2010年 09月 19日
殉死・仇討異聞―君臣間の絆について―
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大正元年(1912)九月十三日、明治天皇の御大葬が行われたこの日に陸軍大将乃木希典が妻と共に自決。この殉死行為は世間の注目を惹き、忠義の極致として賞賛するものもいれば時代錯誤と非難するものもあるなど賛否両論を含み論議を呼びました。中には芥川龍之介「将軍」における登場人物の一人のように死後に忠臣として称えられる事を望んだ売名行為ではないか疑った声すらあったようです。今回は、乃木が自決した日付が近いこともありますし、武士による殉死について少し見てみたいと思います。
乃木の殉死は近代においては稀で論議を呼んだ事例ですが、徳川期初期においてはしばしば見られたものでした。例えば加賀藩主前田利常が死去した際にも寵臣達が追い腹を切っており、徳川家康の四男松平忠吉が没した際にも小姓・寵臣が殉死するなど当時においては流行となりました。特に薩摩・佐賀といった九州の大藩を中心として殉死者の数を競う風潮もあり、多い例では鍋島勝茂に二十六名、島津義久に十五名が殉死したそうです。これに対して大名や幕府はしばしばこれを戒め禁じているのですが、殉死を美風とする風潮はなかなか一掃できず社会的圧力も大きかったとか。例えば乃木の殉死に刺激を受けて書かれたと言われる森鴎外「阿部一族」に描かれたように肥後藩主細川忠利の死の際にも同様な事があった事が知られています。十七世紀後半に幕府が正式に法で禁じてしばらくしてから、徐々にその風潮もなくなっていったとか。
また、殉死と同様に忠義の行いとして評された行動としては仇討が挙げられます。鎌倉初期に父の仇を討った曾我兄弟や、主君浅野長矩を辱め改易の原因を作ったとされる吉良義央を討った赤穂浪士の行為がその代表として知られています。
これら忠義の発露として道徳的に称揚された殉死・仇討ですが、忠義を示す手段は他にもあったはずです。例えば生きて前主の子を盛り立てるのも立派な忠義のうちでしょう。実際、乃木に対しても「生きて新帝に仕えるべきであった」とする批判が存在しましたし、徳川期初期の寵臣たちにも主君から生きて子を補佐するよう遺言されたにもかかわらず周囲の圧力から殉死せざるを得なかった例があったようです。そして、仇討にしても、例えば赤穂事件において首領であった大石良雄は当初は「御家再興」を目指していた事は有名ですね。こう考えると、殉死にしろ仇討にしろ主家に対してではなく主君個人に限定された忠義といえます。とすると、そこには家臣と主君の情の繋がりが大きく関わっていると見るのが順当ではないかと思われます。
まずは徳川期初期の殉死に関してですが、前述の前田利常死後に追い腹を切った一人である品川左門はその美貌故に少年時代に召し出され寵愛された人物だそうで、利常は病没した際にも意識を失う直前に彼の名を叫んだと言いますからその絆は並々ならぬものだったと言えます。それ故に、生き延びて子を補佐するように言われていたにもかかわらず左門は周囲の圧力により殉死を余儀なくされた訳ですが。また小笠原秀政が大坂の陣で討死した際には寵愛した十人の小姓たちが全員自発的に追い腹を切ったそうです。これらの殉死においては、主君と寵臣の間の性愛的な要因が大きいといえるようで。
仇討についても同様な要素があったようです。貞享四年(1687)に水野長門守の小姓が同僚に殺害される事件が起こりましたが、これは同年十一月に殺された小姓の草履取が主君の仇を討つという出来事を引き起こしました。その草履取は武士の鑑として賞賛され平戸城主松浦鎮信によって召抱えられるに至っていますが、何でも彼が亡主の仇を討とうとしたのは「主従和合の因」があったためだとか。更に寛文十年(1670)に庄内藩に仕える小姓・片岡平八郎が同僚であった町野市三郎を殺害した犯人である伊藤甚之助を討ち果たしていますが、片岡と町野は「兄弟之契約」を結んだ仲であったとか。また享保年間に橋場総泉寺で清水新次郎が鶴岡伝内の仇である軍蔵を討った話が一時期広く喧伝されました(史実かどうかは微妙なようです)が、清水と鶴岡も「日頃兄弟の契約をなし、念友の仲」(「近代公実厳秘録」)という間柄だったそうです。「念友」とは衆道における相方を意味しますから、これも上述した例と同様に同性愛関係が絡んだものといえます。当時の武家社会では、君臣や友人の間で性愛関係が持たれる事は決して稀ではありませんでしたから、こういった事例も好意的に見られたようです。そういえば、赤穂事件においても仇討を強硬に主張した面々は江戸勤務で主君と接する機会の多かった人々が多かったようですから、やはり恋愛関係にも似た情の絆が幾許かは絡んでいたかもしれませんね。
以上のように、徳川期における武家社会では忠義・友情と言った男同士の人間関係には(勿論全てではありませんが)時に性愛関係が絡むほどに濃厚な情の絆が存在した事が分かります。
ついでに、天皇や公家といった雲の上な存在である高貴に対しては武士たちはどのような感情を寄せたのかについても見ておきます。
徳川時代初頭の関白近衛信尋は若い頃に美貌で知られ、伊達政宗・福島正則・藤堂高虎ら大名たちが茶の湯に事寄せて頻繁に交際を持ったとか。南方熊楠は、これについて肉体関係ではないにしろ恋慕の情がそうさせたものであろうと述べています。また、十九世紀前半においても、「甲子夜話」を記した平戸城主松浦静山は山科桃丸や近衛忠熙の美貌について言及し賞賛しています。これも上記の事例と同様に性愛的な視線が混じっているものと考えて大きな間違いはないでしょう。このように高貴な人への憧憬の念は、しばしば性的な意味合いを帯びる事があったようです。
明治天皇その人に対してすらそういった感情は向けられたようで、熊楠が薩摩藩士に聞いた話では明治維新の際に江戸へ行幸する天皇に供奉した薩摩藩士たちは「及びないぞえ、お菊さま」と歌いながら思慕の情を表したそうです。薩摩藩は武士階級における男色が盛んな土地柄であったようですから、尊王の念にそういった感情が混じるのも納得できる話です。
ところで薩摩と言えば、近代の中学・高等学校などにおける寄宿舎生活では少年同士の恋愛・性愛関係が盛んで薩摩の影響と考えられていたとか。異性を好む「軟派」学生と「硬派」学生に分かれていたのは当時も現代も同じように思われるのですが、「硬派」は性愛に無関心を装うのではなく美少年を好んでいたのは以前の記事で述べられた通り。森鴎外が「ヰタ・セクスアリス」で学生時代に「硬派」学生達から狙われた事を告白しただけでなく、秋田雨雀「同性の恋」・日下諗「給仕の室」や太宰治「思い出」のように将来を嘱目されたエリート作家が学生時代の少年愛を扱った作品を処女作とした事例も少なからずありました。他に文学者で言えば徳冨蘆花も同志社時代に先輩から愛撫されたそうですし、川端康成に至っては中学時代に下級生の少年と愛し合い一高時代にはその恋の体験を課題の作文において「お前の指を、腕を、胸を、頬を、瞼を、舌を、歯を、脚を愛着した。僕はお前を恋してゐた。」(氏家幹人『武士道とエロス』講談社現代新書 66頁)などと官能的に回想し教師に提出したというから驚きです。後年に川端は小説「少年」で「中学校の寄宿舎には、たとひいかなる事情がおありでも子弟を送ることはお止しなさいと、世間の父兄に私は忠告したい」(同 66頁)と回想していますが、言葉に重みがありますね。近代においても男子学生の間で男色は相当に行われていましたが、それに薩摩の気風が与えた影響は大きかったとのことです。
…話が大分逸れてしまいました。話題を戻すと、以上の事例を総合して考えると、武士階級出身であった乃木の殉死は同様に明治天皇個人への純粋な思慕の念に由来するものと断じてよさそうで、芥川の小説で取り上げられたような売名とかそういった批判は勘繰りすぎというものでしょう。別に乃木と天皇の間に性愛的な感情があったというつもりはないのですが、ただ、あえて言えば乃木が天皇に強い思慕・恩愛の感情を抱いていたのは疑いようのない事実であり、それが徳川期武士による貴人への憧憬の伝統とあいまって熱烈さや強さにおいて恋愛感情にも似た側面があったのではないかとは言えなくもないかもしれませんな。戦中の体験から軍や資本家などを「自分個人の利益のためにせよ、自分の親族のためにせよ、国家の利益のためにせよ、他人の生命を犠牲にしてなんとも思わない冷酷なこころの持ち主」(村雨退二郎『史談蚤の市』中公文庫 164頁)と糾弾して憚らない作家・村雨退二郎(左翼活動歴あり)さえ「乃木希典を最後として、日本の軍隊から人間性は追放されてしまった」(同書 167頁)と乃木に関しては情の人である事を認めているわけですが、強い思慕に由来する最期はそうした人物にふさわしいものだったのかもしれません。ただ、乃木の殉死が社会では理解不能とみなされたり賛否両論を呼んだりしている辺り、既にこの時期には徳川前期と違い殉死・仇討につながる君臣の個人的な絆は一般的なものではなくなっていたことが察せられます。
【参考文献】
軍神 山室建徳著 中公新書
芥川龍之介全集4 芥川龍之介 ちくま文庫
切腹 山本博文 光文社新書
武士道とエロス 氏家幹人 講談社現代新書
日本の歴史16元禄時代 児玉幸太 中公文庫
江戸の性風俗 氏家幹人 講談社現代新書
南方熊楠コレクションⅢ浄のセクソロジー 南方熊楠 河出文庫
本朝男色考・男色文献書志 岩田準一著 原書房
図説忠臣蔵 西山松之助監修 河出書房新社
「忠臣蔵」の謎学 中島康夫監修 青年出版社
史談蚤の市 村雨退二郎 中公文庫
関連記事:
「サムライ、ハラキリ、ブシドー~切腹を軸に武士の有り様を見る~」
「ウホッ!いい日本史… 前近代日本男色略史」
「ウホッ!いい明治 ~軟派=不純異性交遊、硬派=不純同性交遊 そういう時代が日本にはありました~」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「偉大なるダメ人間シリーズその8 プラトン」(当ブログ内に移転)
(http://trushnote.exblog.jp/14529128/)
少年愛といえばこの人。
「引きこもりニート列伝その27 南方熊楠」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/neet27.html)
博覧強記で知られ、男色にも造詣が深い人物でした。
関連サイト:
「ぶらり重兵衛の歴史探訪」(http://www.geocities.jp/bane2161/index.html)より
「乃木希典」(http://www.geocities.jp/bane2161/nogimaressuke.htm)
「武士の意気地」(http://busino-ikuji.hp.infoseek.co.jp/top2.html)より
「仇討ちとは」(http://busino-ikuji.hp.infoseek.co.jp/ada.htm)
「江戸幕府」(http://ume.sakura.ne.jp/~edo/index.html)より
「衆道」(http://ume.sakura.ne.jp/~edo/hidden4.html)
リンクを変更(2010年12月7日)
乃木の殉死は近代においては稀で論議を呼んだ事例ですが、徳川期初期においてはしばしば見られたものでした。例えば加賀藩主前田利常が死去した際にも寵臣達が追い腹を切っており、徳川家康の四男松平忠吉が没した際にも小姓・寵臣が殉死するなど当時においては流行となりました。特に薩摩・佐賀といった九州の大藩を中心として殉死者の数を競う風潮もあり、多い例では鍋島勝茂に二十六名、島津義久に十五名が殉死したそうです。これに対して大名や幕府はしばしばこれを戒め禁じているのですが、殉死を美風とする風潮はなかなか一掃できず社会的圧力も大きかったとか。例えば乃木の殉死に刺激を受けて書かれたと言われる森鴎外「阿部一族」に描かれたように肥後藩主細川忠利の死の際にも同様な事があった事が知られています。十七世紀後半に幕府が正式に法で禁じてしばらくしてから、徐々にその風潮もなくなっていったとか。
また、殉死と同様に忠義の行いとして評された行動としては仇討が挙げられます。鎌倉初期に父の仇を討った曾我兄弟や、主君浅野長矩を辱め改易の原因を作ったとされる吉良義央を討った赤穂浪士の行為がその代表として知られています。
これら忠義の発露として道徳的に称揚された殉死・仇討ですが、忠義を示す手段は他にもあったはずです。例えば生きて前主の子を盛り立てるのも立派な忠義のうちでしょう。実際、乃木に対しても「生きて新帝に仕えるべきであった」とする批判が存在しましたし、徳川期初期の寵臣たちにも主君から生きて子を補佐するよう遺言されたにもかかわらず周囲の圧力から殉死せざるを得なかった例があったようです。そして、仇討にしても、例えば赤穂事件において首領であった大石良雄は当初は「御家再興」を目指していた事は有名ですね。こう考えると、殉死にしろ仇討にしろ主家に対してではなく主君個人に限定された忠義といえます。とすると、そこには家臣と主君の情の繋がりが大きく関わっていると見るのが順当ではないかと思われます。
まずは徳川期初期の殉死に関してですが、前述の前田利常死後に追い腹を切った一人である品川左門はその美貌故に少年時代に召し出され寵愛された人物だそうで、利常は病没した際にも意識を失う直前に彼の名を叫んだと言いますからその絆は並々ならぬものだったと言えます。それ故に、生き延びて子を補佐するように言われていたにもかかわらず左門は周囲の圧力により殉死を余儀なくされた訳ですが。また小笠原秀政が大坂の陣で討死した際には寵愛した十人の小姓たちが全員自発的に追い腹を切ったそうです。これらの殉死においては、主君と寵臣の間の性愛的な要因が大きいといえるようで。
仇討についても同様な要素があったようです。貞享四年(1687)に水野長門守の小姓が同僚に殺害される事件が起こりましたが、これは同年十一月に殺された小姓の草履取が主君の仇を討つという出来事を引き起こしました。その草履取は武士の鑑として賞賛され平戸城主松浦鎮信によって召抱えられるに至っていますが、何でも彼が亡主の仇を討とうとしたのは「主従和合の因」があったためだとか。更に寛文十年(1670)に庄内藩に仕える小姓・片岡平八郎が同僚であった町野市三郎を殺害した犯人である伊藤甚之助を討ち果たしていますが、片岡と町野は「兄弟之契約」を結んだ仲であったとか。また享保年間に橋場総泉寺で清水新次郎が鶴岡伝内の仇である軍蔵を討った話が一時期広く喧伝されました(史実かどうかは微妙なようです)が、清水と鶴岡も「日頃兄弟の契約をなし、念友の仲」(「近代公実厳秘録」)という間柄だったそうです。「念友」とは衆道における相方を意味しますから、これも上述した例と同様に同性愛関係が絡んだものといえます。当時の武家社会では、君臣や友人の間で性愛関係が持たれる事は決して稀ではありませんでしたから、こういった事例も好意的に見られたようです。そういえば、赤穂事件においても仇討を強硬に主張した面々は江戸勤務で主君と接する機会の多かった人々が多かったようですから、やはり恋愛関係にも似た情の絆が幾許かは絡んでいたかもしれませんね。
以上のように、徳川期における武家社会では忠義・友情と言った男同士の人間関係には(勿論全てではありませんが)時に性愛関係が絡むほどに濃厚な情の絆が存在した事が分かります。
ついでに、天皇や公家といった雲の上な存在である高貴に対しては武士たちはどのような感情を寄せたのかについても見ておきます。
徳川時代初頭の関白近衛信尋は若い頃に美貌で知られ、伊達政宗・福島正則・藤堂高虎ら大名たちが茶の湯に事寄せて頻繁に交際を持ったとか。南方熊楠は、これについて肉体関係ではないにしろ恋慕の情がそうさせたものであろうと述べています。また、十九世紀前半においても、「甲子夜話」を記した平戸城主松浦静山は山科桃丸や近衛忠熙の美貌について言及し賞賛しています。これも上記の事例と同様に性愛的な視線が混じっているものと考えて大きな間違いはないでしょう。このように高貴な人への憧憬の念は、しばしば性的な意味合いを帯びる事があったようです。
明治天皇その人に対してすらそういった感情は向けられたようで、熊楠が薩摩藩士に聞いた話では明治維新の際に江戸へ行幸する天皇に供奉した薩摩藩士たちは「及びないぞえ、お菊さま」と歌いながら思慕の情を表したそうです。薩摩藩は武士階級における男色が盛んな土地柄であったようですから、尊王の念にそういった感情が混じるのも納得できる話です。
ところで薩摩と言えば、近代の中学・高等学校などにおける寄宿舎生活では少年同士の恋愛・性愛関係が盛んで薩摩の影響と考えられていたとか。異性を好む「軟派」学生と「硬派」学生に分かれていたのは当時も現代も同じように思われるのですが、「硬派」は性愛に無関心を装うのではなく美少年を好んでいたのは以前の記事で述べられた通り。森鴎外が「ヰタ・セクスアリス」で学生時代に「硬派」学生達から狙われた事を告白しただけでなく、秋田雨雀「同性の恋」・日下諗「給仕の室」や太宰治「思い出」のように将来を嘱目されたエリート作家が学生時代の少年愛を扱った作品を処女作とした事例も少なからずありました。他に文学者で言えば徳冨蘆花も同志社時代に先輩から愛撫されたそうですし、川端康成に至っては中学時代に下級生の少年と愛し合い一高時代にはその恋の体験を課題の作文において「お前の指を、腕を、胸を、頬を、瞼を、舌を、歯を、脚を愛着した。僕はお前を恋してゐた。」(氏家幹人『武士道とエロス』講談社現代新書 66頁)などと官能的に回想し教師に提出したというから驚きです。後年に川端は小説「少年」で「中学校の寄宿舎には、たとひいかなる事情がおありでも子弟を送ることはお止しなさいと、世間の父兄に私は忠告したい」(同 66頁)と回想していますが、言葉に重みがありますね。近代においても男子学生の間で男色は相当に行われていましたが、それに薩摩の気風が与えた影響は大きかったとのことです。
…話が大分逸れてしまいました。話題を戻すと、以上の事例を総合して考えると、武士階級出身であった乃木の殉死は同様に明治天皇個人への純粋な思慕の念に由来するものと断じてよさそうで、芥川の小説で取り上げられたような売名とかそういった批判は勘繰りすぎというものでしょう。別に乃木と天皇の間に性愛的な感情があったというつもりはないのですが、ただ、あえて言えば乃木が天皇に強い思慕・恩愛の感情を抱いていたのは疑いようのない事実であり、それが徳川期武士による貴人への憧憬の伝統とあいまって熱烈さや強さにおいて恋愛感情にも似た側面があったのではないかとは言えなくもないかもしれませんな。戦中の体験から軍や資本家などを「自分個人の利益のためにせよ、自分の親族のためにせよ、国家の利益のためにせよ、他人の生命を犠牲にしてなんとも思わない冷酷なこころの持ち主」(村雨退二郎『史談蚤の市』中公文庫 164頁)と糾弾して憚らない作家・村雨退二郎(左翼活動歴あり)さえ「乃木希典を最後として、日本の軍隊から人間性は追放されてしまった」(同書 167頁)と乃木に関しては情の人である事を認めているわけですが、強い思慕に由来する最期はそうした人物にふさわしいものだったのかもしれません。ただ、乃木の殉死が社会では理解不能とみなされたり賛否両論を呼んだりしている辺り、既にこの時期には徳川前期と違い殉死・仇討につながる君臣の個人的な絆は一般的なものではなくなっていたことが察せられます。
【参考文献】
軍神 山室建徳著 中公新書
芥川龍之介全集4 芥川龍之介 ちくま文庫
切腹 山本博文 光文社新書
武士道とエロス 氏家幹人 講談社現代新書
日本の歴史16元禄時代 児玉幸太 中公文庫
江戸の性風俗 氏家幹人 講談社現代新書
南方熊楠コレクションⅢ浄のセクソロジー 南方熊楠 河出文庫
本朝男色考・男色文献書志 岩田準一著 原書房
図説忠臣蔵 西山松之助監修 河出書房新社
「忠臣蔵」の謎学 中島康夫監修 青年出版社
史談蚤の市 村雨退二郎 中公文庫
関連記事:
「サムライ、ハラキリ、ブシドー~切腹を軸に武士の有り様を見る~」
「ウホッ!いい日本史… 前近代日本男色略史」
「ウホッ!いい明治 ~軟派=不純異性交遊、硬派=不純同性交遊 そういう時代が日本にはありました~」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「偉大なるダメ人間シリーズその8 プラトン」(当ブログ内に移転)
(http://trushnote.exblog.jp/14529128/)
少年愛といえばこの人。
「引きこもりニート列伝その27 南方熊楠」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/neet27.html)
博覧強記で知られ、男色にも造詣が深い人物でした。
関連サイト:
「ぶらり重兵衛の歴史探訪」(http://www.geocities.jp/bane2161/index.html)より
「乃木希典」(http://www.geocities.jp/bane2161/nogimaressuke.htm)
「武士の意気地」(http://busino-ikuji.hp.infoseek.co.jp/top2.html)より
「仇討ちとは」(http://busino-ikuji.hp.infoseek.co.jp/ada.htm)
「江戸幕府」(http://ume.sakura.ne.jp/~edo/index.html)より
「衆道」(http://ume.sakura.ne.jp/~edo/hidden4.html)
リンクを変更(2010年12月7日)
by trushbasket
| 2010-09-19 01:23
| NF








