日本語の歴史概説(二)
|
(一)はこちら。(二)では古代から中世にかけて。
3.上代
「古事記」「日本書紀」「万葉集」等の文字史料が存在する以前については、分からないところが多いです。ただ、かなり素朴な世界観を有していた事は間違いないようです。例えば、「者」と「物」すなわち人間とそれ以外がいずれも「モノ」であった事は人間もそれ以外も等しく魂を有すると考えられていた事が読み取れますし、「言」「事」が共に「コト」であった事実は事物そのものとそれを表す言葉が表裏一体とみなされていた事を示しています。また色彩感覚も明らかなものは存在しなかったようで、「明し」が「赤(アカ)」、「淡し」が「青(アオ)」、「著し」が「白(シロ)」、「暗し」が「黒(クロ)」であるなど基本的な色の名も漢字と共に色彩概念が導入された際に明暗濃淡を示す言葉によって代用されています。「ミドリ」は「水(ミズ)」から転じて「嬰児(ミドリゴ)」「みどりの黒髪」という言葉から分かるように瑞々しい様を表す言葉でしたが、色彩概念が入ってくると瑞々しい木々のイメージから「緑(green)」の意味として用いられるようになりました。
さて早い段階から日本列島の人々と大陸との交渉はもたれていたようですが、この期間日本人は文字を持たずまた文字を導入する事もありませんでした。上述のように万物に魂が存在すると考え、事物と言葉とが一体であると信じていたため、文字により言葉が表す事物の魂が封じ込められるのを恐れたのではないかと推測されています。そのため文字は飽くまで装飾文様の一部として用いられるに留まっていたようです。
五世紀ごろには大和地方を最有力とする領域政権が各地で成立しましたが、大陸との交渉においては洗練された漢文を書いているにもかかわらず国内においては文字が実務において使われた形跡はありません。ただ稲荷山古墳鉄剣のように権力者の威信を示す文章も見られ、強大な権力を有する王の出現と共に業績を記録する示威目的で徐々に用いられるようになっていたと考えられます。
六世紀になると集権的な統一国家が形成されるにあたり、中央の威信を全国に示すためや他国に向けての威信を高めるためといった目的からか文字文化の吸収が意識的に行われるようになります。「古事記」によれば百済に依頼して千字文(文字手習いの入門書)一巻を公式輸入したのもこの頃ですし、儒教や仏教といった高度な抽象性を持つ思想も引き続いて伝来しています。こうした傾向が七世紀に開花し、歴史書編纂・仏典注釈・詩文といった文化事業も見よう見まねで行われるにいたり本格的な漢文を中心とした大陸文化の受容が行われるようになったのです。
元来、日本語は話者の視点から見える全体像をまず示してから周辺を描写し述語を補完していき、述語で主題を述べて文を締めくくるという求心的な構造をとっています。こうした世界観を持つ言語は直観力には優れ詩文などには成果を示すものの、論理的思考には必ずしも適さないといわれています。まして、文化的に成熟していない段階でしたから尚更であったといえます。大陸からの先進的な文化と共に漢文が流入した事で、動作主を主語として設定しその動作内容を述語で示した後に周囲の状況を後ろから修飾して述べて世界観を広げていく遠心的な言語体系を知る事になり知識層に関しては日本語の持つ欠点をある程度補完した事になります。また、漢字文化と共にこれまでになかった抽象的な概念や色彩感覚をも受容したことは日本語にとって大きな財産となりました。また七世紀後半になると地方行政レベルでも漢文が使用され文字使用が普及しているのが分かります。
さて、「記」「紀」「万葉集」の時代すなわち八世紀においては母音はa・i・u・e・o以外にもi・e・oの変音が存在した事が(万葉仮名の宛て方から)判明しています。それ以前にはa・uにも変音が存在した可能性はあります。八世紀末には返り点・句読点を漢文に対して使用している事が知られており、日本文として直訳して置き換えることができるよう工夫するようにしました。また、五世紀・六世紀に中国から入ってきた言葉は江南式発音であったため「呉音」と呼ばれ、七世紀・八世紀に遣唐使を通じて入ってきた漢語は唐の公式語であり河北式発音を基礎とし「漢音」といわれました。因みに中国から伝来した発音でも最古のものには「牛(ウシ)」「羊(ヒツジ)」など和語として定着したものもあります。呉音は以前から漢語を用いていた仏僧が主に用い、漢音は吉備真備に代表される新興学者層が使用、そして従来から日本に存在した言葉を漢字に当てはめる「訓読み」も存在し複数の読み方が一文字に存在するという特徴的な現象が生まれることになったのです。
4.平安期
京都に都が置かれた平安期には、女性を中心に表音文字としての機能を持つ仮名文字が発明されました(ただし公式文字としては認められず、昨今の若年女性がメールなどで用いる特殊な文字に近い感覚があったと思われます)。また漢文訓読のために用いられた表音記号はカタカナとして発展。これらによって表現技法が拡大した女性たちを中心に、貴族層において政治的栄達が望めない人々により優れた文化作品が多く生まれました。これらの作品は後世において古典として重んじられたため、この時代の言葉は古語として規範化されるようになりました。一般に「古文」といえばこの時代の言語を指します。では、以下でこの時期の言語の特徴をまとめる事にします。
①母音がこの時期にa・i・u・e・oの5つで定着。
②この時期におけるいろは歌「天地のことば」は四十八音であり、現在の音に加え「ye」があった。
③口語変化に対応して音便が発達。「イ音便」(泣きて→泣いて)、「ウ音便」(早く→早う)、「撥音便」(死にて→死んで)、「促音便」(持ちて→持って)など。元来は重母音を避けていたのが、漢語の流入により重母音が増えたため貴族・僧侶など知識層がこれに慣れたのが一因とされます。
④転呼音(ha, hi, hu, he, ho→wa, wi, u, we, wo) 例:かは→かわ
⑤活用が九種類に固定(四段、上二段、下二段、上一段、下一段、ラ変、ナ変、サ変、カ変)。
⑥形容詞の已然形「けれ」が成立。例:よけど→よけれど
⑦延言(助動詞、接尾語がついた言葉を語尾を引き伸ばしたとみなす)が制限される。
例:いふ→いはく、おもふ→おもはく
⑧終止形の反復に「…しながら」といった意味が付加。例:行く行く
⑨敬語が発達し、尊敬語・謙譲語・丁寧語の区別が登場。また助動詞「す、さす」「る、らる」に尊敬の意が見られるようになった。また敬語を相手によっては重ねて用いるようになった。
⑩歌の用法から係り結びが確立。「は、も、ただ」が終止形、「ぞ、なむ、や、か」が連体形、「こそ」が已然形。もっとも、口語レベルでは平安末期から崩れ始めていたようです。
また、仏教の影響から漢語が貴族社会の日常語にも少しずつ入り込んでいったのもこの時期です。
5.鎌倉期
従来は京など畿内のみから全国に文化発信がなされていましたが、初めて東国政権が成立して鎌倉にも発信力が存在するようになりました。そのため、東国方言が広がりを見せ文化作品にも見られるようになります。例えば半濁音・促音が頻繁に見られるようにながり(例:「にほん」→「にっぽん」)、「wa, wi, u, we, wo」の発音が「wa, i, u, e, o」となり「お」と「を」の発音上での区別も明らかでなくなっています。この状況で、ア行・ハ行・ワ行の区別が混乱し、ア行は単語の上につきハ行は単語の下、ワ行はどこにでもつくという分類がなされるようになりました。
更に、この時代には仏教の普及を通じて漢語が更に日常語に波及していきます。そしてこの頃に日本に持ち込まれた漢語の発音は「唐音(宋音)」と呼ばれ禅宗用語や禅僧により持ち込まれた事物を中心に用いられるようになりました。「行脚(アンギャ)」と「行」を「アン」で読むのがその一例です。
(三)に続きます。