2010年 12月 22日
本居宣長『紫文要領』より「もののあはれ」を見る 訳:NF 「歌人此物語を見る心はへの事」(一)
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目次
歌の道の心がけを知りたいならば、この『源氏物語』を良く読んでその味わいを理解すべきである。また歌の道の有り方を知りたいと思うときも、この物語の有り方を良く見て理解すべきである。この物語を外れて歌の道はなく、歌の道を外れてこの物語はない。歌の道とこの『源氏物語』とは、全くその趣旨は同じなのである。だから以前にこの物語の事を論じたのは、それすなわち歌の道についての議論であると理解してほしい。歌を読む人の心がけは、全くこの物語における心であるのだ。
それなのに中世以降、歌人は専らこの書を取り扱うといっても、ただその中の言葉を引用し、詠む歌の趣向にしたり、または書く文章の手本にするまでであって、一体全体歌の道の心がけを知ろうと思って見る人はない。だから歌を詠む人は多いが、この物語の本当の味わいを知る人もなく、また歌の道の本当の味わいを知る人もない。悲しい事ではないか。歌を詠もうとする人は必ず歌の道はどのようなものかという真実の意味を知るべきである。それなのに歌を詠む人は世間に多いが、歌の道というものの全体への理解を皆間違っている。歌の道の趣旨を知らない歌詠みはひどいものである。だから歌を詠む人は必ず歌の道の趣旨をよく理解するべきである。歌の道の趣旨を知ろうとするならば、必ずこの物語をよく読むべきである。
この物語の趣旨を知ろうとするなら、私が記した「大意」の部(NF注:『紫文要領』中で『源氏物語』の概要をまとめたもの。ここでは訳していない。)を良く考えて読み、物語と引き合わせて見るべきである。この物語は昔から注釈が多いといっても、あるものは詳しくなく、またこの頃の注釈は詳しいようであるが、歌の道の趣旨を知らない人が作っているので、物語の本来の意味とずれている事ばかりが多いので、見る人にとって歌の道の便宜にはならない。この頃の人々は、歌の道を知っているかのように言うが、実際には知らないので、物語の見方がみな間違っている。私はこれを悲しく思うので、今詳しく物語の本来の意味合いを書き表して、読む人にとっての障壁を解かせた。この内容は「大意」で述べたので、見てほしい。
さてこの物語の趣旨をよく理解して、物語をしっかりと見るときは、歌の道の趣旨は自然と明らかになる。歌の道の趣旨が明らかになる時には、詠む歌は良くも悪くもことごとく、昔の人の歌と異なるところはなくなるであろう。
ある人が質問して言った、「この物語と歌の道と、その本質的な意味が全く同じという理由は何か」と。
答えて言う。歌は「もののあはれ」を知る事から出る。また「もののあはれ」は歌を見る事により分かる事がある。この物語は「もののあはれ」を知る事により書き出され、また「もののあはれ」はこの物語を見て理解する事が多いであろう。したがって歌と物語とその趣旨は同一である。
質問して言う、「ならば『もののあはれ』さえ理解すれば歌は詠めるはずで、また歌さえ詠めれば『もののあはれ』は理解できるはずだ。なのになぜこの物語を見て歌の道の本質的な意味を知れというのか」、と。
答えて言う。前にも言ったように、人の情は古今も貴賎も区別ないものとはいっても、その中で時代ごとの風習や人の身分によって多少変わるところもあるのである。歌も人情が物事に感動する所の「もののあはれ」から詠まれたものであるから、古今貴賎の区別はあるはずがない理屈であるが、中世以来の歌は、昔の歌を学んだ上でその趣で詠むものであるから、昔の世の中や人情のままで詠むのである。そしてまた学ぶ昔の歌はみな、中級以上の人が詠んだ歌であり、中級以上の世界や人情から出た歌である。だから昔の歌を学ぼうとすれば、昔の中級以上の人の世界や人情をしらなければ、どうにもならないものである。その昔の中級以上の人の世界や人情を知るためには、この物語を見る以上の事はない。そのため歌の道の本質的な意味を知ろうとするならば、この物語をよく読めというのである。しかしそれも昔の歌をよく見たならば、この物語を読まなくとも、昔の中級以上の人々の世界や人情は分かるはずだと思う人がいるだろうが、それは末端を見て本質を知らないのであるから、不十分なところがあるのである。今の歌人はみなその類である。例えば良い細工師が作ったすばらしい器があるとして、今もう一つそれと同じように作ろうとするとき、現物を見て作るようなものだ。見た目は少しも違わないが、よく気をつけて見たり、使って見る時に、決して同じものではない。これは昔の歌だけを見て、昔の世界や人情を知らない人が詠んだ歌のようなものだ。この物語をよく読んで、昔の中級以上の人情や世界をよく理解し、その境地に心を染めて、そうして昔の歌をよく見て詠む歌は、例の細工師のところへ言って作り方を詳しく学び問い聞きだして、そしてその器を見てその形に作るようなものだ。その根本をよく考え理解して作るので、元来の器と変わるところがない。今の歌は、昔の歌を見てそれに倣っているといっても、その歌のできた根本を知らないので、不明なところがあって、昔の歌とその趣旨が違うところが多い。この物語をよく読んで、昔の中級以上の人情や世界をよく理解して詠む時は、今詠む歌も昔と変わらないはずである。
(二)へ続きます。
歌の道の心がけを知りたいならば、この『源氏物語』を良く読んでその味わいを理解すべきである。また歌の道の有り方を知りたいと思うときも、この物語の有り方を良く見て理解すべきである。この物語を外れて歌の道はなく、歌の道を外れてこの物語はない。歌の道とこの『源氏物語』とは、全くその趣旨は同じなのである。だから以前にこの物語の事を論じたのは、それすなわち歌の道についての議論であると理解してほしい。歌を読む人の心がけは、全くこの物語における心であるのだ。
それなのに中世以降、歌人は専らこの書を取り扱うといっても、ただその中の言葉を引用し、詠む歌の趣向にしたり、または書く文章の手本にするまでであって、一体全体歌の道の心がけを知ろうと思って見る人はない。だから歌を詠む人は多いが、この物語の本当の味わいを知る人もなく、また歌の道の本当の味わいを知る人もない。悲しい事ではないか。歌を詠もうとする人は必ず歌の道はどのようなものかという真実の意味を知るべきである。それなのに歌を詠む人は世間に多いが、歌の道というものの全体への理解を皆間違っている。歌の道の趣旨を知らない歌詠みはひどいものである。だから歌を詠む人は必ず歌の道の趣旨をよく理解するべきである。歌の道の趣旨を知ろうとするならば、必ずこの物語をよく読むべきである。
この物語の趣旨を知ろうとするなら、私が記した「大意」の部(NF注:『紫文要領』中で『源氏物語』の概要をまとめたもの。ここでは訳していない。)を良く考えて読み、物語と引き合わせて見るべきである。この物語は昔から注釈が多いといっても、あるものは詳しくなく、またこの頃の注釈は詳しいようであるが、歌の道の趣旨を知らない人が作っているので、物語の本来の意味とずれている事ばかりが多いので、見る人にとって歌の道の便宜にはならない。この頃の人々は、歌の道を知っているかのように言うが、実際には知らないので、物語の見方がみな間違っている。私はこれを悲しく思うので、今詳しく物語の本来の意味合いを書き表して、読む人にとっての障壁を解かせた。この内容は「大意」で述べたので、見てほしい。
さてこの物語の趣旨をよく理解して、物語をしっかりと見るときは、歌の道の趣旨は自然と明らかになる。歌の道の趣旨が明らかになる時には、詠む歌は良くも悪くもことごとく、昔の人の歌と異なるところはなくなるであろう。
ある人が質問して言った、「この物語と歌の道と、その本質的な意味が全く同じという理由は何か」と。
答えて言う。歌は「もののあはれ」を知る事から出る。また「もののあはれ」は歌を見る事により分かる事がある。この物語は「もののあはれ」を知る事により書き出され、また「もののあはれ」はこの物語を見て理解する事が多いであろう。したがって歌と物語とその趣旨は同一である。
質問して言う、「ならば『もののあはれ』さえ理解すれば歌は詠めるはずで、また歌さえ詠めれば『もののあはれ』は理解できるはずだ。なのになぜこの物語を見て歌の道の本質的な意味を知れというのか」、と。
答えて言う。前にも言ったように、人の情は古今も貴賎も区別ないものとはいっても、その中で時代ごとの風習や人の身分によって多少変わるところもあるのである。歌も人情が物事に感動する所の「もののあはれ」から詠まれたものであるから、古今貴賎の区別はあるはずがない理屈であるが、中世以来の歌は、昔の歌を学んだ上でその趣で詠むものであるから、昔の世の中や人情のままで詠むのである。そしてまた学ぶ昔の歌はみな、中級以上の人が詠んだ歌であり、中級以上の世界や人情から出た歌である。だから昔の歌を学ぼうとすれば、昔の中級以上の人の世界や人情をしらなければ、どうにもならないものである。その昔の中級以上の人の世界や人情を知るためには、この物語を見る以上の事はない。そのため歌の道の本質的な意味を知ろうとするならば、この物語をよく読めというのである。しかしそれも昔の歌をよく見たならば、この物語を読まなくとも、昔の中級以上の人々の世界や人情は分かるはずだと思う人がいるだろうが、それは末端を見て本質を知らないのであるから、不十分なところがあるのである。今の歌人はみなその類である。例えば良い細工師が作ったすばらしい器があるとして、今もう一つそれと同じように作ろうとするとき、現物を見て作るようなものだ。見た目は少しも違わないが、よく気をつけて見たり、使って見る時に、決して同じものではない。これは昔の歌だけを見て、昔の世界や人情を知らない人が詠んだ歌のようなものだ。この物語をよく読んで、昔の中級以上の人情や世界をよく理解し、その境地に心を染めて、そうして昔の歌をよく見て詠む歌は、例の細工師のところへ言って作り方を詳しく学び問い聞きだして、そしてその器を見てその形に作るようなものだ。その根本をよく考え理解して作るので、元来の器と変わるところがない。今の歌は、昔の歌を見てそれに倣っているといっても、その歌のできた根本を知らないので、不明なところがあって、昔の歌とその趣旨が違うところが多い。この物語をよく読んで、昔の中級以上の人情や世界をよく理解して詠む時は、今詠む歌も昔と変わらないはずである。
(二)へ続きます。
by trushbasket
| 2010-12-22 04:17
| NF








