おっぱい、いっぱい、昔の日本 ~昔の日本人はどれ程おっぱい星人だったのか?~ 中世の古典を素材として
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なんというか諸外国が思想だデモだと、深刻ぶって危険有害な大騒ぎしてるのを尻目に、島国の中に引きこもって、おっぱい、おっぱい叫んで、お気楽安全無害にお祭り騒ぎするイメージ。
で、おっぱい、おっぱい叫んでと書きましたが、なんだか日本人が、おっぱい、おっぱい言い出したのは、近代になってからだとかいう噂を時々耳にします。
しかしですね、あれだけ明白に女を可視化してくれるパーツについて、近代になるまで執着を見せなかったなんてことがあるんでしょうか?
そんなことありえるはずないよ!!
ということで、今回は、前近代の日本人の乳観を探ります。
素材は、中世の物語文学とその周辺分野の作品に見られる、おっぱい描写。
とりあえず、単に子供に乳を飲ませる動作を記しているだけとか、母性の象徴として乳を使っただけとかの、つまらない表現は無視する方向。
で、中世の物語等に顕著な乳描写の定式としてはこんな物があります。
まずは平安時代の『夜の寝覚』から
……ひとへにまつはれたるやうにて見たてまつりたまへば、四月ばかりになりたまひにたる御乳の気色など、紛るべくもあらぬさまなるを、……
(五巻 『新編 日本古典文学全集 28』小学館 476頁)
<訳>
……男君がぴったりとまとわりつくようにして女君を御覧になると、四ヶ月ほどにおなりの御乳の有様など、まぎれもなく妊娠の御様子なので、……
同じく平安時代の『狭衣物語』ではもう少し表現が細かくて、
うちみじろきて苦しと思したるに、汗も押しひたしたるやうに見えたまへば、近う寄りてうちあふがせたまへるに、単衣の御衣の胸少しあきたるより、さばかりうつくしき御乳の例ならず黒う見ゆるに、心さはぎせられながら目とどめさせたまへれば、隠れなき御単衣にていとしるかりけり。
(二巻 『新編 日本古典文学全集 29』小学館 197頁)
<訳>
女二の宮は少し身じろぎして苦しくお感じになって汗に浸したかのような御様子でおられるので、母宮が近くに寄って扇いで差し上げると、単衣の着物の胸の少し開いたところから、あれほど美しい御乳が普段と違って黒く見えており、胸騒ぎしながら目をお止めになると、隠しようもない御単衣なので妊娠しているのが丸分かりであった。
さらに鎌倉時代以降の物語でも同様の表現は繰り返され、
『浅茅が露』において
……昼つ方、寝入り給へるを、つくづくとまぼり奉りて添ひ臥したるに、すこし身じろぎ給へるに、御胸の開きたるより、御乳の、ことのほかに黒く見ゆるを、僻目にやと、寄りて見奉れば、まがふべくもなし。
(『中世王朝物語全集 1』笠間書院 220頁)
<訳>
……昼の間、姫君が寝入っておられるのを、侍女が見守り申し上げつつ添い寝していると、少し身じろぎなさったところで、御胸の開いたところから、御乳の、非常に黒く見えるのを、見間違いかと、近寄って拝見すると、紛れもなく妊娠であった。
『海人の刈藻』においては
……、御乳の気色ゆかしくて、御身のぬるみ給ふをさぐり給ふやうにて、御単を引き顕はして見奉り給へば、曇りなくうつくしき御乳の先の著く見えけるにぞ、……
(二巻 『中世王朝物語全集 2』笠間書院 109頁)
<訳>
……、姉君は女君の御乳の様子が知りたくて、御体の発熱しておられるのを調べるふりをして、御単衣を引きはがして拝見なさったところ、曇り無く美しい御乳の先にはっきりと妊娠の兆しが見えるので、……
とまあ乳首の色を元に妊娠を知るって描写が頻出しています。ストーリーを転がすための妊娠イベントのパーツとしてオッパイというか乳首が使われているわけですね。
ですから、おっぱいは描かれてはいても、それは妊娠の添え物。そこには抽象的で軽い存在感しかありません。
おっぱいは水に浮くほど軽いとは言いますが、しかし大きなモノになると肩が凝る程度には重いと言います。ですから、いかにおっぱいが軽いにしても、これらのオッパイの存在感は軽すぎです。
ちなみに誇張表現で知られる平安時代の物語風歴史書『大鏡』には、
あやしきことは、源宰相頼定の君の通ひたまふと、世に聞こえて、里に出でたまひにきかし。ただならずおはすとさへ、三条院聞かせたまて、この入道殿に、「さることのあなるは、まことにやあらむ」と仰せられければ、「まかりて見てまゐりはべらむ」とて、おはしましたりければ、……。……、御胸をひきあけさせたまひて、乳をひねりたまへりければ、御顔にさとはしりかかるものか。……、「まことにさぶらひけり」とて、したまひつる有様を啓せさせたまへれば、……。
(二巻 『新編 日本古典文学全集 34』小学館 245,246頁)
<訳>
奇怪なことに、源宰相頼定が当時皇太子であった三条院の妃である綏子の元へ通っておいでだと、世間の噂となり、綏子は里へとお下がりになった。妊娠しておられるとの噂さえ、お耳に入れた三条院は、藤原道長殿に、「こんなことになっているとか言われているが、本当だろうか」と仰られ、道長殿は「行って見て参ります」といって、綏子のところにおいでになり、……。……、御胸を引き開けて、乳をひねりなさったところ、なんと御顔にさっと乳汁が走りかかったのであった。……、「まことでございました」と言って、事の次第を報告なさり……。
などと描かれていて、なんと、おっぱいシャワーで妊娠を察知とかいう、それなんてエロゲなステキ表現。
とはいえ乳が妊娠を知るための手がかりとして描かれている点で、本質的に、上記の諸表現と違いはありません。
なるほど、一見描写は詳細具体的ですが、具体的に描写されているのはオッパイから生じる派生現象であって、おっぱい自体の存在感は、前記の例と大して変わらぬ抽象的な軽いものです。
また、この他にも乳と妊娠を関連づけた表現はあり、鎌倉時代の『我身にたどる姫君』において、
……、お妃は御乳などいみじうしぼり捨てて、いとうつくしうひき装束きて、院に入らせたまひにけり。
(五巻 『我身にたどる姫君全註解』有精堂 340頁)
<訳>
……、御乳など懸命に搾り捨てて、大変美しく衣裳を着飾り、上皇の御屋敷にお入りになった。
との描写がみられます。
これは上皇の妃の一人が、実家で不倫の子を秘密裏に出産して、それを隠して、先帝の元に戻るという場面なのですが、
不倫の妊娠という事件を隠して妃としての権力争いに舞い戻る決然たる意思を示す小道具として、おっぱいが使われているわけです。
なんというか、おっぱい描いてるのに、凄く雄々しい感じで、その上、おっぱい自体の存在は軽く抽象的で。せっかく掴み絞られるおっぱいなのに、エロスの欠片もありません。
こんな感じに、中世の物語とその周辺作品には、ストーリー上の妊娠問題を描くための小道具として乳を用いた描写がとっても多いんですが、
しかしですね、妊娠描写の手段としてのおっぱい描写なんてエロスの欠片もないやり口は、おっぱい描写として、どうかと思うんですよ。
ここで思い出すのは、教養科目などと言って、自然人類学のサルに関する講義を受けていた頃の記憶、
所詮教養科目なのでほとんど何も憶えていない中、僅かに残った自然人類学の記憶。
たった二つ、私が残している知識は、
ヒトは他のサルに比べて体の大きさ割にチンコがでかい。
そして
子育てに乳房の膨らみはいらない。チンパンジーなんかぺったんこだけど授乳に何も問題ない。
というもの。
前者はどうでも良いので置いておいて、今回、重要なのは後者。
そう、おっぱいの膨らみは、赤ちゃんのためにあるんじゃない。おっぱいの意義は別の所にある。
そう、
おっぱいは、エロのために膨らんでいるんだよ!!
というわけで、エロスのかけらもない妊娠を描く手段としての描写など、おっぱい描写としては下の下。
とうてい許されることではないのです。
もっとエロを。
もっとエロを。
せめてもの救いは、『狭衣物語』で「あれほど美しい御乳(さばかりうつくしき御乳)」、『海人の刈藻』で「曇り無く美しい御乳(曇りなくうつくしき御乳)」と、妊娠を描写するついでとはいえ、エロい視線を感じさせる表現が為されているということでしょうか。
そういえば『海人の刈藻』という作品は、
……御乳母召し出づるに、……。……。白くうつくしげなる胸のあたりも、「げに、かからざらんもうたてあらん」と見ゆ。
(四巻 『中世王朝物語全集 2』 173頁)
<訳>
……御乳母を呼び出したところ、……。……。白く可愛らしい胸のあたりの様子は、「まったく、乳母はこうでなくてはいけない」と思われる。
という描写もあって、
乳母を選ぶシーンで、ついでに、おっぱいの美しさについて、述べてたりもするんですよね。
とはいえ、こんな、ついでに褒めといてやるよって感じの適当な抽象的な賞賛ではなくて、
膨らみを讃えたりとか、揉んだりとか、もっと本気でおっぱいに取り組んだ描写が欲しいんですがねえ。
ところが、困ったことにこれが、なかなか。
例えば平安時代の『源氏物語』には、授乳ではなしに、おっぱい吸われるシーンが二つばかりあるんですが、
……、ふところに入れて、うつくしげなる御乳をくくめたまひつつ戯れゐたまへる御さま、見どころ多かり。(十九巻「薄雲」
『新編 日本古典文学全集 21』小学館 439,440頁)
<訳>
……、紫の上が明石の君の産んだ娘を懐に入れて、可愛らしい御乳を口に含ませなさって授乳の真似事をなさっている御様子は、見どころの多い光景である。
いとよく肥えて、つぶつぶとをかしげなる胸をあけて乳などくくめたまふ。児も、いとうつくしうおはする君なれば、白くをかしげなるに、御乳はいとかはらかなるを、心をやりて慰めたまふ。
(三十七巻「横笛」『新編 日本古典文学全集 23』小学館 360頁)
<訳>
雲居雁が大変ふくよかで、むちむちと美しい胸を開けて子供の口に乳をふくませておられる。子供も、大変可愛らしい若君で、色白で美しい様子でいらっしゃるので、御乳は汁を出すこともなく乾いているにもかかわらず、あやそうと気休めにしゃぶらせているのであった。
違うだろ、ガキをあやすために、出もしないおっぱい吸わせるとか、違うだろ。
それは正しい用法でないよ。
「可愛らしい(うつくしげなる)」とか「きれいな(をかしげなる)」とか、「ふくよか(よく肥えて)」とか「むちむち(つぶつぶ)」とか、女性美とか女性の肌を讃える際の常套句を使って、一応お義理に褒めとけば良いってもんじゃないよ。
吸わせるなら、むしろすぐ傍にいる殿方だろ。具体的には前者は光源氏、後者は夕霧。
これじゃ全くおっぱいの無駄遣いだよ。
おっぱいは、もっとふっくらとうれし恥ずかしく描かれるべきなんだよ!!
まさか、ほんとに、日本人が、おっぱいの真価に気づくのは近代になってからだというのか……。前近代の日本人にとっては、おっぱいはちょっと小奇麗小マシなだけの大した意味のない贅肉袋に過ぎないとでも言うのか……。
ありえない、ありえない。
だって、中世の物語等において、確かに、おっぱいはさらけ出すのが恥ずかしいものとして描かれてるんですよ。
例えば、『源氏物語』の出歯亀シーンでは、
白き羅の単襲、二藍の小袿だつものないがしろに着なして、紅の腰ひき結へる際まで胸あらはにばうそくなるもてなしなり。
(三巻「空蝉」『新編 日本古典文学全集 20』小学館 120頁)
<訳>
白い薄物の単衣襲に、二藍の小袿のようなものをしどけなく着崩して、紅の袴の腰の結びの際まで胸を露わにだらしない様子であった。
との光景が覗きの対象として描かれています。
乳を丸出しにするのは「だらしない様子(ばうぞくなるもてなし)」なんですよ。
また同じく源氏物語には女官達が氷で遊ぶシーンがあって、
心づよく割りて、手ごとに持たり。頭にうち置き、胸にさし当てなど、さまあしうする人もあるべし。
(五十二巻「蜻蛉」 『新編 日本古典文学全集 25』小学館 249頁)
<訳>
女官達は必死になって氷を割って、それぞれ欠片を手に持っていた。頭に載せたり、胸に押し当てたりなど、みっともないことをする者もいた。
氷を当てるんだからここで言う胸は服越しじゃなくてはだけてるんでしょうが、それは「みっともない(さまあしうする)」と評価されるような行動なんですよ。
そして『大鏡』は藤原道隆の三女についてこう伝えます。
客人などのまゐりたる折は、御簾をいと高やかに押しやりて、御懐をひろげて立ちたまへりければ、宮は御面うち赤めてなむおはしましける。さぶらふ人も、面の色違う心地して、うつぶしてなむ、立たむもはしたに、術なかりける。宮、後には、「見返りたりしままに、動きもせられず、ものこそ覚えざりしか」とこそ仰せられけれ。
(二巻 『新編 日本古典文学全集 34』小学館 257頁)
<訳>
客人などが参った時には、御簾をたいへん高く押し上げて、御懐を広げてお立ちになったので、婿の宮様は御顔を赤らめなさっておられた。お側に使える人々も、顔色が変わるような心地がして、うつむいて、立ち上がるのもきまりが悪く、どうにも困っていた。宮様は、後に、「振り向いたまま、身動きも出来なくなって、なにも考えられなかった」と仰られた。
やはり懐を開けて胸をさらけだすのは、とっても、とっても恥ずかしいのです。
そして、その恥ずかしさは、おっぱいが贅肉袋じゃない証。
おっぱいは、中世人にとっても、普段は隠しとかなきゃいけないほどの非日常的な特別な存在、うれし恥ずかしエロスのつまった秘密のロマン袋だったんですよ。
ではそれなのに、なぜ、ステキにえっちぃオッパイが描かれていないのか。
そうだ、頼った資料が良くないのだ。
エロ描写をぼかすのが通例の、お上品な一般の物語文学とか、政治的な権謀術数に意識の集中する男の歴史書『大鏡』に頼ったのがそもそもの間違いなのだ。
というわけで、ここに、新たなる資料を呼び出しましょう。
一つは、貴族の屋敷に仕える下仕えの女達を対象とした庶民的娯楽的な平安時代の大衆小説『落窪物語』(下仕えにしたって社会階層としてはせいぜい上の下でしょうから、正確には大衆小説よりも大衆的小説とかプレ大衆小説とでも呼ぶべきですが)。
もう一つは女性によって書かれた平安時代の物語風歴史書『栄花物語』。
歴史書でありながら、女として分を守って記述したのか、女としての関心がそっち向いてるのか、政治的側面を振り捨てて、儀式・式典の優雅さとか色恋だの後宮の寵愛だのに話が流れがちな作品で、
色欲がらみの小ネタ帳として期待が持てそうな一品です。
『落窪物語』は継母にいじめられる姫君の物語で、姫君は継母の企みによって監禁され、継母の差し向けた老医師にレイプされそうになるのですが、その際の描写がこれだ。
……、「医師なり。御病もふとやめたまつりてむ。今宵よりは一向にあひ頼みたまへ」とて、胸かいさぐりて手触るれば、女おどろおどろしう泣き惑へど、言ひ制すべき人もなし。こしらへかねて、せめて、わびしきままに、……
(二巻 『新編 日本古典文学全集 17』小学館 122頁)
<訳>
……、「お医者さんぢゃよー。御病気なんか簡単に治して見せますぞー。今晩からは、ワシだけを頼りにしておくれ」と言って、胸をまさぐり触ってくるので、女君は困ってひどく泣き騒いだけれど、やめるよう口添えしてくれる人はいない。堪えきれず、追い詰められ、つらさのままに、……
ああ、乳が、揉みしだかれている。
お医者さんごっこだ。
お医者さんごっこだ。
お医者さんがするお医者さんごっこだ。
これぞおっぱいの一つの正しい使用法でしょう。
お上品な高級物語とちがって、人々のおっぱいへの関心がいかなるものであるのか、色欲のクライマックスで人々がどのようにおっぱいを扱ったのか、ハッキリくっきり現れている。
やっぱり、おっぱいはエロスに揉みしだくものなんですね。
そして『栄花物語』。
これは、期待に違わぬ作品。
圧倒的に具体的な乳描写、
膨らみある物体としての三次元的な存在感を放つおっぱいの表現が、
いくつも見られる作品でした。
この作品の獲物となった乳の持ち主は二人。
一人は藤原教通の妻で、その描写は、
尼上つと抱きたてまつりたまひて、臥させたまへり。御胸がちに乳などもつとはりて、いみじうあはれに見えさせたまふ。いとあやしう、所どころ赤みなどしてうたてげにおはしますは、世の人の有様にてうせさせたまひぬるにやあらんと、……
(二十一巻 『新編 日本古典文学全集 32』小学館 382頁)
<訳>
母である尼上は病死した教通の妻の遺体をしっかりお抱き申し上げて、横たえなさった。御胸の高く盛り上がって乳など張っているのが、たいへん哀れをもよおす様子である。尋常でないことに、所々赤らんでいて妙な様子なのは、世間の人と同様の流行病で亡くなったからであろうかと、……
もう一人は、藤原道長の娘の嬉子で、なんとこちらは三ヶ所でその乳について詳細な描写が為されており、
督の殿のは七月にあたりたまひて、御腹いとふくらかにて苦しげに見えさせたまふ。二藍の御衣に透かせたまへる御胸のほど、御乳のあたりなど、わざとつくりたらんものめきて、をかしげにらうたげにおはします。
(二十五巻『新編 日本古典文学全集 32』小学館 478頁)
<訳>
お妃の出産予定は七月でいらっしゃるので、御腹もたいへんふっくらして苦しげにお見えである。二藍の御衣に透けて見える御胸の様子は、御乳の辺りなど、巧みの技の造形物であるかのようで、美しく愛らしい様子でいらっしゃる。
……、いづれの日ぞや、二藍の御衣に紅の御袴奉りたりし、御胸のわたり、御乳のほどのさま、造りたてまつりたらんやうにうつくしかりしに、御乳の尖はうち赤みたるに、御帯のほどいとけざやかなりしなど、よろづに恋しく、……
(巻第二十六巻 『新編 日本古典文学全集 32』小学館 518頁)
<訳>
……、いつの日であったか、二藍の御衣に紅の御袴をお召しになっておられたが、その御乳の様子は巧みの技の造形物であるかのように美しくいらっしゃり、御乳の尖りは赤みを帯びていて、御腹帯の辺りはたいへん鮮やかであったなど、どれもこれも何かにつけて恋しくて、……
……、いささかなき人ともおぼえさせたまはず、白き御衣の薄らかなる一襲奉りて、まだ御帯もせさせたまへり。御乳はいとうつくしげにおはしますが、いたう硬るまで膨らせたまへれば、白う丸に、をかしげにて臥させたまへるに、……
(巻二十六巻 『新編 日本古典文学全集 32』小学館 510頁)
<訳>
……、全く亡くなった人とは見えないのだが、白い御衣で薄いものを一揃いお召しになるとともに、まだ御腹帯もしておられた。御乳はたいへん可愛らしい様子でいらっしゃるが、ひどく強ばるほどに張っておられるので、白く丸く、美しい様子が臥しても保たれているのだが、……
というわけで、「はり」「膨らせたまへ」「白う丸に」「尖」と、他では見られぬ3Dな存在感。
教通の妻は産婦であり、嬉子は妊婦なので(だからおっぱいが張ったり固くなったりしてる)、
その点では最初の方に挙げた数々の例と共通しているわけですが、
このオッパイの具体的存在感は、
妊娠という事件に絡んだストーリー進行の小道具として、おっぱいを抽象的に利用していただけの、それら前述の例とは明らかに違います。
病人や、妊婦、産婦、死人といった、通常でないおっぱいしか描かれてないことが少々気に掛かりますが、『栄花物語』も一応は歴史書であり、何らかの特別な出来事を描くのが仕事ですから、
おっぱい描写が、ちょっと非常のおっぱいに偏ってしまうのはやむを得ないと言えるでしょう。
それにしても、そんなオッパイの形とか云々してる事態じゃない場面の描写ですら、
ここまで立体的3D的なこだわりあるオッパイ描写というのは、作者、お前、どんだけおっぱい星人なんだよ、女なのに。
何というか、『栄花物語』は、ビジュアル的な関心の点で、中世最強の乳本だと言えますね。
で、その乳本のおかげで、中世日本人が、尖りで飾られたおっぱいの白くて丸い膨らみに、相当ねちっこい視覚的興味を向けていたことを、読みとることができますね。
というわけで、なんとか素材は集まりました。
ここで中世日本人の乳観を総括しましょう。
中世の日本人は既に、十分、十二分におっぱい星人。
中世日本人にとって、尖りで飾られた白くて丸いおっぱいの膨らみは、見て美しく、揉んで楽しい。
その乳に向ける生暖かいピンクの視線は、おそらく、近代人と何等変わるところがない。
おそらくは、
千年前でも万年前でも人間は前近代の間もずっと変わらずおっぱい星人だったんでしょうね。
参考資料
『新編 日本古典文学全集』小学館
『中世王朝物語全集』笠間書院
徳光澄雄著『我身にたどる姫君全註解』有精堂
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