2010年 12月 08日
南北朝研究史概論(上)
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目次
1.はじめに
日本史研究において、南北朝は一つの試金石である。まず、従来の権威・価値観が失墜し、社会制度や文化において大きな転換がなされた時代である。天皇の政治権力やら皇室の分裂やらが濃厚に絡むため、語る際にそれに関する見解を問われる時代でもある。それはしばしば天皇を奉じた近代日本とイデオロギー的に結び付けられ、政治問題化もした。この時代をどう扱うかが、日本史を語る上での一つの指標となっているのは否めないところである。と言う訳で、今回はこの南北朝がどのように歴史学において研究されてきたかを概観する。といっても、筆者は専門研究者ではなく趣味で歴史を楽しんでいるだけの人間であるから、研究者たちがその作品に込めてきた意図を理解・共有する事は難しいのだが。
2.前近代
我が国の歴史書で最初に南北朝対立を取り上げたのは北畠親房「神皇正統記」であろう。この書は親房による南朝の正当性を訴えたアジテーション文書という性格が強いため、南朝正統を主張しているのは当然といえる。それ以降の史書は、北朝の系統が受け継がれたという事実から北朝を主とする記述となっていた。
南北朝の記述にイデオロギーが再び持ち込まれたのは徳川期に入ってからである。その嚆矢といえるのが徳川光圀により編纂が開始された水戸藩「大日本史」であり、神器の所在を論拠に南朝を正統として南朝天皇伝記を本紀、北朝天皇伝記を列伝に収めていた。南朝正統説の背景には、朱子学による大義名分論の影響が強かったのは想像に難くない。その一方で、足利尊氏は「叛臣伝」ではなく「将軍伝」に列伝が収められており、イデオロギーで人物を分類する事の難しさを垣間見させている。一方、同時期に林鵞鳳により編纂された徳川幕府公式史書「本朝通鑑」では、両朝併記として後醍醐天皇時代は「譲位の意志がなかったため」後醍醐を優先しているものの後村上以降は「都鄙の別」すなわち南朝勢力圏が都を追われ圧倒的劣勢であった事から北朝を先に記している。論理の一貫性という点では無理が見られるが、公式史書として君主の正統性の記述において判断を極力慎重にした努力の跡といえる。
影響の大きい個人史書としてはまず新井白石「読史余論」が挙げられる。歴史を時代の特徴から客観的な区分しようとした点で画期的な書であり、朝廷には「九変」(9つの大きな変化)、武家には「五変」(5つの大きな変化)という画期があったとしている。南北朝関連でいえば、南北両朝の正統性より時代区分の方が重視されているといえる。「九変」のうち後醍醐が支配権を奪回するものの三年で潰えたのが八変で尊氏が光明天皇を擁立し天下が完全に武家の世となったのが九変。「五変」の中では北条氏に続いて足利氏が天下を取ったのが三変であるという。そして後世に政治的影響を最も与えた史論は頼山陽「日本外史」であろう。有力一族の列伝形式をとりながら名分論により南朝を正統とした。漢詩人としても優れていた山陽はロマンチシズム溢れる文体で南朝忠臣達を描き、後世の尊王論者に大きな思想的刺激を与え倒幕への原動力の一つとなった事は否めない。
3.明治期の南北朝研究
明治政府は国家による史書編纂を計画し、修史局が設けられた。そこでの編纂任務に当ったのが重野安繹・久米邦武である。彼等は実証的・考証的な記述を重んじており従来の大義名分論に強く反発し、従来語り継がれてきた「美談」や忠臣君子などの話を史実と証明できなければ容赦なく削除した。久米が「太平記」に潤色が多い事を難じて「太平記は史学に益なし」と題する論文を書き、重野が南朝忠臣の一人である児島高徳の実在を否定したのはその一例であり、重野は世間から「抹殺博士」と渾名されている。
彼等の仕事は近代的実証主義の先駆けではあったが、反発も強かった。水戸学派や国学派は激しくこれを非難し、1891年に「神道は祭天の古俗」という論文を久米が発表したのを契機に彼等実証主義派は追われ、帝大教授にも水戸学派の学者が後任となった。このように、国家の大義を重んじる名分論と実証主義を掲げるアカデミズムとの対立が明治期における史学において見られた。そして南北朝研究においてそれは特に顕著だったわけである。尤も、水戸学派の影響を受けた学者にも三浦周行のように実証主義的な業績を残した学者が存在してはいるが。ともあれ、こうした対立が明治末には政治的性格の強い一大事件に繋がるのである。
4.南北朝正閏論争
明治四十四年(1911)、国定教科書「尋常小学日本歴史」が南北両朝並列を取っていた事に対し読売新聞が非難の文を掲載した。これを受けて代議士藤沢元造が早稲田大学の松平康国・牧野謙次郎と共に国会で議題にした上で「国民をして順逆・正邪を誤らしめ、皇室の尊厳を傷つけ奉り、教育の根底を破壊する」恐れがあると政府を詰問しようと図った。問題の紛糾化を避けようとする桂首相・小松原文相によりこれは撤回されたが、これをきっかけに小学校教員を忠臣とする在野の大義名分派が言論機関を通じて教科書批判の世論を形成。結局首相・枢密院が上奏し天皇勅裁により南朝が正統とされ、教科書の「南北朝」の見出しは「吉野の朝廷」と変えられ責任者喜田貞吉は休職とされたのである。
こうした論争が起こった背景には、大逆事件(社会主義者による天皇暗殺未遂事件)の影が大きい。幸徳秋水は法廷で「今の天皇は南朝から皇位を奪った北朝の末裔」と指摘し裁判長を黙らせており、被告の中には久米邦武「大日本古代史」で日本紀的史観に疑問を持ったのがきっかけの者もいた。史実と乖離した学問的とはいえぬ言説が公式に通されたのは、こうした国家のまとまりへの不安があり国家への服従の強化が図られたためであった。
因みに山路愛山が英雄伝記の一環として「足利尊氏」を発表したのは明治四十二年(1909)の事であったが、この時期既にそうした時代風潮が見られたため未完成のまま敢えて急いで出版に踏み切ったのだといわれる。尊氏を時代の流れを背景に肯定的に捉えたこの作品は、(尊氏に関する記述はほとんどないものの)公正な南北朝概論として高く評価されている。
(中)へ続く
1.はじめに
日本史研究において、南北朝は一つの試金石である。まず、従来の権威・価値観が失墜し、社会制度や文化において大きな転換がなされた時代である。天皇の政治権力やら皇室の分裂やらが濃厚に絡むため、語る際にそれに関する見解を問われる時代でもある。それはしばしば天皇を奉じた近代日本とイデオロギー的に結び付けられ、政治問題化もした。この時代をどう扱うかが、日本史を語る上での一つの指標となっているのは否めないところである。と言う訳で、今回はこの南北朝がどのように歴史学において研究されてきたかを概観する。といっても、筆者は専門研究者ではなく趣味で歴史を楽しんでいるだけの人間であるから、研究者たちがその作品に込めてきた意図を理解・共有する事は難しいのだが。
2.前近代
我が国の歴史書で最初に南北朝対立を取り上げたのは北畠親房「神皇正統記」であろう。この書は親房による南朝の正当性を訴えたアジテーション文書という性格が強いため、南朝正統を主張しているのは当然といえる。それ以降の史書は、北朝の系統が受け継がれたという事実から北朝を主とする記述となっていた。
南北朝の記述にイデオロギーが再び持ち込まれたのは徳川期に入ってからである。その嚆矢といえるのが徳川光圀により編纂が開始された水戸藩「大日本史」であり、神器の所在を論拠に南朝を正統として南朝天皇伝記を本紀、北朝天皇伝記を列伝に収めていた。南朝正統説の背景には、朱子学による大義名分論の影響が強かったのは想像に難くない。その一方で、足利尊氏は「叛臣伝」ではなく「将軍伝」に列伝が収められており、イデオロギーで人物を分類する事の難しさを垣間見させている。一方、同時期に林鵞鳳により編纂された徳川幕府公式史書「本朝通鑑」では、両朝併記として後醍醐天皇時代は「譲位の意志がなかったため」後醍醐を優先しているものの後村上以降は「都鄙の別」すなわち南朝勢力圏が都を追われ圧倒的劣勢であった事から北朝を先に記している。論理の一貫性という点では無理が見られるが、公式史書として君主の正統性の記述において判断を極力慎重にした努力の跡といえる。
影響の大きい個人史書としてはまず新井白石「読史余論」が挙げられる。歴史を時代の特徴から客観的な区分しようとした点で画期的な書であり、朝廷には「九変」(9つの大きな変化)、武家には「五変」(5つの大きな変化)という画期があったとしている。南北朝関連でいえば、南北両朝の正統性より時代区分の方が重視されているといえる。「九変」のうち後醍醐が支配権を奪回するものの三年で潰えたのが八変で尊氏が光明天皇を擁立し天下が完全に武家の世となったのが九変。「五変」の中では北条氏に続いて足利氏が天下を取ったのが三変であるという。そして後世に政治的影響を最も与えた史論は頼山陽「日本外史」であろう。有力一族の列伝形式をとりながら名分論により南朝を正統とした。漢詩人としても優れていた山陽はロマンチシズム溢れる文体で南朝忠臣達を描き、後世の尊王論者に大きな思想的刺激を与え倒幕への原動力の一つとなった事は否めない。
3.明治期の南北朝研究
明治政府は国家による史書編纂を計画し、修史局が設けられた。そこでの編纂任務に当ったのが重野安繹・久米邦武である。彼等は実証的・考証的な記述を重んじており従来の大義名分論に強く反発し、従来語り継がれてきた「美談」や忠臣君子などの話を史実と証明できなければ容赦なく削除した。久米が「太平記」に潤色が多い事を難じて「太平記は史学に益なし」と題する論文を書き、重野が南朝忠臣の一人である児島高徳の実在を否定したのはその一例であり、重野は世間から「抹殺博士」と渾名されている。
彼等の仕事は近代的実証主義の先駆けではあったが、反発も強かった。水戸学派や国学派は激しくこれを非難し、1891年に「神道は祭天の古俗」という論文を久米が発表したのを契機に彼等実証主義派は追われ、帝大教授にも水戸学派の学者が後任となった。このように、国家の大義を重んじる名分論と実証主義を掲げるアカデミズムとの対立が明治期における史学において見られた。そして南北朝研究においてそれは特に顕著だったわけである。尤も、水戸学派の影響を受けた学者にも三浦周行のように実証主義的な業績を残した学者が存在してはいるが。ともあれ、こうした対立が明治末には政治的性格の強い一大事件に繋がるのである。
4.南北朝正閏論争
明治四十四年(1911)、国定教科書「尋常小学日本歴史」が南北両朝並列を取っていた事に対し読売新聞が非難の文を掲載した。これを受けて代議士藤沢元造が早稲田大学の松平康国・牧野謙次郎と共に国会で議題にした上で「国民をして順逆・正邪を誤らしめ、皇室の尊厳を傷つけ奉り、教育の根底を破壊する」恐れがあると政府を詰問しようと図った。問題の紛糾化を避けようとする桂首相・小松原文相によりこれは撤回されたが、これをきっかけに小学校教員を忠臣とする在野の大義名分派が言論機関を通じて教科書批判の世論を形成。結局首相・枢密院が上奏し天皇勅裁により南朝が正統とされ、教科書の「南北朝」の見出しは「吉野の朝廷」と変えられ責任者喜田貞吉は休職とされたのである。
こうした論争が起こった背景には、大逆事件(社会主義者による天皇暗殺未遂事件)の影が大きい。幸徳秋水は法廷で「今の天皇は南朝から皇位を奪った北朝の末裔」と指摘し裁判長を黙らせており、被告の中には久米邦武「大日本古代史」で日本紀的史観に疑問を持ったのがきっかけの者もいた。史実と乖離した学問的とはいえぬ言説が公式に通されたのは、こうした国家のまとまりへの不安があり国家への服従の強化が図られたためであった。
因みに山路愛山が英雄伝記の一環として「足利尊氏」を発表したのは明治四十二年(1909)の事であったが、この時期既にそうした時代風潮が見られたため未完成のまま敢えて急いで出版に踏み切ったのだといわれる。尊氏を時代の流れを背景に肯定的に捉えたこの作品は、(尊氏に関する記述はほとんどないものの)公正な南北朝概論として高く評価されている。
(中)へ続く
by trushbasket
| 2010-12-08 03:17
| NF








