2009年 12月 27日
忍者って何じゃ?~「忍者」イメージの成長と受容~
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海外から見た日本のイメージとしてサムライ、ゲイシャ、スモウレスラーと並んで連想されるものといえば、ニンジャではないかと思います。こうした場で言及される「忍者」については虚像が横行しているのは言うまでもありませんが、それらのイメージがどのようにして成長してきたかについて今回は述べようかと思います。忍者の実態については手元に資料がありませんでしたのでこの度は御容赦。
「忍者」という言葉が一般に普及したのは昭和三十年代の忍術ブームにおいてであり、それまでは「忍び」の呼称が寧ろ知られていました。さて「忍び」の語が比較的よく見られるようになったのは十四世紀の南北朝動乱あたりであるようで、放火・奇襲といったゲリラ的役割を果たしていたようです。楠木正成や児島高徳といった豪族たちがそうした活動を得意としていたのは知られ、特に楠木氏は後世に忍者の元祖として語られる事もありました。それ以前に関しては、聖徳太子が物部守屋を討伐した際に奇功を立てた大伴細人に「志能便(しのび)」と名づけたという伝説がありますから、似たような活動をする存在はあったことは想像が付きます。戦乱においては情報戦が命ですしね。ただ、「忍び」と呼ばれる人々の活動が脚光を浴び始めたのは南北朝であったようです。十六世紀の戦国期においても「忍び」の重要性は変わらず、「素破」「透破」「乱破」「乱波」などの字を当てて「すっぱ」「らっぱ」と呼んでいました。大名たちは盗人・すり・乱暴者などの前科者や食いつめ者を雇い、ゲリラやスパイの活動に従事させていたのです。後世の大学者である塙保己一は「武家名目抄」で「透波」「乱波」は「大かた、野武士・強盗の内よりよび出されて、扶持せらるる」存在であると述べています。
徳川期になると、平和が到来し上述のような職務は失われていきます。ただし、徳川政権は政権安定・反乱防止のため大名を始めとする武士たちの監視を重んじました。初期には伊賀者・甲賀者が用いられ、これを受けてか延宝四年(1676)に藤林保武が「万川集海」を編纂し忍術の秘伝書として彼等の家柄に伝えられるようになります。因みに、「忍者」という語は判明している限りではこれが初出のようですが一般には広まらなかったのは前述のとおりです。さて、伊賀者・甲賀者は次第に公式の監視機関である目付などに取って代わられるようになります。大目付が大名の監視で、目付が旗本・御家人、そして小人目付がそれ以下の人々の監視に当たるようになったのです。
更に十八世紀には第八代将軍徳川吉宗が紀州藩出身者を中心に「御庭番」を編成。彼らは「隠密」と呼ばれ二人一組で行動し、勘定奉行から費用を受け取り農夫・商人・僧侶・易者・山伏などに返送して各地に潜入したと言われています。御庭番は五十人を定員として他との交際を一切禁じたため実態が外部に漏れないようになっていました。
こうした監視体系はかなり徹底していたようです。例えば薩摩藩はこうしたスパイに対する警戒は厳重で隠密もしばしば命を落としたようで、二度と帰らぬ事を「薩摩飛脚」と呼ぶくらいでしたが、幕末のカッテンディーケ「滞日日記抄」によればその薩摩藩でさえも藩主斉彬に目付が付いて言動を監視していたと言われています。なお、日本に滞在する外国人にも同様に監視がついており、例えばシーボルトに対しては幡崎鼎・間宮林蔵がその役目を果たしたとする説もあります。
以上のように忍者についてある程度概観しましたが、秘密の存在だけあって実態については分からない事も多いです。さて以下では、こうした忍者たちがどのように捉えられていたのかを娯楽作品を中心に見ていく事にしましょう。
十七世紀後半には草子といった読み物に忍術使いを扱ったものが現れるようになります。寛文八年(1666)の浅井了意「御伽婢子」には鳶加藤の話がありますし、同時期の「賊禁秘誠説」は十六世紀末に高名であった盗人・石川五右衛門を忍術の名手として描いています。
十八世紀になると歌舞伎の舞台設備・大道具が発達した関連もあって、演出に様々な工夫がなされた忍術ものが登場しました。蝦蟇使いの妖術師である天竺徳兵衛や児雷也が特に知られていますが、「伊達競阿国戯場」の仁木弾正や鳶の嘉藤太、「楼門五三桐」の石川五右衛門といった忍術使いが評判を呼んでいます。尤も彼らは全て悪役であり、最後は善玉に倒される運命を負っていました。この頃には忍術は異様異形で不思議な能力と見なされ人々の興味を牽いていた一方で、秩序を乱す不気味な存在として見られていたともいえるでしょう。
さて、明治末から大正にかけて、出版業界が発達し安価な出版物を一般庶民向けに大量販売するようになっていました。当初は玉田玉秀斎ら執筆陣は講談を筆記して出版していましたが、次第に書き下ろしの内容を出し始めました。そうした出版社の代表が大阪の立川熊次郎によって創立された「文明堂」であり、彼らの手による立川文庫はこうした出版文化(「赤本」と呼ばれます)の代名詞となりました。こうした赤本では一休や大久保彦左衛門・水戸黄門や剣豪と並んで忍術使いも英雄としてもてはやされ、例えば猿飛佐助・霧隠才蔵に代表される「真田十勇士」の逸話もこの頃からメンバーが徐々に増やされ整えられるようになります。ここに登場する忍術も一種の妖術や魔法である事は変わりませんが、強者をくじく善玉として描かれるようになったのが従来との違いです。なお、この立川文庫を始めとする赤本は次々に新しい作品が生み出されたため、全体の辻褄を合わせることに拘らず自由な発想で奇想天外・荒唐無稽な物語となりました。同じ作者が書いた同じ人物の設定でも前後で食い違っていたりする事がしばしばだったといいます。全盛期の「週刊少年ジャンプ」における漫画を連想させる話ですが、民衆娯楽における英雄豪傑話はどこも同じような事になるようですね。因みにこれらの物語は幼くして奉公を余儀なくされる丁稚にも小遣いで手が届くものであり、彼等の貴重な娯楽であったそうです。またこれらを原作とした忍術映画も日活京都撮影所などで作られ人気を博しました。しかし大正末期になると、話のパターンが出尽くしたのかマンネリ化し、徐々に人気は低迷。この時期を境に出版文化も大阪から東京を中心としたものに変化していきます。
戦後に入ると、大衆文学が復活する一方でテレビ放送や漫画など再び新たな民衆娯楽が登場。それが定着するのと並行して、昭和三十年代に再び忍術ブームが起こりました。五味康裕「柳生武芸帳」や柴田錬三郎「剣は知っていた」、山田風太郎「甲賀忍法帖」や司馬遼太郎「梟の城」といった小説やそれらの映画化、更に白土三平「忍者武芸帳」や横山光輝「伊賀の影丸」等の漫画作品が人気を博したのです。これらの作品で「忍者」という言葉が用いられる事により、一般の間にも「忍者」の呼称が定着するに至ります。忍者が一種の妖術使いとして描かれる事はこの時代にも変わらないですが、やがては西洋文化の定着もあってか横山光輝「バビル二世」のような超能力ものに取って代わられ忍術物語は主流から外れていきます。それでも忍者ものが消える事は無く、コンピュータゲームが登場した際にも忍者を題材にしたものが見られます。一方、海外に「忍者」が紹介される事で日本のイメージとして広がったのも高度成長期以降と思われます。
以上のように、忍者については実態が不明な存在である事からか、早い段階から妖術のような不思議な能力を持つ者と考えられていました。娯楽の新たな分野が誕生するたびに格好の題材として着目され、イメージが普及したものといえるでしょう。
【参考文献】
立川文庫の英雄たち 足立巻一 中公文庫
日本異譚太平記 戸部新十郎 毎日新聞社
日本古典文学大系太平記 一~三 岩波書店
関連記事:
「外国から見た日本、日本から見た外国―娯楽文化の視点から―(前半)」、「(後半)」
「『遠祖は正成』―庶民から見た楠木氏―」
「民明書房刊『戦国武将考察』―人気漫画から見る戦国期における『ゲン担ぎ』について―」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「日本民衆文化史」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html)
「楠木正成」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2000/001201.html)
関連サイト:
「忍者マイスター」(http://www.2nja.com/)
「姫路文学館」(http://www.city.himeji.lg.jp/bungaku/index.html)より
「 特別展「大正の文庫王 立川熊次郎と『立川文庫』」 」(http://www.city.himeji.lg.jp/bungaku/tokubetsutenn/tatukawa/tatukawa.htm)
「忍者」という言葉が一般に普及したのは昭和三十年代の忍術ブームにおいてであり、それまでは「忍び」の呼称が寧ろ知られていました。さて「忍び」の語が比較的よく見られるようになったのは十四世紀の南北朝動乱あたりであるようで、放火・奇襲といったゲリラ的役割を果たしていたようです。楠木正成や児島高徳といった豪族たちがそうした活動を得意としていたのは知られ、特に楠木氏は後世に忍者の元祖として語られる事もありました。それ以前に関しては、聖徳太子が物部守屋を討伐した際に奇功を立てた大伴細人に「志能便(しのび)」と名づけたという伝説がありますから、似たような活動をする存在はあったことは想像が付きます。戦乱においては情報戦が命ですしね。ただ、「忍び」と呼ばれる人々の活動が脚光を浴び始めたのは南北朝であったようです。十六世紀の戦国期においても「忍び」の重要性は変わらず、「素破」「透破」「乱破」「乱波」などの字を当てて「すっぱ」「らっぱ」と呼んでいました。大名たちは盗人・すり・乱暴者などの前科者や食いつめ者を雇い、ゲリラやスパイの活動に従事させていたのです。後世の大学者である塙保己一は「武家名目抄」で「透波」「乱波」は「大かた、野武士・強盗の内よりよび出されて、扶持せらるる」存在であると述べています。
徳川期になると、平和が到来し上述のような職務は失われていきます。ただし、徳川政権は政権安定・反乱防止のため大名を始めとする武士たちの監視を重んじました。初期には伊賀者・甲賀者が用いられ、これを受けてか延宝四年(1676)に藤林保武が「万川集海」を編纂し忍術の秘伝書として彼等の家柄に伝えられるようになります。因みに、「忍者」という語は判明している限りではこれが初出のようですが一般には広まらなかったのは前述のとおりです。さて、伊賀者・甲賀者は次第に公式の監視機関である目付などに取って代わられるようになります。大目付が大名の監視で、目付が旗本・御家人、そして小人目付がそれ以下の人々の監視に当たるようになったのです。
更に十八世紀には第八代将軍徳川吉宗が紀州藩出身者を中心に「御庭番」を編成。彼らは「隠密」と呼ばれ二人一組で行動し、勘定奉行から費用を受け取り農夫・商人・僧侶・易者・山伏などに返送して各地に潜入したと言われています。御庭番は五十人を定員として他との交際を一切禁じたため実態が外部に漏れないようになっていました。
こうした監視体系はかなり徹底していたようです。例えば薩摩藩はこうしたスパイに対する警戒は厳重で隠密もしばしば命を落としたようで、二度と帰らぬ事を「薩摩飛脚」と呼ぶくらいでしたが、幕末のカッテンディーケ「滞日日記抄」によればその薩摩藩でさえも藩主斉彬に目付が付いて言動を監視していたと言われています。なお、日本に滞在する外国人にも同様に監視がついており、例えばシーボルトに対しては幡崎鼎・間宮林蔵がその役目を果たしたとする説もあります。
以上のように忍者についてある程度概観しましたが、秘密の存在だけあって実態については分からない事も多いです。さて以下では、こうした忍者たちがどのように捉えられていたのかを娯楽作品を中心に見ていく事にしましょう。
十七世紀後半には草子といった読み物に忍術使いを扱ったものが現れるようになります。寛文八年(1666)の浅井了意「御伽婢子」には鳶加藤の話がありますし、同時期の「賊禁秘誠説」は十六世紀末に高名であった盗人・石川五右衛門を忍術の名手として描いています。
十八世紀になると歌舞伎の舞台設備・大道具が発達した関連もあって、演出に様々な工夫がなされた忍術ものが登場しました。蝦蟇使いの妖術師である天竺徳兵衛や児雷也が特に知られていますが、「伊達競阿国戯場」の仁木弾正や鳶の嘉藤太、「楼門五三桐」の石川五右衛門といった忍術使いが評判を呼んでいます。尤も彼らは全て悪役であり、最後は善玉に倒される運命を負っていました。この頃には忍術は異様異形で不思議な能力と見なされ人々の興味を牽いていた一方で、秩序を乱す不気味な存在として見られていたともいえるでしょう。
さて、明治末から大正にかけて、出版業界が発達し安価な出版物を一般庶民向けに大量販売するようになっていました。当初は玉田玉秀斎ら執筆陣は講談を筆記して出版していましたが、次第に書き下ろしの内容を出し始めました。そうした出版社の代表が大阪の立川熊次郎によって創立された「文明堂」であり、彼らの手による立川文庫はこうした出版文化(「赤本」と呼ばれます)の代名詞となりました。こうした赤本では一休や大久保彦左衛門・水戸黄門や剣豪と並んで忍術使いも英雄としてもてはやされ、例えば猿飛佐助・霧隠才蔵に代表される「真田十勇士」の逸話もこの頃からメンバーが徐々に増やされ整えられるようになります。ここに登場する忍術も一種の妖術や魔法である事は変わりませんが、強者をくじく善玉として描かれるようになったのが従来との違いです。なお、この立川文庫を始めとする赤本は次々に新しい作品が生み出されたため、全体の辻褄を合わせることに拘らず自由な発想で奇想天外・荒唐無稽な物語となりました。同じ作者が書いた同じ人物の設定でも前後で食い違っていたりする事がしばしばだったといいます。全盛期の「週刊少年ジャンプ」における漫画を連想させる話ですが、民衆娯楽における英雄豪傑話はどこも同じような事になるようですね。因みにこれらの物語は幼くして奉公を余儀なくされる丁稚にも小遣いで手が届くものであり、彼等の貴重な娯楽であったそうです。またこれらを原作とした忍術映画も日活京都撮影所などで作られ人気を博しました。しかし大正末期になると、話のパターンが出尽くしたのかマンネリ化し、徐々に人気は低迷。この時期を境に出版文化も大阪から東京を中心としたものに変化していきます。
戦後に入ると、大衆文学が復活する一方でテレビ放送や漫画など再び新たな民衆娯楽が登場。それが定着するのと並行して、昭和三十年代に再び忍術ブームが起こりました。五味康裕「柳生武芸帳」や柴田錬三郎「剣は知っていた」、山田風太郎「甲賀忍法帖」や司馬遼太郎「梟の城」といった小説やそれらの映画化、更に白土三平「忍者武芸帳」や横山光輝「伊賀の影丸」等の漫画作品が人気を博したのです。これらの作品で「忍者」という言葉が用いられる事により、一般の間にも「忍者」の呼称が定着するに至ります。忍者が一種の妖術使いとして描かれる事はこの時代にも変わらないですが、やがては西洋文化の定着もあってか横山光輝「バビル二世」のような超能力ものに取って代わられ忍術物語は主流から外れていきます。それでも忍者ものが消える事は無く、コンピュータゲームが登場した際にも忍者を題材にしたものが見られます。一方、海外に「忍者」が紹介される事で日本のイメージとして広がったのも高度成長期以降と思われます。
以上のように、忍者については実態が不明な存在である事からか、早い段階から妖術のような不思議な能力を持つ者と考えられていました。娯楽の新たな分野が誕生するたびに格好の題材として着目され、イメージが普及したものといえるでしょう。
【参考文献】
立川文庫の英雄たち 足立巻一 中公文庫
日本異譚太平記 戸部新十郎 毎日新聞社
日本古典文学大系太平記 一~三 岩波書店
関連記事:
「外国から見た日本、日本から見た外国―娯楽文化の視点から―(前半)」、「(後半)」
「『遠祖は正成』―庶民から見た楠木氏―」
「民明書房刊『戦国武将考察』―人気漫画から見る戦国期における『ゲン担ぎ』について―」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「日本民衆文化史」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html)
「楠木正成」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2000/001201.html)
関連サイト:
「忍者マイスター」(http://www.2nja.com/)
「姫路文学館」(http://www.city.himeji.lg.jp/bungaku/index.html)より
「 特別展「大正の文庫王 立川熊次郎と『立川文庫』」 」(http://www.city.himeji.lg.jp/bungaku/tokubetsutenn/tatukawa/tatukawa.htm)
by trushbasket
| 2009-12-27 00:31
| NF








