2010年 12月 22日
本居宣長『紫文要領』より「もののあはれ」を見る 訳:NF 「歌人此物語を見る心はへの事」(四)
|
目次
(三)はこちらです。
質問して言う、「この物語を読んで『もののあはれ』を知るということについて、なお詳しく聞きたい」、と。
答えて言う。この物語はまず世の中にあるあらゆる事について、見るにつけ聞くにつけ思うにつけ触れるにつけ「もののあはれ」である内容を見て理解し心に感じて、それを心中に込めておき堅く思い、物語に書いて心を晴らしたのである。一般に心中に思い積もる内容は人に語り、物に書き表す事で、その心に積もったものは発散されるのである。そして紫式部が常に心に思い積もらせていた「もののあはれ」を、この物語に悉く書き出して、更に見る人に深く感動させるために、何事も強く表現したのである。「もののあはれ」である事の限りはこの物語に漏れる事無く書きつくされたと思うべきである。だからこれを読む人の心が、「なるほどそうであろう」と思って感動するのが、すなわち読む人が「もののあはれ」を知るということである。そのように感動させるために、「もののあはれ」をことさらに深く書き現したのである。深く書き表したので、人は感動しやすく、「もののあはれ」を知る事も容易で深いのである。例えば人々が物思いにふけりどうしようもなく深く思いつめている心の様子を欠いたのを見て、「なるほどそうであろう」と思われるのは、つまりその人の心を推察して「もののあはれ」を知るということである。その推察する手がかりは何かと言えば、その物思いになる理由を詳しく書いているので、それを見てその心を推察するのである。すべての事はみなこのようなものである。その事とその心をあわせて、このような事になるとこのように思う事があるのだ、このような事を聞くと、このように思うものである、このようなものを見ると、このように感じるものだと、すべての事を推察して感動するのが、つまりは物語を見て「もののあはれ」を知るということである。
このように、物語の中のすべての事、つまり人々の所業、人々の心をよく推察して理解するときは、昔の風俗や人情を知ることは、掌を指すかのようにたやすい。花を見るときの心はこのようなもの、月を見る心はこのようなもの、春の心はこうで秋の心はこう、ホトトギスの声を聞いたときの心はこのようなもの、恋をするときの思いはこのようなもの、逢えない辛さはこのようなもの、逢う嬉しさはこのようなもの、と詳細に書き現しているので、それを自分の心と全て引き比べて推察し、「なるほどこうであろう」という意味を理解すれば、それが「もののあはれ」を知るということで、今歌を詠む時に大いに利益があるものだ。歌の出てくる根本は「もののあはれ」である。
その「もののあはれ」を知るには、この物語を見るに越したものはない。この物語は紫式部が知っているところの「もののあはれ」から出てきて、今見る人の「もののあはれ」はこの物語から出るのである。だからこの物語は「もののあはれ」をかき集めて、読む人に「もののあはれ」を知らせるより他の意義はなく、読む人も「もののあはれ」を知るより他に意味はないであろう。これは歌道の根本である。「もののあはれ」を知るより他に物語はなく、歌道もない。だからこの物語を外れては歌道はないのである。学者はよく思いをめぐらして、「もののあはれ」を知ることを求めよ。これがつまりこの物語を知ることである。これがつまりは歌道を悟る事である。
なのに様々な解説本の内容は、この物語を教訓が根本であるとして、見る人に身の戒めとしている。これはこの物語にとって魔道である。決して教訓の心で見てはならない。私はこの魔によって学者が惑わされて、悟る事が出来なかったのを悲しむので、今これほど詳しくこの点について論じて、作者の本来の意図を書き現し、学者の迷いを解いたのである。さて教訓の方法としてこの物語を引き入れるのが、この物語の魔であるという理由はなぜかというと、教訓の心で見るときは、物語の妨げとなるためにこのように言うのである。なぜ妨げとなるかと言えば、教訓の心で見るときは、「もののあはれ」が冷めるためである。「もののあはれ」を冷めさせるのは、この物語の魔ではないか、歌道の魔ではないか。さて教訓目的としてみるのが、なぜ「もののあはれ」を冷めさせるかというと、大体において儒教や仏教の道徳は、人情の中で育て伸ばすものと、人情を抑え戒めて止めるものとがある。そして「もののあはれ」を知るという事の中には、例の教訓目的で育て伸ばすものもあるが、また抑え止めて戒める内容も多い。だから物語を教訓目的で見るときは、「もののあはれ」を知る事を押さえ止める事が多いので、そのつもりで見れば、「もののあはれ」が冷める。だからこれを妨げと言い魔と言うのである。この物語も歌道も、儒教や仏教の道徳を本質とはせず、「もののあはれ」が本質であるから、あのような道徳臭い書籍と同一視すると、大いに本質にそむくのである。物語と道徳とそれぞれが拠って立つ本質が、用いるところが異なるというのを理解せず、どの道もこの道も、一つに混同して理解するのは、たいへん蒙昧である。儒教は儒教が拠って立つ本質があり、仏教は仏教の拠って立つ本質がある。物語は物語の拠って立つ本質がある。それをあれもこれも無理に一緒にしてあれこれ言うのは、牽強付会の説というものだ。歌や物語は歌や物語の拠って立つ本質で語るのが正論と言うものだ。それ以外の書籍の本質がどれほど良くても、それを歌や物語に引用するのは牽強付会の邪道な説である。道徳の道をうらやんで、歌や物語をもその方面に引き入れようとするのは、大変汚く見苦しい事だ。これは歌や物語には歌や物語自身に一つの本質があると言う事を知らないためである。また、何らかの道徳で物語を語るときは、肝心なその道徳の本質が曇らされると言うことが分かっていない。
教訓については他にいくらでも専用の書籍が多くあるので縁がないはずのこの物語を借用して語るには及ばない。この物語を教訓のために見るのは、喩えるなら花を見るためにといって、植えておいた桜の木を切って、薪にするようなものだ。この喩えで理解できるであろう。薪は日用品であってなくてはどうにもならない物なので、薪自体を悪いと言って嫌うわけではないが、薪にしてはならない木を薪にしたのが嫌なのである(※3)。薪にする木なら他にいくらでも良い木があるはずである。桜を切らなくても薪に事欠く事はあるまい。桜はもともと花を見るようにということで植えておいたのだから、植えた人の意図にも背くことだ。みだりに切って薪にするのは心無いことではないか。桜はただいつまででも「物のあはれ」の花を愛でる事が本来のあり方なのである(NF注:言うまでもなく、桜が物語であり薪が道徳の喩えである)。
注へ。
(三)はこちらです。
質問して言う、「この物語を読んで『もののあはれ』を知るということについて、なお詳しく聞きたい」、と。
答えて言う。この物語はまず世の中にあるあらゆる事について、見るにつけ聞くにつけ思うにつけ触れるにつけ「もののあはれ」である内容を見て理解し心に感じて、それを心中に込めておき堅く思い、物語に書いて心を晴らしたのである。一般に心中に思い積もる内容は人に語り、物に書き表す事で、その心に積もったものは発散されるのである。そして紫式部が常に心に思い積もらせていた「もののあはれ」を、この物語に悉く書き出して、更に見る人に深く感動させるために、何事も強く表現したのである。「もののあはれ」である事の限りはこの物語に漏れる事無く書きつくされたと思うべきである。だからこれを読む人の心が、「なるほどそうであろう」と思って感動するのが、すなわち読む人が「もののあはれ」を知るということである。そのように感動させるために、「もののあはれ」をことさらに深く書き現したのである。深く書き表したので、人は感動しやすく、「もののあはれ」を知る事も容易で深いのである。例えば人々が物思いにふけりどうしようもなく深く思いつめている心の様子を欠いたのを見て、「なるほどそうであろう」と思われるのは、つまりその人の心を推察して「もののあはれ」を知るということである。その推察する手がかりは何かと言えば、その物思いになる理由を詳しく書いているので、それを見てその心を推察するのである。すべての事はみなこのようなものである。その事とその心をあわせて、このような事になるとこのように思う事があるのだ、このような事を聞くと、このように思うものである、このようなものを見ると、このように感じるものだと、すべての事を推察して感動するのが、つまりは物語を見て「もののあはれ」を知るということである。
このように、物語の中のすべての事、つまり人々の所業、人々の心をよく推察して理解するときは、昔の風俗や人情を知ることは、掌を指すかのようにたやすい。花を見るときの心はこのようなもの、月を見る心はこのようなもの、春の心はこうで秋の心はこう、ホトトギスの声を聞いたときの心はこのようなもの、恋をするときの思いはこのようなもの、逢えない辛さはこのようなもの、逢う嬉しさはこのようなもの、と詳細に書き現しているので、それを自分の心と全て引き比べて推察し、「なるほどこうであろう」という意味を理解すれば、それが「もののあはれ」を知るということで、今歌を詠む時に大いに利益があるものだ。歌の出てくる根本は「もののあはれ」である。
その「もののあはれ」を知るには、この物語を見るに越したものはない。この物語は紫式部が知っているところの「もののあはれ」から出てきて、今見る人の「もののあはれ」はこの物語から出るのである。だからこの物語は「もののあはれ」をかき集めて、読む人に「もののあはれ」を知らせるより他の意義はなく、読む人も「もののあはれ」を知るより他に意味はないであろう。これは歌道の根本である。「もののあはれ」を知るより他に物語はなく、歌道もない。だからこの物語を外れては歌道はないのである。学者はよく思いをめぐらして、「もののあはれ」を知ることを求めよ。これがつまりこの物語を知ることである。これがつまりは歌道を悟る事である。
なのに様々な解説本の内容は、この物語を教訓が根本であるとして、見る人に身の戒めとしている。これはこの物語にとって魔道である。決して教訓の心で見てはならない。私はこの魔によって学者が惑わされて、悟る事が出来なかったのを悲しむので、今これほど詳しくこの点について論じて、作者の本来の意図を書き現し、学者の迷いを解いたのである。さて教訓の方法としてこの物語を引き入れるのが、この物語の魔であるという理由はなぜかというと、教訓の心で見るときは、物語の妨げとなるためにこのように言うのである。なぜ妨げとなるかと言えば、教訓の心で見るときは、「もののあはれ」が冷めるためである。「もののあはれ」を冷めさせるのは、この物語の魔ではないか、歌道の魔ではないか。さて教訓目的としてみるのが、なぜ「もののあはれ」を冷めさせるかというと、大体において儒教や仏教の道徳は、人情の中で育て伸ばすものと、人情を抑え戒めて止めるものとがある。そして「もののあはれ」を知るという事の中には、例の教訓目的で育て伸ばすものもあるが、また抑え止めて戒める内容も多い。だから物語を教訓目的で見るときは、「もののあはれ」を知る事を押さえ止める事が多いので、そのつもりで見れば、「もののあはれ」が冷める。だからこれを妨げと言い魔と言うのである。この物語も歌道も、儒教や仏教の道徳を本質とはせず、「もののあはれ」が本質であるから、あのような道徳臭い書籍と同一視すると、大いに本質にそむくのである。物語と道徳とそれぞれが拠って立つ本質が、用いるところが異なるというのを理解せず、どの道もこの道も、一つに混同して理解するのは、たいへん蒙昧である。儒教は儒教が拠って立つ本質があり、仏教は仏教の拠って立つ本質がある。物語は物語の拠って立つ本質がある。それをあれもこれも無理に一緒にしてあれこれ言うのは、牽強付会の説というものだ。歌や物語は歌や物語の拠って立つ本質で語るのが正論と言うものだ。それ以外の書籍の本質がどれほど良くても、それを歌や物語に引用するのは牽強付会の邪道な説である。道徳の道をうらやんで、歌や物語をもその方面に引き入れようとするのは、大変汚く見苦しい事だ。これは歌や物語には歌や物語自身に一つの本質があると言う事を知らないためである。また、何らかの道徳で物語を語るときは、肝心なその道徳の本質が曇らされると言うことが分かっていない。
教訓については他にいくらでも専用の書籍が多くあるので縁がないはずのこの物語を借用して語るには及ばない。この物語を教訓のために見るのは、喩えるなら花を見るためにといって、植えておいた桜の木を切って、薪にするようなものだ。この喩えで理解できるであろう。薪は日用品であってなくてはどうにもならない物なので、薪自体を悪いと言って嫌うわけではないが、薪にしてはならない木を薪にしたのが嫌なのである(※3)。薪にする木なら他にいくらでも良い木があるはずである。桜を切らなくても薪に事欠く事はあるまい。桜はもともと花を見るようにということで植えておいたのだから、植えた人の意図にも背くことだ。みだりに切って薪にするのは心無いことではないか。桜はただいつまででも「物のあはれ」の花を愛でる事が本来のあり方なのである(NF注:言うまでもなく、桜が物語であり薪が道徳の喩えである)。
注へ。
by trushbasket
| 2010-12-22 04:50
| NF








