の男性限定でしょうが、
そこんところのハードルを越えた美貌の男性=女性的な容姿の男性の持つ女性美は女性の持つ女性美よりも上ということです。
(ひょっとしたら、このような中世人の美意識からすると、美しくない男と美しくない女の比較でも、男が勝っているという可能性はありますが、それはまあ今回の検討の対象外としておきましょう。美貌を持たぬ男と女を比較した容姿の優劣論なんて、おそらく、どこにも見当たらないでしょうから。)
そして、こういった男の美のほうが女より上という美意識は、
女の格好した男である男の娘キャラを造形する際にも適用されており、
男の娘キャラも、
単にチンコ生えた女として描かれるのではなく、
女性的女性美とは異なる女性的男性美(あるいは男性の備えた女性美ということで男性内女性美)の持ち主として描かれています。
例えば、
物語文学史上には、圧倒的な魔性を誇る最強の男の娘として、『風に紅葉』(14世紀初め頃)に出てくる女装の若君が君臨してるのですが、
登場時に「限りなく美しい小柄な女の子がいる(限りなううつくしげなる女のささやかなるぞゐたる)」(『中世王朝物語全集 15』笠間書院 35頁)と描写され即座に主人公を虜にしそのまま「稚児(男色の対象の少年)」(同書 37頁)としてエロ事に突入した、
この男の娘でさえも、その美貌は女性的女性美と完全に一致しているわけではないのです。
すなわち、
げによく見れば、男子がらと見ゆる顔つきなるも、……
(『中世王朝物語全集 15』笠間書院 38頁)
<訳>
なるほど、よく見れば男性的と見える顔つきであるのも、……
ところで、こういった男の娘の美は、女性の女性美とは異なり、しかし女性として装いを凝らしているのですから、通常の男性内女性美とも異なるはずです。つまり、それは第三の女性美と言って良いはずなのです。
そして、男性の持つ美が女性の持つ美と比べて優っているということですから、
それは女性的女性美を超えた男性内女性美をその真価を発揮するよう女性的に装飾したものなわけで、
つまりは人類の持つ最高の女性美ということになるはずです。
そうです、
すなわち、
こんな可愛い子が女の子のはずがない
現代日本のオタク文化では、男の娘キャラの可愛さに対して、
こんな可愛い子が女の子のはずがないと言って讃えるのですが、
こんな可愛い子が女の子のはずがないは、日本キャラクター文化の千年にも及ぶ伝統だったんだよ!!
ということで、ここからは、日本のキャラクター文化が中世物語文学(10世紀初め頃~14世紀頃に隆盛)以来の長い伝統の中で見出し伝承してきた最高の萌え容姿、究極の女性美、男の娘の美について、さらなる探求を行い、
いったいそれが具体的にどのようなものになるのか考察してみようとおもいます。
とはいえ、物語上に美貌を語る文章は数多ありますが、比喩とか抽象的な文言でなしに、具体的な表現というのは、なかなか無かったりします。
そして、オトコの娘が出てくる話というのは、いかに日本人がHENTAIとはいえ、やはり例外に属するわけで、この考察に使える素材を十分に提供してくれる物語は『とりかへばや物語』(12世紀末頃)だけだったりします。
というわけで以下の引用する素材は全て『とりかへばや物語』(『新編 日本古典文学全集』小学館)の男の娘を形容する文章です。
まずは、女の命とか言われることもあるらしい髪。
御髪は……物語に扇を広げたるなどこちたく言ひたるほどにはあらで、これこそなつかしかりけれ、……(170頁)
<訳>
御髪は……物語で扇を広げたような状態などと度の過ぎた表現をされるものほどは多くはなく、むしろこれこそが魅力的で、……
とありオトコの娘の髪はボリュームの点で女の娘より軽やかで、そこが魅力。
女性より男性の頭髪は抜けやすいそうですから、そのせいでしょうか?
次いで、顔の装い
さるはかたはらいたければつくろひ化粧じたまはねど、わざともいとよくしたる色あひなり。御額髪も汗にまろがれて、わざとひねりかけたるやうにこぼれかかりつつ、らうたく愛敬づきたり。白くおびたたしくしたてたるはいとけうとかりけり、かくてこそ見るべかりけれ、と見ゆ。(171頁)
<訳>
そうは言っても恥ずかしいので気取って化粧したりはしないが、とりわけ巧みに化粧したかのような色艶である。汗に濡れた額髪が描き出す曲線はわざわざひねりを付けたかのように垂れ掛かっており、可愛らしく優しげな魅力がある。白粉で白く塗りまくったのは非常に気味の悪いものだったのだなあ、顔というものはこんな感じに見る方が良かったのだと考えさせられる。
というわけで、化粧しすぎないのが男の娘の魅力。
これは男の娘の容姿の魅力というよりは白粉がキモいってだけにも見えますが、
まあ、女同士の過剰な競い合いが常人の美意識をはるかにぶっちぎり美しさまで振り落として謎の領域に達するってことは、少なくないわけで(例えば過度のダイエットとか無茶なコルセットとか)、
そういう女の娘同士の見栄の張り合いによる斜め上の美容追求、過剰な女度の積み上げをしていないところが、男の娘の魅力ということでしょうか。
女性美が本来男性を生殖に駆り立てるためにある以上、男の好みこそ女性美の尺度なはずで、女性だけで女意識を基準に美を競ったら女性美が失われるってことでしょう。
で、この場面で、
この男の娘が女度の煮詰め過ぎを免れたのは、恥ずかしがった事による偶然の産物ですが、
オトコの娘が否応なしに男としての身体からの何らかの束縛を受けざるを得ないとすれば、
その滅ぼしきれない男性意識の欠片は、より高い女性美を達成するための助けとなり、それが男の娘の魅力となる可能性が、示唆されているのだと言えるかも知れません。
次いで、体格。
少女時代(?)は、
十二におはすれど、かたなりに遅れたるところもなく、人柄のそびやかにてなまめかしきさまぞ限りなきや。(171頁)
<訳>
十二歳であったが、未熟に発育の遅れたところもなく。体つきはすらりとして瑞々しい様子はこの上ない。
ということでなかなか、発育良好。
そして、成長後に男に迫られた際には、
そびえ、いと小さき手あたりこそおはせねど、癖と見ゆべくもあらず。(267頁)
<訳>
すらりとして、小柄な触り心地こそないものの、欠点と見るようなものでもない。
ということで、体格の点では、すらりと伸びた体つきが男の娘の魅力。
そりゃあ、娘とはいえ男ですから、出るとこ出て引っ込むとこ引っ込んだ、メリハリある豊かな曲線的デザインにはなりませんし、成長すれば背丈もだいぶ高くなりますからねえ。
ちなみに、この男の娘、女としてはデカいが男としては小さく、結局のところ、女にしか見えないような小柄な人物なんてことはありません。
男として相応にデカくてしっかりした体格です。
なぜかというと、『とりかへばや物語』ではストーリーが進行するとこの男の娘と姉の男装の女君が、男装と女装をやめて入れ替わるのですが、
それにともない男姿になった元男の娘と男装の女君の体格を比較した箇所があって
かれは少しささやかに小さき方に寄りたまへりしぞ飽かぬところなりしかど、まだ年の若かりしに、これはいますこしものものしく飽かぬところなくぞ見えたまふ。(378頁)
<訳>
あちらの男装の女君は少し小柄で男としては小さい方であったのが不満な点だったのであるが、まだ年が若いため我慢できていたところ、こちらの本物の男君は今少し重々しくて不満な点もなくお見えになる。
つまり、男として満足のいくそれなりに重々しいしっかりした体格。
ということで、まとめると、
オトコの娘の魅力は、
豊かすぎない髪と、
すらりと良く伸びた長身。
男の美意識を保って女を目指し、男の好みを外さないとこ。
なお、この男の娘、
ゴツい以外にもアレなところがあります。
入れ替わりの前に男装の女君の秘密を知って肉体関係を持ったのに捨てられた男が、
入れ替わり後に、
男君(元男の娘)に対し女だと思って言い寄って袖に掴みかかり、明け行く空の下、顔を間近で見るという場面があるのですが、
かうやうに近やかにてものなどのたまへるには、まことの男はまたしるきわざなるを、かへすがへすあやしくて、とみにも許さで立ちたまへり。ありし後、まだかばかり近くて見たてまつることもなきに、やうやう明けはなるる空の気色くもりなきにつくづくと見たまへば、御髭のわたりなどことのほかに気色ばみにけるも、……(482頁)
<訳>このように近くで会話なさってみると、本物の男であることはまた明らかであって、何度考えてもわけが分からず、すぐには離さず立ちつくしていた。あれ以来、まだこれほど近くで顔を見ることも無かったのだが、しだいに明け行く空の明るくなった中でじっくり御覧になったところ、お髭のあたりなどとりわけ真実男であるようなので、……
というわけで髭もある。
男女入れ替わりなんて幻想全開なストーリーのくせに、変なところで現実主義ですね。
ですが、
髭でも成れるオトコの娘。
ゴツくて髭の萌えキャラも全然OKとは、貪欲な萌え魂というか底知れない度量というか、さすが、我ら先祖にふさわしい。
ところで、髭とゴツさがあってさえ、「こんな可愛い子が女の子のはずがない」が成り立つのだとすれば、
「こんな可愛い子が女の子のはずがない」は、単なる物語上のご都合主義的設定ではなくて、
リアルから経験的に導き出された理屈で、リアルに適用できるのではないかって気がしてきました。
もちろん、これについては、多くの方に異論があるでしょう。髭でゴツいのに男の娘なんてしょせんフィクション、物語の上だけの存在、現実には無理と考える人が大半なのは当然だと思います。
だがちょっと待って欲しい、
今回具体的に取り上げた物語作品は全て、
物語作成・享受層である貴族階級に男色が広まり、美童に女装させるような現象が見られ、その影響で男の化粧の風俗が普及するなどした(11~12世紀)後の時代の物ばかりという点に着目すべきではないだろうか。
そして、そこからは、
ゴツくて髭の素体から可愛い男の娘が作れるという話は、
フィクション上のみの実現不可能な幻想などでなく、実際にそう信じられていて、そうであった可能性が高いと考えることが出来はしないだろうか。
どういうことかと言いますと、
実際に男が男を性の対象としていて、子供とはいえ女装させた男に萌える輩までおり、成人男性まで化粧の風俗が広まっているという社会であれば、
髭もそろい体躯もゴツい男に真剣に女装させてみる人間が出てこないはずがなく、
その際、それを巧く装わせるだけの技術の蓄積も無いはずがない。
そして、それは実際巧く行き、女性を上回る女性美を醸し出してくれたのでしょう。
男色以前の時代から存在する、女にして見てみたい男を良しとする美意識が、男を女みたいに扱う時代を経て、全く萎えず、より具体的に色々語るようになっているのがその証拠です。
オトコの娘の髭とかゴツい体格とか、一見、幻滅させてくれそうな要素を、平然と描写してあると言うことは、
オトコの娘を製作・観賞してみた貴族層の集団的な総意として、髭とかゴツい体格は克服可能だったってことなのです。
髭とかゴツさが克服できなかったのなら、それを物語の理想世界に持ち込んだりせず、ありえないほど小さくてすべすべの男を描いて誤魔化すはずなんですよ。
つまり、
こんな可愛い子が女の子のはずがないは、リアル日本の歴史的真理だったんだよ!!
そういえば、近年の女装指南書に、
男顔は顔のパーツが際だっていて顔立ちをハッキリさせやすいから化粧に圧倒的に有利で、化粧すると見違えるように変わってしかも美人とか、
だから女性モデルは男顔とか、
疑ってる男にこそ実際に化粧で変わってもらいたいとかいう内容が書いてあったんですが、
嘘かと思ったのに実はアレって本当だったんですね。
参考資料
『新編 日本古典文学全集』小学館
『中世王朝物語全集』笠間書院
『スーパー・ニッポニカ Professional』小学館
三葉『オンナノコになりたい!』一迅社
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偉大なるダメ人間シリーズその8 プラトン(当ブログ内に移転しました)
http://trushnote.exblog.jp/14529128/
足利義満
http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/yoshimitsu.html
物語の消費形態について―いわゆるオタクを時間的・空間的に相対化する試み―その2
http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/genji.html
日本民衆文化史
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html
リンクを変更(2010年12月8日)
by trushbasket
| 2009-05-23 00:55
| My(山田昌弘)








