2010年 12月 08日
南北朝研究史概論(下)
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目次
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8.唯物史観の台頭
第二次大戦が敗戦に終わると、平泉を始めとする皇国史観系統の学者たちは多くがその職を追われた。戦中期に抑圧されていた実証史学派は勢いを取り戻し皇国史観を激しく批判し史学界からの払拭をはかる。それ以降も皇国史観の系統をくむ右派政治イデオロギー的な動きは見られるが、南北朝研究において見るべきものは認められない。
さて終戦から間もない昭和二十一年(1946)、石母田正が「中世的世界の形成」を発表する。実証的学問が沈滞期にあった戦中期において執筆されたこの論文は、緻密な史料収集・解釈に基づく実証的な大作として強い影響を与えた。伊賀国黒田荘を舞台として、在地豪族が東大寺や中央貴族といった国家権力と対立し社会的実力をつけるも挫折する様子を描き出した本作は、叛乱者が実力をつけ自己を確立していくという視点に立っており東国的・農村的な史観であるといえる。この観点からは、南北朝争乱は在地豪族が中央権力から自立していく過程の一部でしかありえなく、石母田は本作で南北朝に特に言及した様子はない。
一方、松本新八郎は南北朝を地主的商人など(松本は「甲乙人」と呼んだ)による「革命」によって従来の権力が没落する転機であり、その中から新たな文化が生まれており日本史上の転換点であると主張した。こうした視点は同時期の「南北朝内乱の諸前提」「南北朝の内乱」に結実しており、これも史学界に大きな衝撃を与えている。
石母田・松本は主張の内容に大きな相違を持っているが、共にマルクス主義の影響を受けた唯物史観を基礎においている。階級闘争・革命を前提とした二人の史観は、戦中の皇国史観への反動もあって歴史研究者の間に広く受け入れられた。例えば、次代において南北朝研究を主導する佐藤進一・永原慶二といった面々も青年期にはこの二人から強く影響されたのである。
9.実証史学の展開
一方、京大においては従来の伝統を引き継いだ独自の史観による研究がなされていた。この時期を代表するのが林屋辰三郎である。彼は、商業の成長による都市の発展に伴い民衆の実力が向上し、茶寄合・狂言など新たな文化が台頭したことに注目。また、仮名文字の普及などによって文化的統一傾向が見られ始め民族意識の萌芽がこの時期に見られたとも述べており、その転機を南北朝動乱に求めた。また、楠木正成と散所長者の関係についても述べるなど被差別部落形成史と南北朝の関連についても強い関心を示している。「中世芸能史の研究」(1960)や「京都」(1962)から窺えるこうした林屋の視点は石母田と異なり寧ろ松本に通じるものであり、西国的・商業的であった。彼の史観は手引書「南北朝」(1957)や伝記「佐々木道誉」(1979)に良く現れている。林屋の被差別部落形成史・商業史・文化史への関心は「中世民衆の生活文化」(1975)「的と胞衣」(1988)「東山文化」(1994)で知られた横井清などによって受け継がれていく。
一方、1955年以降になると石母田・松本から影響された世代によって実証的な成果が重ねられていく。まずは佐藤進一・笠松宏至らによって足利幕府政治史・制度史に関する基礎的定説が確立された。特に佐藤は「室町幕府開創期の官制体系」(1960)や「室町幕府論」(1963)において初期足利幕府が主従権・統治権の二元体制であった事を発見しそれに基づいて初期幕府制度を論じ、幕府が朝廷権力を吸収した過程を明らかにした他、鎌倉期も含んだ朝廷・幕府の政治的あり方を考察し「日本の中世国家」(1983)を著した。そうした実証研究の蓄積が「南北朝の動乱」(1965)として結実し現在でも南北朝研究における最大の名著と評されている。一方で笠松はこの時期における日本社会の法制度・法思想について優れた考察を残し、「徳政令」(1983)「日本中世法史論」(1979)「法と言葉の中世史」(1984)等に結実している。
また、永原慶二も「日本の中世社会」(1968)や「日本経済史」(1980)など荘園研究を中心とした社会経済史において業績を残し、1970年前後には「荘園制解体過程における南北朝内乱期の位置」を著して南北朝が荘園解体における一大転機であると述べた。これは石母田の在地領主論と松本の国家権力没落論を融合したものとされる。
一方、京大では黒田俊雄が「中世の国家と天皇」(1963)や「日本中世の国家と宗教」(1975)に代表されるように、中世の国家は様々な権門が連合したものであり天皇はその盟主とする「権門国家論」を唱えた。天皇を権力のみでなく権威という側面から捉えた視点は広く注目を浴びた。一方、鎌倉幕府も軍事権門として中世国家を形成する一部に過ぎず、荘園制解体も十六世紀の統一国家形成以降とする見方は強い批判も受けている。足利政権も黒田によれば権門の一部という事になり、南北朝も動乱の一つ以上の位置づけにはならない。京大系統ではあるが、中村や林屋とはその意味では異なった視点であるといえる。一方、黒田はで南北朝研究においても「建武政権の所領安堵政策について」「建武政権の宗教政策」といった成果を残している。また、「悪党」すなわち新興豪族と西洋の「盗賊騎士」の類似性を指摘し、彼等と後醍醐との繋がりに注目。やがては被差別部落形成史に関心を寄せるなど林屋との見逃せない共通性も存在する。黒田の「権門国家論」以降、従来は軽視されていた朝廷政治史・制度史研究が見直されるようになったという点でも画期的な存在といえる。
この時期、人物研究においても見るべき成果が現れている。例えば1969年には植村清二「楠木正成」や高柳光寿「足利尊氏」という時代像全体を視野に入れて人物を論じた優れた伝記が複数刊行された。また、1978年には村松剛が「後醍醐帝なくして明治大帝なし」という視点から「帝王後醍醐」(1978)を著した。村松は南北朝研究家ではないものの、政治史はもとより社会経済史・文学史をも含めた広い視点で後醍醐の時代を描き出し佐藤進一から「勉強家」と評価されている。
10.研究の多様化
また、研究内容も多様化して幅広い成果が生まれた。悪党・一揆研究においては小泉宜右「伊賀国黒田荘の悪党」(1958)「悪党」(1981)や佐藤和彦「南北朝内乱史論」(1979)。また朝廷の政治制度においては森茂暁「建武政権」(1980)「南北朝期公武関係史の研究」(1984)が知られており、文化・芸能においては横井清「中世民衆の生活文化」(1975)「東山文化」(1979)や守屋毅「中世芸能の幻像」(1985)が優れている。また、小川信は「足利一門守護発展史の研究」(1980)に代表されるような守護に関する研究で業績を残し、「南北朝内乱」(1975)では「あらゆる権力機構の頂点として君臨する王権」を目指し後醍醐が挫折し義満によって成就したと述べるなど佐藤進一の影響が色濃く見られている。伊藤喜良も同様に「南北朝動乱と王権」「後醍醐天皇と建武政権」(共に1999)などで後醍醐政権を足利政権における統一政権への橋渡しとして性格づけている。また、非農業民研究において業績を残したのが網野善彦であり「異形の王権」(1986)や「無縁・公界・楽」(1978)などで史学界以外からも注目を浴びた。また村井章介は日本の枠を超えて海民という視点から大陸も含めた視野でこの時代を捉えようとし、「アジアのなかの中世日本」(1988)「中世倭人伝」(1993)「中世日本の内と外」(1999)が知られる。
経済成長やそれに伴う社会の安定により、「政治の季節」は終わりを告げ左右両翼の政治イデオロギーからの影響を薄めてより多様で客観性の強い研究がなされるようになったといえる。研究の細分化であると同時に成熟を表すものでもある。
近年で南北朝研究において知られているのは森茂暁・今谷明あたりと思われる。森は朝廷政治史以外にも「闇の歴史、後南朝」(1997)や「南朝全史」(2005)など一般向け書籍が比較的多く見られている。そして今谷は南北朝合一を成し遂げた義満やそれ以降の足利政権について王権との絡みから注目すべき事跡を挙げており「戦国期の室町幕府」(1975)などが有名であるが、南北朝と比較的関係のある著作としては義満の行為簒奪計画説で知られた「室町の王権」(1990)や「日本国王と土民」(1992)がある。
11.おわりに
南北朝研究は天皇の問題が濃厚に絡むだけあって、政治的な逆風に晒されるなど苦難の時代も多かった事が分る。それだけに、今日でも南北朝の議論は政治的・イデオロギー的に議論対象を離れて熱を帯びる事がありがちである。南北朝を扱う事の難しさ、敬遠されがちな理由の一つがここにある。
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8.唯物史観の台頭
第二次大戦が敗戦に終わると、平泉を始めとする皇国史観系統の学者たちは多くがその職を追われた。戦中期に抑圧されていた実証史学派は勢いを取り戻し皇国史観を激しく批判し史学界からの払拭をはかる。それ以降も皇国史観の系統をくむ右派政治イデオロギー的な動きは見られるが、南北朝研究において見るべきものは認められない。
さて終戦から間もない昭和二十一年(1946)、石母田正が「中世的世界の形成」を発表する。実証的学問が沈滞期にあった戦中期において執筆されたこの論文は、緻密な史料収集・解釈に基づく実証的な大作として強い影響を与えた。伊賀国黒田荘を舞台として、在地豪族が東大寺や中央貴族といった国家権力と対立し社会的実力をつけるも挫折する様子を描き出した本作は、叛乱者が実力をつけ自己を確立していくという視点に立っており東国的・農村的な史観であるといえる。この観点からは、南北朝争乱は在地豪族が中央権力から自立していく過程の一部でしかありえなく、石母田は本作で南北朝に特に言及した様子はない。
一方、松本新八郎は南北朝を地主的商人など(松本は「甲乙人」と呼んだ)による「革命」によって従来の権力が没落する転機であり、その中から新たな文化が生まれており日本史上の転換点であると主張した。こうした視点は同時期の「南北朝内乱の諸前提」「南北朝の内乱」に結実しており、これも史学界に大きな衝撃を与えている。
石母田・松本は主張の内容に大きな相違を持っているが、共にマルクス主義の影響を受けた唯物史観を基礎においている。階級闘争・革命を前提とした二人の史観は、戦中の皇国史観への反動もあって歴史研究者の間に広く受け入れられた。例えば、次代において南北朝研究を主導する佐藤進一・永原慶二といった面々も青年期にはこの二人から強く影響されたのである。
9.実証史学の展開
一方、京大においては従来の伝統を引き継いだ独自の史観による研究がなされていた。この時期を代表するのが林屋辰三郎である。彼は、商業の成長による都市の発展に伴い民衆の実力が向上し、茶寄合・狂言など新たな文化が台頭したことに注目。また、仮名文字の普及などによって文化的統一傾向が見られ始め民族意識の萌芽がこの時期に見られたとも述べており、その転機を南北朝動乱に求めた。また、楠木正成と散所長者の関係についても述べるなど被差別部落形成史と南北朝の関連についても強い関心を示している。「中世芸能史の研究」(1960)や「京都」(1962)から窺えるこうした林屋の視点は石母田と異なり寧ろ松本に通じるものであり、西国的・商業的であった。彼の史観は手引書「南北朝」(1957)や伝記「佐々木道誉」(1979)に良く現れている。林屋の被差別部落形成史・商業史・文化史への関心は「中世民衆の生活文化」(1975)「的と胞衣」(1988)「東山文化」(1994)で知られた横井清などによって受け継がれていく。
一方、1955年以降になると石母田・松本から影響された世代によって実証的な成果が重ねられていく。まずは佐藤進一・笠松宏至らによって足利幕府政治史・制度史に関する基礎的定説が確立された。特に佐藤は「室町幕府開創期の官制体系」(1960)や「室町幕府論」(1963)において初期足利幕府が主従権・統治権の二元体制であった事を発見しそれに基づいて初期幕府制度を論じ、幕府が朝廷権力を吸収した過程を明らかにした他、鎌倉期も含んだ朝廷・幕府の政治的あり方を考察し「日本の中世国家」(1983)を著した。そうした実証研究の蓄積が「南北朝の動乱」(1965)として結実し現在でも南北朝研究における最大の名著と評されている。一方で笠松はこの時期における日本社会の法制度・法思想について優れた考察を残し、「徳政令」(1983)「日本中世法史論」(1979)「法と言葉の中世史」(1984)等に結実している。
また、永原慶二も「日本の中世社会」(1968)や「日本経済史」(1980)など荘園研究を中心とした社会経済史において業績を残し、1970年前後には「荘園制解体過程における南北朝内乱期の位置」を著して南北朝が荘園解体における一大転機であると述べた。これは石母田の在地領主論と松本の国家権力没落論を融合したものとされる。
一方、京大では黒田俊雄が「中世の国家と天皇」(1963)や「日本中世の国家と宗教」(1975)に代表されるように、中世の国家は様々な権門が連合したものであり天皇はその盟主とする「権門国家論」を唱えた。天皇を権力のみでなく権威という側面から捉えた視点は広く注目を浴びた。一方、鎌倉幕府も軍事権門として中世国家を形成する一部に過ぎず、荘園制解体も十六世紀の統一国家形成以降とする見方は強い批判も受けている。足利政権も黒田によれば権門の一部という事になり、南北朝も動乱の一つ以上の位置づけにはならない。京大系統ではあるが、中村や林屋とはその意味では異なった視点であるといえる。一方、黒田はで南北朝研究においても「建武政権の所領安堵政策について」「建武政権の宗教政策」といった成果を残している。また、「悪党」すなわち新興豪族と西洋の「盗賊騎士」の類似性を指摘し、彼等と後醍醐との繋がりに注目。やがては被差別部落形成史に関心を寄せるなど林屋との見逃せない共通性も存在する。黒田の「権門国家論」以降、従来は軽視されていた朝廷政治史・制度史研究が見直されるようになったという点でも画期的な存在といえる。
この時期、人物研究においても見るべき成果が現れている。例えば1969年には植村清二「楠木正成」や高柳光寿「足利尊氏」という時代像全体を視野に入れて人物を論じた優れた伝記が複数刊行された。また、1978年には村松剛が「後醍醐帝なくして明治大帝なし」という視点から「帝王後醍醐」(1978)を著した。村松は南北朝研究家ではないものの、政治史はもとより社会経済史・文学史をも含めた広い視点で後醍醐の時代を描き出し佐藤進一から「勉強家」と評価されている。
10.研究の多様化
また、研究内容も多様化して幅広い成果が生まれた。悪党・一揆研究においては小泉宜右「伊賀国黒田荘の悪党」(1958)「悪党」(1981)や佐藤和彦「南北朝内乱史論」(1979)。また朝廷の政治制度においては森茂暁「建武政権」(1980)「南北朝期公武関係史の研究」(1984)が知られており、文化・芸能においては横井清「中世民衆の生活文化」(1975)「東山文化」(1979)や守屋毅「中世芸能の幻像」(1985)が優れている。また、小川信は「足利一門守護発展史の研究」(1980)に代表されるような守護に関する研究で業績を残し、「南北朝内乱」(1975)では「あらゆる権力機構の頂点として君臨する王権」を目指し後醍醐が挫折し義満によって成就したと述べるなど佐藤進一の影響が色濃く見られている。伊藤喜良も同様に「南北朝動乱と王権」「後醍醐天皇と建武政権」(共に1999)などで後醍醐政権を足利政権における統一政権への橋渡しとして性格づけている。また、非農業民研究において業績を残したのが網野善彦であり「異形の王権」(1986)や「無縁・公界・楽」(1978)などで史学界以外からも注目を浴びた。また村井章介は日本の枠を超えて海民という視点から大陸も含めた視野でこの時代を捉えようとし、「アジアのなかの中世日本」(1988)「中世倭人伝」(1993)「中世日本の内と外」(1999)が知られる。
経済成長やそれに伴う社会の安定により、「政治の季節」は終わりを告げ左右両翼の政治イデオロギーからの影響を薄めてより多様で客観性の強い研究がなされるようになったといえる。研究の細分化であると同時に成熟を表すものでもある。
近年で南北朝研究において知られているのは森茂暁・今谷明あたりと思われる。森は朝廷政治史以外にも「闇の歴史、後南朝」(1997)や「南朝全史」(2005)など一般向け書籍が比較的多く見られている。そして今谷は南北朝合一を成し遂げた義満やそれ以降の足利政権について王権との絡みから注目すべき事跡を挙げており「戦国期の室町幕府」(1975)などが有名であるが、南北朝と比較的関係のある著作としては義満の行為簒奪計画説で知られた「室町の王権」(1990)や「日本国王と土民」(1992)がある。
11.おわりに
南北朝研究は天皇の問題が濃厚に絡むだけあって、政治的な逆風に晒されるなど苦難の時代も多かった事が分る。それだけに、今日でも南北朝の議論は政治的・イデオロギー的に議論対象を離れて熱を帯びる事がありがちである。南北朝を扱う事の難しさ、敬遠されがちな理由の一つがここにある。
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by trushbasket
| 2010-12-08 03:26
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