F.E.Adcock 『ギリシア人とマケドニア人の戦争術』 山田昌弘訳 新装版 第2講 本文 前半
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第2講
歩兵の発展
ここまで見たように、重装歩兵(hoplite)軍同士の通常の戦いは、激しい衝突としばらくの苦しい闘争の後、どちらか一方が敗走する形で終結する。追撃は少ししか行われず、勝者はあたかも戦場の占領が目的であったかのように戦場に留まった。撃破された側は敗北を受け入れると死者の埋葬を許され、勝者は成果を示すために戦勝記念碑を設置した。勝利の鍵は、敵と比べてより多いまたはより優秀なあるいはより多くかつより優秀な、重装歩兵(hoplites)を保有することであった。右翼における優勢を上手く利用した場合を除いては、──これでさえ大半の指揮官の戦術指揮能力を超えるものであったが──戦闘は全戦線にわたる正面衝突であった。重装歩兵(hoplite)の兵力が同等でない状態で戦闘に及ぶのにほとんど合理性が無いことは、理解されていたらしい。
語るべき事はこれで全てだろうか?国家はどんな種類の部隊を投入して重装歩兵(hoplites)の劣勢を補うことができ、またそれらは戦闘や他の軍事作戦においてどのように使われたのだろうか?仮に、重装歩兵(hoplites)でやや劣るものの、騎兵に長じた国家があるとすれば。例えば、中世の戦争では比較的小規模な装甲騎兵軍が、巨大な歩兵軍を撃ち破ることができた。ところが古代ギリシアではこの時代、騎兵に長け、隊列を保った重装歩兵(hoplites)の密集軍(phalanx)に勝ちうる騎兵を生み出すことのできる国は、ほとんどまたは全く存在しなかった(1)。
そこでしばらくは、騎兵を除外し歩兵に限定して考察するとしよう。飛び道具とそれを用いる部隊はどうだろう?今日では、陸海問わず戦闘を決着し戦争を勝ちに導くのは、銃弾や砲弾、魚雷、爆弾といった、様々な形態の飛び道具のどれかである。その類で目的にかなうものは存在しなかったのだろうか?遠くから襲いかかる投槍や矢、投石、投弾はどうだろう?遠くから攻撃するというのは、パリスが矢でアキレウスを殺した時のように、もちろん魅力的な考えであった。エウリピデスの『ヘラクレス(Hercules Furens)』において(2)アムピトリュオンは、重装歩兵(hoplite)の命は戦友の勇気にかかっており、一本槍が折れれば身を守るものもないが、弓兵は万に上る矢を射ることができると、断言している。彼は、はるか離れて立ち、見えない矢柄で敵を傷つけ、自らは攻撃にさらされることなく安全であると。敵に損害を与えつつ自分の身は守る、これこそ戦闘における最も巧妙な手であると。その指摘はよく分かるのだが、遠く離れて無数の矢を使うというのはどうなのか?一人の弓手は矢筒に十五から二十の矢を運ぶことができるが(無数の矢を運べる矢筒があるなら見てみたいものだ)、ギリシアの弓の射程はおそらく70メートル強から90メートル強であり(3)、引き方の異なる中世イングランドの長弓にははるかに劣っていた。矢は盾を貫けないだろう──とりあえずクセノポンにとって、いくつかの山岳民がギリシアで使うよりも大きな弓を持ち、一万人部隊の盾や胴鎧を貫いたことは驚きの種であったのだから(4)。弓兵についてはこれで十分だろう。投槍の射程はだいたい20メートル弱で、貫通力は乏しく、一人で運べるのはわずか数本だった。投石兵について言うべき事は少しある。優れた投石兵は弓兵より少し射程に優り、それなりの重さの石を数個と五十個に上る鉛の弾丸を携帯できた。だが、幼少時より使い慣れた者が持たなければ、投石器は精度に優れた武器とは言えなかった。そして戦場に投石兵の大群を送り込んで活用することは容易ではなかった。それぞれの投石兵に広い空間を与えねば、隣の者の動作範囲を侵害したり隣の者の頭を打ち付けることさえするだろう。弓兵は戦いにおいて危害を受けないというアムピトリュオンの他方の指摘を検討してみると、彼らの射撃は強固な装備の重装歩兵(hoplites)を阻止することはできず、突撃されるのは時間の問題であった。弓兵が持ち場を固守すれば殺されるし、逃走したところで逃れられるか分からない。弓兵やその同類は、山地帯や市壁をめぐる攻防では有効だったが、会戦ではほとんど戦果を挙げないまますぐに弾を撃ち尽くすことになった。
こういったわけで古典時代初期のギリシアの軍隊においては、軽装兵部隊は軍事的に重要な価値を持つとは見られていなかった。それらが威力を発揮するためには、高度の訓練──おそらくはどんな重装歩兵をも上回るもの──と、多大な勇気、優れた用兵が必要であった(5)。これらを欠けば、彼らは、戦争の副次的領域で、もっと優れた兵士たちのために盾を運んだり、敵国の辺境を荒らしたりすることはできるものの、兵士としての食い扶持に値する働きはほとんどできなかった。彼らには、まもなく見ていくように将来性はあったけれど、重装歩兵(hoplite)軍の戦いの中ではほとんど存在感が無かった。以上のように、騎兵はほとんどおらず、軽装兵もその武器も存在感が軽かったため、密集軍(phalanx)は戦場の女王であり続けた。そしてギリシアの大部分では、最後の重装歩兵(hoplite)が最後の戦いに望むまで、古の方式ままで事態は進んでいった。それでも、確かに、戦争術は足踏みすることを止め、陸戦にはいくつもの変化が生じたのであって、それらの原因および特質が次なる議題となる。
紀元前5世紀の最後の三分の一には、アテナイとその他のギリシア諸地域の大半との間で長い戦いがあり、これは簡潔にペロポネソス戦争と言われる。この戦争の最初の夏が終わる前には、大会戦では戦争は終わらないということが明らかになっていた。アテナイは生き延びるためにはそのような戦いを必要としていなかったし、敵は、兵力で優っていても、望まない戦闘を行うようアテナイに強制することはできなかった。海上支配と、アテナイとペイライエウスをつないだ難攻不落の要塞があれば、アテナイは飢えによって降伏に追い込まれたりはしない。戦争の八年目に、一度アテナイ軍とボイオティア軍の会戦はあったが、それはほとんど偶発事件であり(6)、むしろ原則を証明する例外であった。ただ戦争の最初の十年間には、戦争の中心を外れたところで、一連の小規模作戦があった。そしてそこでは軽装兵部隊が、得意とする地形でその価値を示している。ここでは最も印象的な二つの実例をとりあげよう。
アテナイ軍の指揮官デモステネスはアイトリアの山地帯に攻め入るよう説得された。彼は、アイトリア人は数も多く好戦的でもあるのに、散在する防壁のない村落に居住し、軽装兵部隊しか持っていないので、各個撃破で容易に平定できるだろう、と教えられた。彼はいくつかの軽装兵部隊が至らず軽装兵が不足したまま、同盟軍の歩兵と三百のアテナイ軍重装歩兵を率いて進撃した。それまで好機が彼の側にあったことで楽観的になっていたからだと、トゥキュディデスは伝える。アイトリア人は軍勢を集め、彼の軍を投槍で攻撃し、彼の軍が向かってくると後退し、彼の軍が後退すると攻撃に戻った。戦闘はこのように展開し、追撃と後退の繰り返しのなかで、アテナイ軍はどちらの局面でも劣勢に立つようになっていった。アテナイ軍は、弓兵の矢が残っている間は好機もあり持ちこたえていたが、これはアイトリア人が甲冑を着用しておらず射撃に耐えられないおかげであった。そのため弓兵の指揮官が殺され弓兵が追い散らされると、アテナイ軍は繰り返す労苦で消耗しきってしまった。ここでアイトリア人は投槍による一斉攻撃で彼らに圧迫を加えた。ついに彼らは背を向けて逃走した。彼らは渓谷によろめき落ちて、再び這い上がることができぬまま不慣れな地形の中で死に、あるいは多くが追撃に出た敵の投槍で逃走中に殺された。彼らのほとんどは道に迷って道無き森に入り込んだが、アイトリア人は火を放って炎で彼らを取り巻いた。あらゆる手を尽くして逃げまどいあらゆる方法で殺害されるのが、彼らの運命であり、生き残った者も出発点であった海へとたどり着けた者はほとんどいなかった。多くの同盟軍とおよそ百二十人のアテナイ軍重装歩兵が倒れたが、──これは「この戦争におけるアテナイ兵の戦死のうち質的に最大の損害」であった(7)。
私がこの話をトゥキュディデスから抜き出したのは、ここに山地帯における異なる兵科の強弱関係が示されているからである。デモステネスは教訓をよく学び取った。この翌年には彼は、あの恐るべきスパルタ重装歩兵(hoplites)が小集団で岩がちなスパクテリア島に閉じこめられたところに、戦いを挑むことになった(8)。そこで、軽装兵部隊をその種の戦闘習慣を持つ土地からから派遣することで、彼はスパルタ兵の抵抗を制圧し、──ギリシアを大いに驚かせる成果として──降伏へと追い込んだのである。これはアテナイにとっては、軍事的意義と外交上の大きな利益を有する、最上の戦果であった。これより前には、騎兵に随伴した軽装兵部隊が、アテナイ重装兵(hoplites)の精鋭軍をカルキディケの平原で敗走させている。(9)
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