2009年 05月 31日
「オンナノコになりたい」?男たち~日本女装史概説~
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以前の記事で触れられていましたが、一部のオタクの間では女装美少年に萌える風潮が見られるようになりエロゲーでも女装美少年キャラが「ヒロイン」として支持されたりしているようです。また、「こんな可愛い子が女の子のはずがない」という言い回しも見られ、実際に女装したい人向けに「オンナノコになりたい!」なる本も出版されているそうですね。何でも「『萌えを突き詰めれば最終的にショタに至る』とは濃いオタクの間で常々言われている」(「喪男の哲学史」P61)のだそうで。
世も末だ、文化の退廃もここに極まる、とお堅い方などは嘆くかもしれませんが、決してこれが今に始まった現象ではなく中世物語文学でも散見された事は前回の記事でも言及されている通りです。物語文学におけるオトコの娘とその魅力について前回学んだところで、今回は日本におけるオトコの娘について通史的に見ていく事にしましょう。まあ、この前に本屋で「女装と日本人」なる本を見つけたので活用しようというだけの話なのですが。
まず、太古についてどうだったかを神話や考古学から見てみましょう。「古事記」においてヤマトタケルが熊襲を討った際、女装してクマソタケル兄弟を油断させて寝室で暗殺した事は知られています。その際、クマソタケルは女装したヤマトタケルの体を「戯れ弄」んでおり男と気づいたもののそんな事はお構いなしで床に誘った可能性が指摘されます。そう考えると、ヤマトタケルはクマソタケルの尻に剣を刺して殺していますが、その前に何があったのか意味深長ですね。流石は日本、太古から「始まって」ます。
次に考古学的な話に移りましょう。南西諸島の弥生時代末期(四世紀ごろ)と思われる遺跡からは、男性の骨格を持ち貝製首飾りや腕輪などを身にまとった遺体が見つかっており、男性でありながら女性と同様な身なりで祭祀に携わった巫人であったのではないかと推測されています。南西諸島には二十世紀後半まで男性でありながら女装し「女」として振舞った「ユタ」(巫人)が存在したそうで、こうした「両性具有」の巫人の方が通常の巫女より霊力が強いと捉えられていたようです。こうした事例から考えて、遺跡で女性の装具が副葬品として存在する人骨を見て女性と即断するのは早計ではないかとの意見もあるようです。
こうした「両性具有」志向が存在するのは南西諸島だけでなく、インドのヒジュラやアメリカ先住民のベルダーシュ、タヒチのマフなど世界各地で類例があるようです。そして大和政権にもこうした例が存在した可能性があります。「日本書紀」によれば神武天皇は即位する以前ですが、道臣命(大伴氏の祖、男性)に「厳媛」という女性風の名を与えて高皇産霊尊を祀る巫人に任じたとか。女装したと明記されていないものの、わざわざ女性名が付いているあたり可能性は高いようです。
男でもあり女でもある、そんな存在が神聖視された事が以上からは読み取れます。ヤマトタケルの逸話も、そうした考え方が背景にあるのかもしれません。
また、この考えの影響からか貴人が女装する事への抵抗感はわが国ではなかったらしく、例えば「義経記」で金売り吉次の家に強盗が入った際に牛若丸は変装し、遊女と勘違いして油断した賊を捕らえたという話があり、また「春雨物語」では良峯宗貞の好色をからかうため仁明天皇(九世紀の天皇)が女装して彼に声をかけた話が掲載されています。更に後述するように戦国期にも織田信長が津島の盆踊りで天女に扮したり伝統貴族の山科言継が風流踊りで女装したりといった話もあります。
さて、平安後期から足利期の絵巻物では、寺院の稚児が小袿をまとい「藺げげ」を履き、髪を長く伸ばすといった女性と変わらない姿で描かれる事が多かったようです。「義経記」でも五条の橋で牛若丸を見た弁慶が「稚児か女房か」と問いかけており、両者は区別が付かなかった事が分かります。まあ、稚児は女人禁制の寺院で僧侶により女性の代替として性的対象になっていたのは以前の記事で述べられている通りですから、不思議な事ではないのでしょうが。実際、「法然上人絵伝」には稚児の黒髪を手に取り愛撫する僧の姿が描かれており、女性と同様に髪が性的魅力となりえたのが分かります。
また、同時期に女性が水干・立烏帽子・太刀を身に付け髷を結わない少年の姿で舞う「白拍子」が人気を得ており、平清盛を始め彼女らを寵愛する権力者も多くいました。男女双方の側面を持った中性的もしくは両性具有的な姿に性的魅力を感じる人が多かったのが分かります。
ところで、鎌倉期から足利期にかけての「職人歌合」に「ぢしゃ」と呼ばれる存在が描かれています。小袖を着て、白布で髪を包んだ女性装束でいながらも顔には髭がある、そんな姿です。絵に付属した歌はといえば、十三世紀後半の「鶴岡放生会職人歌合」では
となっています。ここからは「神の宮つこ」つまり神に仕える身である事や、「まことはうなひ」すなわち実際は短く揃えた髪形だが「かりはおとめご」とあるように女性に仮装していることが読み取れるのです。「七十一番職人歌合」にも「地しゃ」は巫女姿で描かれるものの「女のまねかた」とあり女装している事が分かります。
以上のように「ぢしゃ」と呼ばれる女装して神に仕える男性が東国を中心に鎌倉期から足利期にかけて存在しており、上述の南西諸島における「両性具有」の巫人に通じる存在であるといえます。この時期にも男性の女装には神聖な意味合いがあったのですね。
宗教的意味合いだけでなく、芸能においても女装は重要な意味を持っていました。平安後期から鎌倉期にかけて愛好された延年舞は能楽の前身というべき存在でしたが、その中にも絲綸と呼ばれる女装した稚児が重要な役を果たしたそうです。「南総里見八犬伝」で犬坂毛野は仇に近づく機会を探るため女田楽師に扮装して一座に加わっていましたが、実際にも男性が女に扮して田楽一座に混じっていた可能性を考えさせられる話です。また十六世紀末の阿国歌舞伎は女装男子と男装女子によって演じられた演劇であり、男女双方の観客から熱い視線を受けていたそうです。
そういえば、阿国歌舞伎に強い影響を与えた風流踊は戦国末期に広く流行しましたが、これに男子が女装して参加する事は珍しくなく上述のように山科言継のような公家も女房から借りた装束で踊りに加わったりしたそうです。これも上述しましたが織田信長も尾張時代の弘治二年(1556)に津島の盆踊りで天人に扮装して女人踊りを踊ったという話が「信長公記」にあります。祭礼で異性装をするのは全国的に珍しい事ではなかったらしく、京都市八瀬の「赦免地踊」や香川県まんのう町の賀茂神社「綾子踊」で女装束の少年が踊るのはその名残だとか。
話を戻しますと、女装男子が歌舞伎で女性役を演じるのは女歌舞伎に留まらず、少年による若衆歌舞伎や成人男性による野郎歌舞伎でも同様でした。元禄期の代表的女形であった初代芳沢あやめは「女形は色がもとなり。元より生まれ付て美つくしき女形にても、取廻しを立派にせんとすれば、色がさむべし。また心を付て品やかにせんとせば、いやみつくべし。それ故、平生を、をなごにて暮らさねば、上手の女形とはいはれがたし。」と述べ、舞台で自然に女性らしく演じるため普段から女性と意識して生活するよう説いています。
また、女形でも舞台に立てない者は「陰子」と呼ばれ、生活のため春をひさいだそうです。舞台に立つ女形にも、収入の助けや女性の振る舞いを会得する修行として同様に男客の相手をする例が多かったといわれています。十九世紀の「塵塚談」には「この色子ども末々は皆役者になれり。女形は多くはこの者どもより出で来て、上手と云ふ地位に至りしも多くありける由なり」とありますから、いわゆる「陰間」には女形見習いが多かったのは間違いありません。初代芳沢あやめ、初代瀬川菊之丞といった人気女形にも色子出身が多かったそうです。徳川期の浮世絵では実際の女性だけでなく女形・陰間も同様に「美人」として扱われており、春画でも女色と陰間を一度に楽しむ図がしばしばありました。
こうした芸能や宗教の他にも、民間では男児に女の格好をさせて育てると無事に育つと信じられていたようです。当時は幼児死亡率が高かったので真剣に受け止められたようです。文芸作品でも、「三人吉三郭初買」に登場するお嬢吉三や「南総里美八犬伝」の犬塚信乃はそうした育て方をされた一例といえるでしょう。そんな男性には成長してからも自我が「女性」のままである事がままあったらしく、中には女装男子である事を知った上で「妻」に迎える事例も存在したそうです。
このように前近代においては女装男性や男装女性は特に問題視されてはいなかったようなのですが、近代になるとこれが一変します。明治六年(1873)、「違式詿違条例」で男の女装や女の男装が禁じられ、祭礼などで異性装をした人物が逮捕される事例も頻繁に報じられるようになりました。西洋諸国から「文明国」として見られようとし、西洋に追いつくため西洋的価値観を導入する中でこうした異性装が異端視され取り締まられていきます。女装者は犯罪者予備軍として警察から目され、予防拘束・取締りが行われるようになりました。また新聞も「女装の賊」としてしばしば報道しそのイメージを世間に広げたのです。当初は芸能者は例外とされましたが、次第に彼等への風当たりも強くなり女形も日常は弾性として過ごすようになります。歌舞伎と陰子との関係が断ち切られたのもこの時期でした。
大正期に入ると、クラフト・エービングに代表される西洋精神医学者の影響を受けた羽太鋭治・澤田順次郎「変態性慾論」が刊行されベストセラーとなり、そこでは「女性的男子」「男性的女子」も変態性欲の一例とされています。
こうした社会風潮が定着し女装男性は次第に異常視されるようになりましたが、それでも昭和初期になっても非公認の芸者として人気を博した女装男性や女装男娼も少なからず存在したようです。また娯楽小説にも江戸川乱歩「少年探偵団」のように敵を欺くためと銘打って少年が女装し潜入する場面が描かれる事もありました。人々が女装男子に惹かれる心性は根強いものがあったといえます。
戦後になりますと、禁制が解かれ再び女装文化が顕在化。終戦直後には上野周辺で男娼が数多く現れましたが、取締りを受け各地に散りました。その後も女装男性による「ゲイバー」が広まったり、「ニューハーフ」として女装男性が認知されテレビに出演するといった事例も珍しくなくなりつつあり、次第に市民権を獲得しつつあります。
以上、歴史的に概観すると男性の女装は決して珍しいものでなく時には神聖視すらされていた事が分かります。また、彼らの中世的な姿に性的魅力を感じる向きも昔から存在していたのです。してみると、冒頭で述べた「ショタ」愛好の流れも先祖帰りと言えるのでしょうね。
【参考文献】
女装と日本人 三橋順子 講談社現代新書
(今回はこの本の歴史著述部分を主に参考にしました。出てあまり間がありませんので入手も容易かと。)
姫神の本 学研
本朝男色考・男色文献書志 岩田準一著 原書房
修訂日本演劇通史 河竹繁俊著 新潮文庫
日本古典文学全集 義経記 小学館
日本古典文学全集 英草子・西山物語・雨月物語・春雨物語 小学館
信長公記(上) 太田牛一著 中川太古訳 新人物往来社
新潮日本古典集成 三人吉三廓初買 新潮社
八犬伝の世界 高田衛著 中公新書
江戸川乱歩推理文庫 怪人二十面相・少年探偵団 講談社
喪男の哲学史 本多透 講談社
関連記事:
「こんな可愛い子が女の子のはずがない ~千年の昔に発見された萌えの真理~ 古典文学の男の娘を題材に」
「古今東西の萌える人々 ~17世紀のイラン人と現代日本人の少年愛を中心に~」
「偉大なるダメ人間シリーズ番外その5 ブルボン朝フランスの女装の勇士たち」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「日本民衆文化史」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html)
関連サイト:
「Healthy Beauty」(http://pearl.hjp.jp/)
女装のトータル支援サイトだそうです。
「NHKアニメワールド 忍たま乱太郎」(http://www3.nhk.or.jp/anime/nintama/)より
「山田伝蔵」(http://www3.nhk.or.jp/anime/nintama/chara/c019.html)
忍術学園実技担当教師で特技は女装。…いかつい髭のおじさんなんですけどね。
「はつゆきエンタテインメント」(http://notf.sakura.ne.jp/)より
「女装男子ランキング・結果発表!!!!」(http://notf.sakura.ne.jp/2008/08/09/josou-3/)
漫画・アニメ・ゲームでも女装男子は「萌え」属性として無視できないジャンルになってます。
「ういんどみる official web site」(http://windmill.suki.gr.jp/)より
「はぴねす! official web site」(http://windmill.suki.gr.jp/product/6th/index.htm)
渡良瀬準(通称準にゃん)というキャラ(オトコの娘)が大人気。
「キャラメルBOX」(http://www.caramel-box.com/index2.html)より
「処女はお姉さまに恋してる」(http://www.caramel-box.com/products/otoboku/)
「おとめはボクに恋してる」と読むんだそうです。女装美少年・宮小路瑞穂が主人公。
世も末だ、文化の退廃もここに極まる、とお堅い方などは嘆くかもしれませんが、決してこれが今に始まった現象ではなく中世物語文学でも散見された事は前回の記事でも言及されている通りです。物語文学におけるオトコの娘とその魅力について前回学んだところで、今回は日本におけるオトコの娘について通史的に見ていく事にしましょう。まあ、この前に本屋で「女装と日本人」なる本を見つけたので活用しようというだけの話なのですが。
まず、太古についてどうだったかを神話や考古学から見てみましょう。「古事記」においてヤマトタケルが熊襲を討った際、女装してクマソタケル兄弟を油断させて寝室で暗殺した事は知られています。その際、クマソタケルは女装したヤマトタケルの体を「戯れ弄」んでおり男と気づいたもののそんな事はお構いなしで床に誘った可能性が指摘されます。そう考えると、ヤマトタケルはクマソタケルの尻に剣を刺して殺していますが、その前に何があったのか意味深長ですね。流石は日本、太古から「始まって」ます。
次に考古学的な話に移りましょう。南西諸島の弥生時代末期(四世紀ごろ)と思われる遺跡からは、男性の骨格を持ち貝製首飾りや腕輪などを身にまとった遺体が見つかっており、男性でありながら女性と同様な身なりで祭祀に携わった巫人であったのではないかと推測されています。南西諸島には二十世紀後半まで男性でありながら女装し「女」として振舞った「ユタ」(巫人)が存在したそうで、こうした「両性具有」の巫人の方が通常の巫女より霊力が強いと捉えられていたようです。こうした事例から考えて、遺跡で女性の装具が副葬品として存在する人骨を見て女性と即断するのは早計ではないかとの意見もあるようです。
こうした「両性具有」志向が存在するのは南西諸島だけでなく、インドのヒジュラやアメリカ先住民のベルダーシュ、タヒチのマフなど世界各地で類例があるようです。そして大和政権にもこうした例が存在した可能性があります。「日本書紀」によれば神武天皇は即位する以前ですが、道臣命(大伴氏の祖、男性)に「厳媛」という女性風の名を与えて高皇産霊尊を祀る巫人に任じたとか。女装したと明記されていないものの、わざわざ女性名が付いているあたり可能性は高いようです。
男でもあり女でもある、そんな存在が神聖視された事が以上からは読み取れます。ヤマトタケルの逸話も、そうした考え方が背景にあるのかもしれません。
また、この考えの影響からか貴人が女装する事への抵抗感はわが国ではなかったらしく、例えば「義経記」で金売り吉次の家に強盗が入った際に牛若丸は変装し、遊女と勘違いして油断した賊を捕らえたという話があり、また「春雨物語」では良峯宗貞の好色をからかうため仁明天皇(九世紀の天皇)が女装して彼に声をかけた話が掲載されています。更に後述するように戦国期にも織田信長が津島の盆踊りで天女に扮したり伝統貴族の山科言継が風流踊りで女装したりといった話もあります。
さて、平安後期から足利期の絵巻物では、寺院の稚児が小袿をまとい「藺げげ」を履き、髪を長く伸ばすといった女性と変わらない姿で描かれる事が多かったようです。「義経記」でも五条の橋で牛若丸を見た弁慶が「稚児か女房か」と問いかけており、両者は区別が付かなかった事が分かります。まあ、稚児は女人禁制の寺院で僧侶により女性の代替として性的対象になっていたのは以前の記事で述べられている通りですから、不思議な事ではないのでしょうが。実際、「法然上人絵伝」には稚児の黒髪を手に取り愛撫する僧の姿が描かれており、女性と同様に髪が性的魅力となりえたのが分かります。
また、同時期に女性が水干・立烏帽子・太刀を身に付け髷を結わない少年の姿で舞う「白拍子」が人気を得ており、平清盛を始め彼女らを寵愛する権力者も多くいました。男女双方の側面を持った中性的もしくは両性具有的な姿に性的魅力を感じる人が多かったのが分かります。
ところで、鎌倉期から足利期にかけての「職人歌合」に「ぢしゃ」と呼ばれる存在が描かれています。小袖を着て、白布で髪を包んだ女性装束でいながらも顔には髭がある、そんな姿です。絵に付属した歌はといえば、十三世紀後半の「鶴岡放生会職人歌合」では
(月)「やどれ月 心のくまも なかりけり 袖をばかさん 神の宮つこ」
(恋)「なべてには 恋の心も かわるらん まことはうなひ かりはおとめご」
となっています。ここからは「神の宮つこ」つまり神に仕える身である事や、「まことはうなひ」すなわち実際は短く揃えた髪形だが「かりはおとめご」とあるように女性に仮装していることが読み取れるのです。「七十一番職人歌合」にも「地しゃ」は巫女姿で描かれるものの「女のまねかた」とあり女装している事が分かります。
以上のように「ぢしゃ」と呼ばれる女装して神に仕える男性が東国を中心に鎌倉期から足利期にかけて存在しており、上述の南西諸島における「両性具有」の巫人に通じる存在であるといえます。この時期にも男性の女装には神聖な意味合いがあったのですね。
宗教的意味合いだけでなく、芸能においても女装は重要な意味を持っていました。平安後期から鎌倉期にかけて愛好された延年舞は能楽の前身というべき存在でしたが、その中にも絲綸と呼ばれる女装した稚児が重要な役を果たしたそうです。「南総里見八犬伝」で犬坂毛野は仇に近づく機会を探るため女田楽師に扮装して一座に加わっていましたが、実際にも男性が女に扮して田楽一座に混じっていた可能性を考えさせられる話です。また十六世紀末の阿国歌舞伎は女装男子と男装女子によって演じられた演劇であり、男女双方の観客から熱い視線を受けていたそうです。
そういえば、阿国歌舞伎に強い影響を与えた風流踊は戦国末期に広く流行しましたが、これに男子が女装して参加する事は珍しくなく上述のように山科言継のような公家も女房から借りた装束で踊りに加わったりしたそうです。これも上述しましたが織田信長も尾張時代の弘治二年(1556)に津島の盆踊りで天人に扮装して女人踊りを踊ったという話が「信長公記」にあります。祭礼で異性装をするのは全国的に珍しい事ではなかったらしく、京都市八瀬の「赦免地踊」や香川県まんのう町の賀茂神社「綾子踊」で女装束の少年が踊るのはその名残だとか。
話を戻しますと、女装男子が歌舞伎で女性役を演じるのは女歌舞伎に留まらず、少年による若衆歌舞伎や成人男性による野郎歌舞伎でも同様でした。元禄期の代表的女形であった初代芳沢あやめは「女形は色がもとなり。元より生まれ付て美つくしき女形にても、取廻しを立派にせんとすれば、色がさむべし。また心を付て品やかにせんとせば、いやみつくべし。それ故、平生を、をなごにて暮らさねば、上手の女形とはいはれがたし。」と述べ、舞台で自然に女性らしく演じるため普段から女性と意識して生活するよう説いています。
また、女形でも舞台に立てない者は「陰子」と呼ばれ、生活のため春をひさいだそうです。舞台に立つ女形にも、収入の助けや女性の振る舞いを会得する修行として同様に男客の相手をする例が多かったといわれています。十九世紀の「塵塚談」には「この色子ども末々は皆役者になれり。女形は多くはこの者どもより出で来て、上手と云ふ地位に至りしも多くありける由なり」とありますから、いわゆる「陰間」には女形見習いが多かったのは間違いありません。初代芳沢あやめ、初代瀬川菊之丞といった人気女形にも色子出身が多かったそうです。徳川期の浮世絵では実際の女性だけでなく女形・陰間も同様に「美人」として扱われており、春画でも女色と陰間を一度に楽しむ図がしばしばありました。
こうした芸能や宗教の他にも、民間では男児に女の格好をさせて育てると無事に育つと信じられていたようです。当時は幼児死亡率が高かったので真剣に受け止められたようです。文芸作品でも、「三人吉三郭初買」に登場するお嬢吉三や「南総里美八犬伝」の犬塚信乃はそうした育て方をされた一例といえるでしょう。そんな男性には成長してからも自我が「女性」のままである事がままあったらしく、中には女装男子である事を知った上で「妻」に迎える事例も存在したそうです。
このように前近代においては女装男性や男装女性は特に問題視されてはいなかったようなのですが、近代になるとこれが一変します。明治六年(1873)、「違式詿違条例」で男の女装や女の男装が禁じられ、祭礼などで異性装をした人物が逮捕される事例も頻繁に報じられるようになりました。西洋諸国から「文明国」として見られようとし、西洋に追いつくため西洋的価値観を導入する中でこうした異性装が異端視され取り締まられていきます。女装者は犯罪者予備軍として警察から目され、予防拘束・取締りが行われるようになりました。また新聞も「女装の賊」としてしばしば報道しそのイメージを世間に広げたのです。当初は芸能者は例外とされましたが、次第に彼等への風当たりも強くなり女形も日常は弾性として過ごすようになります。歌舞伎と陰子との関係が断ち切られたのもこの時期でした。
大正期に入ると、クラフト・エービングに代表される西洋精神医学者の影響を受けた羽太鋭治・澤田順次郎「変態性慾論」が刊行されベストセラーとなり、そこでは「女性的男子」「男性的女子」も変態性欲の一例とされています。
こうした社会風潮が定着し女装男性は次第に異常視されるようになりましたが、それでも昭和初期になっても非公認の芸者として人気を博した女装男性や女装男娼も少なからず存在したようです。また娯楽小説にも江戸川乱歩「少年探偵団」のように敵を欺くためと銘打って少年が女装し潜入する場面が描かれる事もありました。人々が女装男子に惹かれる心性は根強いものがあったといえます。
戦後になりますと、禁制が解かれ再び女装文化が顕在化。終戦直後には上野周辺で男娼が数多く現れましたが、取締りを受け各地に散りました。その後も女装男性による「ゲイバー」が広まったり、「ニューハーフ」として女装男性が認知されテレビに出演するといった事例も珍しくなくなりつつあり、次第に市民権を獲得しつつあります。
以上、歴史的に概観すると男性の女装は決して珍しいものでなく時には神聖視すらされていた事が分かります。また、彼らの中世的な姿に性的魅力を感じる向きも昔から存在していたのです。してみると、冒頭で述べた「ショタ」愛好の流れも先祖帰りと言えるのでしょうね。
【参考文献】
女装と日本人 三橋順子 講談社現代新書
(今回はこの本の歴史著述部分を主に参考にしました。出てあまり間がありませんので入手も容易かと。)
姫神の本 学研
本朝男色考・男色文献書志 岩田準一著 原書房
修訂日本演劇通史 河竹繁俊著 新潮文庫
日本古典文学全集 義経記 小学館
日本古典文学全集 英草子・西山物語・雨月物語・春雨物語 小学館
信長公記(上) 太田牛一著 中川太古訳 新人物往来社
新潮日本古典集成 三人吉三廓初買 新潮社
八犬伝の世界 高田衛著 中公新書
江戸川乱歩推理文庫 怪人二十面相・少年探偵団 講談社
喪男の哲学史 本多透 講談社
関連記事:
「こんな可愛い子が女の子のはずがない ~千年の昔に発見された萌えの真理~ 古典文学の男の娘を題材に」
「古今東西の萌える人々 ~17世紀のイラン人と現代日本人の少年愛を中心に~」
「偉大なるダメ人間シリーズ番外その5 ブルボン朝フランスの女装の勇士たち」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「日本民衆文化史」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html)
関連サイト:
「Healthy Beauty」(http://pearl.hjp.jp/)
女装のトータル支援サイトだそうです。
「NHKアニメワールド 忍たま乱太郎」(http://www3.nhk.or.jp/anime/nintama/)より
「山田伝蔵」(http://www3.nhk.or.jp/anime/nintama/chara/c019.html)
忍術学園実技担当教師で特技は女装。…いかつい髭のおじさんなんですけどね。
「はつゆきエンタテインメント」(http://notf.sakura.ne.jp/)より
「女装男子ランキング・結果発表!!!!」(http://notf.sakura.ne.jp/2008/08/09/josou-3/)
漫画・アニメ・ゲームでも女装男子は「萌え」属性として無視できないジャンルになってます。
「ういんどみる official web site」(http://windmill.suki.gr.jp/)より
「はぴねす! official web site」(http://windmill.suki.gr.jp/product/6th/index.htm)
渡良瀬準(通称準にゃん)というキャラ(オトコの娘)が大人気。
「キャラメルBOX」(http://www.caramel-box.com/index2.html)より
「処女はお姉さまに恋してる」(http://www.caramel-box.com/products/otoboku/)
「おとめはボクに恋してる」と読むんだそうです。女装美少年・宮小路瑞穂が主人公。
by trushbasket
| 2009-05-31 00:17
| NF








