2010年 12月 08日
軍事史概説 第4部 日本前近代軍事史(1/2) 陸軍編
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第3部 中国前近代軍事史(2/2)へ
日本前近代軍事史
陸軍編
<先史時代>
日本列島において、旧石器時代後期には、しだいに握斧や石槍など様々な武器を使用するようになったことが判っているが、それらの武器の対人使用は確認されていない。
前8000年頃からの新石器時代には弓矢も出現し、近接戦用の刀剣類と遠隔戦用の弓矢という、武器の基本的な形態が出そろうが、未だ武器と生活用具の区別はない。また武器の対人使用が確認されてはいるが、個人的な闘争の域を出ず、戦いは戦争と言えるような段階にはなかった。
<古代前期;農村共同体の軍隊>
農耕の始まった前5世紀頃から、土地や水をめぐって集団的な利害関係の対立が生じ、戦争が起こるようになった。そして武器も大陸の影響を受けつつ改良が進み、生活用具から分離して行く。武器は当初は石製であったが、前2世紀には青銅器が大陸から伝わる。さらに前1世紀には鉄器も伝わり、青銅器は実用の場から追われ祭器となる。
この頃の戦争は共同体の全成人男子を兵士として行われた。ただ共同体の規模から言って、戦闘の規模もそれほど大きくはなく、戦闘は個人の格闘の寄せ集めに過ぎなかったと考えられている。戦闘はもっぱら遠隔戦であったと考えられるが、近接戦用の武器がある以上は当然近接戦闘に及ぶこともあったと見られる。なお近接戦用の武器としては重んじられたのは短剣・短刀である。長柄の武器も存在したことは事実だが、個人単位の乱戦では性能を発揮しづらいため、しだいに廃れて儀式用の道具としてその姿を留めるのみとなった。そして武器を副葬品として埋葬される人々が見られることから言って、戦いを有利に行うために指揮をとる有力者の存在が確実視されている。
なおこの頃、鉄は日本列島で生産することができず、大陸からの流入に完全に依存していた。そして重要かつ希少な財物である鉄を確保するため、強力な政治力が必要となり、その結果、首長の政治権力が確立されて原始的な国家が成立する。さらに、これら国家間には大陸と交渉して鉄資源を入手する流通機構が形成されることになったが、この流通機構の支配をめぐる争いの中で、邪馬台国連合のような諸国家の連合が発展して行く。そしてこの鉄の流通経路の支配権争いは、大乱を引き起こすこともあった。
<古代中期;古代国家の軍隊>
1.統一政権の形成と外征
やがて日本列島各地の豪族の交流・連携が緊密化した結果、4世紀頃までには日本列島中央部には近畿地方の大和を中心として、ある程度の統一を持った政権が成立、全国的な政治力を行使するようになる。大和政権の成立である。そしてこの統一政権は、以後、朝鮮半島へ貢納を求めて武力介入を続ける。
こうして日本は大陸の軍事技術との交流を深め、その結果、量産を可能にする武器技術、騎馬、そして鉄生産を身につけたが、これは日本の軍隊の戦闘能力をかなり向上させることになった。長柄の武器による組織的戦闘の発達した朝鮮半島での戦いに対応する必要から、短刀の重要性が低下、長刀がしだいに普及し始めたほか、短刀に柄を付けて槍として用いた例も一時的に見られる。そして、これらの武器を用いての戦いは、もはや単なる個人格闘の集合体ではなく、戦士達が首長の統率下に寄り集まり隊列を作る集団的なものへと成長していたと考えられている。だがこの頃の軍隊は、各自の財力に応じて装備をまとった兵士たちが、村落を単位として、首長の統率下に雑然と寄り集まったものにすぎず、未だ原始的な共同体の軍隊の性質を色濃く残している。騎馬も軍の統率者が使用している程度であり、集団的な戦闘法を身につけたとは言っても、単純素朴な歩兵密集部隊が形成されただけで、諸兵科の分化に基づく機能的な戦術が行われたとは言えないだろう。なお大和政権は、朝鮮半島諸国との対抗上しだいに権力を強化し、それにつれ軍事組織の規模もしだいに拡大を見せている。
2.古代帝国の軍隊
6世紀末からは、大陸は強力な国家統一の時代に入り、朝鮮半島でも国家権力の集中が進行、戦争は激化した。ここで日本の軍事力が雑然たるままでは、この激化した戦争に対処することは不可能であった。そのため日本でも同時期の推古朝以降、中央集権化政策が推進され、軍事力についても改善が進む。推古朝の頃には、実用的な馬具の普及が著しく、騎馬兵力が重要な戦力となったと考えられている。同時に、鏃を軽量化して弓の射程を伸ばす傾向も確認されるが、これは素早く動く騎兵戦力を活用する戦いによって、敵と距離が開いた状態で戦闘が開始するようになったせいだとされる。遅々たる歩みではあるが、多少は戦術的な進歩が起こったといって良いだろう。そしてこれ以降にあっては、7世紀半ばの大化の改新など様々な改革を経て、日本は中央集権化を加速、強力な軍事国家へと変容していく。そこでは律令という法体制の下、軍団制という強力な軍事制度が発展、8世紀初頭にその強大な軍事力はついに完成を見る。
この軍事国家では、全住民をその管理下に置いて地方ごとに徴兵を実施、国家による訓練および愛国心の育成、規格化された武器の支給、整然たる編成によって、効率的な歩兵軍を作り上げた。もっとも徴兵や兵士への武器の供給、部隊の指揮統率に関して、地方豪族の協力に頼る面も目立っており、日本の古代帝国はその絶頂にあっても、その組織力に難があったことが否定できない。ところで、この歩兵軍は弓と刀を武器としたが、この時期に独特の武器として弩が配備され、その長い射程を活かしてしばしば活躍している。だがこの頃は、改善が進んだと言っても弓は未だごく至近の射程しか持たず、刀も騎馬と戦うためには短すぎるため、歩兵によって騎兵の接近に対抗するのは困難であった。実際に戦闘での活躍が期待されたのは、貴族と地方豪族の私兵から成る騎兵、あるいは東北地方の蝦夷や九州地方南部の隼人といった、異民族出身の騎兵であった。
その後、8世紀末に日本が朝鮮半島への介入の意図を放棄すると、巨大な軍事力を維持する必要はなくなり、軍団制は廃止される。これに代わって、豪族の子弟からごく少数の騎馬兵士を選抜する健児制が採用されるなど、国家の軍隊はしだいに小規模なものへと転換、これとともに騎兵の重要度がいっそう増して行くことになる。
<古代後期;台頭する地方豪族と私兵団>
政府が軍備を縮小して住民の統制を弱めた9世紀には、中央の有力貴族と結託した地方豪族が台頭して行く。地方豪族は都への税の運送を請け負う立場にあったが、その際しばしば群盗と化して横領や他地方の税の強奪を働き、交通の要路における凶悪な活動は政府を悩ませた。政府はこの群盗の神出鬼没の活動に対抗するため、騎馬と弓射に長けた異民族の蝦夷を、俘囚と称する国家の軍事力として利用するが、かえって異民族兵が群盗と結んで大規模に蜂起するという事態を招くことになった。そこで10世紀になると政府の群盗対策は、群盗である豪族層を国家の軍事力に組み込んで群盗鎮圧に利用する、という方針に転換する。
この豪族層の軍事力は、彼らに従属した大小の領主からなる少数の騎兵および、一般民衆を動員した歩兵から成り、戦闘においては未だ歩兵戦の伝統が受け継がれていた。豪族が多数の自立した民衆を歩兵として動員できたのは、当時は流通が未発達で、民衆が生活用具の供給を領主の持つ工房に依存するという関係があり、豪族の影響力が広く民衆の上に行使されたからである。だが、異民族兵の騎馬戦闘技術を身につけた騎兵が、高い戦闘能力を持ち、豪族との主従関係も緊密で、精鋭として活躍したのに対し、歩兵は数の上では圧倒的多数でありながら、少し戦局が不利になると容易に崩壊し、あまり頼りにはならなかった。
豪族層は群盗鎮圧を通じてその政治的地位を高めたが、とりわけ大規模であった承平・天慶の乱の鎮圧作戦以降、これら豪族層は国家軍制上にその地位を確立、この結果、豪族層の中央政界進出さえも可能となったのである。そしてその中には、中央で軍事貴族として栄達する者さえ現れることになる。こうして、豪族層およびこれに従う領主階級は、しだいに政治的立場を確立し、国政上に武士という強力な戦士階層を形成していった。これ以降の戦争は、これら豪族層の形成する騎馬戦士主体の集団によって、戦われるようになって行く。
<中世;騎馬戦士の時代>
1.戦士階層の成立
国家の軍事力として組織された地方豪族層は、騎馬戦士として、11世紀以降もしばしば反乱や紛争の鎮圧に利用され、また私的な合戦を繰り返した。
この頃の戦闘は、まず楯越しに矢を射あった後に、馬を馳せながらの射撃戦に移行するものであるが、弓の射程が極めて短いため、馬を馳せての闘いがその中心であった。そして騎馬戦士は数名の徒歩の従者を伴うが、この従者たちは射落とされた敵を討ち取ったり、危機に陥った主人の身を守ったりと、戦闘を補助する役割を担っていた。
戦闘がこのようなものである以上、騎馬戦士として活躍するには、余暇を持って日々戦闘技術を鍛錬し、馬を馳せながら正確に射撃できるようになっておく必要がある。しかも良馬を飼育し、都で製造された優秀な武器を揃え、従者を伴わねばならないから、富裕である必要もある。このような条件を満たす者は一部の有力領主に限られるため、彼らは少数の軍事の専門階層を形成して行くことになった。
2.軍事政権の形成
11世紀後半以降、国家の軍事力を担った地方豪族たちは、国家による収奪を避けるため、寺社や貴族など中央の有力者の庇護下に入っていった。その結果として、政府は豪族層を動員することができなくなったため、中央で栄達していた軍事貴族に軍事指揮権を与え、私的に地方豪族を掌握させることにする。こうして主従関係にもとずく軍事機構が拡大して行き、その強大な権力が単一化して行く過程にあって、12世紀末、軍事貴族の両雄、源氏と平氏により全国規模の戦乱が起こる。
全国規模の戦乱によって軍勢の規模は著しく巨大化し、戦闘技能の熟練を欠く弱小領主が戦力の大きな割合を占めるようになる。このことは、木製弓から複合弓への移行による弓の射程の伸長と合わさって、戦闘のあり方に変化をもたらす。
この頃の戦闘は、交通の要衝に壕や柵を設ける、楯を並べるなどして防御施設を構築し、それによって敵の騎馬戦士の進入を防ぎつつ、射程の伸びた弓で遠矢を放って開始された。障害物の背後にあって馬を静止して矢を射るのであれば、質の低い兵士でも可能である。そして遠矢を射あって敵が動揺すると、馬を馳せて敵陣に突入し決着をつける。この際、矢が尽きるなどしてして、騎射ができなくなれば、刀を用いた格闘を行うこともあった。
この時代にも戦闘を補助する徒歩の従者はいるが、このほかの歩兵として、人夫の大量動員が見られる。人夫は防御施設を構築したり、あるいは敵防御施設に突破口を開いたりするなどして、活躍した。なおこれらの従者や人夫に、弓矢を持たせて闘わせることもあった。
この戦乱を経て、関東地方を根拠地に、鎌倉幕府と呼ばれる強大な軍事政権が成立する。これは私的な主従関係が肥大化したものに過ぎず、日本の全土および全住民を政治的・経済的に掌握しているわけではなかった。だがその武力は、全国に影響力を及ぼすに十分なほど巨大化しており、日本全体の社会秩序を安定させることには成功した。その後、この秩序は13世紀後半から揺らぎだし、日本は長い動乱の時代に突入、これとともに戦争もその様相を一変させて行く。
<近世前期;動乱と歩兵台頭の時代>
1.動乱の幕開け
13世紀後半からの生産力の増大と、それにともなう商工業の発達、貨幣経済の浸透は、社会の秩序を崩壊させ、ありとあらゆる人間がより大きな利益を求め、離合集散を繰り返すようになっていった。このような社会情勢の下、領主層は、商工民や浮浪民など様々な勢力と結びついて、悪党と呼ばれる雑多な構成の武力集団を形成、交通の要衝を舞台に争いを続ける。やがて14世紀にはこのような新興の経済集団・武力集団を体制内に取り込むことに失敗して、鎌倉の軍事政権が倒壊する。ここに武力衝突の蔓延する長い動乱の時代が始まる。これ以降、商工業の中心地である京都に建武政権や室町幕府といった政権が興って、商業的な基盤の上に全国的な統一支配を目指したが、結局それにふさわしい強力な安定勢力とはなり得なかった。
そして、ここで現れた雑多な武力集団では、浮浪民や商工民が歩兵として戦場に投入され、その軽快な戦い振りが戦闘を大きく変化させることになる。
この時代の歩兵は弓を武器とするようになり、騎馬戦士に対抗しうる戦力としての地位を得る。この頃の歩兵は確かに平地で騎馬戦士を防ぐことはできなかったが、山林や沼地など複雑な地形を占め、散開して遠矢によって戦うことで、騎馬戦士に対抗できる戦力となったのである。そして騎馬戦士は巨大化した刀を武器に少数の突撃部隊となった。戦闘では、歩兵が地形を活かして敵に対する優勢を確保、騎兵攻撃の好機を引き出す。そしてそこに騎兵隊が突入して勝敗を決するのである。
なお、14世紀末になると戦闘のあり方にまた少し変化が見られる。歩兵が射手として敵を防ぎ、攻撃は騎兵の突入によるという基本的な戦い方は変わらないが、敵を防御する際に、下馬した騎兵が密集して戦うようになった。この頃の騎兵の武器は巨大な刀や槍などであったが、下馬してもこのような長大な武器を構えて密集すれば、騎兵突撃に対抗することができたのである。そしてこうすることで、意味もなく馬上で敵の射撃にさらされるという事態が、避けられたのである。なお、この下馬による密集した戦いが、組織的な歩兵戦法へと育って行くことはなく、次の時代の戦場には無秩序な歩兵があふれることになる。
2.動乱の激化
15世紀の後半になると、応仁の乱に見られるように、戦乱の規模が非常に拡大することになった。そして激化する動乱を勝ち抜くため、諸勢力は兵力の増強を推し進める。そこでは浮浪民の傭兵としての利用が著しく増大したほか、各地で地侍と呼ばれる農村指導者層の動員も拡大し、その結果として軍勢は肥大化、歩兵の比率も非常に高くなる。こうなると騎馬戦士は、比率の低下で威力を失う上に、全軍を統制するため分散せねばならず、もはや突撃によって決定的な働きをすることができない。戦闘中に役にも立たない騎乗を行うことは、敵の射手の的になるようなものであり、騎馬戦士も下馬して、歩兵とともに戦うようになっていった。なお、この時代の戦闘では、攻撃において槍を持った歩兵の無秩序な突撃が目立ち、防御においてはこれまで同様、障害物を利用した射手の活躍がめざましい。いまだ歩兵を組織的な集団として活用するには至っていないのである。
<近世中期;歩兵の組織化>
1.地方安定政権の軍隊
長い動乱の結果として、争乱と収奪のみを繰り返す支配者に対して不満が蓄積され、しだいに、安定した支配者の出現を望む空気が強まって行く。15世紀末から16世紀の前半にかけては、このような空気を利用することに成功した領主が、他の領主を従属させて行く。こうして各地に戦国大名と呼ばれる強い支配力を持った政権が出現し、安定した支配を行って、強力な軍事力を組織して行く。
これらの地方政権は、支配下にある領主たちを通じて農村指導者層までを正規の兵力として把握しており、これがその戦力の中核となった。そして流浪する傭兵や一般の農民も、戦利品を餌にすることで、必要に応じて容易に動員されたため、戦争に当たっては巨大な兵力を動かすことが可能であった。これらの非正規兵はしばしば正規兵の数を上回っていた。
この時代の戦闘は密集した歩兵集団によって戦われたが、集団戦法が可能になったのは、強大な政治権力が確立され、多数の兵士を常時管理下に置いて、訓練を施すようになったからである。なお、臨時の兵士となることがある一般の農民にも、わずかではあるが訓練が課せられていた。
戦闘においては、射手が前面に並び、そのうしろに槍兵が配置される。領主階層に属する騎馬戦士は、多くの場合、下馬して兵士の指揮に当たり、騎乗しての攻撃は、追撃の際か、よほど条件に恵まれるかしなければ、行われなかった。戦闘が始まると、まず射撃戦を行いながら両軍の距離を狭め、間合いが詰まって射手が退避すると、槍兵によって白兵戦が行われた。なお16世紀の半ば以降は、鉄砲が伝わったためため、最前面に鉄砲を置いて、その直後から弓兵が、鉄砲の弱点である長い発射間隔を補うという形で、射撃が行われるようになった。だが戦闘の基本的な流れは、これによって何ら変化をこうむらなかった。確かに鉄砲の威力は大きいが、この頃の部隊の編成が、その威力の十分な発揮を阻んでいたのである。
この頃の軍隊の基本単位となった部隊は、寄子と呼ばれる小領主の指揮・掌握する縦隊を寄親と呼ばれる有力領主の統率下に置いたものであって、鉄砲兵や弓兵も各縦隊に分かれて所属し、兵科ごとの編成が為されていたわけではない。そして、各縦隊ごとに細かく分散した鉄砲が、勝手な射撃を行うのでは、火力を効果的に発揮することはできなかったのである。
2.統一期の軍隊
16世紀の後半には、激しい戦いを越えて、時代は織田・豊臣・徳川の三氏の勢力による統一政権の樹立へと向かって行く。この過程では、過酷な軍務に引きずり回された領主層が没落し、政権に完全に従属して行く。そのため指揮官による、部隊内での諸兵科の私的な保有が解消され、兵科ごとの効率的な部隊編成が実現した。部隊は、同一兵科を集めた組衆と呼ばれる横隊を重ねた形を採り、最前列に鉄砲兵、次いで弓兵、その後ろに槍兵の横隊多数が連なった。鉄砲兵は、この編成の下、集中して指揮されることにより、組織的に火力を発揮できるようになった。しかもこの編成では、必要に応じて鉄砲兵を部隊から引き離し、巨大な鉄砲隊を仕立てることも可能であった。こうして実現された大火力は、射撃戦だけで敵軍を崩壊させる力を持つことになった。
なお、鉄砲の集中使用によって、射撃戦の重要度が著しく高まった結果、土塁や壕、木柵によって強固な陣地を築いて敵襲から身を守り、射撃に徹するという戦い方が、普及して行った。
<近世後期;太平の世>
17世紀初頭には関東を地盤とする江戸幕府によって日本は統一され、長い平和の時代に入る。太平の中で軍事技術は発展を止めるが、軍事思想の面では一定の成果が見られた。たしかに一般的な軍事に対する理解の程度は低下して行ったし、軍事思想家の多くは、過去の名将の用兵について、道徳的色彩の強い非実用的な理論をもてあそぶことに終始していた。だがその一方で、徂徠兵学のように過去の戦争について、実用的な視点から批判的な検討を加え、軍事理解を深化させた学派も存在したのである。そこでは、戦争のあり方が歴史と共に変化することや、軍隊における日頃からの訓練・編成の重要性などが説かれ、非実用的な同時代人の軍事に対する態度が、激しく批判された。そして、このような実践的な軍事思想は軍事学上の基礎教養としての地位を与えられ、このような学問的基礎の上に、18世紀末以降の対外的緊張の時期、西洋の軍事知識の摂取が始まる。こうして日本は、西洋近代に屈服する19世紀後半までに、近代への適応を可能にする知的基盤を、築き上げて行ったのである。
参考資料は別ページを参照
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日本前近代軍事史
陸軍編
<先史時代>
日本列島において、旧石器時代後期には、しだいに握斧や石槍など様々な武器を使用するようになったことが判っているが、それらの武器の対人使用は確認されていない。
前8000年頃からの新石器時代には弓矢も出現し、近接戦用の刀剣類と遠隔戦用の弓矢という、武器の基本的な形態が出そろうが、未だ武器と生活用具の区別はない。また武器の対人使用が確認されてはいるが、個人的な闘争の域を出ず、戦いは戦争と言えるような段階にはなかった。
<古代前期;農村共同体の軍隊>
農耕の始まった前5世紀頃から、土地や水をめぐって集団的な利害関係の対立が生じ、戦争が起こるようになった。そして武器も大陸の影響を受けつつ改良が進み、生活用具から分離して行く。武器は当初は石製であったが、前2世紀には青銅器が大陸から伝わる。さらに前1世紀には鉄器も伝わり、青銅器は実用の場から追われ祭器となる。
この頃の戦争は共同体の全成人男子を兵士として行われた。ただ共同体の規模から言って、戦闘の規模もそれほど大きくはなく、戦闘は個人の格闘の寄せ集めに過ぎなかったと考えられている。戦闘はもっぱら遠隔戦であったと考えられるが、近接戦用の武器がある以上は当然近接戦闘に及ぶこともあったと見られる。なお近接戦用の武器としては重んじられたのは短剣・短刀である。長柄の武器も存在したことは事実だが、個人単位の乱戦では性能を発揮しづらいため、しだいに廃れて儀式用の道具としてその姿を留めるのみとなった。そして武器を副葬品として埋葬される人々が見られることから言って、戦いを有利に行うために指揮をとる有力者の存在が確実視されている。
なおこの頃、鉄は日本列島で生産することができず、大陸からの流入に完全に依存していた。そして重要かつ希少な財物である鉄を確保するため、強力な政治力が必要となり、その結果、首長の政治権力が確立されて原始的な国家が成立する。さらに、これら国家間には大陸と交渉して鉄資源を入手する流通機構が形成されることになったが、この流通機構の支配をめぐる争いの中で、邪馬台国連合のような諸国家の連合が発展して行く。そしてこの鉄の流通経路の支配権争いは、大乱を引き起こすこともあった。
<古代中期;古代国家の軍隊>
1.統一政権の形成と外征
やがて日本列島各地の豪族の交流・連携が緊密化した結果、4世紀頃までには日本列島中央部には近畿地方の大和を中心として、ある程度の統一を持った政権が成立、全国的な政治力を行使するようになる。大和政権の成立である。そしてこの統一政権は、以後、朝鮮半島へ貢納を求めて武力介入を続ける。
こうして日本は大陸の軍事技術との交流を深め、その結果、量産を可能にする武器技術、騎馬、そして鉄生産を身につけたが、これは日本の軍隊の戦闘能力をかなり向上させることになった。長柄の武器による組織的戦闘の発達した朝鮮半島での戦いに対応する必要から、短刀の重要性が低下、長刀がしだいに普及し始めたほか、短刀に柄を付けて槍として用いた例も一時的に見られる。そして、これらの武器を用いての戦いは、もはや単なる個人格闘の集合体ではなく、戦士達が首長の統率下に寄り集まり隊列を作る集団的なものへと成長していたと考えられている。だがこの頃の軍隊は、各自の財力に応じて装備をまとった兵士たちが、村落を単位として、首長の統率下に雑然と寄り集まったものにすぎず、未だ原始的な共同体の軍隊の性質を色濃く残している。騎馬も軍の統率者が使用している程度であり、集団的な戦闘法を身につけたとは言っても、単純素朴な歩兵密集部隊が形成されただけで、諸兵科の分化に基づく機能的な戦術が行われたとは言えないだろう。なお大和政権は、朝鮮半島諸国との対抗上しだいに権力を強化し、それにつれ軍事組織の規模もしだいに拡大を見せている。
2.古代帝国の軍隊
6世紀末からは、大陸は強力な国家統一の時代に入り、朝鮮半島でも国家権力の集中が進行、戦争は激化した。ここで日本の軍事力が雑然たるままでは、この激化した戦争に対処することは不可能であった。そのため日本でも同時期の推古朝以降、中央集権化政策が推進され、軍事力についても改善が進む。推古朝の頃には、実用的な馬具の普及が著しく、騎馬兵力が重要な戦力となったと考えられている。同時に、鏃を軽量化して弓の射程を伸ばす傾向も確認されるが、これは素早く動く騎兵戦力を活用する戦いによって、敵と距離が開いた状態で戦闘が開始するようになったせいだとされる。遅々たる歩みではあるが、多少は戦術的な進歩が起こったといって良いだろう。そしてこれ以降にあっては、7世紀半ばの大化の改新など様々な改革を経て、日本は中央集権化を加速、強力な軍事国家へと変容していく。そこでは律令という法体制の下、軍団制という強力な軍事制度が発展、8世紀初頭にその強大な軍事力はついに完成を見る。
この軍事国家では、全住民をその管理下に置いて地方ごとに徴兵を実施、国家による訓練および愛国心の育成、規格化された武器の支給、整然たる編成によって、効率的な歩兵軍を作り上げた。もっとも徴兵や兵士への武器の供給、部隊の指揮統率に関して、地方豪族の協力に頼る面も目立っており、日本の古代帝国はその絶頂にあっても、その組織力に難があったことが否定できない。ところで、この歩兵軍は弓と刀を武器としたが、この時期に独特の武器として弩が配備され、その長い射程を活かしてしばしば活躍している。だがこの頃は、改善が進んだと言っても弓は未だごく至近の射程しか持たず、刀も騎馬と戦うためには短すぎるため、歩兵によって騎兵の接近に対抗するのは困難であった。実際に戦闘での活躍が期待されたのは、貴族と地方豪族の私兵から成る騎兵、あるいは東北地方の蝦夷や九州地方南部の隼人といった、異民族出身の騎兵であった。
その後、8世紀末に日本が朝鮮半島への介入の意図を放棄すると、巨大な軍事力を維持する必要はなくなり、軍団制は廃止される。これに代わって、豪族の子弟からごく少数の騎馬兵士を選抜する健児制が採用されるなど、国家の軍隊はしだいに小規模なものへと転換、これとともに騎兵の重要度がいっそう増して行くことになる。
<古代後期;台頭する地方豪族と私兵団>
政府が軍備を縮小して住民の統制を弱めた9世紀には、中央の有力貴族と結託した地方豪族が台頭して行く。地方豪族は都への税の運送を請け負う立場にあったが、その際しばしば群盗と化して横領や他地方の税の強奪を働き、交通の要路における凶悪な活動は政府を悩ませた。政府はこの群盗の神出鬼没の活動に対抗するため、騎馬と弓射に長けた異民族の蝦夷を、俘囚と称する国家の軍事力として利用するが、かえって異民族兵が群盗と結んで大規模に蜂起するという事態を招くことになった。そこで10世紀になると政府の群盗対策は、群盗である豪族層を国家の軍事力に組み込んで群盗鎮圧に利用する、という方針に転換する。
この豪族層の軍事力は、彼らに従属した大小の領主からなる少数の騎兵および、一般民衆を動員した歩兵から成り、戦闘においては未だ歩兵戦の伝統が受け継がれていた。豪族が多数の自立した民衆を歩兵として動員できたのは、当時は流通が未発達で、民衆が生活用具の供給を領主の持つ工房に依存するという関係があり、豪族の影響力が広く民衆の上に行使されたからである。だが、異民族兵の騎馬戦闘技術を身につけた騎兵が、高い戦闘能力を持ち、豪族との主従関係も緊密で、精鋭として活躍したのに対し、歩兵は数の上では圧倒的多数でありながら、少し戦局が不利になると容易に崩壊し、あまり頼りにはならなかった。
豪族層は群盗鎮圧を通じてその政治的地位を高めたが、とりわけ大規模であった承平・天慶の乱の鎮圧作戦以降、これら豪族層は国家軍制上にその地位を確立、この結果、豪族層の中央政界進出さえも可能となったのである。そしてその中には、中央で軍事貴族として栄達する者さえ現れることになる。こうして、豪族層およびこれに従う領主階級は、しだいに政治的立場を確立し、国政上に武士という強力な戦士階層を形成していった。これ以降の戦争は、これら豪族層の形成する騎馬戦士主体の集団によって、戦われるようになって行く。
<中世;騎馬戦士の時代>
1.戦士階層の成立
国家の軍事力として組織された地方豪族層は、騎馬戦士として、11世紀以降もしばしば反乱や紛争の鎮圧に利用され、また私的な合戦を繰り返した。
この頃の戦闘は、まず楯越しに矢を射あった後に、馬を馳せながらの射撃戦に移行するものであるが、弓の射程が極めて短いため、馬を馳せての闘いがその中心であった。そして騎馬戦士は数名の徒歩の従者を伴うが、この従者たちは射落とされた敵を討ち取ったり、危機に陥った主人の身を守ったりと、戦闘を補助する役割を担っていた。
戦闘がこのようなものである以上、騎馬戦士として活躍するには、余暇を持って日々戦闘技術を鍛錬し、馬を馳せながら正確に射撃できるようになっておく必要がある。しかも良馬を飼育し、都で製造された優秀な武器を揃え、従者を伴わねばならないから、富裕である必要もある。このような条件を満たす者は一部の有力領主に限られるため、彼らは少数の軍事の専門階層を形成して行くことになった。
2.軍事政権の形成
11世紀後半以降、国家の軍事力を担った地方豪族たちは、国家による収奪を避けるため、寺社や貴族など中央の有力者の庇護下に入っていった。その結果として、政府は豪族層を動員することができなくなったため、中央で栄達していた軍事貴族に軍事指揮権を与え、私的に地方豪族を掌握させることにする。こうして主従関係にもとずく軍事機構が拡大して行き、その強大な権力が単一化して行く過程にあって、12世紀末、軍事貴族の両雄、源氏と平氏により全国規模の戦乱が起こる。
全国規模の戦乱によって軍勢の規模は著しく巨大化し、戦闘技能の熟練を欠く弱小領主が戦力の大きな割合を占めるようになる。このことは、木製弓から複合弓への移行による弓の射程の伸長と合わさって、戦闘のあり方に変化をもたらす。
この頃の戦闘は、交通の要衝に壕や柵を設ける、楯を並べるなどして防御施設を構築し、それによって敵の騎馬戦士の進入を防ぎつつ、射程の伸びた弓で遠矢を放って開始された。障害物の背後にあって馬を静止して矢を射るのであれば、質の低い兵士でも可能である。そして遠矢を射あって敵が動揺すると、馬を馳せて敵陣に突入し決着をつける。この際、矢が尽きるなどしてして、騎射ができなくなれば、刀を用いた格闘を行うこともあった。
この時代にも戦闘を補助する徒歩の従者はいるが、このほかの歩兵として、人夫の大量動員が見られる。人夫は防御施設を構築したり、あるいは敵防御施設に突破口を開いたりするなどして、活躍した。なおこれらの従者や人夫に、弓矢を持たせて闘わせることもあった。
この戦乱を経て、関東地方を根拠地に、鎌倉幕府と呼ばれる強大な軍事政権が成立する。これは私的な主従関係が肥大化したものに過ぎず、日本の全土および全住民を政治的・経済的に掌握しているわけではなかった。だがその武力は、全国に影響力を及ぼすに十分なほど巨大化しており、日本全体の社会秩序を安定させることには成功した。その後、この秩序は13世紀後半から揺らぎだし、日本は長い動乱の時代に突入、これとともに戦争もその様相を一変させて行く。
<近世前期;動乱と歩兵台頭の時代>
1.動乱の幕開け
13世紀後半からの生産力の増大と、それにともなう商工業の発達、貨幣経済の浸透は、社会の秩序を崩壊させ、ありとあらゆる人間がより大きな利益を求め、離合集散を繰り返すようになっていった。このような社会情勢の下、領主層は、商工民や浮浪民など様々な勢力と結びついて、悪党と呼ばれる雑多な構成の武力集団を形成、交通の要衝を舞台に争いを続ける。やがて14世紀にはこのような新興の経済集団・武力集団を体制内に取り込むことに失敗して、鎌倉の軍事政権が倒壊する。ここに武力衝突の蔓延する長い動乱の時代が始まる。これ以降、商工業の中心地である京都に建武政権や室町幕府といった政権が興って、商業的な基盤の上に全国的な統一支配を目指したが、結局それにふさわしい強力な安定勢力とはなり得なかった。
そして、ここで現れた雑多な武力集団では、浮浪民や商工民が歩兵として戦場に投入され、その軽快な戦い振りが戦闘を大きく変化させることになる。
この時代の歩兵は弓を武器とするようになり、騎馬戦士に対抗しうる戦力としての地位を得る。この頃の歩兵は確かに平地で騎馬戦士を防ぐことはできなかったが、山林や沼地など複雑な地形を占め、散開して遠矢によって戦うことで、騎馬戦士に対抗できる戦力となったのである。そして騎馬戦士は巨大化した刀を武器に少数の突撃部隊となった。戦闘では、歩兵が地形を活かして敵に対する優勢を確保、騎兵攻撃の好機を引き出す。そしてそこに騎兵隊が突入して勝敗を決するのである。
なお、14世紀末になると戦闘のあり方にまた少し変化が見られる。歩兵が射手として敵を防ぎ、攻撃は騎兵の突入によるという基本的な戦い方は変わらないが、敵を防御する際に、下馬した騎兵が密集して戦うようになった。この頃の騎兵の武器は巨大な刀や槍などであったが、下馬してもこのような長大な武器を構えて密集すれば、騎兵突撃に対抗することができたのである。そしてこうすることで、意味もなく馬上で敵の射撃にさらされるという事態が、避けられたのである。なお、この下馬による密集した戦いが、組織的な歩兵戦法へと育って行くことはなく、次の時代の戦場には無秩序な歩兵があふれることになる。
2.動乱の激化
15世紀の後半になると、応仁の乱に見られるように、戦乱の規模が非常に拡大することになった。そして激化する動乱を勝ち抜くため、諸勢力は兵力の増強を推し進める。そこでは浮浪民の傭兵としての利用が著しく増大したほか、各地で地侍と呼ばれる農村指導者層の動員も拡大し、その結果として軍勢は肥大化、歩兵の比率も非常に高くなる。こうなると騎馬戦士は、比率の低下で威力を失う上に、全軍を統制するため分散せねばならず、もはや突撃によって決定的な働きをすることができない。戦闘中に役にも立たない騎乗を行うことは、敵の射手の的になるようなものであり、騎馬戦士も下馬して、歩兵とともに戦うようになっていった。なお、この時代の戦闘では、攻撃において槍を持った歩兵の無秩序な突撃が目立ち、防御においてはこれまで同様、障害物を利用した射手の活躍がめざましい。いまだ歩兵を組織的な集団として活用するには至っていないのである。
<近世中期;歩兵の組織化>
1.地方安定政権の軍隊
長い動乱の結果として、争乱と収奪のみを繰り返す支配者に対して不満が蓄積され、しだいに、安定した支配者の出現を望む空気が強まって行く。15世紀末から16世紀の前半にかけては、このような空気を利用することに成功した領主が、他の領主を従属させて行く。こうして各地に戦国大名と呼ばれる強い支配力を持った政権が出現し、安定した支配を行って、強力な軍事力を組織して行く。
これらの地方政権は、支配下にある領主たちを通じて農村指導者層までを正規の兵力として把握しており、これがその戦力の中核となった。そして流浪する傭兵や一般の農民も、戦利品を餌にすることで、必要に応じて容易に動員されたため、戦争に当たっては巨大な兵力を動かすことが可能であった。これらの非正規兵はしばしば正規兵の数を上回っていた。
この時代の戦闘は密集した歩兵集団によって戦われたが、集団戦法が可能になったのは、強大な政治権力が確立され、多数の兵士を常時管理下に置いて、訓練を施すようになったからである。なお、臨時の兵士となることがある一般の農民にも、わずかではあるが訓練が課せられていた。
戦闘においては、射手が前面に並び、そのうしろに槍兵が配置される。領主階層に属する騎馬戦士は、多くの場合、下馬して兵士の指揮に当たり、騎乗しての攻撃は、追撃の際か、よほど条件に恵まれるかしなければ、行われなかった。戦闘が始まると、まず射撃戦を行いながら両軍の距離を狭め、間合いが詰まって射手が退避すると、槍兵によって白兵戦が行われた。なお16世紀の半ば以降は、鉄砲が伝わったためため、最前面に鉄砲を置いて、その直後から弓兵が、鉄砲の弱点である長い発射間隔を補うという形で、射撃が行われるようになった。だが戦闘の基本的な流れは、これによって何ら変化をこうむらなかった。確かに鉄砲の威力は大きいが、この頃の部隊の編成が、その威力の十分な発揮を阻んでいたのである。
この頃の軍隊の基本単位となった部隊は、寄子と呼ばれる小領主の指揮・掌握する縦隊を寄親と呼ばれる有力領主の統率下に置いたものであって、鉄砲兵や弓兵も各縦隊に分かれて所属し、兵科ごとの編成が為されていたわけではない。そして、各縦隊ごとに細かく分散した鉄砲が、勝手な射撃を行うのでは、火力を効果的に発揮することはできなかったのである。
2.統一期の軍隊
16世紀の後半には、激しい戦いを越えて、時代は織田・豊臣・徳川の三氏の勢力による統一政権の樹立へと向かって行く。この過程では、過酷な軍務に引きずり回された領主層が没落し、政権に完全に従属して行く。そのため指揮官による、部隊内での諸兵科の私的な保有が解消され、兵科ごとの効率的な部隊編成が実現した。部隊は、同一兵科を集めた組衆と呼ばれる横隊を重ねた形を採り、最前列に鉄砲兵、次いで弓兵、その後ろに槍兵の横隊多数が連なった。鉄砲兵は、この編成の下、集中して指揮されることにより、組織的に火力を発揮できるようになった。しかもこの編成では、必要に応じて鉄砲兵を部隊から引き離し、巨大な鉄砲隊を仕立てることも可能であった。こうして実現された大火力は、射撃戦だけで敵軍を崩壊させる力を持つことになった。
なお、鉄砲の集中使用によって、射撃戦の重要度が著しく高まった結果、土塁や壕、木柵によって強固な陣地を築いて敵襲から身を守り、射撃に徹するという戦い方が、普及して行った。
<近世後期;太平の世>
17世紀初頭には関東を地盤とする江戸幕府によって日本は統一され、長い平和の時代に入る。太平の中で軍事技術は発展を止めるが、軍事思想の面では一定の成果が見られた。たしかに一般的な軍事に対する理解の程度は低下して行ったし、軍事思想家の多くは、過去の名将の用兵について、道徳的色彩の強い非実用的な理論をもてあそぶことに終始していた。だがその一方で、徂徠兵学のように過去の戦争について、実用的な視点から批判的な検討を加え、軍事理解を深化させた学派も存在したのである。そこでは、戦争のあり方が歴史と共に変化することや、軍隊における日頃からの訓練・編成の重要性などが説かれ、非実用的な同時代人の軍事に対する態度が、激しく批判された。そして、このような実践的な軍事思想は軍事学上の基礎教養としての地位を与えられ、このような学問的基礎の上に、18世紀末以降の対外的緊張の時期、西洋の軍事知識の摂取が始まる。こうして日本は、西洋近代に屈服する19世紀後半までに、近代への適応を可能にする知的基盤を、築き上げて行ったのである。
参考資料は別ページを参照
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by trushbasket
| 2010-12-08 18:51
| My(山田昌弘)








