Otto Hintze 『国家組織と軍隊組織』 山田昌弘訳 新装版 本文(3/4)
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15世紀のおわりは封建時代の終結と見なすことができる。ここからは、第三の軍国主義の時代に入る。その境界線とも言うべき時に、封建時代と軍国主義時代のどちらに含めることもできる、重要な制度が存在している。それはフランスのシャルル7世の勅令部隊である。軍事技術の観点から言えば、それはまだ完全に封建軍隊、すなわち普通の長槍で武装し、従者を従えた騎士軍である。だが、政治制度の見地から言うと少し新しい。国王の独占的な軍事的主権に基づく、ヨーロッパ初の常備軍であった。これはヨーロッパ大陸においては画期的な機構である。ブルゴーニュのシャルル豪胆公とオーストリアのマクシミリアンが、この後に続いていった。
この新時代の出発点において、国家と戦争の技術を結びつけた、一人の大思想家を一瞥しておくことは有益であろう。すなわちマキャヴェリのことである。この国家学における復古主義者は、戦争組織や国家組織および、政治と戦争組織の関係についても、有益な見解を述べている。彼の政治的な理想はもちろんイタリアの国民的統一であったが、その際彼は、統一国家よりもむしろ連邦国家を想定していたようである。共和国はそれには適しておらず、君主のみがこの仕事を成し遂げることができ、それには並外れた労苦を要する、といったことは彼にとって明らかであった。ところで彼は戦争組織についてはあるスローガンを唱えている。外人傭兵はいらない、傭兵隊長はいらない!傭兵たちはイタリアを破滅させ、外国人支配へと成長してしまう。新たなイタリアは、彼の見解によれば、人民武装と一般兵役義務に基づくべきであるが、ただし常備軍の形ではなく───彼にとってはこれは経済的に不可能なものに見えた───、むしろ民兵の形で、戦時にのみ召集し、平時にあっては祝日や祭時にのみ武器の使用を訓練するのである。時々言われるように、マキャヴェリを近代的意味での一般兵役義務の予言者と考えることは、必ずしも行き過ぎではないと言えるだろう───ただし古代すなわちリウィウスの再現としての性格のほうが強いし、それどころか現実には、マキャヴェリを民兵制を掲げるフィレンツェ共和国の幹部とする仮説が、実証されたことも決してない───、けれどもそこには将来性に富む考えが含まれている。このことは、その後の発展の中で民兵思想の重要性を明らかにすれば、すぐに理解することができる。ところで、マキャヴェリが主張したものは、決して彼一人で考え出したものではない。それはすでに世界の他のところでは形を取っていた。彼は、フランスのシャルル7世が、自由弓兵という農民兵を用いて行った試みを、知っていた。これは、勅令部隊の補助で、騎兵の脇を固める歩兵であり、各地区が設置し装備を調えた。マキャヴェリが、フランス弓兵の手本となった、イギリスの事例についても知っていたかどうかは分からないが、イギリスの弓兵は14,15世紀の戦争において、初めのうち明らかに、騎士のみから成るフランス軍に対する、イギリス軍の優越を、もたらすことになったのである。だがこの機構は、1184年のヘンリー2世による、イングランドにおいて装備されるべき武器に関する法令、で頂点を迎えた、イギリスの古い民兵機構への逆戻りであった。ドイツの軍隊から農民が消えたのとほぼ同じ頃、イギリスでは自由な農民が、封建的義務とは別に、土地所有に基づき、市民兵による財産政治制度を彷彿とさせる階級として、国防のために組織化されていたのである。これは本質的には、ヘンリー2世によって築かれた自治制度の一部であった。自治と民兵とは一体を成しているのである。社会的背景としては、イギリスでは、農民の隷属を伴う封建的農業が、自由な所有に完全に取って代わることはなかったという事実、そして、封建的農業は14世紀半ば以来衰退しつつあったという事実、がある。そのために、イギリスでは民兵が保存され、力強く育ち、結果として、時には弓兵を、対外戦争に用いることもできたのである。これに対してフランスでは、体制が不適切であることが実証された。役に立つ兵士は全く供給されなかったし、農村の体制としては封建制が支配的だったので、農民に武器を持たせることは、危険だと考えられたのである。そのためルイ11世はこの農民兵を廃止してしまった。その代わり彼はスイス人を傭兵として雇った。彼らはフランス歩兵の中核となった。しかしなんといっても、軍国主義時代の出発点において、民兵思想の補完物と敵対物が同時に重要な意味を持って現れたことは、興味深いことである。
実際には、大陸での軍国主義の発展を可能にした、戦争術および戦争組織の進歩は、大体において農民兵制度を基礎に出現している。スイス人は全ての民族の偉大な師となった。スイス人の、騎士軍に対する、すなわち14世紀のオーストリア軍と15世紀のブルゴーニュ軍に対する、軍事的成功の秘密は、彼らが戦術集団、すなわち、戦争目的に向けた統一計画と意志のもと、鼓舞され行使される大集団、を形成したことの中にあった。これによって初めて役に立つ歩兵が復活し、そしてこの歩兵軍は、騎士の個人戦闘に完全に優越していることを、示したのである。この優越は、火器に基づくのではな
く───火器はこの頃のスイス人にとってはまだ決定的な役割を果たしていない─── むしろ、結束による戦法に基づいていた。そしてこの結束は、スイス連邦国民の場合には、まだ訓練に由来しているというよりも、むしろ、絶え間ない戦争状態と、それ以上に、地方自治体制が生命力を有していたという、倫理的政治的要因に由来していた。そこでは隣人との共同体的連帯感情と、世間から認められた指導者の権威が結びついていた。すなわち、かつて古ゲルマンの楔形隊形に力を与えて戦闘集団に代えた、あの倫理の力のおかげであった。公共心と共同体的結束に基づく、このような軍事組織は、他にドイツにおいて、封建時代を通じて自由な農民の地方自治体制が残っていた地方で、登場することになった。とりわけディトマルシェンのことが思い起こされる。フス派の場合には、民族的、宗教的な熱狂が同様の役割を果たしている。
スイス人の戦法は浸透していった。それは封建的戦争活動の終焉を用意し、騎士に代わって歩兵を、近代の戦争における決定的で中心的な要素とした。スイス人の戦法は全ての大陸国家に影響を与えた。そしてフランス人が、スイス人を傭兵に雇うことで満足している間に、スペイン人とドイツ人は、自らの人的資源を用いて、その戦争活動を手本どおりに作り上げていった。ドイツにおける模倣は、もっぱら活動的な手工業者から成る傭兵隊で、同業者組合や職人組合の伝統を、規律化に利用することができた。彼らの指導者はイタリアの傭兵隊長という手本に倣ったものであった。
この傭兵軍は、16世紀ととりわけ17世紀の戦争を主導したが、その際既にオラニエ公マウリッツやスウェーデンのグスタフ・アドルフのような偉大な組織者によって、組織的な訓練を受け、やがて17,18世紀の常備軍へとつながっていく。だが、16,17世紀の初期の傭兵軍は、全体的な性格はまだ国家機構ではなかった。それは臨時の活動や一時的な目的のためにのみ編成されたので、まだ国家や国家組織との間に、永続的で組織的な結びつきは、全く存在していない。オラニエ公マウリッツやスウェーデンのグスタフ・アドルフの軍隊でさえ、決してその例外ではなかった。つまり新しい軍隊の萌芽は、国家組織の外に形成されたのである。身分制的な組織化された国家は、封建制の軍事的な無秩序と対立しつつ、15世紀末以降定着していたが、そこには、このような傭兵軍を受け入れる余地はなかった。この体制の精神は平和的で、繁栄と秩序に関心を集中しており、軍事的な権力には注意を向けていなかった。そのことはドイツの各地方でも、イギリスにおけるのと同様、見て取ることができる。フランスの16世紀における一般的な状況も、この精神をはっきりと示している。しかし大陸においては、平和で、繁栄と文化の追求に専心する社会という理想が、発達することはなかった。巨大な政治的対立がそれを許さなかった。まだ中世の古い帝国主義の理念が生き残っていたため、フランスとハプスブルクのあいだで、ヨーロッパの覇権をめぐる、ほぼ二世紀におよぶ闘争がすさまじく燃え上がり、その時以降ヨーロッパに持続的な平和が訪れることは全くなかった。そして17世紀の半ばにリシュリューとマザランのフランスが、皇帝とスペインに対して勝利をおさめたとき、今度はルイ14世の世界支配の動きを阻止することが、重要になったのである。このような絶え間ない大国間の緊張は、また宗教対立とも複雑に絡み合っていた。だが、この持続的な政治情勢の緊張は、新たに、各国家の独立や、全ての人々の繁栄および文化の基礎を、守り維持していくための、軍事的な努力を、絶えず強制することになった。一言で言えば、権力政治と勢力均衡が近代ヨーロッパの基礎を作ったのである。大陸における、君主専制体制や常備軍とともに、国際法に基づく国際秩序も成立した。イギリスは島国としての安全の中で、戦争の直接の危険から遠ざかっていられた。そこでは全く常備軍を必要としないか、あるいは大陸のような巨大なものまでは必要とせず、むしろ軍事的な目的に加えて商業的利益にも奉仕する、海軍のみが必要であった。その結果、そこには君主専制も全く育たなかったのである。君主専制と軍国主義は大陸と密接に結びついており、イギリスには民兵と自治が見られるのである。そして対外関係の相違の中に、17世紀半ば以降強まっていった、イギリスと大陸の間の、国家および軍隊組織の発展における差異の、原因がある。
大陸国家では軍隊はまさに新たな中央集権国家の背骨となった。フランスではリシュリューが、王にスペインおよびオーストリアに対する優位を占めさせるため、地方の分立主義を血まみれの暴力によって弾圧し、そうすることでようやくかつてない君主専制の統一国家を創り上げたのである。この際ヴァイマール公ベルンハルトのドイツ人傭兵隊は、スペインとの戦争を戦い抜いて著しい拡張を見た、新フランス軍の基礎を形成した。全く同じ方法でブランデンブルク大選帝公は、彼の本国にクレーヴェと東プロイセン、そして他の全ての地方を、その王権の下に同君連合としてまとめ上げていった。貴族との常備軍の維持をめぐる争いに始まり、やがては全国を統合することになった。実際、18世紀のプロイセン国家は、まとまりのない支配領域よりも軍隊に基礎を置いていた。オーストリアとスペインも、たとえ成果は同じでないにしても、主要な点で同様の傾向を示している。至る所で傭兵制度が君主の軍隊制度に移行していった。隊長は個人企業家であることを止め、国家の役人となった。君主は隊長に代えて将校を任命した。君主は自身が最高指揮権の持ち主となった。君主を頂点とする階級組織が貫徹された。軍事監督官が、軍隊の維持と宿営、規則正しい給与支払い、そして戦場での食事について手配した。大尉が行う独特の部隊経営の中だけには───フランスでもドイツでも───かつての軍事企業家の名残がまだ、18世紀を通じて、存在していた。大尉は中隊の補充と軍備について手配した。これについては、大尉は詳細な計画なしに、総量を定められており、とりわけ募兵に関しては、未だ私物同然に、意のままにすることができた。フランスにおいては将校位の売官が、君主制下の規律の厳格さをまた少し弛めてしまった。プロイセンではそのような話は存在しない。全体的には初期の傭兵軍と比べての変化の過程は全く明らかであった。そしてその結果は、軍隊が国有化されたことであった。しかし軍隊は国家組織の枠組みの外で形成されてきたので、国家の中で未だ独立的な地位を失わずにおり、独自に憲兵や裁判組織、教会組織を持って、民事の官庁からは完全に分離していた。軍隊はいわば国家の中の外国であった。それは君主の道具であって、国の道具ではなかった。確かにそれは対外的な権力政治の手段として働いた。だがそれは、同時に、国内的な君主権力の維持と拡大にも、奉仕しているのである。この巨大な君主の権力手段に対しては、国内において、いかなる反抗も不可能であった。軍隊の中には新しい国家思想が、すなわち中央集権君主専制大国家という思想が、はっきりと明らかに、具現されている。軍隊の維持こそは国家の財務行政機関の主な任務であった。そのためには税収拡大のとてつもない努力と、それにともなう独特の経済政策が、実施された。そこでは、現金の資金の増加とともに、商工業分野を中心にした、生産の人為的な刺激および促進が、目的とされていた。経済活動は、国家理性の目的に奉仕させねばならないので、放任しておくことはできなかった。このような観点からは、重商主義と結びついた商工業統制体制が生じてきた。権力政治と重商主義および軍国主義は、互いに密接に結びついているのである。君主専制の軍事国家は干渉的な警察国家へと発展するが、そこでは旗印である公共の福祉を、個々人が幸福に満たされるという意味ではなく、国家全体の維持および強化という意味に理解している。そして同時に、軍隊機構が、民事行政機構の領域へと、強く食い込んでいくことになる。このことは、大体において軍事主義の典型である、プロイセンにおいて、特にはっきりしたものになっている。全ての官庁組織は軍事目的に密接に関係し、そのために奉仕している。軍事監察官の地位から実際の国政組織が生じた。どの国務大臣も同時に国防大臣を名乗ったし、行政全般におけるどの委員も、どの租税委員も、同時に国防委員を名乗った。もと将校が郡長や、おそらくは、長官や大臣にもなる。行政委員は大半がかつての連隊兵舎長と軍法会議判事から集められる。下級の役職は、なるべく退役下士官や傷痍軍人に、割り当てられねばならない。
こうして国家全体が軍事的な形態をとる。社会体制全体が軍国主義の機関の中に位置づけられている。貴族も、市民も、農民も、ただ各々の領域で国家に奉仕するためにのみ存在しており、彼らは皆、「プロイセン王のためにただ働きをする」ことを、強いられたのである。
強い強制力や様々な強引な行為なくしては、この新しい状況が創り出されることはなかった。「古き良き時代」と古い正義、そして古い身分制国家組織の代表者にとって、それはおそらく上からの革命のように見えただろう。王室は初め至る所で、貴族たちのかなり強い抵抗と、戦わねばならなかった。ルイ14世の統治は、市民階級寄りの性格を強く持っていたし、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の統治期のプロイセンでも同様であった。だが貴族との闘争が、殲滅戦になることはなかった。闘争は妥協とともに終わった。そして18世紀には、至る所で、貴族が新たな君主制の支柱となるのを見ることができる。こうした君主専制国家と貴族の結合は、旧体制の全体において特徴的であった。これは一面では、貴族の社会的な特権と古い身分的社会秩序が無傷であったことに起因しているが、他方で、貴族が徐々に、常備軍の将校団を、構成し始めていたからでもある。この両側面は本質的な連関がある。封建制の残骸は意図的に蘇生させられ、将校団に倫理的支柱を与えるために、利用されることになった。言うなれば、失われた臣下としての感情が、倫理的要素の一つとして生まれ変わり、それによって近代の将校身分の精神が形成されたのである。プロイセンでは、所領に対する貴族の排他的所有が、計画的に保存され、そうすることで貴族は権勢を保ち、将校団の代用品を生み出すことになった。
兵力の補充は原則的に自発的な応募の原理に従い続けた。フランスでもプロイセンでも、自国民のほか、まだ外国人が大勢雇い入れられた。だがそこでは古い民兵思想が消えたわけではなかった。フランスでは、フランソワ1世以来、再び常備軍のほかに、農民兵を国土防衛のために組織しようという試みが、行われてきた。そしてドイツでも、各地方ごとに「国土防衛機構」を樹立しようとする努力が出現したのを、16世紀のはじめ以来、見て取ることができる。ここでこのような民兵の組織が、身分制的な地域組織と結びついていることは、注目に値する。そのような身分制にもとずく郷土民兵の例は、17世紀においては、例えば東プロイセンのヴィブランツェンである。ハノーファーでは、17世紀と18世紀、君主の常備軍のほかに、身分制にもとずく民兵が存在した。だがルイ14世治下のフランスでは、民兵も完全に王のものとなった。1688年以来、フランス民兵の組織化はまずまずうまく成功していた。規則では民兵は国防用と定められ、特別の部隊をつくっていた。だが対外戦争の際に民兵は、野戦軍の補充にも使われたのである。プロイセンでもこの頃から、とくにスペイン継承戦争において、君主のための民兵を設置する試みが出現したのを、見ることができる。ここで特徴的なのは、王領地の役所から送られる農民だけが、問題にされていることである。この際思い切って貴族の臣民を動員することは、まだ行われていない。オーストリア各地で慣例になっていたような、身分制を通じて行う、本当の意味での新兵補充を、プロイセンに見つけることはできない。だがおそらくは、ここでも、ほとんどの場合、身分制的な地方の役所に、一定量の人員の徴兵を負担させることが、慣習になっていた。ただしこれは、金銭支払いに代えることができた。その後、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世治下で、軍隊が著しく増強されたので、これら全てを取り止めることになった。民兵は廃止され、その名称さえ禁じられた。王はその強力な常備軍のみを保有することを望んだ。しかし自発的な応募ではそれには不十分であった。次いで、強制募集がためしに用いられた。そしてこれが国内にひどい反感を引き起こし、領主たちの一部に抵抗の気運が巻き起こって、若年人口が国外逃亡に走ったとき、王は公式には強制募集を禁じたけれど、大尉たちが騒動や暴動を引き起こすことなく、領主たちから人員を調達しているかぎりにおいて、何の措置も講じなかったのである。もはや、貴族である領主たちと、同じ階級出身の大尉たちとの、利害の一致は明らかであった。確かに募集を行うのは、王自身ではなく大尉たちであったが。だが大尉たちは、できるだけ多くの国内居住者を雇い入れることに関心を持っていた。国内居住者は、外国人と比べて逃亡が少なく金のかからない、良質の信頼できる兵士だったからである。そのうえ、この兵力は訓練が済めば、一年のうち一定期間は休暇を与えることができ、そうすれば大尉たちは給与を節約することになり、領主たちは収穫期の労働力を欠かずにすんだのである。当然領主は、自身が将校であるか、あるいは親類関係や親しい関係にある将校に、若干の人員の与えるよう望んだ場合には、かつて王が民兵にするために領民を扱ったのと同じように、住民を意のままに利用することができた。ところでこの募兵制度には民兵の性質も少し現れており、訓練済みの人員は、たいていは大規模訓練の間の二ヶ月間しか、軍務には服さなかった。残りの期間、彼らは故郷で休暇を与えられたのである。こうしてはっきりした法律上の定め無しに、慣例的に、国内における強制徴兵が行われることになった。そして王は1737年に、各連隊と各中隊に、カントンと呼ばれる決まった募兵地域を割り当てることで、この慣習を是認したのである。
つまりこのプロイセンのカントン制度は、ある意味で、募兵による軍隊と民兵が相互に影響し合った結果であり、確かに一面では、君主の常備軍の規律を基礎としていたものの、他面では、身分制に基づいて兵員を組織していたのである。貴族が士官と成ることで軍事奉仕義務を果たしたように、農家の息子たちはもっぱら兵士の補充として奉仕したのである。貴族と農民の間に存在する古くからの上下感情、命令と服従の習慣、そして地主貴族の指導に対する信頼を支え続けてきた、首長制的な要素───こういったものの全てが、プロイセンの他国に優る軍事的規律の、強固な基盤となったのだろう。もちろん殴打は、訓練においても野戦行動においても重要であった。しかし鞭打ち刑のような、その他の重要な厳しくむごい懲罰は、召集兵よりも外国人の無頼の徒のためのものであり、傭兵軍の慣習にその起源があった。
カントン制度は一般兵役義務の前身と呼ばれるが、これは誤りとは言えない。もしこの制度によって下層階級の住民が軍事的に教育され、軍務に慣れていなかったら、プロイセンが一般兵役義務の原則を実施する際に、素早く成功を収めることは、まず無かっただろう。けれどもカントン制度の精神は、一般兵役義務の精神とは別物である。カントン制度は、君主専制の旧体制によって維持される、身分制社会秩序の上に、特権階級と非特権階級の区別の上に、成り立っていたのである。これに対して一般兵役義務は、完全に平等な国民の権利という理念の上に、成り立っていた。
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