2010年 07月 06日
戦史の語る日本人の国民性 補足
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珍しくエロスパムでないまともなトラックバックを受けていたので
安易に「国民性」を語るのは危険というか、単にステロタイプ
http://d.hatena.ne.jp/ka-ka_xyz/20100704/1278250203
一応反応しておこうと思います。
トラックバックして下さったka-ka_xyz氏の記事を見ると、ブコメと記事に別々の内容が書いてあるようなので、両方に反応しておきます。
なお、いつものようにまとまりを持った歴史読み物には仕立てていないことをあらかじめお断りしておきます。
<一>最初にお断りさせて頂きたいこと
まず、二点ばかり大きな違和感を感じる御指摘があります。
(1)違和感の第1点
私は別に敗因を国民性に求めていませんし、そもそも敗因など論じてはおらず、また国民性が戦争に与える影響を論じてもいないので、少々、この御指摘には困惑しております。
あくまで、歴史上の異文化接触を通じて際だってくる日本人の「国民性」と思しきものを抽出しようとしているだけであり、そのための素材として戦争が使いやすかったというだけなのですが。
利用している文献が敗因論ぽいものばかりにはなっていますが、異文化との軍事的接触を通じて日本と他国との差異が際だってきた事例、資料を手元にある限り集めたところ、こうなってしまっただけです。
日清・日露・元寇について述べておきますと、
残念ながら日清・日露の清軍、ロシア軍との接触を通じて明らかになった日本の特徴を述べてくれている資料、事例は、私の手元にはありません、もしくは私の記憶には残っておりません。
元寇については、検討の上、今回の国民性論に組み込むべきでないという判断を下しております。
しばしば目にする、元の集団戦法と鎌倉武士の個人戦の対比を今回の議論の根拠にするのは不当であることがその理由です。時代背景によってもたらされた鎌倉武士のやむを得ない非組織性を、非組織的な国民性の根拠とするのは不公正であると考えます。
(2)違和感の第2点
このご意見には私としては全面的に同意したいところです。
ただ、どうも私がこのような議論をしているかのように思われている気がして、違和感が。
私は確かに日本人に、国民性として不得手があると主張しましたが、だから日本人はダメなんだとか、日本はもう終わりだとか主張した覚えは別にありません。
私としては、不得手があるなら不得手を知った上で、対策を考えれば良いと考えていますし、
また、歴史的に見て不得手と得手をトータルしてまずまずの結果が出てきているのだから、不得手には反省の目を向けたほうが良いにせよ、悲観する必要はなく、日本人の行く末についてはまあ楽観しておいて良かろうと考えています。
世の中、弱点、不得手を見るやそれを誇大に言い立てて、悲観論をぶつような向きもあり、不得手の指摘を見ると思わず悲観論に分類したくなるというのは、分からなくもないですが、私の今回の主張が、そのような分類を受けるのは何だか少し違和感を感じます。
以上で、御指摘に関する違和感の話は終わりです。
<二>見解の相違する諸々の問題について
次は見解の相違のある問題について、述べておいた方が良かろうと思うことを述べておきます。
(1)全体的な問題について
まずは大きな問題について。
というタイトルの御指摘がありますが、国民性論やステレオタイプは、過剰に固執盲信しない限り、大して害はないし、むしろ、胡散臭いながらそこそこ有益というのが私の個人的信条です。
ここまで根本的な発想が違うと、建設的な議論が交わせるか怪しいので、とりあえず議論が不必要に加熱するのを防ぐために、根本的な発想の違いをまず明示しておきました。
たぶん、議論を交わしても、お互い、言いたいことは分からなくもないが、自分の見解を改める気はないという結論しか出ないかと。
(2)細かな問題点について
以下は細かな問題について
・白村江について
推古朝は日本古代史の一大転機とされ、その頃より日本が中央主権国家を目指し始めたわけですが、白村江はそのころより70年以上も後の出来事ということになります。にもかかわらず、その70年の努力の成果が、「我等先を争わば……乱れたる伍」というのは、いくらなんでも、後進国であったとしても、達成度が低すぎるのではないかと思います。後進国なりに達成可能な組織性すら実現できていないように思われます。敗北は仕方なく、惨敗でも仕方ありませんし、隊伍を維持する能力が低く戦闘中に残念ながら乱れてしまったというのならむしろ健闘を讃えたくなるところですが、端から隊伍を維持しようとすらしていないこの戦いぶりは……。
こんな感じで。私は、この時点の日本人が組織構築に不得手であったと、判断しました。
・朝鮮出兵について
地域的な公権力を樹立した専制国家とされる戦国大名が出現し、いわばローカルな中央集権の元、軍事的政治的な組織の高度化が進行し始めて以来、朝鮮出兵でおよそ100年。しかもその間そのような専制権力が、対立争闘し、富国強兵を競うという状態を続けてきました。そして戦国時代の日本は、宗教はともかくイタリアより文化的に発展しているとのヨーロッパ人の評があるくらいに社会的な発展が見られ、高度な政治・軍事組織を支える社会の力も十分蓄積されてきていたはずです。それなのに、戦いぶりが、軍法無く、士卒の力を借りて戦うというのは、軍事的な組織形成が、期待される水準をずいぶん下回っていると言って良いのではないかと。
(ちなみに明人には、日本軍は、軍に法なく、人々は自戦すると評されたとか。)
ですから、私は、この時代の日本人が組織構築を不得手にしていたと評価して構わないと考えます。
(なお、戦国の日本の軍隊について、ヨーロッパ人が、ヨーロッパでは伍長とか百人隊長とかがいるが、日本ではそういうことは気にしないみたいに言っていたりもます。私の知る限り、まったくそれっぽい存在がないわけではないのですが、ヨーロッパ人の目からみればいないも同然だったのでしょう。ヨーロッパ並みに社会が発展し、多くの戦争経験を重ねている国民として、相応の軍事的な組織構築ができていないと言うことで、この事もこの当時の日本人の組織構築の不得手さの証拠となるのではないかと。)
・太平洋戦争について
私が参照した旧日本軍人の研究は、いずれもアメリカとの接触を通じて両国の組織性の差異を読みとったものですので、捕虜の惨状への絶望から生まれた悲観論とは一線を画しているのではないかと思います。(千早正隆『日本海軍の戦略発想』は、占領軍のテキパキとした見事な仕事ぶりや、彼我の偵察に対する支持の与え方から、両軍のチームワークの格差を読みとっており、当事者として冷静に格差を読みとったのだと思われます。)
ですから、そこで行われた、日本人に総合的・計画的なチームワークが欠けているという主張も、一応、信用しても良いかと。
<三>蛇足 チームワークについて
徂徠や旧日本軍人が敵に見出し、味方に見出すことのできなかった総合的な計画性に基づく理屈っぽいチームワーク、いわば上から創るチームワークとは別に、日本人はある種のチームワーク的な仕事を得意としていると、個人的には思います。
徂徠の言う、将の軍略に力を貸せる程の、みがきぬかれた士卒、『ミッドウェー』に言う賞賛すべき努力を為してくれる優れた兵士、部隊、そういった器用で頑張る下部構成員が寄り集まって感覚的かつ自生的に構成される「チームワーク的なもの」。いわば下から生まれるチームワーク。そういったものを日本人は得意としているのではないかと。
そして、そういった「下から生まれるチームワーク」が、「上から創られるチームワーク」に長けた超大国アメリカや明帝国相手に奮戦し、しばしば見事な戦闘結果を叩き出したのですから、日本人もチームワークに関してそれほど卑下するようなものでも無いとは思います。
ただ、個人的な好みから言えば、もう少し「上から創るチームワーク」の方向に社会が傾斜して欲しいところですが。
馴れ合い的寄り合い的な団結ではない、理屈ベースの和が欲しいです。
安易に「国民性」を語るのは危険というか、単にステロタイプ
http://d.hatena.ne.jp/ka-ka_xyz/20100704/1278250203
一応反応しておこうと思います。
トラックバックして下さったka-ka_xyz氏の記事を見ると、ブコメと記事に別々の内容が書いてあるようなので、両方に反応しておきます。
なお、いつものようにまとまりを持った歴史読み物には仕立てていないことをあらかじめお断りしておきます。
<一>最初にお断りさせて頂きたいこと
まず、二点ばかり大きな違和感を感じる御指摘があります。
ka-ka_xyz 負け戦だけを抽出して、敗因を"国民性"に求める思考には違和感。仮に日本特異な"国民性"が存在し、かつ戦争に大きく影響を与えるものであるなら、国民性が勝ち戦(日清・日露・元寇等)に与えた影響も評価すべき。 http://b.hatena.ne.jp/entry/trushnote.exblog.jp/13546049/
(1)違和感の第1点
私は別に敗因を国民性に求めていませんし、そもそも敗因など論じてはおらず、また国民性が戦争に与える影響を論じてもいないので、少々、この御指摘には困惑しております。
あくまで、歴史上の異文化接触を通じて際だってくる日本人の「国民性」と思しきものを抽出しようとしているだけであり、そのための素材として戦争が使いやすかったというだけなのですが。
利用している文献が敗因論ぽいものばかりにはなっていますが、異文化との軍事的接触を通じて日本と他国との差異が際だってきた事例、資料を手元にある限り集めたところ、こうなってしまっただけです。
日清・日露・元寇について述べておきますと、
残念ながら日清・日露の清軍、ロシア軍との接触を通じて明らかになった日本の特徴を述べてくれている資料、事例は、私の手元にはありません、もしくは私の記憶には残っておりません。
元寇については、検討の上、今回の国民性論に組み込むべきでないという判断を下しております。
しばしば目にする、元の集団戦法と鎌倉武士の個人戦の対比を今回の議論の根拠にするのは不当であることがその理由です。時代背景によってもたらされた鎌倉武士のやむを得ない非組織性を、非組織的な国民性の根拠とするのは不公正であると考えます。
(2)違和感の第2点
「こういう国民性だから駄目なんだ」的な一方的な議論は遠慮したい
http://d.hatena.ne.jp/ka-ka_xyz/20100704/1278250203
このご意見には私としては全面的に同意したいところです。
ただ、どうも私がこのような議論をしているかのように思われている気がして、違和感が。
私は確かに日本人に、国民性として不得手があると主張しましたが、だから日本人はダメなんだとか、日本はもう終わりだとか主張した覚えは別にありません。
私としては、不得手があるなら不得手を知った上で、対策を考えれば良いと考えていますし、
また、歴史的に見て不得手と得手をトータルしてまずまずの結果が出てきているのだから、不得手には反省の目を向けたほうが良いにせよ、悲観する必要はなく、日本人の行く末についてはまあ楽観しておいて良かろうと考えています。
世の中、弱点、不得手を見るやそれを誇大に言い立てて、悲観論をぶつような向きもあり、不得手の指摘を見ると思わず悲観論に分類したくなるというのは、分からなくもないですが、私の今回の主張が、そのような分類を受けるのは何だか少し違和感を感じます。
以上で、御指摘に関する違和感の話は終わりです。
<二>見解の相違する諸々の問題について
次は見解の相違のある問題について、述べておいた方が良かろうと思うことを述べておきます。
(1)全体的な問題について
まずは大きな問題について。
安易に「国民性」を語るのは危険というか、単にステロタイプ
http://d.hatena.ne.jp/ka-ka_xyz/20100704/1278250203
というタイトルの御指摘がありますが、国民性論やステレオタイプは、過剰に固執盲信しない限り、大して害はないし、むしろ、胡散臭いながらそこそこ有益というのが私の個人的信条です。
ここまで根本的な発想が違うと、建設的な議論が交わせるか怪しいので、とりあえず議論が不必要に加熱するのを防ぐために、根本的な発想の違いをまず明示しておきました。
たぶん、議論を交わしても、お互い、言いたいことは分からなくもないが、自分の見解を改める気はないという結論しか出ないかと。
(2)細かな問題点について
以下は細かな問題について
・白村江について
推古朝は日本古代史の一大転機とされ、その頃より日本が中央主権国家を目指し始めたわけですが、白村江はそのころより70年以上も後の出来事ということになります。にもかかわらず、その70年の努力の成果が、「我等先を争わば……乱れたる伍」というのは、いくらなんでも、後進国であったとしても、達成度が低すぎるのではないかと思います。後進国なりに達成可能な組織性すら実現できていないように思われます。敗北は仕方なく、惨敗でも仕方ありませんし、隊伍を維持する能力が低く戦闘中に残念ながら乱れてしまったというのならむしろ健闘を讃えたくなるところですが、端から隊伍を維持しようとすらしていないこの戦いぶりは……。
こんな感じで。私は、この時点の日本人が組織構築に不得手であったと、判断しました。
・朝鮮出兵について
地域的な公権力を樹立した専制国家とされる戦国大名が出現し、いわばローカルな中央集権の元、軍事的政治的な組織の高度化が進行し始めて以来、朝鮮出兵でおよそ100年。しかもその間そのような専制権力が、対立争闘し、富国強兵を競うという状態を続けてきました。そして戦国時代の日本は、宗教はともかくイタリアより文化的に発展しているとのヨーロッパ人の評があるくらいに社会的な発展が見られ、高度な政治・軍事組織を支える社会の力も十分蓄積されてきていたはずです。それなのに、戦いぶりが、軍法無く、士卒の力を借りて戦うというのは、軍事的な組織形成が、期待される水準をずいぶん下回っていると言って良いのではないかと。
(ちなみに明人には、日本軍は、軍に法なく、人々は自戦すると評されたとか。)
ですから、私は、この時代の日本人が組織構築を不得手にしていたと評価して構わないと考えます。
(なお、戦国の日本の軍隊について、ヨーロッパ人が、ヨーロッパでは伍長とか百人隊長とかがいるが、日本ではそういうことは気にしないみたいに言っていたりもます。私の知る限り、まったくそれっぽい存在がないわけではないのですが、ヨーロッパ人の目からみればいないも同然だったのでしょう。ヨーロッパ並みに社会が発展し、多くの戦争経験を重ねている国民として、相応の軍事的な組織構築ができていないと言うことで、この事もこの当時の日本人の組織構築の不得手さの証拠となるのではないかと。)
・太平洋戦争について
私が参照した旧日本軍人の研究は、いずれもアメリカとの接触を通じて両国の組織性の差異を読みとったものですので、捕虜の惨状への絶望から生まれた悲観論とは一線を画しているのではないかと思います。(千早正隆『日本海軍の戦略発想』は、占領軍のテキパキとした見事な仕事ぶりや、彼我の偵察に対する支持の与え方から、両軍のチームワークの格差を読みとっており、当事者として冷静に格差を読みとったのだと思われます。)
ですから、そこで行われた、日本人に総合的・計画的なチームワークが欠けているという主張も、一応、信用しても良いかと。
<三>蛇足 チームワークについて
徂徠や旧日本軍人が敵に見出し、味方に見出すことのできなかった総合的な計画性に基づく理屈っぽいチームワーク、いわば上から創るチームワークとは別に、日本人はある種のチームワーク的な仕事を得意としていると、個人的には思います。
徂徠の言う、将の軍略に力を貸せる程の、みがきぬかれた士卒、『ミッドウェー』に言う賞賛すべき努力を為してくれる優れた兵士、部隊、そういった器用で頑張る下部構成員が寄り集まって感覚的かつ自生的に構成される「チームワーク的なもの」。いわば下から生まれるチームワーク。そういったものを日本人は得意としているのではないかと。
そして、そういった「下から生まれるチームワーク」が、「上から創られるチームワーク」に長けた超大国アメリカや明帝国相手に奮戦し、しばしば見事な戦闘結果を叩き出したのですから、日本人もチームワークに関してそれほど卑下するようなものでも無いとは思います。
ただ、個人的な好みから言えば、もう少し「上から創るチームワーク」の方向に社会が傾斜して欲しいところですが。
馴れ合い的寄り合い的な団結ではない、理屈ベースの和が欲しいです。
by trushbasket
| 2010-07-06 01:10
| My(山田昌弘)








