軍事史概説 第2部 インド前近代軍事史(1/2) 陸軍編
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インド前近代軍事史
陸軍編
<先史時代>
旧石器時代のインドでは、木や石片で作った未熟な道具が武器として用いられたが、戦いは未だ個人間の決闘に過ぎず、戦争と言える段階にはない。
前8000年頃からの新石器時代には農耕や牧畜が始まり、農地や家畜の獲得のために戦争が起こったが、この時期のインドにおいて、戦争が組織的に遂行されることはなかった。
<古代前期;都市と部族の軍隊>
1.インダス文明の軍隊
インドでは、前2300~1800年頃にかけて、インダス川流域で都市文明が繁栄する。そして都市では貴族の支配下に軍事活動の組織化が進んだが、強力な王は存在せず、その組織化の程度はあまり高度なものではない。武器は銅器が主で青銅器も用いられた。最も好まれた武器は弓であるが、弓の愛好はこれ以後も歴史を通じてインドの武技の特徴を為す。戦闘は徒歩で行われ、馬や象、車の戦争における使用はまだ見られない。
2.アーリア人の軍隊
インダスの都市文明が衰退し、都市のわずかな名残を留めるのみとなった前1500年ごろ、北インドにアーリア人が侵入する。アーリア人は先住民を攻撃し、あるいはアーリア人同士衝突しつつ、次第に勢力を拡大、やがて先住民と融合しインドに定着していった。
この頃の軍隊は部族を基礎に編成されていたが、絶え間ない戦争状態の中で、部族の指揮を執る首長の権力が強大化、軍隊の組織も強化されていくことになった。
アーリア人は戦車、騎兵、象の戦争での利用を開始した。とくに貴族の乗る戦車は戦闘の中心となって活躍し、徒歩で戦うインド先住民はこれに対抗することがほとんどできなかった。ところでアーリア人の軍隊でも、大衆から成る歩兵が数の上ではその大半を占めたが、これも戦車の前では蹴散らされるのみであった。ちなみにインドの歩兵が、数の多さにもかかわらず、非常に弱体なのは、以後歴史を通じて変わらない現象である。騎兵は、この頃は富貴の証である戦車ほどには尊重されておらず、戦場ではあまり重要な役割を与えられていない。なお、騎兵は他の兵科と異なり、弓を用いることがほとんどない。象については利用が未だ小規模で、戦闘の行方を左右するほどのものではなかった。
<古代中期;古代国家の軍隊>
1.群雄割拠の時代
北インドに広がったアーリア人は戦乱の中で部族の連合体を成長させていたが、前600年頃にはそれらの連合体が強力な国家へと発展、十六王国時代と呼ばれる群雄割拠の時代が到来する。こうして成立した諸国家は、割拠の時代を生き抜こうと、国力と軍事力の充実に努める。諸国は、この頃までに広範な普及を遂げつつあった鉄器を用いて開墾を推進し、また交易を促進して、財政基盤を整備した。そして、そのような基盤の上に、鉄器で武装した効率的な軍隊が発展していくことになった。やがてこの中から、前5世紀以降、マガダ国が優勢となり、インドはしだいに割拠状態を抜け出して行く。
この時代以降、軍隊は世襲の戦士団を中核とする常備軍となった。戦闘においては、戦車の重要性が低下を始める一方で、騎兵が確固たる地位を築きつつあった。また象も、未だその有効性に対する疑いが完全には消え去っていないものの、防御において味方の戦列を強化し、攻撃において敵戦列を踏み破るなど、軍隊の不可欠の要素としての地位を確立している。
2.統一帝国
前4世紀の半ばのナンダ朝の時代にマガダ国は広大な領域を統一し、その後まもなくナンダ朝を倒して興ったマウリヤ朝が、さらに巨大な帝国を築く。これらの統一帝国では以前からの軍事的発展が頂点に達した。
戦車は、使用は続いているものの、もはや戦闘で重要な役割を果たすことはなく、かわって戦場では騎兵と象が活躍することになった。とくに象は軍隊の主力となり、戦闘の勝利は専ら象部隊に依存するようになった。
<古代後期;国家の衰退>
1.異民族の流入
マウリヤ朝の巨大帝国下においては、技術と文化の広範な伝播や積極的な国土開発の結果、後進地域の経済が大いに発展して、各地で自立の傾向が強まっていった。こうしてマウリヤ帝国は前3世紀の後半には広大な領域を維持できなくなって分裂、急速に衰退していく。そのため、前2世紀以降、北インドは様々な異民族の侵入を受けることになるが、それら異民族のなかでもクシャーナ朝は強力で、1世紀半ばから3世紀半ばにかけて、北インドのほぼ全域を支配下においた。これら異民族はたいていはインドの文明を取り入れ、定着、同化していったため、インドもその影響を大きく受けることになった。そして、4世紀はじめから6世紀半ばにかけて北インドを支配したグプタ朝も、これら異民族から多くのことを吸収したため、この時期にはそれまでのインドの伝統と著しく異なる軍事技術が花開くことになった。
これまでのインドの軍隊は、堅固に防御を固め、象部隊の威力を活かして戦っていたが、この時代の軍隊は、騎兵を中心に、機動力を活かした戦いをするようになったのである。またこの時代の騎兵は弓を使い、突撃だけでなく射撃をも行った。なお、戦車はもうほとんど戦争には使用されていない。
ところで、この時代を通じてインドは分裂傾向を深め続けており、地方にはしだいに豪族が台頭して、国家の支配力は弱まりつつあった。その結果として軍事力の構成にも変化が生じている。グプタ朝では、国家が常備軍を保有する一方で、軍事力を豪族の私的な兵力にも頼るようになったのである。
2.豪族の成長
グプタ朝は、5世紀の末より中央アジアのエフタルの侵入に苦しみ、6世紀半ば、遂に崩壊する。そしてエフタルの侵入がインドの都市と交通網に大きな打撃を与えたため、以後は商業が衰退、マウリヤ朝末期以来の分裂傾向が一段と加速して、インドはますます統一を弱めていった。そして軍事の面でも進歩、発展を維持する力が失われていった。だがこのような情勢下にもかかわらず、7世紀前半、ヴァルダナ朝は一時的にではあるが北インドに覇権を打ち立て、強力な軍隊を維持することに成功していた。
この時代のインドでは、前代に開花した軍事技術を継承することはなく、それ以前の伝統的な軍隊への回帰が見られた。再び、象部隊を中心とした戦闘が行われるようになったし、騎兵による弓の使用もほとんど見られなくなった。ただし、戦車の戦争での使用が復活することはなかった。
なお軍事力を豪族に依存する傾向はさらに増しており、常備軍の時代は急速に終わりを迎えつつあった。
<中世;豪族の時代>
ヴァルダナ朝の支配が崩れた7世紀の半ば以降、インドは豪族勢力に支配された群小国家が絶え間なく衝突する、長い分裂と抗争の時代に突入、12世紀末までそのような状況が続くことになった。それらの豪族達はラージプートと呼ばれたため、この約5世紀間はラージプート時代とも呼ばれる。この豪族勢力は、これに先立つ時代にインドに侵入、定着しつつあった精強な異民族と、インド土着豪族との混交から生じた軍人階級で、非常に武勇と独立を尊び、私兵を抱えて地方に小規模武力集団を形成して自立し割拠していた。そしてこの時代の軍隊は、それら豪族の私兵を雑然と寄せ集めたもので、効率的な組織も部隊間の連携も欠き、戦闘においては、豪族たちの個人的な武勇と象の破壊力に、過度に依存していた。
なお、8世紀には完全に戦車隊の使用が消滅している。
<近世前期;騎兵の時代>
インドでは、11世紀にイスラム勢力との衝突と交流が活発になって以降、イスラム商人の影響で商業が復活していく。また12世紀の末にはトルコ系イスラム王朝であるゴール朝が、強力な常備軍で、北インドの広大な領域を征服し、インドに定着をする。そして、ゴール朝を継いだデリー・スルタン朝では、商業、交通を促進して財政基盤を整備、軍事力の強大化を推し進めて、さらに支配を拡大していくことになった。
これらトルコ系イスラム王朝の軍隊では、弓騎兵が中心となって活躍、これ以降インドの軍隊は騎兵が主力となった。弓騎兵は、機動力と射撃による攪乱や、敵側背への素早い突撃を駆使して戦っている。なお象部隊も、地位が低下したといっても、いまだ大きな信頼を寄せられており、前衛として戦闘に投入されている。
<近世中期;火器の導入>
デリー・スルタン朝は、14世紀の半ばに拡大しすぎた領土を支えきれなくなり、以後は弱体化が進行、15世紀以降のインドは地方政権が割拠する状況に陥ってしまった。そして16世紀はじめムガル帝国が、分裂するインドに侵入、火器を活用して諸勢力の軍勢を撃破し、インドでの足場を確保、しだいに支配を拡大して巨大帝国を築き上げていった。
インドでは15世紀の後半までには既に火器が使用されていたが、火器が恒常的に使用されるようになったのは、16世紀はじめのムガル帝国侵入以後である。
ムガル帝国の軍隊では、大砲と銃手は前衛に配置され、荷車や土塁で構築した陣地に拠って射撃を行う。そして騎兵は、翼から敵側背へと迂回攻撃をかけた。象は、背が高くて射撃の的になりやすく、轟音や負傷によって容易に混乱、暴走するという性質があるため、火器の使用以後はその重要性を著しく低下させた。もはや象部隊は、敵に打撃を与えることはほとんど期待されておらず、戦闘では後方に留め置かれた。この時代の象部隊に与えられた主な役割は、外見によって敵を威圧することであり、苦戦に陥った味方を救援する場合にのみ、戦闘に参加させられた。
ところで、ムガル帝国軍は火器を活用したといっても、歩兵はそれ以前の時代と同様に、数は多いが極めて弱体で、しかも火器の操作をトルコ人やヨーロッパ人など外国人に頼ることが多った。あくまで主力は騎兵のままであり、ムガル帝国軍が、火器の威力を最大限に引き出せる強力な歩兵軍へと、成長していくことはなかったのである。
<近世後期;イギリスの侵略>
ムガル帝国は、支配を拡大していく中、南インドで激しい抵抗に会うようになり、泥沼の闘争に引き込まれて国力を消耗、18世紀に入って急速に衰え、インドは地方政権の割拠する無政府状態に陥る。このような情勢下、フランスとイギリスが、盛んにインド進出を図るようになっていったが、火器の威力を最大限に活用するヨーロッパ式の歩兵軍はインドの軍隊を圧倒、イギリスはインド内に強固な足場を築くことに成功した。
その後インドは、ヨーロッパ式の軍事技術を十分に学び取ることができぬまま、19世紀をむかえる。そして、近代の幕を開けたイギリスによって、一挙に全土を征服されることになった。
参考資料は別ページを参照
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