2009年 06月 21日
戦争史における兵力について ~軍事史の巨人ハンス・デルブリュックの著作から~
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兵力というのは戦争史の基礎です。
戦争に関連する事件や人物と言った諸事項の意義を知り、正当な評価を下すためには、兵力が非常に重要な要素となってきます。
それどころか、軍事が政治上の重要課題である以上、兵力が分かることは、軍事史を超えたより広い歴史分野の理解のためにも、小さくない意義を持ってきます。
ついでに言うと、歴史を娯楽的に楽しむ人間にとって、戦争は歴史の華といってよく、当然、兵力はこの上なく重要。
兵力が分かるのと分からないのでは、戦争扱う際のリアリティとか、迫力とか、高揚感とか色んな要素が全然違いますし、
兵力如何によっては、私や貴方の贔屓するあの人物やこの人物こっちの軍やあっちの軍の評価が、上がって嬉しく下がって悲しい。
ということで、なんとか確定したい歴史上の諸戦争のあれやこれやの兵力。
ですが、歴史的な兵力の確定は、なかなか難しい問題を抱えています。
今回は、その難しい問題についてのお話。
とはいえ私が、自分の言葉であれこれ語るのはひとまず置いて、もっと相応しい人物の言葉を借りて語ろうと思います。
その人物とは20世紀初めのドイツの歴史家ハンス・デルブリュック。簡単に言うと、近代的な軍事史研究の基礎を作った偉い人。
以下は、彼の大著『政治史の枠組みにおける戦争術の歴史』の第一巻第一編第一章の前半部の翻訳。
昔々に私が読んでみようとして、あっという間に挫折した際の残り滓に、手を加えたものです。
外人さんの本なのでマイルとか使ってくれやがりますが、そういった箇所には[]書きでだいたいのキロメートルへの換算を付けてあります。
戦争史の前提としての兵力(Hans Delbrueck 『GESHICHITE DER KRIEGSKUNST im Rahmen der politischen Geschichte』 Erster Teil Erstes Buch 1. Kapitel. 「Heereszahlen. Vorbereitendes.」)
資料的に可能であれば、戦争史研究は兵数から始めるのが最も良い。兵数は力関係において、決定的に重要であり、大兵力ならば勝ち、少数であれば、指揮によって補うことになる。だがそれだけでなく、兵数は絶対的であり、1000人の集団がわけもなくやってのける行動も、10000人では一個の業績、50000人では芸術となり、100000人では不可能である。大軍では食糧供給の問題が常に戦略の重要部分を占める。それ故軍隊の規模をはっきり想像することなしに、歴史上の伝承や事件について、批判的な論述を行うことは不可能である。
この点に関してはまだ誤った考えが支配的で、伝承された数を復唱することが、そこから生ずる影響を意識せずに、行われている。そこで、いかに歴史伝承が間違った数字に満たされているか、今からいくつかの例を示しておくのは、いわば批判的な洞察力を磨く上で、有益であろう。
解放戦争を扱った古い著作において、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の副官で戦争の間総司令部で知識を蓄えた Plotho の作品において、オーストリアの古参兵によるラデツキーの伝記において、さらに Beitzke のよく読まれる傑作『Deutsche Freiheitskriege(ドイツ解放戦争)』の古い版において、フランス軍は1813年秋の戦役開始時に300000から最高で353000人と述べられている。同盟軍はこの頃492000人の兵力を有しており、したがって圧倒的な数的優勢にあったという。実際にはナポレオンは要塞守備隊を除いて戦場に440000人を有し、つまりは同盟軍とほぼ互角の数に増加していたのである。
E.M.Arndt は、ナポレオン戦役を通じての全戦死者数は1814年時点で10080000人と評価した。詳細な調査では、二百万を下回っており、そのうち4分の1がフランス人に当たるだろうとする。いずれにせよ、正確な統計はかなり少ない数を導き出すだろう。
また解放戦争に関する最近の学問的な記述では、ハーゲルスベルクの小戦闘において、マルク・ブランデンブルクの郷土防衛隊が4000のフランス兵の頭を棍棒で砕いた、とされる。現実にはこれはおよぞ30人であった。
1897年に出版されたオーストリア参謀本部の陸軍大尉 Berndt の『Die Zahl im Kriege(戦争における数)』では、オルレアンの戦い(1870年12月3日、4日)についてフランス軍を60700と述べ、別の研究者は174500かさらにそれ以上と見積もっている。
同じ本によればアスペルンにおいて75000のオーストリア軍が90000のフランス軍と戦い、フランス軍のうち44380人が失われたという。実際には初日に約105000のオーストリア軍が35000のフランス軍と、二日目(死者を引き上げた後で)同じオーストリア軍が約70000のフランス軍と戦い、推定ではフランス軍は16000から最高で20000人を失った。
グランソンにおけるシャルル豪胆公の軍隊はスイスの同時代人によって100000から120000人と述べられており、その後ムルテンでは彼はその三倍の軍勢を動員したそうである。実際には彼は最初の戦いで約14000人、第二の戦いでそれより数千人多い兵力を持っていたにすぎない。スイス人は、計り知れないほど優勢な軍勢と戦ったつもりだが、両方の戦いともかなりの数的優勢にあったのである。すでにグランソンにおいてスイス人は7000人ものブルゴーニュ軍を殺したつもりであるが、実際は7人の騎士とわずかな雑兵であった。
何も誇張されたイメージに対する一般的な指向や、数量感覚の欠如、自慢癖、恐怖、弁解といった人間の弱さだけがとてつもない誇張を引き起こすのではない。熟練した観察者にとってさえ大軍を正しく見積もることは、完全に自由に観察できる味方の軍においても、非常に困難である。そして敵軍の場合は不可能も同然であり、このことにも十分注意する必要がある。それについて良い例を示してくれるのが、つい最近公刊されたフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の、自ら指揮をとって被ったアウエルシュタットの敗北に関する、覚え書きである。この王は、戦闘の間優勢な兵力によって悩まされたことについて、思い違いしたなどありえないと言い、フランス軍は歩兵の優勢な兵力のおかげで、戦闘中の大隊を何度も新しい部隊によって交替させることができたとする。プロイセン軍50000は強かったので、フランス軍はおよぞ70000~80000と推測されたに違いないが、実際には27000であった。そしてフリードリヒ・ヴィルヘルムは敗北を言い繕うつもりだったのではなく、実際に思い違いしていただけであり、このことはこの王がすぐ後に付け加えた補遺によって知ることができる。彼は、そこでフランスの広報やその他の知らせから「恥ずかしいことだが、敵は30000を超えない兵力で我々に対していた」と納得した、と語っている。
注意して欲しいのは、必ずしも過大評価と誇張だけが起こるのではないことである。その反対もおこるのであり、そのいくつかの例もここまでに、かなり慎重に挙げておいた。
クセルクセスがギリシアへ率いていった軍隊は、ヘロドトスによると、随員を合わせて正確に4200000人と述べられている。一個軍団30000人は、ドイツの行軍隊形では約3マイル[約4.8km]の距離を占める(保有車両を除く)。したがってペルシア軍は420マイル[約680km]となり、戦闘がテルモピュライに着いた時に、ようやく後尾はティグリス側の向こうでスサを進発することができたであろう。ドイツの軍団は大砲と弾薬輸送用の手押し車を伴っており、これらが広い空間を占めるので、その限りでは古代の軍隊はより狭い空間に収まったと言える。他方ではペルシア軍は間違いなく取るに足りない行軍規律しか持っておらず、その規律も軍隊組織を巧妙に構成した場合にのみ、不断の注意と努力によって保つことができる。行軍規律がないと隊列は、たちまち二倍、三倍に延長してしまう。それ故ペルシア軍が、行軍に必要とした空間については、たとえ大砲がなくとも、近代軍とほぼ同等と見なすことができる。
クセルクセスが大軍とともに退却した後、マルドニオスが300000人を率いて後に残ったというが、この数にはまったく信憑性がない。ヘロドトスの物語によるとマルドニオスは、二度目のアテナイ破壊を行うと、そこからデケレイアを通ってタナグラに戻りさらに行軍を続けている。300000人の軍隊がそのように行軍するなどまったく不可能である。ペルシア軍の一部がボイオティアに残っており、デケレイアや山中のその他の峠道をすべて避けたとしても。その軍隊は戦闘員75000(ギリシア人同盟者を含む)以上を数えることはできない。
だがこれらの方法で徐々に数値を引き下げたとしても、それは前提としての意味しか持たず、結論に達することはない。
ヘロドトスの示すような数字に価値を認めることは自己欺瞞であり、そのことを理解しよく確認しておかねばならない。そこから何らかの方法で数字を引き出してくることはできるが、そうしたところで何ら得るものはない。歴史学において本当に許される方法は、信頼できる情報が得られぬ場合に、いいかげんな情報で満足したり、その情報が信頼するに足りるかのように装うことではない。唯一の方法は、信頼すべき伝承と見なして良いものとそうでないものを、明確に区別することである。場合によっては、ペルシア軍の規模についておよその見積もりを可能にする何らかの証拠が、見つかることがあるかもしれない。だが当面は、ギリシア人の示す数字がまったく信頼に値しないことが確認されている。ギリシア人の挙げる数は、スイス人のシャルル豪胆公に関する主張と比べても、信憑性が優っているわけではない。つまりそこからは、ギリシア軍とペルシア軍のどちらかが数的に優勢であったかを、読みとることはできないのである。
さらにギリシア軍のほうを見ると、我々は今度はかなり確かな根拠に基づいて研究しているように見える。ヘロドトスはプラタイアの戦いについて各国の分担兵力の詳細な表を示しており、アテナイ兵8000、スパルタ兵5000、ペリオイコイ(スパルタ半自由民)5000など全部で重装歩兵38700であった。ギリシア人はおそらく自分たちの兵力を知っていただろうから、ひょっとしたらこの数字を信用できるのかもしれず、実際にたいていの研究者はあっさりとその数を受け入れてきた。だがこれは方法的な誤りである。情報提供者であるヘロドトス自身が完全に恣意的な見積もりから表を作成した、と言い切ることはできないが、その点についても少なくともこの著述家の数量感覚が不適切なものに見える箇所はある。ギリシアの重装歩兵はそれぞれ従者を伴うのが常であり、完全な軍の兵力を算定するため、ヘロドトスは数を倍加している。ただし彼によるとスパルタ兵はそれぞれ7人のヘイロタイ(国家奴隷)を伴っており、したがってさらに35000人がそこに加わる。5000の戦闘員に対して35000の非戦闘員というのは、軍の運動を考えても食糧供給を考えても、不合理である。そのようなことになったのはおそらく、ギリシア人がスパルタ兵の名のもとに、常に戦場へ従者数名を伴い上流市民を思い浮かべたからだろう。従者7名が適当な数に見えたために、深い考えもなく7にスパルタ兵の推定人数を掛けたのである。同じ様なことは、近代の歴史家にも起こっている。 Philippson 『Geschichte des Preussischen Staatswesens(プロイセン国制史)』第2巻176頁では、フリードリヒ大王のプロイセン軍(1776年)が、洗濯女──正確に数えて──32705人を戦場へ伴っているのを、読むことができる。その本の著者はその資料を示すことを怠っては折らず、彼の用いた Buesching の『Zuverlaessige Beitraege z. d. Reg.=Gesch. Koenig Friedrichs II. v. Preussen(プロイセン王フリードリヒ2世治世史についての信頼のおける論文集)』は、大部分が信頼のおける内容である。しかも実際にフリードリヒ大王時代の軍隊には多数の女性従軍商人と兵士の妻が同行しているので、5000のスパルタ兵が35000のヘイロタイ(国家奴隷)を伴うよりは、200000人の軍隊が32705人の洗濯女を伴うほうが、はるかに現実味がある。さらに体系的に専門教育を受けた近代の歴史家のほうが素朴なヘロドトスよりも、信頼に値する。だが結局は彼ら二人の情報はどちらも受け入れることはできない。フリードリヒ王および彼の軍隊の一般的な特質を少し調べれば、この軍隊が戦場まで洗濯女を同行していたはずはなく、つまりは Buesching が何らかの思い違いをしているのだと、理解することができる。彼は、兵士たちのテントごとに洗濯女がいると見積もって、その数を導き出しており、 Philippson がその面白い主張を批判的な検討もなしにそのまま書き写したのである。全く同じ様なことがヘロドトスの言う35000のヘイロタイ(国家奴隷)についても起こっている。ギリシア軍の兵力についてのヘロドトスの計算は約110000人に達する
この数字をそのまま書き写してきた歴史家達は、110000人を一箇所で長期間養うことが、何を意味するのか、全く理解できていない。これについては、記録に残った確かな数を使うことの出来る後の時代において、十分に論じなければならないだろう。伝承された数字は全く信用するに足りない。我々は、プラタイアのギリシア軍の兵力について、結論を引き出せるような記述を持っておらず、その事実を受け入れなければならない。
マラトンでのアテナイ軍が10000人の兵力であったとする後代のギリシア語資料の記述も、全く裏付けがない。同盟したプラタイアの軍の兵力が、その数のうち、あるいはその数に加えて、1000名と述べられているが、それだけで十分にこの記述が恣意的な見積もりであると示されている。プラタイアは非常に小さな町で、アテナイ軍の十分の一、ましてや九分の一を用意するなど断じてあり得なかった。もし歴史家達がこれまでたいていその10000という数を受け入れてきたとすれば、それはその数が物質的にある程度妥当なものと思われたからである。だが何らかの方法で証明を行えば、その数は効力を持ち得ないだろう。
信頼できる証拠資料の不足を乗り越え、ペルシア戦争におけるギリシア軍の兵力を想像するためには、事件の経過自体をまず知ることができる他、後の歴史や人口規模からの推測に頼ることができる。そして人口規模は、土地の面積と扶養能力からの推論によってある程度明らかにすることができる。
最も豊かな国であるアテナイについての結論では、前490年にアッティカ半島には100000の自由人がいたと考えられるが、その頃はまだ奴隷人口はそれほど多くなかっただろうから、おおよそ25000~3000平方マイル[=約6500~7800平方キロメートル]に120~140000人(1平方キロメートルに約50人)が住んでいたのであろう。これは今日とおよそ同じである。
このアテナイ人のうちどれほどの人数がペルシア戦争における戦いで武器を身につけたかは、まだ分からない。事件の経過事態が見積もりを可能にするかどうか、調べなければならない。
ということで、翻訳は以上。(1平方キロメートルに約50人)って箇所は(1平方マイルに約50人)の間違いではないかと思うのですが、原文に(ca. 50 auf den Quadrat=Kilometer)とあるので、そのままにしておきます。
要は、歴史上の兵力に関しては、資料に誇張やら誤解やらが大量に紛れ込むのが通例で、全然まともな情報が伝承されてこず、批判的に受容する必要がある
というお話でした。
そういうわけで、歴史家の先生達は、給与だの財政処理だの契約だの命令だのに関して作られる事務処理文書をかき集めて推測の基礎にしたり、人口や面積や戦場の地形から計算したりして、軍事史上の兵力につき、うさんくさい伝承を批判してまともな数字に確定していくようです。
でも、そういった作業も、実は、極小の断片の上に推測に推測に推測を重ねて推定しているに過ぎないわけで、永遠に完璧には辿り着くことができません。計算の基礎とする文書その他の材料の不足に加えて、臨時的突発的な兵力の増減とか、戦闘員と非戦闘員の境目の不明瞭さとか、推測を難しくする要素が山盛りですから。
そしてそこに、ちょっとした贔屓目とか、過去の時代に対する過小評価・過大評価といった、不純な要素が紛れ込む余地はいくらでもありますから、推定は完璧のまがい物とすら言えないでしょう。
まあ、伝承される歴史的事実の存否・順序の確定でさえ色々大変なところ、兵力の確定と言えば、歴史的事実の中の具体的な様相の確定なわけで、どれだけ真摯に資料を集め、どれだけ見事な手腕を振るっても、真理真相との距離が無限大のままなのは、仕方ないことではあります。
残念なことではありますが、結局、軍事史・戦争史に登場する兵力というものは、重要要素だというのに、どこまで行っても、いい加減なものでしかあり得ないということなんですよね。
で、それなら、兵力については、ちょっと杜撰な推定がされていたり根拠が曖昧でも余程変な結果になっていない限り寛容に見逃してやるべきだし、非常に優れた手法で厳密に確定されていても崇め奉るようなもんではないということになりますよね。
ということで、
いかに軍事的な伝承がいい加減で考証が必要かって内容の文章を掲載しといてあれなんですが、
いや、むしろそんな内容の重めの文章を掲載したからこそあえて言いたいんですが、
戦争史をネタに遊ぶときは、議論の筋がおかしなものになってなければ、兵力の考証は、自分で追求するのも人に要求するのも、ほどほどに。
あんまりムキになっても、しんどいだけで得るものはそんなに大きくないので。
参考資料
『現代戦略思想の系譜』ピーター・パレット編 防衛大学校「戦争・戦略の変遷」研究会訳 ダイヤモンド社
『世界の戦争』 講談社
Hans Delbrueck著『GESHICHITE DER KRIEGSKUNST im Rahmen der politischen Geschichte』
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F.E.Adcock『ギリシア人とマケドニア人の戦争術』(翻訳)について補足
れきけん・とらっしゅばすけっと/京都大学歴史研究会関連発表
F.E.Adcock『ギリシア人とマケドニア人の戦争術』(翻訳)(当ブログ内に移転しました)
http://trushnote.exblog.jp/14618338/
『軍事史概説 戦略と戦術の東西文明五千年史』(当ブログ内に移転しました)
http://trushnote.exblog.jp/14455184/
オットー・ヒンツェ『国家組織と軍隊組織』(翻訳)(当ブログ内に移転しました)
http://trushnote.exblog.jp/14589837/
リンクを変更(2010年12月8日、16日、21日)
戦争に関連する事件や人物と言った諸事項の意義を知り、正当な評価を下すためには、兵力が非常に重要な要素となってきます。
それどころか、軍事が政治上の重要課題である以上、兵力が分かることは、軍事史を超えたより広い歴史分野の理解のためにも、小さくない意義を持ってきます。
ついでに言うと、歴史を娯楽的に楽しむ人間にとって、戦争は歴史の華といってよく、当然、兵力はこの上なく重要。
兵力が分かるのと分からないのでは、戦争扱う際のリアリティとか、迫力とか、高揚感とか色んな要素が全然違いますし、
兵力如何によっては、私や貴方の贔屓するあの人物やこの人物こっちの軍やあっちの軍の評価が、上がって嬉しく下がって悲しい。
ということで、なんとか確定したい歴史上の諸戦争のあれやこれやの兵力。
ですが、歴史的な兵力の確定は、なかなか難しい問題を抱えています。
今回は、その難しい問題についてのお話。
とはいえ私が、自分の言葉であれこれ語るのはひとまず置いて、もっと相応しい人物の言葉を借りて語ろうと思います。
その人物とは20世紀初めのドイツの歴史家ハンス・デルブリュック。簡単に言うと、近代的な軍事史研究の基礎を作った偉い人。
以下は、彼の大著『政治史の枠組みにおける戦争術の歴史』の第一巻第一編第一章の前半部の翻訳。
昔々に私が読んでみようとして、あっという間に挫折した際の残り滓に、手を加えたものです。
外人さんの本なのでマイルとか使ってくれやがりますが、そういった箇所には[]書きでだいたいのキロメートルへの換算を付けてあります。
戦争史の前提としての兵力(Hans Delbrueck 『GESHICHITE DER KRIEGSKUNST im Rahmen der politischen Geschichte』 Erster Teil Erstes Buch 1. Kapitel. 「Heereszahlen. Vorbereitendes.」)
資料的に可能であれば、戦争史研究は兵数から始めるのが最も良い。兵数は力関係において、決定的に重要であり、大兵力ならば勝ち、少数であれば、指揮によって補うことになる。だがそれだけでなく、兵数は絶対的であり、1000人の集団がわけもなくやってのける行動も、10000人では一個の業績、50000人では芸術となり、100000人では不可能である。大軍では食糧供給の問題が常に戦略の重要部分を占める。それ故軍隊の規模をはっきり想像することなしに、歴史上の伝承や事件について、批判的な論述を行うことは不可能である。
この点に関してはまだ誤った考えが支配的で、伝承された数を復唱することが、そこから生ずる影響を意識せずに、行われている。そこで、いかに歴史伝承が間違った数字に満たされているか、今からいくつかの例を示しておくのは、いわば批判的な洞察力を磨く上で、有益であろう。
解放戦争を扱った古い著作において、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の副官で戦争の間総司令部で知識を蓄えた Plotho の作品において、オーストリアの古参兵によるラデツキーの伝記において、さらに Beitzke のよく読まれる傑作『Deutsche Freiheitskriege(ドイツ解放戦争)』の古い版において、フランス軍は1813年秋の戦役開始時に300000から最高で353000人と述べられている。同盟軍はこの頃492000人の兵力を有しており、したがって圧倒的な数的優勢にあったという。実際にはナポレオンは要塞守備隊を除いて戦場に440000人を有し、つまりは同盟軍とほぼ互角の数に増加していたのである。
E.M.Arndt は、ナポレオン戦役を通じての全戦死者数は1814年時点で10080000人と評価した。詳細な調査では、二百万を下回っており、そのうち4分の1がフランス人に当たるだろうとする。いずれにせよ、正確な統計はかなり少ない数を導き出すだろう。
また解放戦争に関する最近の学問的な記述では、ハーゲルスベルクの小戦闘において、マルク・ブランデンブルクの郷土防衛隊が4000のフランス兵の頭を棍棒で砕いた、とされる。現実にはこれはおよぞ30人であった。
1897年に出版されたオーストリア参謀本部の陸軍大尉 Berndt の『Die Zahl im Kriege(戦争における数)』では、オルレアンの戦い(1870年12月3日、4日)についてフランス軍を60700と述べ、別の研究者は174500かさらにそれ以上と見積もっている。
同じ本によればアスペルンにおいて75000のオーストリア軍が90000のフランス軍と戦い、フランス軍のうち44380人が失われたという。実際には初日に約105000のオーストリア軍が35000のフランス軍と、二日目(死者を引き上げた後で)同じオーストリア軍が約70000のフランス軍と戦い、推定ではフランス軍は16000から最高で20000人を失った。
グランソンにおけるシャルル豪胆公の軍隊はスイスの同時代人によって100000から120000人と述べられており、その後ムルテンでは彼はその三倍の軍勢を動員したそうである。実際には彼は最初の戦いで約14000人、第二の戦いでそれより数千人多い兵力を持っていたにすぎない。スイス人は、計り知れないほど優勢な軍勢と戦ったつもりだが、両方の戦いともかなりの数的優勢にあったのである。すでにグランソンにおいてスイス人は7000人ものブルゴーニュ軍を殺したつもりであるが、実際は7人の騎士とわずかな雑兵であった。
何も誇張されたイメージに対する一般的な指向や、数量感覚の欠如、自慢癖、恐怖、弁解といった人間の弱さだけがとてつもない誇張を引き起こすのではない。熟練した観察者にとってさえ大軍を正しく見積もることは、完全に自由に観察できる味方の軍においても、非常に困難である。そして敵軍の場合は不可能も同然であり、このことにも十分注意する必要がある。それについて良い例を示してくれるのが、つい最近公刊されたフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の、自ら指揮をとって被ったアウエルシュタットの敗北に関する、覚え書きである。この王は、戦闘の間優勢な兵力によって悩まされたことについて、思い違いしたなどありえないと言い、フランス軍は歩兵の優勢な兵力のおかげで、戦闘中の大隊を何度も新しい部隊によって交替させることができたとする。プロイセン軍50000は強かったので、フランス軍はおよぞ70000~80000と推測されたに違いないが、実際には27000であった。そしてフリードリヒ・ヴィルヘルムは敗北を言い繕うつもりだったのではなく、実際に思い違いしていただけであり、このことはこの王がすぐ後に付け加えた補遺によって知ることができる。彼は、そこでフランスの広報やその他の知らせから「恥ずかしいことだが、敵は30000を超えない兵力で我々に対していた」と納得した、と語っている。
注意して欲しいのは、必ずしも過大評価と誇張だけが起こるのではないことである。その反対もおこるのであり、そのいくつかの例もここまでに、かなり慎重に挙げておいた。
クセルクセスがギリシアへ率いていった軍隊は、ヘロドトスによると、随員を合わせて正確に4200000人と述べられている。一個軍団30000人は、ドイツの行軍隊形では約3マイル[約4.8km]の距離を占める(保有車両を除く)。したがってペルシア軍は420マイル[約680km]となり、戦闘がテルモピュライに着いた時に、ようやく後尾はティグリス側の向こうでスサを進発することができたであろう。ドイツの軍団は大砲と弾薬輸送用の手押し車を伴っており、これらが広い空間を占めるので、その限りでは古代の軍隊はより狭い空間に収まったと言える。他方ではペルシア軍は間違いなく取るに足りない行軍規律しか持っておらず、その規律も軍隊組織を巧妙に構成した場合にのみ、不断の注意と努力によって保つことができる。行軍規律がないと隊列は、たちまち二倍、三倍に延長してしまう。それ故ペルシア軍が、行軍に必要とした空間については、たとえ大砲がなくとも、近代軍とほぼ同等と見なすことができる。
クセルクセスが大軍とともに退却した後、マルドニオスが300000人を率いて後に残ったというが、この数にはまったく信憑性がない。ヘロドトスの物語によるとマルドニオスは、二度目のアテナイ破壊を行うと、そこからデケレイアを通ってタナグラに戻りさらに行軍を続けている。300000人の軍隊がそのように行軍するなどまったく不可能である。ペルシア軍の一部がボイオティアに残っており、デケレイアや山中のその他の峠道をすべて避けたとしても。その軍隊は戦闘員75000(ギリシア人同盟者を含む)以上を数えることはできない。
だがこれらの方法で徐々に数値を引き下げたとしても、それは前提としての意味しか持たず、結論に達することはない。
ヘロドトスの示すような数字に価値を認めることは自己欺瞞であり、そのことを理解しよく確認しておかねばならない。そこから何らかの方法で数字を引き出してくることはできるが、そうしたところで何ら得るものはない。歴史学において本当に許される方法は、信頼できる情報が得られぬ場合に、いいかげんな情報で満足したり、その情報が信頼するに足りるかのように装うことではない。唯一の方法は、信頼すべき伝承と見なして良いものとそうでないものを、明確に区別することである。場合によっては、ペルシア軍の規模についておよその見積もりを可能にする何らかの証拠が、見つかることがあるかもしれない。だが当面は、ギリシア人の示す数字がまったく信頼に値しないことが確認されている。ギリシア人の挙げる数は、スイス人のシャルル豪胆公に関する主張と比べても、信憑性が優っているわけではない。つまりそこからは、ギリシア軍とペルシア軍のどちらかが数的に優勢であったかを、読みとることはできないのである。
さらにギリシア軍のほうを見ると、我々は今度はかなり確かな根拠に基づいて研究しているように見える。ヘロドトスはプラタイアの戦いについて各国の分担兵力の詳細な表を示しており、アテナイ兵8000、スパルタ兵5000、ペリオイコイ(スパルタ半自由民)5000など全部で重装歩兵38700であった。ギリシア人はおそらく自分たちの兵力を知っていただろうから、ひょっとしたらこの数字を信用できるのかもしれず、実際にたいていの研究者はあっさりとその数を受け入れてきた。だがこれは方法的な誤りである。情報提供者であるヘロドトス自身が完全に恣意的な見積もりから表を作成した、と言い切ることはできないが、その点についても少なくともこの著述家の数量感覚が不適切なものに見える箇所はある。ギリシアの重装歩兵はそれぞれ従者を伴うのが常であり、完全な軍の兵力を算定するため、ヘロドトスは数を倍加している。ただし彼によるとスパルタ兵はそれぞれ7人のヘイロタイ(国家奴隷)を伴っており、したがってさらに35000人がそこに加わる。5000の戦闘員に対して35000の非戦闘員というのは、軍の運動を考えても食糧供給を考えても、不合理である。そのようなことになったのはおそらく、ギリシア人がスパルタ兵の名のもとに、常に戦場へ従者数名を伴い上流市民を思い浮かべたからだろう。従者7名が適当な数に見えたために、深い考えもなく7にスパルタ兵の推定人数を掛けたのである。同じ様なことは、近代の歴史家にも起こっている。 Philippson 『Geschichte des Preussischen Staatswesens(プロイセン国制史)』第2巻176頁では、フリードリヒ大王のプロイセン軍(1776年)が、洗濯女──正確に数えて──32705人を戦場へ伴っているのを、読むことができる。その本の著者はその資料を示すことを怠っては折らず、彼の用いた Buesching の『Zuverlaessige Beitraege z. d. Reg.=Gesch. Koenig Friedrichs II. v. Preussen(プロイセン王フリードリヒ2世治世史についての信頼のおける論文集)』は、大部分が信頼のおける内容である。しかも実際にフリードリヒ大王時代の軍隊には多数の女性従軍商人と兵士の妻が同行しているので、5000のスパルタ兵が35000のヘイロタイ(国家奴隷)を伴うよりは、200000人の軍隊が32705人の洗濯女を伴うほうが、はるかに現実味がある。さらに体系的に専門教育を受けた近代の歴史家のほうが素朴なヘロドトスよりも、信頼に値する。だが結局は彼ら二人の情報はどちらも受け入れることはできない。フリードリヒ王および彼の軍隊の一般的な特質を少し調べれば、この軍隊が戦場まで洗濯女を同行していたはずはなく、つまりは Buesching が何らかの思い違いをしているのだと、理解することができる。彼は、兵士たちのテントごとに洗濯女がいると見積もって、その数を導き出しており、 Philippson がその面白い主張を批判的な検討もなしにそのまま書き写したのである。全く同じ様なことがヘロドトスの言う35000のヘイロタイ(国家奴隷)についても起こっている。ギリシア軍の兵力についてのヘロドトスの計算は約110000人に達する
この数字をそのまま書き写してきた歴史家達は、110000人を一箇所で長期間養うことが、何を意味するのか、全く理解できていない。これについては、記録に残った確かな数を使うことの出来る後の時代において、十分に論じなければならないだろう。伝承された数字は全く信用するに足りない。我々は、プラタイアのギリシア軍の兵力について、結論を引き出せるような記述を持っておらず、その事実を受け入れなければならない。
マラトンでのアテナイ軍が10000人の兵力であったとする後代のギリシア語資料の記述も、全く裏付けがない。同盟したプラタイアの軍の兵力が、その数のうち、あるいはその数に加えて、1000名と述べられているが、それだけで十分にこの記述が恣意的な見積もりであると示されている。プラタイアは非常に小さな町で、アテナイ軍の十分の一、ましてや九分の一を用意するなど断じてあり得なかった。もし歴史家達がこれまでたいていその10000という数を受け入れてきたとすれば、それはその数が物質的にある程度妥当なものと思われたからである。だが何らかの方法で証明を行えば、その数は効力を持ち得ないだろう。
信頼できる証拠資料の不足を乗り越え、ペルシア戦争におけるギリシア軍の兵力を想像するためには、事件の経過自体をまず知ることができる他、後の歴史や人口規模からの推測に頼ることができる。そして人口規模は、土地の面積と扶養能力からの推論によってある程度明らかにすることができる。
最も豊かな国であるアテナイについての結論では、前490年にアッティカ半島には100000の自由人がいたと考えられるが、その頃はまだ奴隷人口はそれほど多くなかっただろうから、おおよそ25000~3000平方マイル[=約6500~7800平方キロメートル]に120~140000人(1平方キロメートルに約50人)が住んでいたのであろう。これは今日とおよそ同じである。
このアテナイ人のうちどれほどの人数がペルシア戦争における戦いで武器を身につけたかは、まだ分からない。事件の経過事態が見積もりを可能にするかどうか、調べなければならない。
ということで、翻訳は以上。(1平方キロメートルに約50人)って箇所は(1平方マイルに約50人)の間違いではないかと思うのですが、原文に(ca. 50 auf den Quadrat=Kilometer)とあるので、そのままにしておきます。
要は、歴史上の兵力に関しては、資料に誇張やら誤解やらが大量に紛れ込むのが通例で、全然まともな情報が伝承されてこず、批判的に受容する必要がある
というお話でした。
そういうわけで、歴史家の先生達は、給与だの財政処理だの契約だの命令だのに関して作られる事務処理文書をかき集めて推測の基礎にしたり、人口や面積や戦場の地形から計算したりして、軍事史上の兵力につき、うさんくさい伝承を批判してまともな数字に確定していくようです。
でも、そういった作業も、実は、極小の断片の上に推測に推測に推測を重ねて推定しているに過ぎないわけで、永遠に完璧には辿り着くことができません。計算の基礎とする文書その他の材料の不足に加えて、臨時的突発的な兵力の増減とか、戦闘員と非戦闘員の境目の不明瞭さとか、推測を難しくする要素が山盛りですから。
そしてそこに、ちょっとした贔屓目とか、過去の時代に対する過小評価・過大評価といった、不純な要素が紛れ込む余地はいくらでもありますから、推定は完璧のまがい物とすら言えないでしょう。
まあ、伝承される歴史的事実の存否・順序の確定でさえ色々大変なところ、兵力の確定と言えば、歴史的事実の中の具体的な様相の確定なわけで、どれだけ真摯に資料を集め、どれだけ見事な手腕を振るっても、真理真相との距離が無限大のままなのは、仕方ないことではあります。
残念なことではありますが、結局、軍事史・戦争史に登場する兵力というものは、重要要素だというのに、どこまで行っても、いい加減なものでしかあり得ないということなんですよね。
で、それなら、兵力については、ちょっと杜撰な推定がされていたり根拠が曖昧でも余程変な結果になっていない限り寛容に見逃してやるべきだし、非常に優れた手法で厳密に確定されていても崇め奉るようなもんではないということになりますよね。
ということで、
いかに軍事的な伝承がいい加減で考証が必要かって内容の文章を掲載しといてあれなんですが、
いや、むしろそんな内容の重めの文章を掲載したからこそあえて言いたいんですが、
戦争史をネタに遊ぶときは、議論の筋がおかしなものになってなければ、兵力の考証は、自分で追求するのも人に要求するのも、ほどほどに。
あんまりムキになっても、しんどいだけで得るものはそんなに大きくないので。
参考資料
『現代戦略思想の系譜』ピーター・パレット編 防衛大学校「戦争・戦略の変遷」研究会訳 ダイヤモンド社
『世界の戦争』 講談社
Hans Delbrueck著『GESHICHITE DER KRIEGSKUNST im Rahmen der politischen Geschichte』
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F.E.Adcock『ギリシア人とマケドニア人の戦争術』(翻訳)について補足
れきけん・とらっしゅばすけっと/京都大学歴史研究会関連発表
F.E.Adcock『ギリシア人とマケドニア人の戦争術』(翻訳)(当ブログ内に移転しました)
http://trushnote.exblog.jp/14618338/
『軍事史概説 戦略と戦術の東西文明五千年史』(当ブログ内に移転しました)
http://trushnote.exblog.jp/14455184/
オットー・ヒンツェ『国家組織と軍隊組織』(翻訳)(当ブログ内に移転しました)
http://trushnote.exblog.jp/14589837/
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