神道思想史概説(四)
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(三)はこちらです。(四)では、近世後期の思想的展開について。
8.垂加神道~儒教と神道~
戦乱の末に統一が成し遂げられた徳川期には、秩序の安定・正当化を目的として儒学、中でも君臣関係を重んじる朱子学が重んじられました。支配者階層であった「武士」階級にとって、「武士は何故庶民より偉いのか」「世の模範として生きるにはどうあるべきか」といった論拠や心構えを与える存在であったのです。中でも、山崎闇斎の学派は秩序を重んじ極めて厳格な、時には四角四面なものとして知られました。その闇斎が吉田神道に触れて朱子学により理論化したものが垂加神道です。
朱子学では万物に普遍的な原理を「理」としており、それにより万物が生じると言われています。そして、「理」に適う心のあり方が善であり、情念や欲望により「理」が妨げられるのが悪であると考えました。そうした上で、人間世界での「理」の表れが君臣関係であるとしたのです。
闇斎はこの考え方を神道に当てはめ君臣関係を日本独自の論理で位置づけようとしました。まず陰陽道を取り入れ万物が「土」から変形して生じ、その際に「土」を凝集させ固める(しめる)のが「金」であるとしました。同様に人間の心に関しても、土がしまる、すなわち「つつしみ(土しまり)」が心の中にあることによって人として存在できると考えたのです。「つつしみ」をしっかりと持ち日常生活において道徳を守る事で「理」と一体化することができる、すなわち神と一体化する。そして日本全体について言えば、個々の人々が「つつしみ」を持ち日本の根源たる神代以来守られてきた皇統を守り伝えることで支えられると捉えたのです。こうした道徳を生まれながらに体得しているのが儒教で言う聖人であり日本神話で言えば天照大神に当たるとされました。君臣関係・倫理道徳を中心にすえたこの垂加神道は、日常生活を一貫して厳格さで貫いています。
闇斎は、儒教に見られた支配者層の守るべき倫理道徳を神道と言う形で日本化し定着させようとしたと言えます。ただし、これはあくまでエリート層にのみ守る事に意義のあるものでした。そこで、社会的実力を付けつつあった庶民層に広がった神道思想について次に見る事にしましょう。
9.国学と復古神道
18世紀に入ると、荷田春満や賀茂真淵らにより古典を実証的に研究し古い時代の日本を知る国学が民間で広まりつつありました。中でも本居宣長は「古事記」「源氏物語」などの研究を通じて、人の情は弱く揺れ動くものであり、その心の動きを描写したものが歌であり物語であると述べました。そうして、そうした物語の根本に愛するものと引き離された悲しみを見出したのです。そうした観点から「古事記」において現世と黄泉国とに引き離されたイザナギとイザナミの悲しみを読み取り、生者が悲しみに徹して向き合い思いを寄せる事で死者と心を通わせる事ができると考えました。個々人の死後についてや死生観に関して、再び仏教を離れて関心がもたれたのです。しかし宣長の思考はあくまで学問レベルであり、神道思想として体系化を進めたのは宣長の没後門人を称する平田篤胤でした(※4)。
篤胤は、死後の世界が「古事記」でいう「黄泉国」のような穢れの世界であるはずがないと考え独自の世界観を構築することになります。篤胤によれば「黄泉」は死後の世界ではなくイザナギも死んだ訳ではない、火の神を生んだ際に穢れを受けたの恥じて身を隠したに過ぎないと言うのです。では、人は死後に何処へ行くのか。現世に隣接して幽冥界と言う世界が存在し、死者の魂はそこへ趣くというのです。幽冥界は現世と表裏一体の関係にあり、現世と非常に類似した世界であるとされます(※5)。そして幽冥界で人は神となるのですが、生前の心がけや行動、中でも今わの際での想いの強さにより神としての格が決まるのです。つまり、心の持ちようが正しければ尊い神となり、邪心が強ければ疫病神などになってしまうと言う事です。そこで、現世において日常生活を正しく生き「穢れ」への怒りを原動力として自らを高め「真実」を希求し世を愛する事が重要であるとされました。
篤胤の宇宙観は、以下のように説明できます。根源的存在である天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神の命令でイザナギ・イザナミが万物を生み出し、中でも天照大神とその子孫である天皇(伊勢系)が現世をうけもちスサノオとその子孫である大国主命(出雲系)が幽冥界を司る、これが世界の構造であるとしています。篤胤はこうした世界観をキリスト教神学も参考にしながら一ヶ月で作り上げ「霊之御柱」に悦実させたと言われています。
平田篤胤によって一応の完成を見た「復古神道」は富農や下層武士を中心に受け入れられ、明治維新においては思想的基盤の一つとなります。明治に入ると、復古神道は国家により神道・国民を管理するための国家神道と仏教と融合する前の「神」やそれを信仰する人々の元来の姿を追求する近代民俗学という相反する二つの方向に分かれていくことになります。
(五)に続きます。