鎌倉期以降の皇室・貴族とメイドさん~メイドがつなぐ血脈~
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また、十四世紀における南北朝動乱の陰にメイドさんの姿が見え隠れしたりもしていました。
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そこで、日本の歴史を通じて存続してきた皇室と彼らを取り巻く朝廷の貴族たちを対象に今回は見ていきたいと思います。
「公卿補任」によれば「家女房」すなわちメイドさんを母とする貴族で公卿(三位以上の上級貴族)となった人物は安元二年(1176)の藤原隆忠が最初ですが、それ以降散見されるようになり十三世紀半ばから特にそうした例が増えるそうです。摂関家・清華家といった最上級貴族のうち三十二人が「家女房」を母に持っているとか。そうした人物の一人である藤原定藤が宝治二年(1248)に生れたとき、父・定嗣は日記「葉黄記」に
「家の陪女<時継の娘>男子を生むと云々。予、年来邪淫戒を持ちおわんぬ。しかるを不慮に一夜の犯により、一子を生む。希代の事なり。」(高橋秀樹『日本史リブレット20 中世の家と性』山川出版社 88頁)と記しています。正妻に子が生れないから側室にしたとかだけでなく、定嗣のようにうっかり手を出しちゃったケースも結構あったんでしょうね。下働きの女性は立場上御主人様の命令を断れないでしょうから、気軽な相手にしやすかったでしょうし。
<現代語訳>我が家のメイドさんが男の子を産んだらしい。ボクは長年、ふさわしくない相手とはエッチしないと決めていたんだ。なのにうっかりある晩メイドさんに手出ししちゃったせいで、子供が出来てしまった。なんてこった。
主の後継者を産めば正式な側室になるわけでもないようで、例えば十五世紀に万里小路嗣房の家女房は嗣房との間に嫡男・時房をもうけ「近衛局」と呼ばれましたがその後も嗣房や正室に仕え続けたそうです。
次に皇室を見てみましょう。南北朝動乱を経て天皇の政治的実力が失墜し経済力も失った後、皇后・中宮といった天皇の正室が立てられる事がしばらくなくなった時期がありました(再び正室が立てられたのは徳川秀忠の娘・和子が後水尾天皇の中宮として入内した際)。その間、天皇の相手を務めていたのが「禁裏女房」すなわち宮廷内のメイドさんでした。例えば、後円融天皇は女房として宮中に上がっていた三条公忠の娘との間に後小松天皇をもうけますが、それで彼女の待遇が変ったわけではなく後小松天皇が即位した後も後円融上皇付きの女房のままでした。彼女が准后(皇后に準ずる待遇)という国母にふさわしい扱いを受けたのは、後円融が死去し後小松が名実共に朝廷の頂点に立ってからのことです。その後の天皇も、女房を母として生まれ女房との間に継嗣をもうける例が続いたのを考えると、皇室が不遇であった時代を支えたのはメイドさんだったわけですね。
徳川将軍家も、大名も、そして皇室もその歴史の背後には血統断絶を防ぐべく身体を張ってきたメイドさんの活躍があるわけです。やっぱり、我が国もメイドさんが歴史を支えてきた国なのですね。
【参考文献】
日本史リブレット20 中世の家と性 高橋秀樹 山川出版社
日本大百科全書 小学館
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「偉大なるダメ人間シリーズその1 キルケゴール」(当ブログ内に移転)
(http://trushnote.exblog.jp/14529065/)
「光厳天皇」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/kougon.html)
朝廷の権力が失墜する過程の苦悩を背負った天皇です。
海外には、メイドさん大好きの偉人たちがいました。よろしければ、
より「キルケゴール 史上最狂のメイドオタク。空前絶後のキモさで世間のみんなの笑いもの。」や「マルクス ある時ニートは閃いた。共産主義にして社会の富をみんなで平等に分けたら世界は幸せになれるよ!」を御参照ください。
リンクを修正(2010年12月7日)