豊臣秀吉は猿顔じゃない? ~さるはさるに似ざるの説 VS さるはどう見てもさるでござるの説~
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ところが、かつて、彼が猿顔であることにつき、疑問が呈された時代がありました。
しかもそんなどーでも良さそうな問題を、偉い学者の先生が大まじめに論じていた模様。
この問題に触れた100年ほど前の大学者、田中義成の『豊臣時代史』から、関連箇所を抜粋すると、
尚秀吉の面貌に就きて重野博士は史学雑誌に於て猿に似ざるの説を挙げ、かかる俗説は取るにたらずと弁ずれども、
(『豊臣時代史』講談社学術文庫 22、23頁)
とあり、
わざわざ学術雑誌で大まじめに秀吉が猿顔というのは俗説に過ぎず、秀吉は猿顔ではないと論じたてた博士がいたことが分かります。いわば「さるはさるに似ざるの説」。
ちなみに田中義成は先の引用部に続けて
実際には猿に似たりというべし。
(『豊臣時代史』講談社学術文庫 23頁)
と「さるはさるに似ざるの説」を一刀両断。
田中義成は、秀吉の幼名を猿と言ったのは申歳の生まれであるためで、猿顔だったせいではないとの見解を取っており、色んな資料の言う猿に似ていたため猿と呼ばれたという説を排斥しているのですが、
ところがこの先生、そんな見解を採りながら秀吉の顔については、それでも、猿顔であると言い切って、いわば「さるはどう見てもさるでござるの説」を主張してくれました。
ちなみに、その根拠ですが。田中義成は彼自身のNEW秀吉猿顔説を、猿に似たとする文献資料に頼らず、画像を元に導き出したのです
而して高野山を初め諸家に伝えたる秀吉の画像を見るに、其面貌頗る猿に似たり。恐らく名実偶々相合したるものか。
(『豊臣時代史』講談社学術文庫 22頁)
さて、このように、100年前の学者先生の探求心を刺激し、微妙に盛り上がったと言えなくもないかもしれない、秀吉の顔問題、この割りとどーでも良い問題に関して、現在ではどう考えられているのか、
最期にそれも見ておきましょう。
これについて、
ちょっと百科事典から近年の見解を抜き出してみます。そもそも、秀吉には文献資料によると、申歳生まれ説と酉歳生まれ説があるのですが、
申歳生まれ説は、幼名の日吉丸(ひよしまる)説、日吉大権現(だいごんげん)の申し子説やその容貌(ようぼう)とも深く結び付いて生じたもののようで、今日では後者が有力視されている。なお、その容貌からであろう、幼時にはあだ名を小猿(こざる)、長じてからは猿とか、はげ鼠(ねずみ)と称された。
(「豊臣秀吉」『スーパー・ニッポニカ Professional』小学館)
なんと現在では、申年生まれ説の原因を猿顔に求める有り様。
結局、「さるはどう見てもさるでござる」ということです。
なお、引用文中に「日吉」云々とあることについて捕捉しておくと、昔から俗世間で、猿は日吉の神の使いと言われていました。「日吉」が云々されているのはそのためです。
参考資料
田中義成『豊臣時代史』講談社学術文庫
山路愛山『豊臣秀吉』岩波文庫
『スーパー・ニッポニカ Professional』小学館
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れきけん・とらっしゅばすけっと/京都大学歴史研究会関連発表
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http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/tokucha.html
茶の湯
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/1998/980424.html
豊臣秀吉については、
よろしければ、社会評論社『ダメ人間の日本史』[リンク先Amazon]
(「豊臣秀吉 おね 戦国美女と野獣 ~猿顔のロリコン武将とその美少女嫁の話~」収録)
もご参照ください。