2010年 12月 22日
本居宣長『紫文要領』より「もののあはれ」を見る 訳:NF 「歌人此物語を見る心はへの事」注
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目次
<以下は、宣長自身によって付けられた注である>
※1 昔の歌で卑しい民のことを詠んだのはどれも貴人が思いやって詠んだものである。
※2 今、地下人の歌で雲の上たる宮廷の事などを詠めば、知らぬ事を詠むと言って堂上の人は笑うけれど、これは全く言われのない事である。その理由は、今の歌はすべて昔の歌を学んで詠むものであるから、全く見も聞きもしない、一向に知らない事でも、昔の歌に倣って詠む習慣だからである。そのため天子の御歌にも、民の身の上を思いやられて、一向にご存じない事をもお詠みになり、また七夕の歌を詠むときは、牽牛の心になって詠んだりするのも同じ事であり、知らない事をも知っているかのように詠むのが歌の習慣である。もし地下人が雲の上たる宮廷の事を知らないからと言って詠むべきでないのなら、天子はなぜ民の身の上をご存知であろうか。この世の人はどうして天上の牽牛織女の心を知っているはずがあろうか。僧は恋の歌を詠むべきでないのか。旅をしない人は旅の歌を詠むべきでないのか。もし知らない事を詠むのが誤りであるなら、今の堂上の人で京から出る事もない人は、なぜ国々の名所をお詠みになるのか。地下人であってもこの物語を見るときは、昔の雲の上たる宮廷の有様を、今見るよりも明らかに分かるのだから、今の雲の上たる宮廷を知らなくても、少しも歌を詠むには事欠かないのである。
※3 薪は実用の大切なものである。花を見るのは(その観点からは)無駄な事である。
<以下は、宣長自身によって付けられた注である>
※1 昔の歌で卑しい民のことを詠んだのはどれも貴人が思いやって詠んだものである。
※2 今、地下人の歌で雲の上たる宮廷の事などを詠めば、知らぬ事を詠むと言って堂上の人は笑うけれど、これは全く言われのない事である。その理由は、今の歌はすべて昔の歌を学んで詠むものであるから、全く見も聞きもしない、一向に知らない事でも、昔の歌に倣って詠む習慣だからである。そのため天子の御歌にも、民の身の上を思いやられて、一向にご存じない事をもお詠みになり、また七夕の歌を詠むときは、牽牛の心になって詠んだりするのも同じ事であり、知らない事をも知っているかのように詠むのが歌の習慣である。もし地下人が雲の上たる宮廷の事を知らないからと言って詠むべきでないのなら、天子はなぜ民の身の上をご存知であろうか。この世の人はどうして天上の牽牛織女の心を知っているはずがあろうか。僧は恋の歌を詠むべきでないのか。旅をしない人は旅の歌を詠むべきでないのか。もし知らない事を詠むのが誤りであるなら、今の堂上の人で京から出る事もない人は、なぜ国々の名所をお詠みになるのか。地下人であってもこの物語を見るときは、昔の雲の上たる宮廷の有様を、今見るよりも明らかに分かるのだから、今の雲の上たる宮廷を知らなくても、少しも歌を詠むには事欠かないのである。
※3 薪は実用の大切なものである。花を見るのは(その観点からは)無駄な事である。
by trushbasket
| 2010-12-22 04:57
| NF








