2010年 07月 24日
サムライ、ハラキリ、ブシドー~切腹を軸に武士の有り様を見る~
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まだパソコンが一般に普及しているとはいえなかったPC8801の時代、「HARAKIRI」というゲームが売り出されました。日本かぶれの外国人によって考案されたと称するこの作品、「信長の野望」シリーズと同様に群雄割拠状態の日本を統一するシミュレーションゲームなのですが実際の歴史と比べ合わせると明らかに変なのです。まず舞台が太平の世であったはずの元禄年間になっており、また織田信長・豊臣秀吉・毛利元就といったおなじみの戦国大名(まあ信長と秀吉が同時期に独立勢力として並立しているのも変ですが)に加えて源頼朝・足利尊氏・大老井伊(井伊直弼?)といった別時代の武将が混じっている上、「三船家康」に「S・コスギ」なるよく分からない名前も見られる有様。で、海外から黒船やらフビライやらが侵入して天下争奪戦に乱入してきたりもします。また合戦シーンでは鎧武者が敵味方とも礼儀正しく一礼してから一騎打ちするのはともかく、一騎打ちの手段がなぜか相撲。さらにこのゲームを特徴付けているのが題名にもなっている「ハラキリ」。歴史シミュレーションでお馴染みの武将能力値の中になぜか「恥」なる項目が存在し、それが一定以上高くなると武将は「もはやこれ以上の恥に耐えられぬ うぬ゛!」とか言って勝手に切腹してしまうのです。その際にやけに凝ったCGで「BANZAI」「介錯!」といった文字を背景にして散っていく。ゲーム開始時点で既に「恥」が高い武将もいて、彼等の場合は最初のターンで切腹してしまう事も。そして「恥」による切腹はペリーやフビライの配下である外国人も例外でないのが何ともはや。おまけに、一大名が抱えられる武将の数が決まっておりしかも解雇することはできないため、人数一杯の際に更に武将を雇う際は家臣の一人を切腹させて枠を作らないといけないという非情なシステム。そんな無茶な命令にも黙って従う武将の健気さには泣かせるものがあります。
要は、「何処か間違った日本のイメージ」を体現したゲームな訳です。そんなおかしな世界観を基本にしているくせして、ゲームバランスは中々良好だとか。ところで、この「外国から見た日本」=「サムライ、ハラキリ、ブシドー」という公式はどの程度かはともかく、日本のイメージの無視できない部分を占めているのは否めないようです。例えば明治期に洋行した本多晋という士族がロンドンで下宿屋の娘に「武士といふ者は刀を二本帯して居て、長い刀では人を斬り、短いのでは自分の腹を切るといふが、さうでありますか」と問われたと回想しており、当時既に西洋の庶民にも切腹については知られていた事が分かります。そこで、今回は切腹の変遷を軸にしてわが国の「武士」の有り様を概観しようかと思います。
現在確認できる最初の切腹は十世紀後半の盗賊袴垂によるものといわれ、源平・鎌倉期にも源義経や承久の乱で討ち死にした伊賀光季も切腹して果てたとする話もあるようです。しかし、ある程度一般性のある死に方として切腹が取り上げられるようになるのは南北朝争乱からではないでしょうか。例えば護良親王の家臣・村上義光が護良の身代わりとなって鎌倉軍の前で腹を十文字に切ったり鎌倉が新田義貞によって陥落した際には北条一族の多くが切腹して果てているように、この頃から戦乱で敗れ自害する際の方法として多数見られるようになりました。
切腹が自害の方法として広がった理由は明らかではありませんが、この腹を十文字にかき切り内臓をつかみ出すという苦痛の大きい方法は「最も勇気と気力を要する」死に方であるため、「武名を誇示することを信条」とする面々によって選ばれたのではないかと推測する向きもあります。また、真心を示す手段として東北地方由来で始められたのではないかという説もあるようです。
戦国期に入ってからも敗れた武将が自害する方法として切腹は広く用いられましたが、この時期には備中高松城の清水宗治が知られているように城主が兵の命と引き換えに腹を切る例もままありました。また宣教師ガスパル・ヴィレラの書簡によれば実質的な死罪として用いられる例は(まだ一般的とはいえませんが)この頃から見られるようになったようです。従来、武士に罪があった場合は手討ちにされ抵抗が予想される場合には謀殺というのが原則でした。この時期も基本的には変わりませんでしたが、切腹を死罪として利用し始めたのには名誉ある死を与える事で抵抗を防ごうという狙いがあったものでしょう。なお、こうした切腹の場合は表向きは刑死ではなく自主的に死を選んだという事とされました。それでも命じられた方がすんなりと腹を切るとは限らないため、徳川初期までは抵抗を防ぐため討手を出し家を囲ませていたそうです。
考えてみれば、戦乱の時代においては公の権力や権威が弱くなっており極論すれば私的な暴力体が数多く並立して争っていました。そうなると秩序を保つために恐怖と暴力に頼る必要が出てくるわけです。そのため刑罰も現代とは違い人通りの多い広場で公開され磔・釜煎・串刺といった残虐な方法が選ばれたのでしょう。まるで「北斗の拳」で核戦争後の荒廃した世界に光を取り戻すため恐怖によって覇権を握り秩序を回復しようとしたラオウみたいな話ですが。で、恐怖と暴力の担い手であり戦いで命のやり取りをしていた武士たちは生き残るため「徹頭徹尾、力の信者」となりました。人物を見抜く能力を磨いて誰に頼るべきかを見極め、「鈍でもなく、利発にもすぎず、決断と不屈の精神と万全の計画を遂行していく力」すなわち「才幹(ヴィルトウー)(才知、気力、その他あらゆる人間能力の総称)」(共に会田雄二『敗者の条件』 中公文庫 74頁)によって泳ぎ抜こうとしていたのです。主君といえども頼みにならないと見限られると家臣に去られたり背かれたりする時代。そんな時代ですから、主君から腹を切れといわれてもすんなり切る訳じゃないのはよく分かります。当時の武士たちは、自らの能力のみを頼りにして生き抜き、自家の生き残りが第一で主家への忠義などはその手段に過ぎない。ただし戦士として死の覚悟は常にしており名誉を重んじる。こうしてみると武士の特質は戦乱の時代ではどこの地域でも見られる戦士階級の姿であり、それ自体は日本独自なものではないですね。
徳川期に入り平和な世の中になると、刑罰として切腹が用いられる事が増えてきます。例えば慶長九年(1604)には喧嘩で生き残った方に「両成敗」として切腹が命じられました。秀忠時代以降は、従来ならば「成敗」(手討ち)であった内容に対しても切腹となる事例が増えていきます。戦いがなくなった後にも「戦士」としての側面を維持するためでしょうか。
もっとも、十七世紀後半までは人々の気質にも戦国の余韻があったようで大名レベルでも池田光政が参勤交代の際に強行軍で藩士達を鍛錬したり蜂の巣を叩き落して「戦場の模擬訓練」をやったりしていましたし、内藤忠興の正室が側室に嫉妬して長刀を持って押しかけ狼藉行為に及んだりと荒っぽい逸話も多々見られました。そうした時期には切腹を命じてもすんなりと応じるとは限らなかったのは相変わらずであり、金沢藩前田氏の御家騒動で切腹した稲葉左近の場合も藩の手勢が屋敷を包囲した中で自決したそうです。また似たような状況で(切腹を命じられたのとは違うのですが)熊本藩の阿部一族のように藩からの討手と激闘して果てた例もありました。なお、この時期の切腹で特筆すべき事は藩主が死去した際の殉死が多かった事で、外様大名を中心に殉死者の数を競う傾向もあったとか。殉死者は藩主から小姓などとして深く寵愛された事例が多数を占めており、精神的な強い絆と荒々しい気風とがあいまった現象といえます。なお、殉死はやがて法で禁じられ廃れていきますが、平和な世における武士の死に方として切腹を一般化させる結果を残したとも言われています。
平和が長くなりその中で生まれた世代が社会を動かすようになると、荒々しい気風も武士からは消えていきます。前述した大名家でも、池田綱政(光政の子)は優美な伝統貴族文化に憧れ華美に流れたと言いますし、内藤氏もまた藩主・藩士ともども能楽に凝る高等遊民と化しました。もっとも、武田信玄や今川義元、大内義隆などを例に挙げるまでも無く戦国期の武将たちにも伝統貴族文化に憧れる向きは少なくありませんでしたけどね。そんな太平の世の中では武士の「戦士」としての能力も低下した模様です。「事々録」などには天保五年(1834)に戸田平左衛門という武士が三角関係から奉公人に殺害された事件が記録されていますが、生前の彼は魚屋を無礼討ちした際に一刀の下に斬り捨てた事から剛勇と評されたそうで。無抵抗な庶民を斬っただけの話が武勇伝扱いされるわけですから、世間一般における武士の武芸レベルは推して知るべしでしょう。
また、敵対する勢力がなくなったことで武士は一つの家から追い出された際に他の家に移る事ができなくなり、また浪人も合戦の無い世では功名を挙げる手段がなくなった事により渡世が難しくなりました。これが切腹に対する武士の態度にも変化を及ぼし、以前は抵抗が予想されたような理不尽な場合でも従順に切腹に応じるようになっていきます。逆らったとしても再就職先は無く、失業状態では武士は生活が難しいのですからいずれにしても生きてはいけません。それなら家名存続が許されるなら自身の死を選ぶのも理解はできます。また政治に事なかれ主義が広がった事で不祥事を内部処理によってなかった事にする風潮が生まれ、当事者が家名存続を条件に切腹し「病死」と処理される事で子弟に相続が許されるという例が旗本を中心に多く見られます。まるで会社のスキャンダルを背負って自殺するサラリーマンですね。それにしても、その「不祥事」の内容はといえば町人に便宜を図ったというのから、経済政策に失敗した、更に門限に遅れたため切腹させられたなんてのもあります。酷いのになると他藩とのトラブルを避けるため事件を穏便に処理したところ臆病との非難があがり切腹に追い込まれたというケースまで見られ、やりきれない気分になります。
こうして見ると、「名誉・忠義の現れ」といえば聞こえはいいですが実態は主家の奴隷もしくは家畜のようなものですね、まるで。裏に事なかれ主義や上層部の保身が透けて見える事例も少なからずあり、「武士道」とやらの実態が疑われます。平和な時代の武士は高等遊民化・貴族化していたのは上述の通りであり、「武士道」はそうした時代に「命を惜しまない」「名誉を重んじる」戦士としての建前を守るための虚構であった事は容易に想像がつきます。おまけに経済的な命綱を握った上で「主君への忠義」を鼓吹する事で従順な奴隷とできる一石二鳥。
実際のところ、徳川中期以降の大名を始め武士たちが憧れたのは京の伝統貴族文化であり、彼らの本質は寧ろそこにあったのではないかという気がします。戦乱が絶えなかった南北朝や戦国においても上層武士の間には伝統貴族文化に憧れる者も少なくありませんでしたから、この傾向は余程根深いものと見えます。
まとめると、「武士」を二分すると乱世の「実利的・実力主義でしたたかな一方、命を惜しまず名誉を重んじる」豪族戦士、平和な時代の「本質的に高等遊民・貴族志向だが建前に縛られ雇主の奴隷と化した」サラリーマン。そしてどちらも貴族文化への憧れがあった。
…やっぱり、日本人を支配階層から特徴付けるとすると「サムライ」よりどちらかというと貴族すなわち「お公家さん」の方がふさわしい気がしてきます。
【参考文献】
切腹 山本博文 光文社新書
殿様の通信簿 磯田道史 新潮文庫
敗者の条件 会田雄次 中公文庫
元禄御畳奉行の日記 神坂次郎 中公新書
江戸の性の不祥事 永井義男 学研新書
<弱さ>と<抵抗>の近代国学 石川公彌子 講談社選書メチエ
関連記事:
「外国から見た日本、日本から見た外国―娯楽文化の視点から―(前半)」、「(後半)」
「元禄赤穂事件と茶会―戦術的な面から見る―」
「ウホッ!いい日本史… 前近代日本男色略史」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「日本民衆文化史」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html)
関連サイト:
「Rest In Peace」(http://www.geocities.jp/rip_gamer/rip_main.html)より
「HARAKIRI」(http://www.geocities.jp/rip_gamer/harakiri/harakiri.html)
「HARAKIRI」の魅力を紹介。基本世界観・登場人物・合戦と全てが何かヘン。
「武士(もののふ)の時代」(http://homepage1.nifty.com/SEISYO/index.htm)より
「切腹の話」(http://homepage1.nifty.com/SEISYO/sepuku.htm)
「武士の意気地」(http://busino-ikuji.hp.infoseek.co.jp/)
徳川期の武士について
「戦国武将絵巻」(http://homepage1.nifty.com/NCRAFT/sengoku/)
※2015/9/26 やや表現を変えています。
要は、「何処か間違った日本のイメージ」を体現したゲームな訳です。そんなおかしな世界観を基本にしているくせして、ゲームバランスは中々良好だとか。ところで、この「外国から見た日本」=「サムライ、ハラキリ、ブシドー」という公式はどの程度かはともかく、日本のイメージの無視できない部分を占めているのは否めないようです。例えば明治期に洋行した本多晋という士族がロンドンで下宿屋の娘に「武士といふ者は刀を二本帯して居て、長い刀では人を斬り、短いのでは自分の腹を切るといふが、さうでありますか」と問われたと回想しており、当時既に西洋の庶民にも切腹については知られていた事が分かります。そこで、今回は切腹の変遷を軸にしてわが国の「武士」の有り様を概観しようかと思います。
現在確認できる最初の切腹は十世紀後半の盗賊袴垂によるものといわれ、源平・鎌倉期にも源義経や承久の乱で討ち死にした伊賀光季も切腹して果てたとする話もあるようです。しかし、ある程度一般性のある死に方として切腹が取り上げられるようになるのは南北朝争乱からではないでしょうか。例えば護良親王の家臣・村上義光が護良の身代わりとなって鎌倉軍の前で腹を十文字に切ったり鎌倉が新田義貞によって陥落した際には北条一族の多くが切腹して果てているように、この頃から戦乱で敗れ自害する際の方法として多数見られるようになりました。
切腹が自害の方法として広がった理由は明らかではありませんが、この腹を十文字にかき切り内臓をつかみ出すという苦痛の大きい方法は「最も勇気と気力を要する」死に方であるため、「武名を誇示することを信条」とする面々によって選ばれたのではないかと推測する向きもあります。また、真心を示す手段として東北地方由来で始められたのではないかという説もあるようです。
戦国期に入ってからも敗れた武将が自害する方法として切腹は広く用いられましたが、この時期には備中高松城の清水宗治が知られているように城主が兵の命と引き換えに腹を切る例もままありました。また宣教師ガスパル・ヴィレラの書簡によれば実質的な死罪として用いられる例は(まだ一般的とはいえませんが)この頃から見られるようになったようです。従来、武士に罪があった場合は手討ちにされ抵抗が予想される場合には謀殺というのが原則でした。この時期も基本的には変わりませんでしたが、切腹を死罪として利用し始めたのには名誉ある死を与える事で抵抗を防ごうという狙いがあったものでしょう。なお、こうした切腹の場合は表向きは刑死ではなく自主的に死を選んだという事とされました。それでも命じられた方がすんなりと腹を切るとは限らないため、徳川初期までは抵抗を防ぐため討手を出し家を囲ませていたそうです。
考えてみれば、戦乱の時代においては公の権力や権威が弱くなっており極論すれば私的な暴力体が数多く並立して争っていました。そうなると秩序を保つために恐怖と暴力に頼る必要が出てくるわけです。そのため刑罰も現代とは違い人通りの多い広場で公開され磔・釜煎・串刺といった残虐な方法が選ばれたのでしょう。まるで「北斗の拳」で核戦争後の荒廃した世界に光を取り戻すため恐怖によって覇権を握り秩序を回復しようとしたラオウみたいな話ですが。で、恐怖と暴力の担い手であり戦いで命のやり取りをしていた武士たちは生き残るため「徹頭徹尾、力の信者」となりました。人物を見抜く能力を磨いて誰に頼るべきかを見極め、「鈍でもなく、利発にもすぎず、決断と不屈の精神と万全の計画を遂行していく力」すなわち「才幹(ヴィルトウー)(才知、気力、その他あらゆる人間能力の総称)」(共に会田雄二『敗者の条件』 中公文庫 74頁)によって泳ぎ抜こうとしていたのです。主君といえども頼みにならないと見限られると家臣に去られたり背かれたりする時代。そんな時代ですから、主君から腹を切れといわれてもすんなり切る訳じゃないのはよく分かります。当時の武士たちは、自らの能力のみを頼りにして生き抜き、自家の生き残りが第一で主家への忠義などはその手段に過ぎない。ただし戦士として死の覚悟は常にしており名誉を重んじる。こうしてみると武士の特質は戦乱の時代ではどこの地域でも見られる戦士階級の姿であり、それ自体は日本独自なものではないですね。
徳川期に入り平和な世の中になると、刑罰として切腹が用いられる事が増えてきます。例えば慶長九年(1604)には喧嘩で生き残った方に「両成敗」として切腹が命じられました。秀忠時代以降は、従来ならば「成敗」(手討ち)であった内容に対しても切腹となる事例が増えていきます。戦いがなくなった後にも「戦士」としての側面を維持するためでしょうか。
もっとも、十七世紀後半までは人々の気質にも戦国の余韻があったようで大名レベルでも池田光政が参勤交代の際に強行軍で藩士達を鍛錬したり蜂の巣を叩き落して「戦場の模擬訓練」をやったりしていましたし、内藤忠興の正室が側室に嫉妬して長刀を持って押しかけ狼藉行為に及んだりと荒っぽい逸話も多々見られました。そうした時期には切腹を命じてもすんなりと応じるとは限らなかったのは相変わらずであり、金沢藩前田氏の御家騒動で切腹した稲葉左近の場合も藩の手勢が屋敷を包囲した中で自決したそうです。また似たような状況で(切腹を命じられたのとは違うのですが)熊本藩の阿部一族のように藩からの討手と激闘して果てた例もありました。なお、この時期の切腹で特筆すべき事は藩主が死去した際の殉死が多かった事で、外様大名を中心に殉死者の数を競う傾向もあったとか。殉死者は藩主から小姓などとして深く寵愛された事例が多数を占めており、精神的な強い絆と荒々しい気風とがあいまった現象といえます。なお、殉死はやがて法で禁じられ廃れていきますが、平和な世における武士の死に方として切腹を一般化させる結果を残したとも言われています。
平和が長くなりその中で生まれた世代が社会を動かすようになると、荒々しい気風も武士からは消えていきます。前述した大名家でも、池田綱政(光政の子)は優美な伝統貴族文化に憧れ華美に流れたと言いますし、内藤氏もまた藩主・藩士ともども能楽に凝る高等遊民と化しました。もっとも、武田信玄や今川義元、大内義隆などを例に挙げるまでも無く戦国期の武将たちにも伝統貴族文化に憧れる向きは少なくありませんでしたけどね。そんな太平の世の中では武士の「戦士」としての能力も低下した模様です。「事々録」などには天保五年(1834)に戸田平左衛門という武士が三角関係から奉公人に殺害された事件が記録されていますが、生前の彼は魚屋を無礼討ちした際に一刀の下に斬り捨てた事から剛勇と評されたそうで。無抵抗な庶民を斬っただけの話が武勇伝扱いされるわけですから、世間一般における武士の武芸レベルは推して知るべしでしょう。
また、敵対する勢力がなくなったことで武士は一つの家から追い出された際に他の家に移る事ができなくなり、また浪人も合戦の無い世では功名を挙げる手段がなくなった事により渡世が難しくなりました。これが切腹に対する武士の態度にも変化を及ぼし、以前は抵抗が予想されたような理不尽な場合でも従順に切腹に応じるようになっていきます。逆らったとしても再就職先は無く、失業状態では武士は生活が難しいのですからいずれにしても生きてはいけません。それなら家名存続が許されるなら自身の死を選ぶのも理解はできます。また政治に事なかれ主義が広がった事で不祥事を内部処理によってなかった事にする風潮が生まれ、当事者が家名存続を条件に切腹し「病死」と処理される事で子弟に相続が許されるという例が旗本を中心に多く見られます。まるで会社のスキャンダルを背負って自殺するサラリーマンですね。それにしても、その「不祥事」の内容はといえば町人に便宜を図ったというのから、経済政策に失敗した、更に門限に遅れたため切腹させられたなんてのもあります。酷いのになると他藩とのトラブルを避けるため事件を穏便に処理したところ臆病との非難があがり切腹に追い込まれたというケースまで見られ、やりきれない気分になります。
こうして見ると、「名誉・忠義の現れ」といえば聞こえはいいですが実態は主家の奴隷もしくは家畜のようなものですね、まるで。裏に事なかれ主義や上層部の保身が透けて見える事例も少なからずあり、「武士道」とやらの実態が疑われます。平和な時代の武士は高等遊民化・貴族化していたのは上述の通りであり、「武士道」はそうした時代に「命を惜しまない」「名誉を重んじる」戦士としての建前を守るための虚構であった事は容易に想像がつきます。おまけに経済的な命綱を握った上で「主君への忠義」を鼓吹する事で従順な奴隷とできる一石二鳥。
実際のところ、徳川中期以降の大名を始め武士たちが憧れたのは京の伝統貴族文化であり、彼らの本質は寧ろそこにあったのではないかという気がします。戦乱が絶えなかった南北朝や戦国においても上層武士の間には伝統貴族文化に憧れる者も少なくありませんでしたから、この傾向は余程根深いものと見えます。
まとめると、「武士」を二分すると乱世の「実利的・実力主義でしたたかな一方、命を惜しまず名誉を重んじる」豪族戦士、平和な時代の「本質的に高等遊民・貴族志向だが建前に縛られ雇主の奴隷と化した」サラリーマン。そしてどちらも貴族文化への憧れがあった。
…やっぱり、日本人を支配階層から特徴付けるとすると「サムライ」よりどちらかというと貴族すなわち「お公家さん」の方がふさわしい気がしてきます。
【参考文献】
切腹 山本博文 光文社新書
殿様の通信簿 磯田道史 新潮文庫
敗者の条件 会田雄次 中公文庫
元禄御畳奉行の日記 神坂次郎 中公新書
江戸の性の不祥事 永井義男 学研新書
<弱さ>と<抵抗>の近代国学 石川公彌子 講談社選書メチエ
関連記事:
「外国から見た日本、日本から見た外国―娯楽文化の視点から―(前半)」、「(後半)」
「元禄赤穂事件と茶会―戦術的な面から見る―」
「ウホッ!いい日本史… 前近代日本男色略史」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「日本民衆文化史」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html)
関連サイト:
「Rest In Peace」(http://www.geocities.jp/rip_gamer/rip_main.html)より
「HARAKIRI」(http://www.geocities.jp/rip_gamer/harakiri/harakiri.html)
「HARAKIRI」の魅力を紹介。基本世界観・登場人物・合戦と全てが何かヘン。
「武士(もののふ)の時代」(http://homepage1.nifty.com/SEISYO/index.htm)より
「切腹の話」(http://homepage1.nifty.com/SEISYO/sepuku.htm)
「武士の意気地」(http://busino-ikuji.hp.infoseek.co.jp/)
徳川期の武士について
「戦国武将絵巻」(http://homepage1.nifty.com/NCRAFT/sengoku/)
※2015/9/26 やや表現を変えています。
by trushbasket
| 2010-07-24 22:24
| NF








