Otto Hintze 『国家組織と軍隊組織』 山田昌弘訳 新装版 本文(1/4)
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国家組織と軍隊組織
こうして国家組織と軍隊組織について語るようにとの、名誉ある依頼を私が受けたとき、そのはじめから明らかだったことがある。それは、あらゆる時代と民族の事例を引いた、一般的な長たらしい議論によってこのテーマを扱うことは重要でなく、むしろ私の役目は、国家と軍隊の組織の相互関係と変遷につき、論理的な歴史の発展作用に則して、なんらかの理解を導き出すことである、ということである。私は、前者のような考察法も、例えばハーバート・スペンサーが『社会学の原理』で行ったように用いられれば、意義深い成果に達しうることを、否定するつもりはない。だが、もしその際に、一般的な考察から得られる命題に証拠を提供する意図の下、具体的な制度がその文脈から切り離され、いわば歴史学と民族学が略奪されてしまうのだとすれば、それは歴史学の
教育を受けた精神にとっては、耐え難い暴虐である。そして、この点を除外しても───そのような方法から得られる理解は、一般に、具体性と現実性に著しく欠けており、極めて曖昧で漠然としたものなのである!一般的な決まり文句というものは、必要とあれば、人物や民族の歴史的な活動を消し去ってしまうもののであり、考察の視野が広がれば広がるほど、現実的な意味は乏しく、結局は、当たり前の陳腐な意見へと、成り下がってしまうだろう。そこで私は、一つの具体例によって、国家組織と軍事組織の相互の影響を解説することにするが、これについては、伝統がありなおかつ現在の関心の的でもある、古典文化没落後のラテン・ゲルマン民族の発展を、例に選ぶことにする。
ただ、重要な一般的な内容の所見を、少し前置きとして述べておくことにする。
全ての国家組織は、元はといえば戦争組織であり、軍隊組織であった。おそらくこれは、競合する諸民族の歴史のもたらした結果と、見なして良いだろう。大規模な人間集団の、強い国家的な結びつきは、何よりもまず、防衛と侵攻に向けられていた。軍事上の組織体とともにまず、個人に対する強制力を持った厳しい機関が生まれ、それは戦争が頻繁に行われるほどに、一層強力なものに鍛え上げられていった。全ての自由人男子は、武具を身につけることができるかぎり、戦士であった。彼らは、狩猟と牧畜のかたわら、鍛錬を行い、一方農耕と家政は、女子と奴隷に委ねられていた。戦士の集会は政治集会であった。戦争指導者は国家指導者になった。戦士でない者は、政治的共同体において、何の地位も持たなかった。だが、その後時代は移り変わり、農耕が拡大、人々は耕地に定住し、人口は増加、技術と交通が向上して、商業が興った。これら、要するに、経済活動の条件変化とともに、軍事的な活動の商工業からの分離が起こり、武装階級と生産階級の区分が生じた。軍隊は全体の中の特殊な一部分となり、軍隊組織は国家組織の特殊な一側面となった。今や重要問題は、国家組織全体の中で、軍隊組織がどのような位置を占めるかである。政治機構全体へのその影響はどれほどのものなのか?全体および各階級の経済的な生活基盤の必要性を理由に、公共活動の支配に起因する戦士階級の要求を、どの程度抑え込んだのか?そもそも、軍事活動と商工業の対立にともなう、階級対立は、どのような利害関係の中にあったのか?国家組織は両者の間にどのように釣り合いをとったのか?
ハーバート・スペンサーは、この観点から、国家組織と社会組織の二つの類型を区分し、それを軍事型と産業型と呼んだ。軍事型の社会組織の構造は、強い強制力や、中央集権化された君主専制、私的活動と経済活動への厳しい国家規制によって、特徴づけられており、目的に対する軍事的な力の効率のみが最大限追求され、他方で個人の自由と繁栄は後回しにならざるを得ない。これと異なり、産業型の社会組織においては、個人の自由と繁栄という目的が、全く外部の圧力によって阻まれること無しに、公共社会の構造を規定し、その結果、共同体は、分権化や自治、あらゆる生活領域での個人の行動の自由といった性質を、刻み込まれているのである。
これらは理念型であり、諸民族の歴史において完全に純粋な形で実現されたことなど、おそらく一度もない。現実は、ほとんど全ての場合に、両者の要素から成る混合物を見せている。だが、それにもかかわらず、古代と近代、文明人と未開人のかなり多くの国家において、軍事型を非常にはっきりした形で認めることができる。スペンサーはダオメの帝国や、ペルーのインカ帝国、古代エジプトやスパルタ、プロイセンにドイツ帝国、ロシアを指摘している。産業型は、特別に恵まれた条件下においてのみ、非常にゆっくりと、あまりはっきりしない形で、成立して行く。イギリスとアメリカは、とりわけ、民兵制や自治、個人の自由という原理により、軍事的な大陸諸国での束縛的な生活とは、対照的な姿を見せている。そのためスペンサーは、文化発展の一般的傾向として、軍事型の国家と社会はしだいに産業型のものに押しのけられ、取って代わられる、と述べている。彼は、このような発展の経過は、長期に渡る激しい後退を生じることがある、ということを理解し損ねはしなかった。そして、戦争がごくまれにしか起こらず、より重要なこととして、戦争が文明圏の境界地域で行われるものに限られており、しかも平和な商業活動が軍事活動に対する優位を占め続ける、という条件が満たされるか否かに、全てが依存していることを、理解し損ねたりもなかった。だが彼は、世界が、大体においてそのような方向に進んでいると思い込んでいる。彼を通して、コブデンとグラッドストーンの時代のイギリスの精神が、語っている。自分たちの商業的な覇権の下、真剣な競争に脅かされることもない、満足しきった、協調性と人間性にあふれる、政策と世界観の精神が。その後イギリスにおけるこのような雰囲気は、他地域と同じように、かなりはっきり変わってしまったので、ディズレイリやセシル・ローズ、チェンバレンのような政治家までもが、純粋な産業型に向けての、国家の継続的発展を、確信していたかどうかは分からない。そもそもスペンサーの分類した二類型は、おそらく、対立する両極に他ならないのであり、人間の政治の現実的な経過は、それらの間で、ある時には一方の極に、またある時は他方の極に近寄りつつ、進んで行く。我々が見渡すことのできる、四千年の人類史においては、確かに商業活動の著しい増大は起こっているが、現実に、国家の軍備に減少が生じたことは、全くないのである。
このような問題を指摘するとともに、私が国家組織という概念を、国家活動の諸機能の各機関への分配しか問題としない、国法学的な狭い意味では理解しない、ということも示しておこう。もし国防組織の国家組織に対する関係を理解しようとするのであれば、現実の国家組織を規定している二つの現象に、注意を向けねばならない。その一方は社会的な階級構造であるが、他方は対外的な国家構成と、世界の諸国との関係におけるその位置づけである。
あたかも社会的な階級闘争が、歴史を動かす唯一の要因であるかのように、考えるのであれば、それは一面的で行き過ぎた、誤った見解である。民族間の闘争はそれよりずっと重要であり、全ての時代において外部からの圧力は、内部構造を規定するものであった。そのうえ外圧は、しばしば国内の反目を抑え込み、和解を強制した。これら二つの要因は、ともに、国防機構と国家機構の形態に、極めてはっきりした形で、影響を与えている。古代においては馬や戦車に乗って行われる、気高い個人戦闘に、市民の重装装歩兵密集方陣が取って代わり、それによって階級闘争の和解がもたらされるか、その端緒が開かれるかした。そして、この機構が硬直化した、スパルタのような地域では、国家の権力と規模もそれ以上は全く拡大しなかった。しかし、ローマのように、共同体が十分な順応性を備えていた地域では、より大きな軍事力が必要となったときに、外部情勢の緊張に応じる形で、政治的権利を有する市民の拡大へと突き進んでいった。そして、この外圧と内的発展が同時に作用する中で、都市国家から世界帝国へとローマが発達する基礎が、据えられたのである。
ローマ史においては、領土の形態と規模が、国防組織と体制に、いかに影響を及ぼすか、とりわけはっきりと見て取ることができる。素朴な都市国家とは、土地所有に基づき構成された市民軍が、一体化している。そしてイタリアにおける征服の進展は、体系的な軍事的植民地建設を伴っている。ハンニバル戦争での激しい生存闘争に際しては、古い一般兵役義務の原則が、実際に、完全な適用を見ることになった。その後、この都市の支配がイタリアを越えて広がり、マケドニアやアフリカ、さらには不穏で好戦的な住民のいるスペインのような、遠くの属州を統治し、秩序を維持せねばならなくなったときには、軍隊の必要性が一層強まったが、これは有産市民によってはもはや負担することができなかった。古い市民兵にかわって、大部分が無産市民からなる常備軍が出現し、それまでは臨時に補助金としてのみ行われていた、給与支払いが、継続的な制度となった。常備軍が成立し、さらに帝国の拡大によって、長期の指揮権を有する司令官を、遠い属州へ派遣する必要が生じた結果、長い戦争の中で勝利を重ねる司令官が、軍隊に対する個人的な影響力を持つようになり、これがしだいに共和制を掘り崩していった。軍隊指導者は共和国の役人から、独立して相争う権力者に成長した。そして、アウグストゥスが元首制を行う際に利用した、復古思想をもってしても、長期的に見て、司令官が君主に成長し、ローマが世界帝国になるのを、阻むことはできなかったのである。世界帝国の中では、ローマ市民とは、すなわちイタリアの全住民であり、政治的に特権的地位を占めたに過ぎず、ますますローマ民族としての性格を、薄めていくことになった。ローマの常備軍は君主を創り、他の地域では君主が常備軍を創ったが、この二つの現象は、都市国家から世界帝国への発展に、本質的な関わりがあるのである。
ところで、大問題がある。何が原因でこの帝国が滅び、それとともに古典文化が滅んでいったのか、未だに、説得力あるはっきりした解答をした者が、いないのである。明らかに多くの要因が作用しているが、ここでは、そのうちの一つを指摘しておきたい。ローマ帝国は外部勢力に負けてはいない。そもそもローマ帝国のまわりに、これに匹敵しうる勢力など、全く存在しなかった。世界帝国とは、我々が今日列強について語るのとは、全く違った意味を持っている。多くの国が並び立ち、勢力均衡の下、絶え間ない緊張と競争が続き、常に新興勢力に取って代わられぬよう警戒が必要となる、国際体制とは───そのような国際社会などとは、全く異なっている。国境地帯での戦争は、もはや帝国の覇権や生存を脅かす問題となることはなく、今日のイギリスの植民地における戦争や、ドイツの西南アフリカにおける戦争ほどの、意味すら持たないのである。強い外部からの圧力は和らぎ、ローマ国家を征服に次ぐ征服へと駆り立てた、外部情勢の緊張も消え、征服活動は文明圏を、完全に覆い尽くしてしまった。軍事力の数量は、近代軍と比べても、帝国の総人口に占める割合という点で、取るに足りないものであった。そして、この比較的小さな軍事力でさえも、ローマ民族としての性格を、ますます失っていった。とうの昔に、ローマ市民のみが軍隊に入ることができるという原則は、軍隊に入った外国人に市民権を与えることで、緩和されていた。アウグストゥスはまだ市民兵の軍団を、外国人から成る補助部隊から厳格に区別し、ユリウス朝の支配下では、軍団はまだ主にイタリア住民から成っていた。このような状況は、ウェスパシアヌスの時に終わりを迎えた。イタリア住民は、既に直接税を免除されていたが、事実上兵役からも解放された。そのかわりに軍団は、属州から兵士を集め、補助部隊との違いはますます薄れていった。一般兵役義務の原則は相変わらず存在していたけれど、軍隊の補充は実際には、主に自発的な入隊と応募に頼っており、当局による徴兵は補助的にのみ行われ、その際も、現実にはおそらく、代理が立てられる習慣であった。近衛軍団のみは長くイタリア的要素が支配的であったが、セプティミウス・セウェルスはこれさえも止めてしまった。そのかわりに、親衛隊が属州軍団から集められたが、さらにカラカラによって全臣民に市民権が付与されたことにより、帝国におけるイタリア住民への特権的地位の付与は、終結したのである。
この軍隊、すなわち表面的にのみローマ化された、諸民族の混合体から成る傭兵軍は、帝国とは、首長すなわち皇帝を通じて持つ関係以外、何のつながりもなかった。軍隊は、市民の信仰とは異なる独自の宗教的慣習を持ち、そこでは皇帝の神性に対する崇拝が、極めて重要な役割を果たしていた。軍隊は独立した力であった。確固たる相続法や定まった正当性の原則を欠いていたため、皇帝の即位でさえ、この力に左右されていた。軍事的な規律のみが、全ての組織をまとめ上げることができた。そして、セウェルス朝の断絶とともに、この規律が役割を果たすことも無くなった。アレクサンデル・セウェルスからディオクレティアヌスまでの五十年の絶え間ない反乱状態の中で、ローマ軍のかつての性質と組織は壊滅してしまった。4世紀における軍団は、それ以前とは全く異なるものになってしまった。国境地帯に生きる兵士たちは、もはやかつての厳格な宿営地での規律を持たず、妻子を連れて農地へと分散していた。財産を持って都市から農村へと移動した新兵は、大土地所有者によって迎え入れられた。完全な蛮族であるゲルマン人の部族も軍隊に流入した。これ以降軍隊は、しだいにゲルマン的になっていった、と言える。いわば、軍隊から帝国が蛮族化していったのである。古い体制の仕組みが、少なくとも西部において、かなり急速にほぼ完全な破綻に追い込まれたのは、以上の結果である。
これはゲルマン・ラテン民族による、世界史の新時代の出発点である。一面でこれは、ローマ世界帝国の、文化と文明の残骸すら残さぬ、自壊である。他面でこれは、若い発展段階にあるゲルマン民族の生き生きとした原始の状態であった。これらの相互作用の中で、現在にまで届く、大きな歴史の過程が始まる。今度は、この時代について簡潔に概観し、政治組織と軍事組織が、いかにして互いに関わり合ってきたかという観点で、段階を追って考察していこう。
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