2010年 12月 15日
Otto Hintze 『国家組織と軍隊組織』 山田昌弘訳 新装版 本文(4/4)
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この理念の変化は、明らかに政治組織と軍事組織の関係の変化を意味しており、これとともに軍国主義の時代は、現在を含む第三の時期に入ることになる。
ここで生じた全般的な変革の決定的なきっかけは、フランス革命から生じた。革命戦争の中でフランスは、単一の国家意識を持つ国民国家としてつなぎ合わされた。フランス革命軍は、旧体制下の軍隊とは全く異なるものとなった。ここでは民衆は、愛国的な熱狂と民主的な自由思想に駆られて武器を取り、君主専制国家の古い傭兵軍に立ち向かった。卓越した指揮官なら、そこから優れた軍隊を創ることが可能であり、事実、天才指揮官ナポレオンは、変革された国家と社会の組織の上で、この新しい材料を用いて、将来性に富む新戦略と新戦法を創造した。これまでの戦争では、食糧倉庫から補給を受けねばならないため、慎重で緩慢な動きしかできず、敵の殲滅よりも消耗を追求することになったし、軍勢をまとめ上げるための規律は横隊戦法の硬直を引き起こすことになった───兵士の抜きがたい悪癖である逃亡を恐れていたるところでこのような戦争が行われていた───この結果は決戦よりも術策を重んじる戦争指導であるが、これは今や激しく大胆な新戦略と新戦法への変革を迎えた。大軍がほとんど大陸じゅうを予想外の速さで駆け回り、食糧倉庫からの補給は徴発に、横隊戦法は縦隊突撃と散開戦闘に、取って代わられた。軍の士気を信頼することができたので、敵兵力を探し求めて殲滅するという目標に専念することが可能であった。このような新しい戦争指導によって、ナポレオンは古いヨーロッパの国々を打ちのめし、諸国にとっては、この軍事組織を成り立たせる精神、すなわち、自由意志と愛国心と国防への自発的関心から成る精神を、軍事的市民社会的な国民国家の公共精神を、体得することが急務となった。この意味で軍事組織の変革の必要性は、各地の有力な民族の間に、それ相応の国家組織の変革をもたらしたのである。
しかしフランスは、変革された公共精神にもとずく新たな国防組織を用いて、ナポレオンの下、大成功を収めたものの、この国防組織に完全な形を与えることはできなかった。そこでは国家と社会の新しい原則を、完全な形で適用することはできなかった。有産階級に対する配慮から、徴兵制には代理が認められたままであった。一般兵役義務の思想は、完璧に実施されてはいなかったのである。むしろプロイセンにおいて、その最初の完成が見られた。古い君主専制軍国主義の典型であった国が、近代的な一般兵役義務の理念をも、最も早く純粋な形で実現し、それによって全ての近代軍隊の模範となったのである。この前提条件は、農民解放と身分的特権の廃止であり、その結果は自由な国家組織へと向かう、とどまるところを知らない流れであった。
まず国家と社会における軍隊の地位が、全く変わることになった。軍隊から外国人が消える。兵士身分は、終身の職業身分であることをやめ、全ての兵役に服することのできる国民にとって、普通に通り過ぎる、人生の一期間となった。戦士と市民、生産階級と武装階級の区別は捨てられた。言うなれば、これは高次の文化段階において、全男子が戦士であった原始状態へと回帰したのである。封建時代において支配階級と被支配階級を創り出すことになった、強い影響力のある分業体制は、廃止あるいは修正された。近代国家においては個人は兵士として市民として、二重の意味で教育される。これらの制度は全て国家についての新たな認識に起因しており、その核心となる思想は、民衆の中に政治的な民族意識が目覚めている、国家の機能は支配者に関する問題よりもむしろ被支配者に関する問題の中にある、国家は共同体であり全ての個人から成る団体と理解される、といった考えである。これもまた太古の共同体国家思想への回帰であるが、しかし、この思想はまだ、プロイセンの強固な構造の支配組織との間に、不安定な対立状態を生じていた。
このような国家思想の分裂は、初期に行われた正規軍と郷土兵との区別の中に、正確に表現されているのを、見ることができる。正規軍は、君主主義的な組織と規律によって、かつての常備軍の伝統を維持している。郷土軍はそれよりも民兵思想や人民武装の観念と結びついている。シャルンホルストとボイエンは、郷土軍に正規軍とは異なる、特別の精神を吹き込もうとしており、この試みは解放戦争の折の愛国者たちの中に、熱烈な賛同を見出すことになった。郷土軍は特別に編成され、上は大尉の位まで、職業軍人でなく郷土軍士官が指揮を執り、各部隊は民事行政区に一体化する形で配置され、民事行政に貫徹する自治の精神を吸収することになる、とされた。
どの程度までこのような傾向が進んでいたかは、1813年にE.M.アルントが公刊した、ドイツの郷土軍に関する要覧が、非常にはっきりと示している。そこでは盲目的な絶対服従の精神は、郷土軍から消えている。軍事的規律よりも国民国家思想が優先されている。そして、郷土軍は重大な国民的利益のためにだけ戦うとされている。これは1808年の反乱以来スペイン軍の中に見られる精神に、よく似た精神であり、たとえ王がいなくとも、解放戦争をやり遂げたであろう。このような精神は、いかがわしい政治的な軍隊へと容易に堕落するものであり、実際スペインでは、政治的党派が生じて、その宣言ともつれ合いが、国土にとって災厄を成した。だがプロイセンではそうはならなかった。軍事国家という、君主制の本質を成す性質が、非常に強かったためである。1819年以降郷土軍はますます正規軍に従属するようになって行き、1860年の軍制改革で、とうとう、その本来の形は完全に失われてしまう。つまり一般兵役義務は民兵思想を受け継いだのではなく、むしろ常備軍制度を受け継いで最終的に完成させたものなのである。近代の軍国主義は、旧来の軍国主義の特徴を引き継いで、形成されたのである。
プロイセン国制史の明らかな方向転換が、このような現象と、どういう関係にあるのか、観察するのは非常に興味深い。ある意味、一般兵役義務の制度は代議制の理念と本質的に結びついていると言える。というのも、代議制、すなわち代表者を通じて行う民衆の国政参加は、一般兵役義務を生み出した政治精神の変革の、必然的な帰結なのである。一般兵役義務を政策に取り入れた政治家は、同時に自治と代議制にも関心を持っていた。もちろん一般兵役義務の導入に、すぐさまこの計画の実現が伴ったわけではないけれど、それでも代議制は、新しい政治軍事制度を完成するためには、不可欠であった。ところでプロイセンでは代議制は───その急進的な志向に反して───国王と軍の関係を手つかずのまま放っておいた。軍隊は依然として、国家組織ではなく、国王にのみ忠誠を誓っていた。これは国王が、国制において優位を占めるための、現実の権力を持っていたということであり、そこにはイギリスで形成されたような、議会政治の理論が並存できるはずもなかったのである。そのうえ軍隊を増強するとともに、その君主制的性格を強化した、1860年の軍制改革に関連して、あの憲法闘争が発生した。そこでの中心的な問題は、王と議会のどちらが軍隊を統制するのかと、軍事力の量は予算審議権により毎年検討されるのかどうかであった。
議会の権利の代表例としてはイギリスを指摘することができる。そこでは1688年の革命以降、それより少し古い小規模な常備軍は、もちろん、その法的根拠を毎年の議会の承認の中に有している。維持管理の費用のみならず、指揮権や軍事的な懲戒権および裁判権も、毎年の議会の決定に基づいており、ことあるごとに、議会の承認なき常備軍は違法であると、はっきり強調されていた。原則的に国家の武力は民兵と海軍であった。これらはたいして問題とならずに法的根拠を得たが、その理由は、これらが国内における自由にとって危険とはならない、ということであった。民兵は、公の秩序と平穏を維持する目的で、有産階級が武装したものに過ぎない。だが海軍のほうは、国民的な支持を受けた組織であり、イギリスの通商政策と海洋政策の道具として、名誉と成功に包まれていた。海軍こそが、本来の国防力であり、君主専制や軍国主義を連想させるような要素を持たず、専制的な君主が議会制転覆に利用するかもしれないという疑念から、無縁でいられたのである。
つまりイギリスにおいては、この国の特別な立場と歴史に由来して、常備軍は例外的な存在であった。これに対してプロイセンのような大陸国家は、武力を、一定することのない議会の多数派の決定によって、左右されるわけにはいかなかった。政府は1862年から1866年にかけての憲法闘争を、このような信念に基づいて戦い抜き、その結果プロイセンでは、イギリスのような議会政治の原則が成立することは、無かったのである。プロイセンの軍隊組織は、相変わらず君主の手に委ねられており、その構造は、立憲君主制という、本来の議会制と対置される制度に、相応するものであった。この制度は確かに他のドイツ諸国でも形成されていたが、帝国における同様の制度に溶け込んでいくことになった。
1860年の軍制改革によって、最終的に軍隊組織は、国王権力の優越という国制の原則と調和させられることになった。資産家階級と知識人階級に属する兵役義務者を優遇して、一年間の自発的奉仕活動を行わせるという、国内の社会構造と高級職業教育に配慮した制度が、相変わらず続けられているが、これは軍事組織そのものに由来しているのではない。だが学校制度は、一年間の奉仕活動の権利を証明しようとする輩から、嘆かわしい影響を受けており、このことは、国民教育と軍事機構がどれほど密接に結びついていたかを示している。教育制度と軍事教育の観点から、しばしばこの制度の廃止さえ求められているが、これまでのところそれは成功していない。フランスは1872年にドイツに倣って一般兵役義務を受け入れたが、これに関してはドイツ以上に徹底しており、軍事奉仕と市民権は完全に平等とされている。
ドイツでは、たとえ貴族のかつての特権が除去されており、しかも教育と富による貴族が、血統による貴族に取って代わったのだとしても、将校階級の中に貴族制原理が、フランスでは見られないほど強力に、保存されている。そして高級官吏と下級官吏が区別されるのと同様に、将校階級と下士官階級との間は、いくつかの原理上の例外はあるものの、はっきり分断されていた。ちなみに現在ですらまだ、下士官は一般市民から供給されており、これによって下級官吏身分はその特徴を保っている。軍国主義は、今日においては、国家制度と国民生活の全般を、かつての何倍もの権威を持って、貫いている。原理的に、軍国主義にかかわる全てのものに反対している社会民主主義でさえ、規律という点で軍国主義の影響を受けている。そしてこれに加えてその政党組織までが、大部分、軍国主義に原型があるのである。それどころか、社会民主主義の掲げる理想の未来ですら、無意識のうちに、共同体による個人の抑圧という、プロイセン軍事国家に由来する要素を、取り入れているのである。
しばしば一般兵役義務と普通選挙権の本質的な関連が、一方が他方の代償として登場するという意味で、語られている。歴史的に見てこの見解は、ほとんど根拠がないけれど、何の価値もないわけではない。歴史において再三にわたって、公的義務の履行がついには公的権利の獲得につながるという現象を、見ることができる。国家のために命をかけた者には、道理と公正の点から言っても、有効な市民権が認められるべきである。だからといって普通、直接、無記名選挙権は、容易には実現されないであろう。
疑いもなく民主主義の重要な要素が、一般兵役義務の中にある。ただしそれは、ハルデンベルクが、1807年の重要な改革意見書で「君主支配の下での民主制」を勧めた際に、考えていたような、意味においてである。近代軍国主義には君主制の要素がまとわりついており、それは国家組織から消えることはなかった。フランス共和国はまだ、国家組織と軍隊組織の完全な調和を、全然実現できていない。軍国主義と共和制が仲良く相容れることなどない。軍隊の存在は常に共和制を脅かし続けている。それはもちろん軍隊が君主的な長を求めているからであり、共和制における大統領は、そのような立場にある文民の例である。他方で急進政党内の反軍国主義の風潮は抑えることはできない。だが国家の中央集権行政と、近代自治制度から再三にわたって打撃を受けながらも、完成を迎えた官僚主義は、当然軍国主義と一体化していた。共和制は若く、フランス国民とその歴史は古い。そのため国際情勢の圧力のみならず、歴史的な慣習と、粘り強い伝統までが、軍国主義を堅守することになるだろう。
フランスにおける君主不在のように、オーストリア・ハンガリーでは国家統一の弱さが、国家組織と軍隊組織の対立の契機となるだろう。近代軍は君主制統一国家のために創り出された。ハプスブルク家の君主制において、真の国家統一が達成できなかったので、この軍隊はもはや、国家ではなく君主に帰属するという古い方法によって、長く持ちこたえることはできないだろう。憲法と一般兵役義務の時代に入って以来、軍隊と国家における民族的な分離傾向は、ますます強まってきており、今やこの軍隊は、軍隊用語としてのドイツ語と軍隊の統一性を守り抜くことができるのか、疑問を感じている。それでなくとも既にハンガリーには、常備軍のほか、ハンガリー国防軍が存在する。これは皇帝の常備軍とは別のハンガリーの地方民兵であり、創設者の意図によれば、イギリスの正規軍に対する民兵、プロイセンの正規軍に対するかつての郷土軍のようなものであるが、もはやかなり強い独立状態にある。
ロシアでも、国内体制があまり調和のとれた状態にないにもかかわらず、一般兵役義務導入の、軍事的政治的必要性から逃れることはできなかった。この国では政治的な民族意識の目覚めの時を感じたのではなく、ヨーロッパ諸国軍の力関係を考慮した結果、専制君主の強権的な命令が、このような制度を創設したのである(1874年)。だがともかくも、農民の農奴身分からの解放が行われた後のことであったので、ここでもまたこの制度は、最近の事件が示すように、立憲国家の創設に向けて、必然的に力強く進んでいる。ロシアにおける、これら一連の現象は、プロイセンの事例とある程度の類似を示している。まず農民解放、次いで一般兵役義務、そして最後に代議制というわけである。
プロイセンおよびドイツの武力の成功の結果、大陸各地の大国にとって、一般兵役義務導入は、政治的に必要性を帯びるようになっていった。だがイギリスではこの必要性を免れることができた。イギリスは1871年に、鞭打ち刑の廃止および将校位の売官の廃止を通じて、軍組織を近代化することで、満足してしまった。そしてイギリスは現在に至るまで一般兵役義務への移行をせずにいる。これはごく当然のことだと思われる。なぜならイギリス軍は、主に植民地における戦争に送られたのだから。植民地における戦争では、一般兵役義務による軍隊が編成されることなど、無かったのである。ドイツですら西南アフリカには志願兵のみを送っているし、さらには、自発的な志願に基づく植民地軍がドイツにも必要である、との声が大きくなっている。ここにもまた、軍隊組織の構造に対する、国家形態とその中で与えられる任務の影響を、見ることができる。イギリスのような植民地帝国は、大陸の軍事国家とは異なる軍隊を、必要としている。もちろん大陸国家も、ますます植民地国家化しているので、将来、軍事組織の分野でも、政治活動について既に行われたのと同様に、イギリスの制度と大陸の制度が、互いに接近して均質化していく可能性はある。そうすればイギリスには軍国主義の精神が流れ込むことになり、他方、大陸国家は、軍隊組織を民兵と海軍に向けて、方向転換することになるだろう。平時の現役期間の短縮は、すでに民兵思想への接近が始まっているのだと言えるし、海軍の増強とその重要性の高まりが、軍事組織と公共活動の精神全体を、ついには変質させてしまうであろうことは、すでに今日予感されている。
もちろん現在ではまだ、軍と民兵は相反する存在として対立している。その最もわかりやすい例としてはスイスの民兵制があり、そこではイギリスやアメリカと同じく、常備軍は維持されていない。スイス人は確かに大陸諸国の常備軍の手本となったが、スイス人自身は決して常備軍への移行を果たさなかった。その理由は財政能力の不足にあるのではない───民兵はスイスにおいては、ドイツにおける常備軍と同じくらい重い負担である───、むしろその理由は主に、軍国主義と調和しない、国制の精神のうちにある。軍国主義に特有の君主専制的傾向は、この国の共同体的な連邦制には、初めから全く欠けていた。国家組織と軍事組織が依存し合っている姿が、これほどはっきりと見られる所は他にない。もっともこれでは重大な要因を見落とすことになる。スイスは国際法上中立化されていた。しかも国土の性状は、スイスに、まるで巨大な城塞の中にいるような、防衛力をもたらした。スイスは、島国のイギリスや北アメリカの合衆国のように、例外的な地位を占めることになった。このような事情が、国制の共同体的性格とともに作用して、ここに挙げた三つの国を、スペンサーの言う産業型の、代表例としたのである。
もっともイギリスとアメリカについて言えば、最近十年の海軍力の著しい増大のために、このような特性は、既に相当弱まっており、ますます薄れていくだろう。すでに軍国主義に加えて、海軍主義が語られることがあり、このような現象はさらに一層意味を増すに違いない。けれども、海軍を重視する軍組織は、大陸の軍事組織と異なる独特のやり方で、公共活動の精神、あるいは国家組織にまで影響を及ぼすであろうし、そしてこのことは当然の成り行きであり、はっきり知覚できるのである。陸軍の組織は国家そのものを規定して軍事的に構成してしまう。海軍は、国外に繰り出すための、武力である。海軍は何らかの「内憂」に対して使われるには、適していない。陸軍は昔から、多少なりと、地主階級とつながりを持っている。陸軍はまだ、内部に封建制の伝統を、抱え込んでいるのである。海軍には封建的要素は全く欠けている。海軍は交易と産業の利益のために、卓越した働きをする。海軍は、技術と経済力がその発展に重要な意味を持っているので、社会における近代的勢力と深く結びついている。陸軍が保守的な思潮に支えられているように、海軍は進歩的な思潮に支えられている。なお、今日では、海軍の建造は、世界政治への参加、すなわち、近代の世界的な交通によって地表の全てを覆うに至った勢力圏を動かすための、強大国による政治への参加を、意味している。その結果、個々の国家の独自性は弱められ、軍事的政治的な制度について、全体の均質化と相互の接近が始まるであろう。陸軍国と海軍国の差異や、自治を行う民族と、上から支配される民族との差異は、弱まりあまり目立たなくなるだろう。そしてその際にはおそらく、軍事型と産業型という社会類型も純化していくのではなく、むしろ、ゆっくりと混合し、均質化されることになろう。けれどもまだ世界は永久平和を実現するほど成熟してはおらず、最近の出来事もこのことをはっきり示している。つまり、見通しのきく将来においては、これまで諸民族が繰り広げてきた歴史と似たような状況が続き、国家組織の形態および精神は、社会的経済的な情勢と利害対立によるのではなく、むしろ防衛と攻撃の必要性、すなわち戦争組織と軍事組織によって規定されていくだろう。私見によれば、これこそ、現在までの歴史的な考察から引き出される、真理である。
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この理念の変化は、明らかに政治組織と軍事組織の関係の変化を意味しており、これとともに軍国主義の時代は、現在を含む第三の時期に入ることになる。
ここで生じた全般的な変革の決定的なきっかけは、フランス革命から生じた。革命戦争の中でフランスは、単一の国家意識を持つ国民国家としてつなぎ合わされた。フランス革命軍は、旧体制下の軍隊とは全く異なるものとなった。ここでは民衆は、愛国的な熱狂と民主的な自由思想に駆られて武器を取り、君主専制国家の古い傭兵軍に立ち向かった。卓越した指揮官なら、そこから優れた軍隊を創ることが可能であり、事実、天才指揮官ナポレオンは、変革された国家と社会の組織の上で、この新しい材料を用いて、将来性に富む新戦略と新戦法を創造した。これまでの戦争では、食糧倉庫から補給を受けねばならないため、慎重で緩慢な動きしかできず、敵の殲滅よりも消耗を追求することになったし、軍勢をまとめ上げるための規律は横隊戦法の硬直を引き起こすことになった───兵士の抜きがたい悪癖である逃亡を恐れていたるところでこのような戦争が行われていた───この結果は決戦よりも術策を重んじる戦争指導であるが、これは今や激しく大胆な新戦略と新戦法への変革を迎えた。大軍がほとんど大陸じゅうを予想外の速さで駆け回り、食糧倉庫からの補給は徴発に、横隊戦法は縦隊突撃と散開戦闘に、取って代わられた。軍の士気を信頼することができたので、敵兵力を探し求めて殲滅するという目標に専念することが可能であった。このような新しい戦争指導によって、ナポレオンは古いヨーロッパの国々を打ちのめし、諸国にとっては、この軍事組織を成り立たせる精神、すなわち、自由意志と愛国心と国防への自発的関心から成る精神を、軍事的市民社会的な国民国家の公共精神を、体得することが急務となった。この意味で軍事組織の変革の必要性は、各地の有力な民族の間に、それ相応の国家組織の変革をもたらしたのである。
しかしフランスは、変革された公共精神にもとずく新たな国防組織を用いて、ナポレオンの下、大成功を収めたものの、この国防組織に完全な形を与えることはできなかった。そこでは国家と社会の新しい原則を、完全な形で適用することはできなかった。有産階級に対する配慮から、徴兵制には代理が認められたままであった。一般兵役義務の思想は、完璧に実施されてはいなかったのである。むしろプロイセンにおいて、その最初の完成が見られた。古い君主専制軍国主義の典型であった国が、近代的な一般兵役義務の理念をも、最も早く純粋な形で実現し、それによって全ての近代軍隊の模範となったのである。この前提条件は、農民解放と身分的特権の廃止であり、その結果は自由な国家組織へと向かう、とどまるところを知らない流れであった。
まず国家と社会における軍隊の地位が、全く変わることになった。軍隊から外国人が消える。兵士身分は、終身の職業身分であることをやめ、全ての兵役に服することのできる国民にとって、普通に通り過ぎる、人生の一期間となった。戦士と市民、生産階級と武装階級の区別は捨てられた。言うなれば、これは高次の文化段階において、全男子が戦士であった原始状態へと回帰したのである。封建時代において支配階級と被支配階級を創り出すことになった、強い影響力のある分業体制は、廃止あるいは修正された。近代国家においては個人は兵士として市民として、二重の意味で教育される。これらの制度は全て国家についての新たな認識に起因しており、その核心となる思想は、民衆の中に政治的な民族意識が目覚めている、国家の機能は支配者に関する問題よりもむしろ被支配者に関する問題の中にある、国家は共同体であり全ての個人から成る団体と理解される、といった考えである。これもまた太古の共同体国家思想への回帰であるが、しかし、この思想はまだ、プロイセンの強固な構造の支配組織との間に、不安定な対立状態を生じていた。
このような国家思想の分裂は、初期に行われた正規軍と郷土兵との区別の中に、正確に表現されているのを、見ることができる。正規軍は、君主主義的な組織と規律によって、かつての常備軍の伝統を維持している。郷土軍はそれよりも民兵思想や人民武装の観念と結びついている。シャルンホルストとボイエンは、郷土軍に正規軍とは異なる、特別の精神を吹き込もうとしており、この試みは解放戦争の折の愛国者たちの中に、熱烈な賛同を見出すことになった。郷土軍は特別に編成され、上は大尉の位まで、職業軍人でなく郷土軍士官が指揮を執り、各部隊は民事行政区に一体化する形で配置され、民事行政に貫徹する自治の精神を吸収することになる、とされた。
どの程度までこのような傾向が進んでいたかは、1813年にE.M.アルントが公刊した、ドイツの郷土軍に関する要覧が、非常にはっきりと示している。そこでは盲目的な絶対服従の精神は、郷土軍から消えている。軍事的規律よりも国民国家思想が優先されている。そして、郷土軍は重大な国民的利益のためにだけ戦うとされている。これは1808年の反乱以来スペイン軍の中に見られる精神に、よく似た精神であり、たとえ王がいなくとも、解放戦争をやり遂げたであろう。このような精神は、いかがわしい政治的な軍隊へと容易に堕落するものであり、実際スペインでは、政治的党派が生じて、その宣言ともつれ合いが、国土にとって災厄を成した。だがプロイセンではそうはならなかった。軍事国家という、君主制の本質を成す性質が、非常に強かったためである。1819年以降郷土軍はますます正規軍に従属するようになって行き、1860年の軍制改革で、とうとう、その本来の形は完全に失われてしまう。つまり一般兵役義務は民兵思想を受け継いだのではなく、むしろ常備軍制度を受け継いで最終的に完成させたものなのである。近代の軍国主義は、旧来の軍国主義の特徴を引き継いで、形成されたのである。
プロイセン国制史の明らかな方向転換が、このような現象と、どういう関係にあるのか、観察するのは非常に興味深い。ある意味、一般兵役義務の制度は代議制の理念と本質的に結びついていると言える。というのも、代議制、すなわち代表者を通じて行う民衆の国政参加は、一般兵役義務を生み出した政治精神の変革の、必然的な帰結なのである。一般兵役義務を政策に取り入れた政治家は、同時に自治と代議制にも関心を持っていた。もちろん一般兵役義務の導入に、すぐさまこの計画の実現が伴ったわけではないけれど、それでも代議制は、新しい政治軍事制度を完成するためには、不可欠であった。ところでプロイセンでは代議制は───その急進的な志向に反して───国王と軍の関係を手つかずのまま放っておいた。軍隊は依然として、国家組織ではなく、国王にのみ忠誠を誓っていた。これは国王が、国制において優位を占めるための、現実の権力を持っていたということであり、そこにはイギリスで形成されたような、議会政治の理論が並存できるはずもなかったのである。そのうえ軍隊を増強するとともに、その君主制的性格を強化した、1860年の軍制改革に関連して、あの憲法闘争が発生した。そこでの中心的な問題は、王と議会のどちらが軍隊を統制するのかと、軍事力の量は予算審議権により毎年検討されるのかどうかであった。
議会の権利の代表例としてはイギリスを指摘することができる。そこでは1688年の革命以降、それより少し古い小規模な常備軍は、もちろん、その法的根拠を毎年の議会の承認の中に有している。維持管理の費用のみならず、指揮権や軍事的な懲戒権および裁判権も、毎年の議会の決定に基づいており、ことあるごとに、議会の承認なき常備軍は違法であると、はっきり強調されていた。原則的に国家の武力は民兵と海軍であった。これらはたいして問題とならずに法的根拠を得たが、その理由は、これらが国内における自由にとって危険とはならない、ということであった。民兵は、公の秩序と平穏を維持する目的で、有産階級が武装したものに過ぎない。だが海軍のほうは、国民的な支持を受けた組織であり、イギリスの通商政策と海洋政策の道具として、名誉と成功に包まれていた。海軍こそが、本来の国防力であり、君主専制や軍国主義を連想させるような要素を持たず、専制的な君主が議会制転覆に利用するかもしれないという疑念から、無縁でいられたのである。
つまりイギリスにおいては、この国の特別な立場と歴史に由来して、常備軍は例外的な存在であった。これに対してプロイセンのような大陸国家は、武力を、一定することのない議会の多数派の決定によって、左右されるわけにはいかなかった。政府は1862年から1866年にかけての憲法闘争を、このような信念に基づいて戦い抜き、その結果プロイセンでは、イギリスのような議会政治の原則が成立することは、無かったのである。プロイセンの軍隊組織は、相変わらず君主の手に委ねられており、その構造は、立憲君主制という、本来の議会制と対置される制度に、相応するものであった。この制度は確かに他のドイツ諸国でも形成されていたが、帝国における同様の制度に溶け込んでいくことになった。
1860年の軍制改革によって、最終的に軍隊組織は、国王権力の優越という国制の原則と調和させられることになった。資産家階級と知識人階級に属する兵役義務者を優遇して、一年間の自発的奉仕活動を行わせるという、国内の社会構造と高級職業教育に配慮した制度が、相変わらず続けられているが、これは軍事組織そのものに由来しているのではない。だが学校制度は、一年間の奉仕活動の権利を証明しようとする輩から、嘆かわしい影響を受けており、このことは、国民教育と軍事機構がどれほど密接に結びついていたかを示している。教育制度と軍事教育の観点から、しばしばこの制度の廃止さえ求められているが、これまでのところそれは成功していない。フランスは1872年にドイツに倣って一般兵役義務を受け入れたが、これに関してはドイツ以上に徹底しており、軍事奉仕と市民権は完全に平等とされている。
ドイツでは、たとえ貴族のかつての特権が除去されており、しかも教育と富による貴族が、血統による貴族に取って代わったのだとしても、将校階級の中に貴族制原理が、フランスでは見られないほど強力に、保存されている。そして高級官吏と下級官吏が区別されるのと同様に、将校階級と下士官階級との間は、いくつかの原理上の例外はあるものの、はっきり分断されていた。ちなみに現在ですらまだ、下士官は一般市民から供給されており、これによって下級官吏身分はその特徴を保っている。軍国主義は、今日においては、国家制度と国民生活の全般を、かつての何倍もの権威を持って、貫いている。原理的に、軍国主義にかかわる全てのものに反対している社会民主主義でさえ、規律という点で軍国主義の影響を受けている。そしてこれに加えてその政党組織までが、大部分、軍国主義に原型があるのである。それどころか、社会民主主義の掲げる理想の未来ですら、無意識のうちに、共同体による個人の抑圧という、プロイセン軍事国家に由来する要素を、取り入れているのである。
しばしば一般兵役義務と普通選挙権の本質的な関連が、一方が他方の代償として登場するという意味で、語られている。歴史的に見てこの見解は、ほとんど根拠がないけれど、何の価値もないわけではない。歴史において再三にわたって、公的義務の履行がついには公的権利の獲得につながるという現象を、見ることができる。国家のために命をかけた者には、道理と公正の点から言っても、有効な市民権が認められるべきである。だからといって普通、直接、無記名選挙権は、容易には実現されないであろう。
疑いもなく民主主義の重要な要素が、一般兵役義務の中にある。ただしそれは、ハルデンベルクが、1807年の重要な改革意見書で「君主支配の下での民主制」を勧めた際に、考えていたような、意味においてである。近代軍国主義には君主制の要素がまとわりついており、それは国家組織から消えることはなかった。フランス共和国はまだ、国家組織と軍隊組織の完全な調和を、全然実現できていない。軍国主義と共和制が仲良く相容れることなどない。軍隊の存在は常に共和制を脅かし続けている。それはもちろん軍隊が君主的な長を求めているからであり、共和制における大統領は、そのような立場にある文民の例である。他方で急進政党内の反軍国主義の風潮は抑えることはできない。だが国家の中央集権行政と、近代自治制度から再三にわたって打撃を受けながらも、完成を迎えた官僚主義は、当然軍国主義と一体化していた。共和制は若く、フランス国民とその歴史は古い。そのため国際情勢の圧力のみならず、歴史的な慣習と、粘り強い伝統までが、軍国主義を堅守することになるだろう。
フランスにおける君主不在のように、オーストリア・ハンガリーでは国家統一の弱さが、国家組織と軍隊組織の対立の契機となるだろう。近代軍は君主制統一国家のために創り出された。ハプスブルク家の君主制において、真の国家統一が達成できなかったので、この軍隊はもはや、国家ではなく君主に帰属するという古い方法によって、長く持ちこたえることはできないだろう。憲法と一般兵役義務の時代に入って以来、軍隊と国家における民族的な分離傾向は、ますます強まってきており、今やこの軍隊は、軍隊用語としてのドイツ語と軍隊の統一性を守り抜くことができるのか、疑問を感じている。それでなくとも既にハンガリーには、常備軍のほか、ハンガリー国防軍が存在する。これは皇帝の常備軍とは別のハンガリーの地方民兵であり、創設者の意図によれば、イギリスの正規軍に対する民兵、プロイセンの正規軍に対するかつての郷土軍のようなものであるが、もはやかなり強い独立状態にある。
ロシアでも、国内体制があまり調和のとれた状態にないにもかかわらず、一般兵役義務導入の、軍事的政治的必要性から逃れることはできなかった。この国では政治的な民族意識の目覚めの時を感じたのではなく、ヨーロッパ諸国軍の力関係を考慮した結果、専制君主の強権的な命令が、このような制度を創設したのである(1874年)。だがともかくも、農民の農奴身分からの解放が行われた後のことであったので、ここでもまたこの制度は、最近の事件が示すように、立憲国家の創設に向けて、必然的に力強く進んでいる。ロシアにおける、これら一連の現象は、プロイセンの事例とある程度の類似を示している。まず農民解放、次いで一般兵役義務、そして最後に代議制というわけである。
プロイセンおよびドイツの武力の成功の結果、大陸各地の大国にとって、一般兵役義務導入は、政治的に必要性を帯びるようになっていった。だがイギリスではこの必要性を免れることができた。イギリスは1871年に、鞭打ち刑の廃止および将校位の売官の廃止を通じて、軍組織を近代化することで、満足してしまった。そしてイギリスは現在に至るまで一般兵役義務への移行をせずにいる。これはごく当然のことだと思われる。なぜならイギリス軍は、主に植民地における戦争に送られたのだから。植民地における戦争では、一般兵役義務による軍隊が編成されることなど、無かったのである。ドイツですら西南アフリカには志願兵のみを送っているし、さらには、自発的な志願に基づく植民地軍がドイツにも必要である、との声が大きくなっている。ここにもまた、軍隊組織の構造に対する、国家形態とその中で与えられる任務の影響を、見ることができる。イギリスのような植民地帝国は、大陸の軍事国家とは異なる軍隊を、必要としている。もちろん大陸国家も、ますます植民地国家化しているので、将来、軍事組織の分野でも、政治活動について既に行われたのと同様に、イギリスの制度と大陸の制度が、互いに接近して均質化していく可能性はある。そうすればイギリスには軍国主義の精神が流れ込むことになり、他方、大陸国家は、軍隊組織を民兵と海軍に向けて、方向転換することになるだろう。平時の現役期間の短縮は、すでに民兵思想への接近が始まっているのだと言えるし、海軍の増強とその重要性の高まりが、軍事組織と公共活動の精神全体を、ついには変質させてしまうであろうことは、すでに今日予感されている。
もちろん現在ではまだ、軍と民兵は相反する存在として対立している。その最もわかりやすい例としてはスイスの民兵制があり、そこではイギリスやアメリカと同じく、常備軍は維持されていない。スイス人は確かに大陸諸国の常備軍の手本となったが、スイス人自身は決して常備軍への移行を果たさなかった。その理由は財政能力の不足にあるのではない───民兵はスイスにおいては、ドイツにおける常備軍と同じくらい重い負担である───、むしろその理由は主に、軍国主義と調和しない、国制の精神のうちにある。軍国主義に特有の君主専制的傾向は、この国の共同体的な連邦制には、初めから全く欠けていた。国家組織と軍事組織が依存し合っている姿が、これほどはっきりと見られる所は他にない。もっともこれでは重大な要因を見落とすことになる。スイスは国際法上中立化されていた。しかも国土の性状は、スイスに、まるで巨大な城塞の中にいるような、防衛力をもたらした。スイスは、島国のイギリスや北アメリカの合衆国のように、例外的な地位を占めることになった。このような事情が、国制の共同体的性格とともに作用して、ここに挙げた三つの国を、スペンサーの言う産業型の、代表例としたのである。
もっともイギリスとアメリカについて言えば、最近十年の海軍力の著しい増大のために、このような特性は、既に相当弱まっており、ますます薄れていくだろう。すでに軍国主義に加えて、海軍主義が語られることがあり、このような現象はさらに一層意味を増すに違いない。けれども、海軍を重視する軍組織は、大陸の軍事組織と異なる独特のやり方で、公共活動の精神、あるいは国家組織にまで影響を及ぼすであろうし、そしてこのことは当然の成り行きであり、はっきり知覚できるのである。陸軍の組織は国家そのものを規定して軍事的に構成してしまう。海軍は、国外に繰り出すための、武力である。海軍は何らかの「内憂」に対して使われるには、適していない。陸軍は昔から、多少なりと、地主階級とつながりを持っている。陸軍はまだ、内部に封建制の伝統を、抱え込んでいるのである。海軍には封建的要素は全く欠けている。海軍は交易と産業の利益のために、卓越した働きをする。海軍は、技術と経済力がその発展に重要な意味を持っているので、社会における近代的勢力と深く結びついている。陸軍が保守的な思潮に支えられているように、海軍は進歩的な思潮に支えられている。なお、今日では、海軍の建造は、世界政治への参加、すなわち、近代の世界的な交通によって地表の全てを覆うに至った勢力圏を動かすための、強大国による政治への参加を、意味している。その結果、個々の国家の独自性は弱められ、軍事的政治的な制度について、全体の均質化と相互の接近が始まるであろう。陸軍国と海軍国の差異や、自治を行う民族と、上から支配される民族との差異は、弱まりあまり目立たなくなるだろう。そしてその際にはおそらく、軍事型と産業型という社会類型も純化していくのではなく、むしろ、ゆっくりと混合し、均質化されることになろう。けれどもまだ世界は永久平和を実現するほど成熟してはおらず、最近の出来事もこのことをはっきり示している。つまり、見通しのきく将来においては、これまで諸民族が繰り広げてきた歴史と似たような状況が続き、国家組織の形態および精神は、社会的経済的な情勢と利害対立によるのではなく、むしろ防衛と攻撃の必要性、すなわち戦争組織と軍事組織によって規定されていくだろう。私見によれば、これこそ、現在までの歴史的な考察から引き出される、真理である。
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by trushbasket
| 2010-12-15 20:49
| My(山田昌弘)








