Otto Hintze 『国家組織と軍隊組織』 山田昌弘訳 新装版 本文(2/4)
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この発展段階においては、特定の国家組織と軍隊組織が互いに結びついて現れる、三つの大きな時代を区分することができる。原始の部族および血統に基づく体制の時代、中世の封建制の時代、そして、一方の君主専制軍事国家と、他方の、民兵中心の国防組織を持つ、より自由な体制という、二重の像によって象徴される近代である。今は、ここに述べた前の二つの時代は簡単に扱うにとどめ、三つ目の時代についてのみ詳細に論じることにする。三つ目の軍国主義の時代は、以下に見る特徴的な現象によって、さらに三つの時期に分解されることになる。15世紀のおわりから17世紀半ばまでの第一の期間には、国家機構との結合が、未だ確固たるものでも永続的なものでもない、傭兵軍が存在した。国家組織はまだ君主専制の統一国家として安定してはいないが、そこへと向かう途上にあった。第二の時期は、だいたい17世紀半ばから18,19世紀までであり、一方に大陸の完成された君主専制軍事国家があり、他方でイギリスにおいて、民兵制とともに、議会と議会の自治が存在した。最後の第三の時期は19世紀であり、この期間を通じて、一般兵役義務と立憲国家機構という本質的に等しい二つの原理が存在したが、この間の民兵制の継続と、海軍の重要性の増大は、注目に値する。
一つ目の時代については、確かなことはあまり知られていない。だが国家的連合体と軍隊的連合体が未だ一体化した状態で、社会組織が存在した、と判断することは十分可能である。ゲルマンの最古の国制は共同体的な連合に特徴があり、百人隊と血族と行政区が一致していると見なす、大胆な推測が正しいとするならば、政治の地方自治体と軍隊の部隊を兼ねる、氏族連合体の形態を、具体的に思い浮かべることもできる。そして、国家的連合体と軍隊的連合体が、何らかの形で、氏族関係に基づいているということは、疑いもなく証明されており、歴史学と民族学において原始の体制を特徴づける、そのほかの現象とも相応している。ゲルマン人は戦闘において氏族に基づいて行動した。血族関係と隣人関係および利害の共有が生み出した、緊密な結束は、楔形あるいは「猪頭形」をした彼らの戦闘隊形において、ローマ人のような真の軍事規律が欠如しているのを、補うことになっただろう。この際に実際に血族関係がどの程度存在したか、そして、観念上のものに過ぎない血族関係がどの程度役に立ったかは、あまり重要でない。重要なのは、共同体意識が存在し、自然な共同体的結合関係によって、部隊と居住地が、軍事的、政治的に統合されていたということである。もちろん組織の要素として、支配という要素も欠けてはおらず、時には強く、時には弱く、その存在が現れている。これは、族長制という、タキトゥスの描く首長制に現れているほか、とりわけ、大戦争の際に市民の先頭に立つ、将軍の地位の中に現れている。族長制はタキトゥスの時代にはもうあちこちで、王の支配へと移行していたが、このことが、共同体的結合という国制の基本的性質を、変えることはあまりなかった。それでもその後の数百年間には、共同体的結合が力を失う一方、支配という要素が広まっていくことになった。軍隊組織については、すでにタキトゥスの時代にこの萌芽が生じているのを、見ることができる。それは従士制、すなわち、高名な族長や戦争指導者を中心に、独特の忠誠関係で個人的に結合した、選りすぐりの戦闘集団の制度のことであって、これが、古い血族関係を、主との同居から生じる関係に、置き換えていった。原始の小さな政治的結合が、市民の大部分を包括する大部族同盟へと拡大し、民族を挙げての軍事的移動や、部族による征服行が、ローマの国境を越えて行われるようになると、王の権力は強大化、王制が一般的に見られるようになり、その一方で古い血族結合による共同体関係は、とりわけローマ領への定住以降、ますます失われていった。メロヴィング朝フランク王国では、もともとは、洗練された軍隊王に率いられた民衆による征服など、見ることはできず、宗教的に畏怖される古い家系の大族長が、乱暴な権力者として、征服を率いていただけであったのだが、王の権力が非常に強く成長していくことになった。臣民全体の上に、従士制を模した形態の、支配組織を広げようという試みが、行われるようになった。メロヴィング朝の王は、貴族である騎馬の随員を連れるのみならず、本来は個人的な奉仕および忠誠関係にあったであろう一般人からも、下級の従士団とでも言うべき存在を、作り上げていた。そして最終的に王は、全臣民に忠誠の宣誓と、兵士としての誓いを、求めることになった。
もっとも、崩れ行く民族的軍事的な共同体組織を、支配組織に変えようとする、このような試みは、この形では達成されはしなかった。それどころか、ガリアを占領した直後の百年間には、平時に特定地域の長として王の権力を代表する、小部隊の隊長が、ローマの土地所有者の後を受けて、あるいは、王による土地の授与のおかげで、強大な大土地所有者として台頭してきたらしい。これらの大土地所有者も自身の随員に取り巻かれており、「長老」として軍事的首長の立場に立って、彼らを統率、支配していた。従士や、ガリア・ローマの保護者と被保護民の関係から類推すると、ここには奉仕関係と忠誠関係がともに影響していただろうし、またローマの大土地所有者に仕えた私兵の影響も、無くはないだろう。宗教的な大土地所有者もこのような軍事的随員を持っており、教会の恩貸地制度の機構は、戦士たちに土地所有を付与しながらも、授与した土地を完全に手放すことはない制度の、最高の形態を示している。財産は、ここでもまた兵役義務の履行と結びつけられたが、そのほかに、主人あるいは家臣の死に際しては、新たに授封し直すことになっていた。この臣従と恩貸地、義務と封土の関係によって、フランク王国独自の封建制の形態が創られた。宮宰のアルヌルフィング家の巧妙な政治は、この制度を中央権力と結びつけ、それによって、部分的にでも、支配組織本来の軍事力としての性質を、引き出すことに成功した。それでも封建制は、全臣民の連合という理念型と比べれば、確かに緩やかで継ぎ目だらけの、弱い支配形態である。だが、物々交換経済の社会において、徐々に軍事的な生活から農耕生活へと移行しつつある人々の中にあって、未発達な交通と庶民を従えた強固な土地支配貴族の時代にあって、この形態は、明らかに、時勢の求める優秀な軍事力、すなわち高度な個人的訓練で鍛えられた騎馬部隊、を用意することのできる、唯一のものであった。もっともこの組織が国家権力に提供するはずだった効用の大部分は、封土の世襲がしだいに浸透していくことで、またも失われてしまった。しかし、この変化の中にこそ、最高権力と、ますます自立的になる貴族階級との関係が、最もよく現れている。そして、この制度形態は、数百年の間、軍事活動と政治活動に、さらにそれよりも長く社会の状況に、決定的に影響を与えたのである。
軍事的には、封建制は、歩兵が主力である古い徴兵軍が、重装騎兵によって、駆逐されたことを意味する。この重装騎兵は、戦術集団を作って集団攻撃の衝撃により成果を挙げたのではなく、むしろ騎士の個人的な勇気と熟練、すなわち個人戦闘に頼っていた。古い徴兵軍は完全に消えたわけではなかったが、その軍事的な重要性は失われた。ガリア定住以来の経済的社会的な変化とともに、人々の土地への定着とともに、土地支配者と庶民の間の従属関係の発生とともに、古いゲルマンの軍隊の団結の源であった、家族的共同体的な結束は力を失ってしまった。そして当時の、物々交換経済と交通状況の中にあって、歩兵を人為的に規律化する可能性は、全く存在しなかった。歩兵は中世の戦いにおいて全く見られないわけではなかった。とりわけ、後に戦争に関して同業者組合が組織された、都市において、歩兵は保存されていた。だが、少なくとも初期の数百年間においては、歩兵は重要性の点で、完全に騎士の背後に退いたのである。
戦争活動におけるこの変化には、大きな社会的変化が密接に関わっている。封建制は、長期にわたって力を持つ社会区分であって、職業および労働の区分に関する世界史的に重大な動きであり、徹底した階級組織の成立を意味している。軍事的な職業は商工業から隔離され、両者とも世襲となった。騎士階級は、確かに支配階級の立場に立って、農民階級と対立した。なぜなら騎士階級が土地支配階級へとつながっていく一方、非軍事的な農民は、隷従的、従属的な階級へと、ますます沈み込んでいったからである。
このような封建制の社会的な影響は極めて長く続いた。それは、様々な形で縮小し弱まりはしたものの、大陸においてはフランス革命の時代にまで及んだ。つまり、封建制の軍事と政治の体制が、主な点で克服された後でも、まだ続いていたのである。
政治的な観点から言えば、封建制は、近代国家の型式とは異なる、独特の国家組織形態のことを意味している。封建国家には主権の特徴、すなわち国家権力の外に対する独立と、内に対する独占が欠けている。支配権力が段階的に重なり合って、ピラミッド構造を成しており、それぞれの支配権力は、各々の領域内においては制限を受けることがなく、上位者に対しては、ごく限られた形での奉仕と服従を誓ったに過ぎなかった。このような秩序が全ての公共活動を規定していた。国家はまだしっかり境界が定まっておらず、不安定で、対外的に閉じた領地を持っていなかった。イギリス王は、大陸において支配する巨大な領地については、フランス王の封臣であったし、皇帝は西洋の全キリスト教徒に対する上位権力を求めた。教皇は、キリスト教徒である王が、全てその臣下であるべきだとの要求を掲げ、実際に各国に対しこれを押し通して見せた。そして対内的には「それぞれの領主はその所領において至上権を有する」という原則が適用された。国家権力はまだ一極に集中しておらず、いわばいくつもの中心を持って分散し、最大の力を発揮した場合でも非常に弱いものであった。国家組織のこの状況は、軍事組織の形態と極めて密接な関連がある。だが結局のところ、この状況は、軍事組織そのものよりも、大部族集団間のつながりが不十分であったこと、そして、物々交換経済の広がりと未発達な交通機関のせいで、各生活圏がそれぞれ孤立していたこと、に起因している。戦争のやり方、経済そして政治は、このような状況を変えるために、共同作業を行っていった。都市が発達した交通の中心となった。まずは各地方において、その次は大きな国家において、外見上の表面的なものから、政治統合が始まった。教皇の権力が世界制覇の理念を貫徹することは、皇帝の世界支配の理念と同様達成されなかった。フランス、イギリス、スペインは15世紀のおわりまでに、ある程度の国内的な安定を獲得しているし、ドイツとイタリアにおいては同時期までに、少なくとも地域的な小国家は、ある程度強固に組織を形成しているのである。ところで、この経過にもまた、軍事組織の領域における、注目すべき変化が伴っていた。
だいたい十字軍の頃から、給与支払いの習慣が封建的軍事組織の体制に浸透し始めた。最も早く明らかな例はイギリスで、次いでフランス、イタリア、最後にドイツの順である。この前提として、貨幣経済による交通の拡大の発生があった。だが本当に影響力のあった要因は、支配者のより強い軍事力に対する政治的な欲求の中にあった。封建的軍事奉仕義務はどこにおいても無制限ではなかった。イギリスからフランスへ、あるいはドイツからイタリアへのような、長期出兵に際しては、授封や金銭支払いの形での特別な保証が、おそらく前々から求められ、そして認められていた。イギリスでは既に12~13世紀、封建的軍事奉仕義務から軍役免除税への、体系的な転換が、一部では家臣の意に反して、行われている。王はこの方法で、家臣よりずっと自由に使用できる騎士を、募集するための資金を手に入れた。次いでフランスでは無制限の義務を負う専属臣従が、ドイツでは家士の制度が出現した。最後には、至る所に、金銭支払いと傭兵騎士が浸透したが、特にイタリアにおいて甚だしかった。こうして軍備は財政問題となった。そのため支配者たちが、14~15世紀以降、軍備を調えるために、家臣やその他の臣民から、本来の軍事奉仕に代えて資金提供を受けるよう努めているのを、見ることができる。これこそ、身分集会や議会、三部会や地方議会の形成についての、あるいは、少なくともそのたび重なる召集についての、主たる契機である。無数に分散した支配の中心から成る封建的組織には、身分制組織が取って代わり、特権身分が団体を形成して、地方や国家の業務に、共同で参加するようになった。
しかし、この身分制的君主制の原理に対し、あちこちで、封建勢力が激しい反応を示すのが見える。彼らは国家と国家権力の強化が始まるとこれに逆らった。彼らはとりわけ、私闘の権利に強く執着した。封建制度は私戦を全く排除していなかったのである。給与支払いが浸透するとともに、封土と義務の強い結びつきは失われたしまった。15世紀には、全ての地方において、大領主たちが、武装した臣下の大集団、すなわち正真正銘の私設軍隊を持っていた。フランスの大貴族や、スペインの大貴族たち、イギリス貴族に、ドイツの諸侯と都市がそれである。イタリアにおいては、傭兵騎士の指導者として、傭兵隊長が出現したが、彼らは様々な国から来た外国人であり、しばしばドイツ人であった。このような現象は、国家の安定を目指す君主の、身分制確立の努力と、相反するものであった。
そのような封建的な束縛が残存しているかぎりは、身分制的君主制組織の規則正しい機能など、考えることはできない。イギリスで初めてそれが実現したのは、貴族の軍事的封建的な勢力が、バラ戦争で戦い疲れ、消耗しきった後であった。ヘンリー7世と彼の後継者は、私設軍隊を厳しく禁じ、本当に消滅させてしまった。フランスでは1439年に、国王だけが軍隊を募集でき、そのために税を徴収することができる、という原則が打ち立てられた。これとともに、貴族たちに公に認められていた、私闘の権利は消滅し、原則上は国王の独占的な軍事的主権が確立された。スペインでもフェルナンドとイサベルが、神聖同盟を利用して、似たような方法により、君主による平和組織を形成、大貴族たちによる私設軍隊の保持を禁止した。ドイツでは、領主、騎士、都市の間の長い私闘の後で、1495年の永久私闘禁止令が、封建的無秩序に対し、少なくとも原則上は認められた。イタリアでは、まず外国勢力が侵入し、ある程度整った状態まで、支配の基礎を築き上げた。
これは、封建的反抗を完全に克服するという点については、まだまだ不十分である。本当にそれが達成できたのは、イギリスの事例だけである。スペインでは16世紀になってもまだ、地方自治体の反乱が起こった。フランスでも、身分制的な組織化に向かう流れの中で、ユグノー戦争、さらに17世紀にさえフロンドの乱が起こっている。しかし、これら西方の三王国にあっては、15世紀のおわりまでに、不完全なものであったにせよ、国家の安定がもたらされており、ある程度強力な王権とそれに見合った身分制国家機構が成立していた。一方イタリアでは、部分的には、外国支配の下、君主専制国家が優勢であった。そしてドイツでは、宗教改革と三十年戦争の闘争を通じて、地方領主の皇帝に対する独立が定着してしまい、各地方が身分制的君主制を確立して、正式な国家を形成していった。
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