2010年 12月 08日
南北朝研究史概論(中)
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目次
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5.大正期・昭和初期の南北朝研究
政治的には「南朝正統」が公式見解として定められたが、少なくともこの時点で政府は学問レベルにまでこれを強要する意図はなかった。そのため、大正に入って以降も自由な内容の議論は可能であり、折りからの好況と自由を重んじる気運もあって実証主義的な研究は発展を続けていた。その代表といえるのが東京帝大教授の田中義成であった。彼の講義は名称こそ「吉野朝史」とせざるを得なかったもののその内容においては「制度に拘泥せず」、「吾人の考うる所によれば、学術的には、この時代を称して南北朝時代と云うを至当とす。何となれば、当時天下南北に分れて抗争せるが故に、南北朝の一語よく時代の大勢を云い表わせるを以てなり。」(共に田中義成 『南北朝時代史』講談社学術文庫 37頁)と述べて憚らなかった。その講義録は、田中の没後である大正十一年(1922)に三上参次や田中の弟子・平泉澄らの手によって「南北朝時代史」として編纂されている。この書は南北朝における政治史の流れを平明な文章で詳細に分りやすく史実を重んじ史料を明示して実証的に述べた名著として今日まで評価が高い。黒板勝美・辻善之助といった学者たちも田中によって薫陶を受けた一人である。この時期はかなり自由な議論が可能だったようで、辻は尊氏の人格を褒める内容の文章を書いているが特に問題になっていない。
また、上述の三浦周行も大正十一年に「日本史の研究」において「建武中興の政治史的社会史的意義」という社会史的な側面から注目した論文を発表しており実証的学問としては収穫の多い時期であったといえる。昭和初期においても昭和二年(1927)に黒板勝美が「後醍醐天皇と文観僧正」を、中村孝也が「建武中興と神国思想」を、中村直勝が「建武中興と皇室領」を著したり、昭和五年(1930)には西田繁「封建社会発展の一契機としての『建武中興』運動」が出されるなど宗教・思想・経済との関連を追及する幅広い視野での研究がなされていた。
しかし、明治末には講座名を変えさせる程度であった政治的圧力も、昭和に入ると学問研究内容そのものに干渉するようになっていくのである。
6.皇国史観の時代(東大)
昭和に入り軍部が台頭するようになると、歴史学の世界でも国家主義を裏付ける「皇国史観」が幅を利かすようになった。その先頭にいたとされるのが東大日本中世史を担当していた平泉澄である。彼は前述したように田中の弟子であり、「南北朝時代史」編纂に大きな役割を果した他に寺社のアジール(法の効力が及ばない自由空間)性を西洋史と対比して指摘するなど本来は実証研究の力量も決して小さくない人物であった。しかし、平泉はやがて師とは対照的に名分論を正面に出し「日本精神」の涵養を志すようになる。例えば昭和八年(1933)には「中世の国体観念」、翌年には「日本中興」を著すなど自身の時代の道徳を持ち込んだ論文が目立っている。昭和十一年(1936)には建武義会を結成し会誌「建武」を創刊、実証的史学への攻撃を行なうに至った。彼の一つの頂点が昭和十四年(1939)「後醍醐天皇六百年御式年」であり、自身は「建武中興の本義」を著し建武義会から「後醍醐天皇奉賛論文集」を刊行している。この時期の実証史学への風当たりは相当なものであったようで、戦後には平泉一派は憎悪交じりの激しい批判を受けている。昭和十六年(1941)に北畠顕家卿奉賛会が関東の足利方豪族・安保氏関連の文書を編纂した「安保文書」を著しているが、この際も序文に「敵方の消息を知る要なればなり」と「言い訳」を記す事で批判を避ける必要がある状況であった。
この時期の研究論文は人物伝記が中心であり、昭和十六年の平泉「菊池勤王史」や昭和十七年(1942)の中村孝也「北畠顕家卿」、昭和十九年(1944)「建武中興時代の人々」などが挙げられる。大正・昭和初期のような社会史・経済史をも含む広い視野の研究は難しかったといえよう。歴史研究においては冬の時代であったといえる。
7.皇国史観の時代(京大)
上述のように実証史学にとって受難の時代であった昭和前期であるが、京大ではやや様子が異なったようである。京大も西田直二郎の下で皇国史観が採用されていたのであるが、平泉の東大とは違いより緩やかであったらしく、この時期には平泉を嫌って京大を選んだ学生も存在したという。
この時期の京大において南北朝研究を主導していたのが中村直勝である。昭和十年(1935)、中村は「吉野朝史」を著す。本書では、南北朝が「米穀経済から貨幣経済へ」「仏神から人間へ」移行しつつある過渡期の時代であると位置づけられ、「鎌倉時代を以て中世の終とするならば、室町時代を以て近世の初頭と言はねばならぬかと思ふ。」(中村直勝『吉野朝史』星野書店 3頁)「確かにこの吉野朝頃に、中世は終わりて近世は初まつたと云ふ感が深い。之を経済組織の方面から見れば、この時代を中心として、米穀経済から貨幣経済への変移がある。之を思想界に見るならば、神仏の宗教的世界は終りを告げて、人間の世界が導き出されると思ふ。」(同書 3-4頁)とあるように文化史・経済史から見て日本史における転換期であるとされている。ここでは、「従来は吉野朝の歴史とし云へば、勤皇と愛国と感激との歴史であつて、所謂涙なくしては読まれぬ歴史であつたが、さうした詩人的な詠嘆の歴史の外にそれ等諸現象の奥に、脈々として流るるものを見出す事が、また歴史家の任務なる事を知らねばならぬ。」(同書 3頁)とあるように、皇国史観と実証史学の奇妙な融合がなされていたのであった。各論においても、中村は「公家一統」が天皇専制を意味する事や楠木氏の出自、兼好法師と徒然草、当時の経済など幅広い実証的文章を残している。社会史・文化史・経済史をも含めた広い視野での歴史論が、ここではなお生きていたのである。
同時代に特異的なイデオロギーに強く染められた平泉らの作品とは異なり(ただし平泉も上述のように「アジール」の研究など今日でも一定の評価を受ける研究は存在する)、中村の著作は現在においても少なからず通用する内容であるといえる。後に「戦前のもっともすぐれた南北朝史家」(佐藤進一『南北朝の動乱』中公文庫 38頁)と佐藤進一によって評されるのも故なき事ではないのである。
こう書くと中村が皇国史観を否定しなかったのは時流にあわせたに過ぎないと考える向きもあるであろうが、中村は「足利ノ尊氏」など戦後の著作においても尊氏を逆賊と呼んで憚っておらず(一方で一流の人物として評価もしている)自身の意志で彼なりに皇国史観を奉じていたものであるようだ。
中村の他にも、注目すべき研究者がもう一人京大に存在した。清水三男である。彼は「建武中興と村落」(1942)などで村落史を通じて室町期の守護一国支配への過渡期として建武政権の守護・国司併置を積極的に評価する斬新な視点を持ち込んでいる。なお、清水は大戦末期に徴兵され異郷シベリアで帰らぬ人となった。
この歴史学の危機の時代において、京大独自の自由の気風によって、そして中村らの存在によって、南北朝研究の命脈は辛うじて枯死を免れたのである。東大史学が政治的圧力により沈滞する中で、存在感を示し気を吐いた京大の歴史における誇るべき一頁といえよう(京大とて滝川事件に代表されるように政治的圧力から無縁ではなかったのだが)。
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5.大正期・昭和初期の南北朝研究
政治的には「南朝正統」が公式見解として定められたが、少なくともこの時点で政府は学問レベルにまでこれを強要する意図はなかった。そのため、大正に入って以降も自由な内容の議論は可能であり、折りからの好況と自由を重んじる気運もあって実証主義的な研究は発展を続けていた。その代表といえるのが東京帝大教授の田中義成であった。彼の講義は名称こそ「吉野朝史」とせざるを得なかったもののその内容においては「制度に拘泥せず」、「吾人の考うる所によれば、学術的には、この時代を称して南北朝時代と云うを至当とす。何となれば、当時天下南北に分れて抗争せるが故に、南北朝の一語よく時代の大勢を云い表わせるを以てなり。」(共に田中義成 『南北朝時代史』講談社学術文庫 37頁)と述べて憚らなかった。その講義録は、田中の没後である大正十一年(1922)に三上参次や田中の弟子・平泉澄らの手によって「南北朝時代史」として編纂されている。この書は南北朝における政治史の流れを平明な文章で詳細に分りやすく史実を重んじ史料を明示して実証的に述べた名著として今日まで評価が高い。黒板勝美・辻善之助といった学者たちも田中によって薫陶を受けた一人である。この時期はかなり自由な議論が可能だったようで、辻は尊氏の人格を褒める内容の文章を書いているが特に問題になっていない。
また、上述の三浦周行も大正十一年に「日本史の研究」において「建武中興の政治史的社会史的意義」という社会史的な側面から注目した論文を発表しており実証的学問としては収穫の多い時期であったといえる。昭和初期においても昭和二年(1927)に黒板勝美が「後醍醐天皇と文観僧正」を、中村孝也が「建武中興と神国思想」を、中村直勝が「建武中興と皇室領」を著したり、昭和五年(1930)には西田繁「封建社会発展の一契機としての『建武中興』運動」が出されるなど宗教・思想・経済との関連を追及する幅広い視野での研究がなされていた。
しかし、明治末には講座名を変えさせる程度であった政治的圧力も、昭和に入ると学問研究内容そのものに干渉するようになっていくのである。
6.皇国史観の時代(東大)
昭和に入り軍部が台頭するようになると、歴史学の世界でも国家主義を裏付ける「皇国史観」が幅を利かすようになった。その先頭にいたとされるのが東大日本中世史を担当していた平泉澄である。彼は前述したように田中の弟子であり、「南北朝時代史」編纂に大きな役割を果した他に寺社のアジール(法の効力が及ばない自由空間)性を西洋史と対比して指摘するなど本来は実証研究の力量も決して小さくない人物であった。しかし、平泉はやがて師とは対照的に名分論を正面に出し「日本精神」の涵養を志すようになる。例えば昭和八年(1933)には「中世の国体観念」、翌年には「日本中興」を著すなど自身の時代の道徳を持ち込んだ論文が目立っている。昭和十一年(1936)には建武義会を結成し会誌「建武」を創刊、実証的史学への攻撃を行なうに至った。彼の一つの頂点が昭和十四年(1939)「後醍醐天皇六百年御式年」であり、自身は「建武中興の本義」を著し建武義会から「後醍醐天皇奉賛論文集」を刊行している。この時期の実証史学への風当たりは相当なものであったようで、戦後には平泉一派は憎悪交じりの激しい批判を受けている。昭和十六年(1941)に北畠顕家卿奉賛会が関東の足利方豪族・安保氏関連の文書を編纂した「安保文書」を著しているが、この際も序文に「敵方の消息を知る要なればなり」と「言い訳」を記す事で批判を避ける必要がある状況であった。
この時期の研究論文は人物伝記が中心であり、昭和十六年の平泉「菊池勤王史」や昭和十七年(1942)の中村孝也「北畠顕家卿」、昭和十九年(1944)「建武中興時代の人々」などが挙げられる。大正・昭和初期のような社会史・経済史をも含む広い視野の研究は難しかったといえよう。歴史研究においては冬の時代であったといえる。
7.皇国史観の時代(京大)
上述のように実証史学にとって受難の時代であった昭和前期であるが、京大ではやや様子が異なったようである。京大も西田直二郎の下で皇国史観が採用されていたのであるが、平泉の東大とは違いより緩やかであったらしく、この時期には平泉を嫌って京大を選んだ学生も存在したという。
この時期の京大において南北朝研究を主導していたのが中村直勝である。昭和十年(1935)、中村は「吉野朝史」を著す。本書では、南北朝が「米穀経済から貨幣経済へ」「仏神から人間へ」移行しつつある過渡期の時代であると位置づけられ、「鎌倉時代を以て中世の終とするならば、室町時代を以て近世の初頭と言はねばならぬかと思ふ。」(中村直勝『吉野朝史』星野書店 3頁)「確かにこの吉野朝頃に、中世は終わりて近世は初まつたと云ふ感が深い。之を経済組織の方面から見れば、この時代を中心として、米穀経済から貨幣経済への変移がある。之を思想界に見るならば、神仏の宗教的世界は終りを告げて、人間の世界が導き出されると思ふ。」(同書 3-4頁)とあるように文化史・経済史から見て日本史における転換期であるとされている。ここでは、「従来は吉野朝の歴史とし云へば、勤皇と愛国と感激との歴史であつて、所謂涙なくしては読まれぬ歴史であつたが、さうした詩人的な詠嘆の歴史の外にそれ等諸現象の奥に、脈々として流るるものを見出す事が、また歴史家の任務なる事を知らねばならぬ。」(同書 3頁)とあるように、皇国史観と実証史学の奇妙な融合がなされていたのであった。各論においても、中村は「公家一統」が天皇専制を意味する事や楠木氏の出自、兼好法師と徒然草、当時の経済など幅広い実証的文章を残している。社会史・文化史・経済史をも含めた広い視野での歴史論が、ここではなお生きていたのである。
同時代に特異的なイデオロギーに強く染められた平泉らの作品とは異なり(ただし平泉も上述のように「アジール」の研究など今日でも一定の評価を受ける研究は存在する)、中村の著作は現在においても少なからず通用する内容であるといえる。後に「戦前のもっともすぐれた南北朝史家」(佐藤進一『南北朝の動乱』中公文庫 38頁)と佐藤進一によって評されるのも故なき事ではないのである。
こう書くと中村が皇国史観を否定しなかったのは時流にあわせたに過ぎないと考える向きもあるであろうが、中村は「足利ノ尊氏」など戦後の著作においても尊氏を逆賊と呼んで憚っておらず(一方で一流の人物として評価もしている)自身の意志で彼なりに皇国史観を奉じていたものであるようだ。
中村の他にも、注目すべき研究者がもう一人京大に存在した。清水三男である。彼は「建武中興と村落」(1942)などで村落史を通じて室町期の守護一国支配への過渡期として建武政権の守護・国司併置を積極的に評価する斬新な視点を持ち込んでいる。なお、清水は大戦末期に徴兵され異郷シベリアで帰らぬ人となった。
この歴史学の危機の時代において、京大独自の自由の気風によって、そして中村らの存在によって、南北朝研究の命脈は辛うじて枯死を免れたのである。東大史学が政治的圧力により沈滞する中で、存在感を示し気を吐いた京大の歴史における誇るべき一頁といえよう(京大とて滝川事件に代表されるように政治的圧力から無縁ではなかったのだが)。
(下)へ続く
by trushbasket
| 2010-12-08 03:21
| NF








