2010年 12月 23日
F.E.Adcock 『ギリシア人とマケドニア人の戦争術』 山田昌弘訳 新装版 第2講 本文 後半
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注釈は別ページ
第2講
歩兵の発展
依然として大規模会戦では重装歩兵(hoplites)が最重要であるにしても、今や陸戦において重装歩兵密集軍(hoplite phalanx)以外の武器や戦闘法に活躍の場が生じており、このことは戦争が完全に終結する以前に、しかるべき眼力を備えた人物──その中にはトゥキュディデスも含まれる(10)──には認識されていた。専門家から成る軽装兵部隊は価値を有するに至った。海上でも、戦争が続くとともに両陣営で練達の漕ぎ手が雇用された。その結果、ギリシア諸国の軍事力は多岐に渡る要素を含むようになり、新たな戦争術の発展の道筋が拓かれた。騎兵はごく限られた国しか確保できない兵科のままであったが、ともかく紀元前4世紀までに、陸戦では職業軍人の部隊が雇用され戦略と戦術の改良を促進し、かつてのギリシアの戦争で見られたものを超える、専門的な軍隊の運用能力が要求されるようになったのである。
そのような職業軍隊について、まずその供給を論じ、その後で用途、戦術、指揮について論じるのが良いだろう。ギリシア人傭兵は別に目新しい存在ではない。かねてより、市民による都市のための臨時の戦いという観念のほかに、生計を立てたり冒険に乗り出すための職業的な兵役という観念が存在し続けていた(11)。これは対価を求めての一種の職人芸の売り込みと言って良いだろう。ギリシア人は貿易業者として喜んで放浪に乗り出したが、剣と槍とそれを扱う技能を売り込む場合も同様に、はるか遠方へと出向いていった。市民兵の重装歩兵(hoplite)が通常は母市の間近でごく短期間の戦いを行っていたのに対し、傭兵の職務は時間的にも空間的にも限定されていなかった。詩人アルカイオスの兄弟で、バビロニア軍と戦って巨体の戦士を倒したアンティメニデスや(12)、ナイルのはるか上流アブ・シンベルの列柱にその名を彫り付けたギリシア兵たちは(13)、──武器を手に冒険に乗りだした戦士達の成功例であった。クレタのヒュブリアスの有名な歌(14)は、このような冒険者達の信仰箇条であった。
ギリシアでは、アルカディアの人口過剰な峡谷の数々(15)の、中には良家の子弟すら含む多くの頑健な男達が、ギリシアや海外の各地でペルシアの太守やギリシアの僭主の親衛隊として雇用され、戦っているのを見ることができる。傭兵であるそれら勇士たちを表現するのに、紀元前5世紀のギリシア人は「援軍(epikouroi)」という婉曲語を使用した(16)。ペロポネソス戦争の間に戦うことを学んだ多くのギリシア人は、平時の技芸を学んでいない、あるいはそれを使う機会をほとんど見いだせなかった。そのため小キュロスは、ほとんど全て重装歩兵(hoplites)からなる一万人の兵士を集め、ペルシア王位の奪取を目指し、兄のアルタクセルクセス王に向けて進軍することができた。彼は大戦闘に勝利せねば成らず、そのためペルシア帝国内の自己の支配地で手に入る騎兵と軽装兵部隊のみならず、重装歩兵(hoplites)を必要としたのである。彼が兄の軍勢と対決したとき、ギリシア人重装歩兵(hoplites)は見当違いの場所で無敵の強さを発揮し、キュロスは勝利と生命を失った。
その後のバビロン目前から黒海沿岸までの長距離行軍で、一万人部隊は、民族的なあるいはクセノポンを初めとする指導者たちの個人的な勇気と機転を振り絞り、様々な形態の戦争を習得することになった。これはギリシア兵の軍事的能力の最上級の宣伝となった。ペルシア軍は「毒を制する毒」としてますますギリシア傭兵を採用したが、それでもギリシアの大地には、生計を立てるための道を戦いに見出さざるを得ない者が多く存在していた。
戦争の多様化によって、それらの者たちは、軽装兵として様々な飛び道具の専門家として鍛え上げられていった(17)。代々その種の武器を自国であるいは他勢力の傭兵として使い続けた、先述のアイトリアの投槍兵のように、ギリシア内には模範も存在していた。特にトラキアでは、豊かな可能性を持つ飛び道具の技術が発展しつつあった。はっきり言ってトラキア人は蛮族であり、そのことはバターを食したことからも明らかである。彼らはアリストパネスの『アカルナイの人々(Acharnians)』に登場する粗野で不品行な軍人という喜劇的な役割にふさわしい外観であったし(18)、実際にもそうであったかも知れない。彼らは、とあるトラキア人傭兵隊が、何の罪もない小さなミュカレッソスの町の街道上で女子供やあらゆる動物さえ虐殺し、トゥキュディデスの同情を誘ったように(19)、無慈悲な存在であったかも知れない。だが粗暴な教師である戦争は、文明的なギリシア諸国にそのような連中を使役することを教えた。性質はどうであれ、巧く指導し強固な規律を与えられた彼らは、信頼に値する戦士であった。
hoplites(重装歩兵)がその名を盾から取っているように、トラキア人のような形態の部隊は、彼らの小型で軽量な丸盾──素早い動きを阻害せず投槍を使うための余裕を生み出した──の名前を取ってpeltasts(小盾兵)と呼ばれた。島嶼部もロドス人に代表される優れた投石兵や、クレタ兵に代表される優れた弓兵を生み出し、これはあらゆる形態の戦闘で使用することができた。ペルシア人は弓を引くことと真実を語ることを教えたのである。クレタ人に真実を語るよう教えても無駄というのが、古代においてほとんど異議無く支持された意見であるが、彼らは卓越した技術で弓を引くことを身につけた。全般的に見て、ギリシアで使用される傭兵としてはますます軽装兵が増大し、特に小盾兵(peltasts)が使用された。彼らは職業的な指導者の下、かなり小規模の部隊で戦う傾向にあった。このことは彼らが様々な戦術をとることを可能にしたし、大規模で自信に満ちた市民兵の密集軍(phalanx)にも見劣りしない団結心をも生み出した。彼らは、密集軍(phalanx)が布陣可能な平地を見つけられないときでも戦うことができ、これ以降は精鋭の重装歩兵(hoplites)に対して、目覚ましい勝利を勝ち得ることさえあった。
この種の用兵を行った最大の英雄が紀元前4世紀のアテナイの指揮官イピクラテスで、彼は小盾兵(peltasts)──もはやトラキア人には限られない──を集めて鍛え上げた。彼はその経歴の後半において、兵士達の装備や武器の改良を行ったようであり(20)、その結果、彼らは大規模会戦以外なら、いかなる戦いにおいても最強の歩兵であった。彼らは、強靱な勇猛さの反面で機動力や狙撃能力を欠き散開戦闘や伏兵戦闘を苦手とする鈍重なイギリス軍に対抗するため、ジョン・ムーア卿が鍛え上げたライフル兵と比肩しうる。このギリシア傭兵のような部隊は、市民兵と異なり常時雇用下に置くことができたので、砦や要塞の守備隊にも使用できた(21)。その上、彼らは帰るべき家を持たず、必ずしも帰郷を望みはしなかった。そこで市民兵が一年のしかるべき季節にしか戦わない習慣であるのと対照的に、冬の間中、一定の給与で使用し続けることができた。
傭兵は市民軍のような地域への愛郷心を持たなかったが、そのため彼らはいわば非政治的な存在となった。結果、彼らはギリシアの僭主やペルシア王、ペルシアの太守の目的に奉仕することも可能であった。彼らは雇い主に忠実であり、僭主の不信を招くような共和主義を抱くことはなかった。シラクサの僭主ディオニュシオス1世の軍中には、この都市の名を高めていた貴族騎兵隊に匹敵する、大規模な傭兵隊が存在した。そしてテッサリアの僭主ペライのイアソンの軍隊でも同様であった。彼らは普及しつつある新たな戦争機構の使用を学んでいたのである。最後に付け加えておくなら、市民兵の生命が都市にとって貴重であったのに対し、傭兵は冷酷な言葉を使えば「消耗品」であった。
ギリシア人傭兵の海外雄飛は紀元前5世紀末までは、兵力の点ではギリシア本土の潜在的な軍事力をほとんど減少させなかった。ただし、母国に残ればそこで戦争術を発展させ得た、地元の創造的な戦士を連れ去ってしまった可能性はある。紀元前4世紀の前半には、ギリシア諸国が国内外から招集した傭兵と、ギリシアを去って異境の軍隊に仕えた傭兵の間に、不均衡が存在したかも知れない。
シチリアの僭主の傭兵隊は一部は、本来ならギリシアの戦争の射程外に留まっていたはずの西方の蛮族からも集められた。同盟者のスパルタを助けるため、ディオニュシオス1世がそのような部隊を小規模に派遣したとき、彼らの技量が本土のギリシア人の目にも触れることになった(22)。傭兵を率いてギリシア諸国で勤務した隊長たちの戦争への影響は、それよりずっと重大なものであった。彼らは、勇猛な戦闘指揮官としてアルキロコスの賞賛を受けたが(23)、その程度に留まるものではなく、精強な部隊の操り方と敵の裏のかきかたを知る、知略と機転の人でもあった。ポリュアイノスの書のような策略集に残る術策は、多くがこれら傭兵隊長の行使したものであった(24)。そして都市国家の指揮官達は、例えばアテナイのイピクラテスとカブリアスや、エパメイノンダスの後継者となるテバイのパンメネス、熟練のスパルタ王アゲシアオスでさえ、異境の軍と戦うために外征し、その遠征途上で何かを学ぶこととなった。イピクラテスが行った小盾兵(peltasts)の装備についての実験は、おそらくエジプト遠征からの帰還の後で為されたものだ。クセノポンの戦争術に関する著作は、彼の幻想を脚色して創作した空想小説『キュロスの教育(Cyropaedeia)』を含めて、一万人部隊の退却行を経験した軍人としての立場で書かれている。
ヘレニズム時代には、戦争はますます傭兵隊長の創造の場と化していったが──中でもポリュビオスの第八巻で描かれたクレタのボリスの狡知と勇気と軍事的熟練の兼備は目をひくものである(25)。傭兵隊とその隊長は、平和の到来を恐れ、戦闘による決戦を望まなかったため、彼らを使用することでギリシアの戦争は長引く傾向にあった。だが彼らは、疑いなく戦争術を進歩させ、ギリシアとマケドニアの指揮官達の構想の源流となり、彼らの軍隊の組織設計と戦術の多様化を促進したのである。
軽装兵部隊がより良く訓練されより巧妙に用兵されるにつれ、その存在は陸戦における軍隊の不可欠の要素へと成長していった。我々は、あらゆる種類の部隊の戦闘への使用が試みられたのを、見ることができる。軽装の傭兵隊は、市民からなる重装歩兵(hoplites)よりも機動力に優れていたので、行軍においてはより良好な成果を期待することができた。アリストテレスが『ニコマコス倫理学(Nicomachean Ethics)』で観察したように(26)、彼らは闘志に優れた市民兵には太刀打ちできなかったかも知れない。だがひとたび、職業軍人の技量と民族的な闘志を兼ね備え第一級の指揮官に率いられた軍隊が出現すれば、戦争術が変化するのは確実であった。そして紀元前4世紀の半ばまでにピリッポス2世のマケドニア軍がこれらを兼備した組織を生み出した。
だがそれ以前にも、ギリシア都市国家が生んだ最も偉大な戦術革新者エパメイノンダスが登場している。彼の母国テバイは常に軍隊の運用において他の都市よりも進歩的であった。スパルタの妙技は昔ながらの曲を昔ながらの名人芸で奏でて満足していたに過ぎない。アテナイ人クセノポンは著書の『アナバシス(Anabasis)』で、どうすればギリシア軍に臨機応変の能力を持たせることができるかを示しており、彼の著作は戦争の技巧を改良する方法を指し示している。しかし、ペロピダスという卓越した能力の騎兵指揮官を生み出し、またエパメイノンダスという、フリードリヒ大王の斜行隊形以上の戦術革新によって重装歩兵(hoplite)戦闘の様相を一変させることのできる男を生み出す役割が、テバイに残されていたのである。
これは他の戦争における最も偉大な革新と同様に、単純ながら非凡な技量を要求するものであった。エパメイノンダスはスパルタ軍が主導する軍勢と対決しなくてはならなかった。彼は敵の右翼には最強のスパルタ軍が布陣すると確信することができた。一方スパルタ軍は右翼において優勢に立つと確信しており、そこから内向きに旋回して相手の戦列を包囲するつもりであった。これまでしばしば行ってきたように、技量に劣る左翼および中央の同盟軍が破れる前に、彼らは勝利を収めるはずであった。ところがエパメイノンダスは指揮下のテバイの重装歩兵(hoplites)を縦深隊形に配置していた。かつてテバイ軍は縦深でこれより劣るものの他の戦いで同様の手段を採用しており、これは前例のないことではない。だが、彼が打撃部隊を左翼に置くとともに残りの戦列を後方に留めておいたことには、前例は存在しなかった。彼の縦深部隊は圧倒的で、中央と右翼の弱体な部隊が破れる前に勝利を収めることができた(27)。
スパルタの伝統的な戦術案は、驚くべきことに、一撃で徹底的に撃ち破られてしまった。馬鹿げた比喩を許してもらえるなら──馬の口に粉薬を吹き込んで与えようとした農夫が、逆に一息早く馬の方から吹き付けられたようなものである。最大限の兵力を致命的な地点に配置することは、このレウクトラの戦い以降においては戦術の要であるが、この時点では、エパメイノンダスは戦史に前例のない巧妙で力強い戦術を行使したと言える。ロクロワにおけるスペイン軍の、ヴァルミーにおけるプロイセン軍の不敗伝説と同様に、一世紀にわたるスパルタ軍不敗伝説は短時間の衝突一回で消し去られたのである。
ここでマケドニアに話を戻そう。歩兵の歴史の新たな段階はマケドニア密集軍(phalanx)である。ピリッポス2世がマケドニア王となった頃、もしくはその直前、マケドニア農民は初めて戦闘部隊に組織された。マケドニア軍は王の軍で、その主力は王の友と呼ばれる近衛騎兵隊とでもいうべき騎兵であった。それがここで、歩兵の友と呼ばれる近衛歩兵隊とでもいうべき存在が現れたのである。今や彼らは定期的な訓練を受け、緊急時に独立行動できるだけの規模を持った大隊に分割編成されながら、また古代世界最強の密集軍(phalanx)として団結行動することもできた。彼らはギリシアの重装歩兵(hoplites)と比べるとより長い槍とより小さい盾を持っており(28)、突進への依存を減らして少しずつ前進する戦法に頼り、槍の穂先でできた動く生け垣により敵を押し下げることにしたので、隊形は縦深形を採用してはいなかった(29)。やがては密集軍(phalanx)が柔軟性を完全に失って硬直化し、槍が全く機動力を発揮できないほど長くなる日さえ訪れる。これではひとたび戦線に配置されると、側面を構築したり列後方の兵士達を反転させることは不可能であった。もし回り込まれることがあれば、ひっくり返ったハリネズミのごとき脆弱性を示すことになった。実際、両側面を敵部隊から守るための護衛が必要であった。ただ初期においては、広がったり狭まったりして前進することが可能であり、大隊単位の組織分化が、当時の言い回しでは「脚を与えていた」。前進すれば敵を圧倒できたが、この隊形は本来は他の兵科と連携して運用することが求められている。実際、典型的な用法は、騎兵が敵側背を攻撃している間、敵戦列の一部を拘束するというものであった。これは打撃部隊というより拘束部隊であった。アレクサンドロス大王の軍隊では、この部隊は、hypaspistsと呼ばれる名高い一団の精鋭選抜部隊によって、騎兵隊との間を連結された。
この密集軍(phalanx)の初期における戦術的効果は、その活動中の姿を見ることのできる最初の戦闘であるカイロネイアの戦いに、よく示されていると言えよう(30)。アテナイとテバイの重装歩兵(hoplite)を中心とするギリシア軍は、適切な防御地点を占めて、戦闘へと投じられた。彼らは両側面を強力な敵騎兵に曝さぬようにせねばならなかったが、そこで左翼のアテナイ軍を高地とカイロネイアの町で守り、右翼のテバイ軍を川によって守っていた。彼らがそのまま隊列を維持していれば、マケドニア歩兵を撃退して勝利を収めることも望み得たであろう。そこでピリッポスは敵の戦線に弱点を作り出す必要があった。彼は自ら密集軍(phalanx)を率いて右翼にあり、予備戦力の騎兵を含んでいたと見られる左翼は、若き王子アレクサンドロスの指揮下に置かれた。戦闘が開始すると、ピリッポスは彼の練達の密集軍(phalanx)に最も難しい運動──戦いながらの意図的な後退──を実行させた。アテナイ兵は地面の傾斜がマケドニア軍に有利に変わるまで勝利の前進を続けた。同盟諸国軍が右翼部隊による側面防御にしがみついたため、戦列に大きな隙間が生じ、ここにアレクサンドロスが突入した。同時にピリッポスも密集軍(phalanx)の後退を止めて攻撃に転じさせ、戦いは終わった。ここで彼は密集軍(phalanx)の巧みな運用によって、いわば側面のない場所に側面を作り出したのである。また彼は、適切な瞬間に素晴らしい速さと威力で防御から攻撃へと切り替わり、ナポレオンの言う(31)戦闘における最も困難な運動を成し遂げたのである。以上が、名将の指揮下で密集軍(phalanx)が達成した業績の説明である。
ここまでに述べた二つの革新のうち、エパメイノンダスの戦術は重装歩兵(hoplite)軍に新たな生命と活力を与え、マケドニア密集軍(phalanx)の創出は、密集軍(phalanx)が決定的な役割を担わず打撃部隊である騎兵の決定的な突入を支援するにすぎない、新種の戦闘技術の前触れとなった。全戦線にわたる均等な圧迫によって勝利するのではなく、交戦中の軍隊の特定部分に頼って勝利を追求するようになったことの中に、古い戦闘から新しい戦闘への変容が端的に表現されている。さて、ここからしばらくは歩兵を離れ、軍事力の別の形態へと向かうことにしよう。ただ、まず陸から目を転じて海へと乗り出し、海戦の問題を検討することにしよう。
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歩兵の発展
依然として大規模会戦では重装歩兵(hoplites)が最重要であるにしても、今や陸戦において重装歩兵密集軍(hoplite phalanx)以外の武器や戦闘法に活躍の場が生じており、このことは戦争が完全に終結する以前に、しかるべき眼力を備えた人物──その中にはトゥキュディデスも含まれる(10)──には認識されていた。専門家から成る軽装兵部隊は価値を有するに至った。海上でも、戦争が続くとともに両陣営で練達の漕ぎ手が雇用された。その結果、ギリシア諸国の軍事力は多岐に渡る要素を含むようになり、新たな戦争術の発展の道筋が拓かれた。騎兵はごく限られた国しか確保できない兵科のままであったが、ともかく紀元前4世紀までに、陸戦では職業軍人の部隊が雇用され戦略と戦術の改良を促進し、かつてのギリシアの戦争で見られたものを超える、専門的な軍隊の運用能力が要求されるようになったのである。
そのような職業軍隊について、まずその供給を論じ、その後で用途、戦術、指揮について論じるのが良いだろう。ギリシア人傭兵は別に目新しい存在ではない。かねてより、市民による都市のための臨時の戦いという観念のほかに、生計を立てたり冒険に乗り出すための職業的な兵役という観念が存在し続けていた(11)。これは対価を求めての一種の職人芸の売り込みと言って良いだろう。ギリシア人は貿易業者として喜んで放浪に乗り出したが、剣と槍とそれを扱う技能を売り込む場合も同様に、はるか遠方へと出向いていった。市民兵の重装歩兵(hoplite)が通常は母市の間近でごく短期間の戦いを行っていたのに対し、傭兵の職務は時間的にも空間的にも限定されていなかった。詩人アルカイオスの兄弟で、バビロニア軍と戦って巨体の戦士を倒したアンティメニデスや(12)、ナイルのはるか上流アブ・シンベルの列柱にその名を彫り付けたギリシア兵たちは(13)、──武器を手に冒険に乗りだした戦士達の成功例であった。クレタのヒュブリアスの有名な歌(14)は、このような冒険者達の信仰箇条であった。
ギリシアでは、アルカディアの人口過剰な峡谷の数々(15)の、中には良家の子弟すら含む多くの頑健な男達が、ギリシアや海外の各地でペルシアの太守やギリシアの僭主の親衛隊として雇用され、戦っているのを見ることができる。傭兵であるそれら勇士たちを表現するのに、紀元前5世紀のギリシア人は「援軍(epikouroi)」という婉曲語を使用した(16)。ペロポネソス戦争の間に戦うことを学んだ多くのギリシア人は、平時の技芸を学んでいない、あるいはそれを使う機会をほとんど見いだせなかった。そのため小キュロスは、ほとんど全て重装歩兵(hoplites)からなる一万人の兵士を集め、ペルシア王位の奪取を目指し、兄のアルタクセルクセス王に向けて進軍することができた。彼は大戦闘に勝利せねば成らず、そのためペルシア帝国内の自己の支配地で手に入る騎兵と軽装兵部隊のみならず、重装歩兵(hoplites)を必要としたのである。彼が兄の軍勢と対決したとき、ギリシア人重装歩兵(hoplites)は見当違いの場所で無敵の強さを発揮し、キュロスは勝利と生命を失った。
その後のバビロン目前から黒海沿岸までの長距離行軍で、一万人部隊は、民族的なあるいはクセノポンを初めとする指導者たちの個人的な勇気と機転を振り絞り、様々な形態の戦争を習得することになった。これはギリシア兵の軍事的能力の最上級の宣伝となった。ペルシア軍は「毒を制する毒」としてますますギリシア傭兵を採用したが、それでもギリシアの大地には、生計を立てるための道を戦いに見出さざるを得ない者が多く存在していた。
戦争の多様化によって、それらの者たちは、軽装兵として様々な飛び道具の専門家として鍛え上げられていった(17)。代々その種の武器を自国であるいは他勢力の傭兵として使い続けた、先述のアイトリアの投槍兵のように、ギリシア内には模範も存在していた。特にトラキアでは、豊かな可能性を持つ飛び道具の技術が発展しつつあった。はっきり言ってトラキア人は蛮族であり、そのことはバターを食したことからも明らかである。彼らはアリストパネスの『アカルナイの人々(Acharnians)』に登場する粗野で不品行な軍人という喜劇的な役割にふさわしい外観であったし(18)、実際にもそうであったかも知れない。彼らは、とあるトラキア人傭兵隊が、何の罪もない小さなミュカレッソスの町の街道上で女子供やあらゆる動物さえ虐殺し、トゥキュディデスの同情を誘ったように(19)、無慈悲な存在であったかも知れない。だが粗暴な教師である戦争は、文明的なギリシア諸国にそのような連中を使役することを教えた。性質はどうであれ、巧く指導し強固な規律を与えられた彼らは、信頼に値する戦士であった。
hoplites(重装歩兵)がその名を盾から取っているように、トラキア人のような形態の部隊は、彼らの小型で軽量な丸盾──素早い動きを阻害せず投槍を使うための余裕を生み出した──の名前を取ってpeltasts(小盾兵)と呼ばれた。島嶼部もロドス人に代表される優れた投石兵や、クレタ兵に代表される優れた弓兵を生み出し、これはあらゆる形態の戦闘で使用することができた。ペルシア人は弓を引くことと真実を語ることを教えたのである。クレタ人に真実を語るよう教えても無駄というのが、古代においてほとんど異議無く支持された意見であるが、彼らは卓越した技術で弓を引くことを身につけた。全般的に見て、ギリシアで使用される傭兵としてはますます軽装兵が増大し、特に小盾兵(peltasts)が使用された。彼らは職業的な指導者の下、かなり小規模の部隊で戦う傾向にあった。このことは彼らが様々な戦術をとることを可能にしたし、大規模で自信に満ちた市民兵の密集軍(phalanx)にも見劣りしない団結心をも生み出した。彼らは、密集軍(phalanx)が布陣可能な平地を見つけられないときでも戦うことができ、これ以降は精鋭の重装歩兵(hoplites)に対して、目覚ましい勝利を勝ち得ることさえあった。
この種の用兵を行った最大の英雄が紀元前4世紀のアテナイの指揮官イピクラテスで、彼は小盾兵(peltasts)──もはやトラキア人には限られない──を集めて鍛え上げた。彼はその経歴の後半において、兵士達の装備や武器の改良を行ったようであり(20)、その結果、彼らは大規模会戦以外なら、いかなる戦いにおいても最強の歩兵であった。彼らは、強靱な勇猛さの反面で機動力や狙撃能力を欠き散開戦闘や伏兵戦闘を苦手とする鈍重なイギリス軍に対抗するため、ジョン・ムーア卿が鍛え上げたライフル兵と比肩しうる。このギリシア傭兵のような部隊は、市民兵と異なり常時雇用下に置くことができたので、砦や要塞の守備隊にも使用できた(21)。その上、彼らは帰るべき家を持たず、必ずしも帰郷を望みはしなかった。そこで市民兵が一年のしかるべき季節にしか戦わない習慣であるのと対照的に、冬の間中、一定の給与で使用し続けることができた。
傭兵は市民軍のような地域への愛郷心を持たなかったが、そのため彼らはいわば非政治的な存在となった。結果、彼らはギリシアの僭主やペルシア王、ペルシアの太守の目的に奉仕することも可能であった。彼らは雇い主に忠実であり、僭主の不信を招くような共和主義を抱くことはなかった。シラクサの僭主ディオニュシオス1世の軍中には、この都市の名を高めていた貴族騎兵隊に匹敵する、大規模な傭兵隊が存在した。そしてテッサリアの僭主ペライのイアソンの軍隊でも同様であった。彼らは普及しつつある新たな戦争機構の使用を学んでいたのである。最後に付け加えておくなら、市民兵の生命が都市にとって貴重であったのに対し、傭兵は冷酷な言葉を使えば「消耗品」であった。
ギリシア人傭兵の海外雄飛は紀元前5世紀末までは、兵力の点ではギリシア本土の潜在的な軍事力をほとんど減少させなかった。ただし、母国に残ればそこで戦争術を発展させ得た、地元の創造的な戦士を連れ去ってしまった可能性はある。紀元前4世紀の前半には、ギリシア諸国が国内外から招集した傭兵と、ギリシアを去って異境の軍隊に仕えた傭兵の間に、不均衡が存在したかも知れない。
シチリアの僭主の傭兵隊は一部は、本来ならギリシアの戦争の射程外に留まっていたはずの西方の蛮族からも集められた。同盟者のスパルタを助けるため、ディオニュシオス1世がそのような部隊を小規模に派遣したとき、彼らの技量が本土のギリシア人の目にも触れることになった(22)。傭兵を率いてギリシア諸国で勤務した隊長たちの戦争への影響は、それよりずっと重大なものであった。彼らは、勇猛な戦闘指揮官としてアルキロコスの賞賛を受けたが(23)、その程度に留まるものではなく、精強な部隊の操り方と敵の裏のかきかたを知る、知略と機転の人でもあった。ポリュアイノスの書のような策略集に残る術策は、多くがこれら傭兵隊長の行使したものであった(24)。そして都市国家の指揮官達は、例えばアテナイのイピクラテスとカブリアスや、エパメイノンダスの後継者となるテバイのパンメネス、熟練のスパルタ王アゲシアオスでさえ、異境の軍と戦うために外征し、その遠征途上で何かを学ぶこととなった。イピクラテスが行った小盾兵(peltasts)の装備についての実験は、おそらくエジプト遠征からの帰還の後で為されたものだ。クセノポンの戦争術に関する著作は、彼の幻想を脚色して創作した空想小説『キュロスの教育(Cyropaedeia)』を含めて、一万人部隊の退却行を経験した軍人としての立場で書かれている。
ヘレニズム時代には、戦争はますます傭兵隊長の創造の場と化していったが──中でもポリュビオスの第八巻で描かれたクレタのボリスの狡知と勇気と軍事的熟練の兼備は目をひくものである(25)。傭兵隊とその隊長は、平和の到来を恐れ、戦闘による決戦を望まなかったため、彼らを使用することでギリシアの戦争は長引く傾向にあった。だが彼らは、疑いなく戦争術を進歩させ、ギリシアとマケドニアの指揮官達の構想の源流となり、彼らの軍隊の組織設計と戦術の多様化を促進したのである。
軽装兵部隊がより良く訓練されより巧妙に用兵されるにつれ、その存在は陸戦における軍隊の不可欠の要素へと成長していった。我々は、あらゆる種類の部隊の戦闘への使用が試みられたのを、見ることができる。軽装の傭兵隊は、市民からなる重装歩兵(hoplites)よりも機動力に優れていたので、行軍においてはより良好な成果を期待することができた。アリストテレスが『ニコマコス倫理学(Nicomachean Ethics)』で観察したように(26)、彼らは闘志に優れた市民兵には太刀打ちできなかったかも知れない。だがひとたび、職業軍人の技量と民族的な闘志を兼ね備え第一級の指揮官に率いられた軍隊が出現すれば、戦争術が変化するのは確実であった。そして紀元前4世紀の半ばまでにピリッポス2世のマケドニア軍がこれらを兼備した組織を生み出した。
だがそれ以前にも、ギリシア都市国家が生んだ最も偉大な戦術革新者エパメイノンダスが登場している。彼の母国テバイは常に軍隊の運用において他の都市よりも進歩的であった。スパルタの妙技は昔ながらの曲を昔ながらの名人芸で奏でて満足していたに過ぎない。アテナイ人クセノポンは著書の『アナバシス(Anabasis)』で、どうすればギリシア軍に臨機応変の能力を持たせることができるかを示しており、彼の著作は戦争の技巧を改良する方法を指し示している。しかし、ペロピダスという卓越した能力の騎兵指揮官を生み出し、またエパメイノンダスという、フリードリヒ大王の斜行隊形以上の戦術革新によって重装歩兵(hoplite)戦闘の様相を一変させることのできる男を生み出す役割が、テバイに残されていたのである。
これは他の戦争における最も偉大な革新と同様に、単純ながら非凡な技量を要求するものであった。エパメイノンダスはスパルタ軍が主導する軍勢と対決しなくてはならなかった。彼は敵の右翼には最強のスパルタ軍が布陣すると確信することができた。一方スパルタ軍は右翼において優勢に立つと確信しており、そこから内向きに旋回して相手の戦列を包囲するつもりであった。これまでしばしば行ってきたように、技量に劣る左翼および中央の同盟軍が破れる前に、彼らは勝利を収めるはずであった。ところがエパメイノンダスは指揮下のテバイの重装歩兵(hoplites)を縦深隊形に配置していた。かつてテバイ軍は縦深でこれより劣るものの他の戦いで同様の手段を採用しており、これは前例のないことではない。だが、彼が打撃部隊を左翼に置くとともに残りの戦列を後方に留めておいたことには、前例は存在しなかった。彼の縦深部隊は圧倒的で、中央と右翼の弱体な部隊が破れる前に勝利を収めることができた(27)。
スパルタの伝統的な戦術案は、驚くべきことに、一撃で徹底的に撃ち破られてしまった。馬鹿げた比喩を許してもらえるなら──馬の口に粉薬を吹き込んで与えようとした農夫が、逆に一息早く馬の方から吹き付けられたようなものである。最大限の兵力を致命的な地点に配置することは、このレウクトラの戦い以降においては戦術の要であるが、この時点では、エパメイノンダスは戦史に前例のない巧妙で力強い戦術を行使したと言える。ロクロワにおけるスペイン軍の、ヴァルミーにおけるプロイセン軍の不敗伝説と同様に、一世紀にわたるスパルタ軍不敗伝説は短時間の衝突一回で消し去られたのである。
ここでマケドニアに話を戻そう。歩兵の歴史の新たな段階はマケドニア密集軍(phalanx)である。ピリッポス2世がマケドニア王となった頃、もしくはその直前、マケドニア農民は初めて戦闘部隊に組織された。マケドニア軍は王の軍で、その主力は王の友と呼ばれる近衛騎兵隊とでもいうべき騎兵であった。それがここで、歩兵の友と呼ばれる近衛歩兵隊とでもいうべき存在が現れたのである。今や彼らは定期的な訓練を受け、緊急時に独立行動できるだけの規模を持った大隊に分割編成されながら、また古代世界最強の密集軍(phalanx)として団結行動することもできた。彼らはギリシアの重装歩兵(hoplites)と比べるとより長い槍とより小さい盾を持っており(28)、突進への依存を減らして少しずつ前進する戦法に頼り、槍の穂先でできた動く生け垣により敵を押し下げることにしたので、隊形は縦深形を採用してはいなかった(29)。やがては密集軍(phalanx)が柔軟性を完全に失って硬直化し、槍が全く機動力を発揮できないほど長くなる日さえ訪れる。これではひとたび戦線に配置されると、側面を構築したり列後方の兵士達を反転させることは不可能であった。もし回り込まれることがあれば、ひっくり返ったハリネズミのごとき脆弱性を示すことになった。実際、両側面を敵部隊から守るための護衛が必要であった。ただ初期においては、広がったり狭まったりして前進することが可能であり、大隊単位の組織分化が、当時の言い回しでは「脚を与えていた」。前進すれば敵を圧倒できたが、この隊形は本来は他の兵科と連携して運用することが求められている。実際、典型的な用法は、騎兵が敵側背を攻撃している間、敵戦列の一部を拘束するというものであった。これは打撃部隊というより拘束部隊であった。アレクサンドロス大王の軍隊では、この部隊は、hypaspistsと呼ばれる名高い一団の精鋭選抜部隊によって、騎兵隊との間を連結された。
この密集軍(phalanx)の初期における戦術的効果は、その活動中の姿を見ることのできる最初の戦闘であるカイロネイアの戦いに、よく示されていると言えよう(30)。アテナイとテバイの重装歩兵(hoplite)を中心とするギリシア軍は、適切な防御地点を占めて、戦闘へと投じられた。彼らは両側面を強力な敵騎兵に曝さぬようにせねばならなかったが、そこで左翼のアテナイ軍を高地とカイロネイアの町で守り、右翼のテバイ軍を川によって守っていた。彼らがそのまま隊列を維持していれば、マケドニア歩兵を撃退して勝利を収めることも望み得たであろう。そこでピリッポスは敵の戦線に弱点を作り出す必要があった。彼は自ら密集軍(phalanx)を率いて右翼にあり、予備戦力の騎兵を含んでいたと見られる左翼は、若き王子アレクサンドロスの指揮下に置かれた。戦闘が開始すると、ピリッポスは彼の練達の密集軍(phalanx)に最も難しい運動──戦いながらの意図的な後退──を実行させた。アテナイ兵は地面の傾斜がマケドニア軍に有利に変わるまで勝利の前進を続けた。同盟諸国軍が右翼部隊による側面防御にしがみついたため、戦列に大きな隙間が生じ、ここにアレクサンドロスが突入した。同時にピリッポスも密集軍(phalanx)の後退を止めて攻撃に転じさせ、戦いは終わった。ここで彼は密集軍(phalanx)の巧みな運用によって、いわば側面のない場所に側面を作り出したのである。また彼は、適切な瞬間に素晴らしい速さと威力で防御から攻撃へと切り替わり、ナポレオンの言う(31)戦闘における最も困難な運動を成し遂げたのである。以上が、名将の指揮下で密集軍(phalanx)が達成した業績の説明である。
ここまでに述べた二つの革新のうち、エパメイノンダスの戦術は重装歩兵(hoplite)軍に新たな生命と活力を与え、マケドニア密集軍(phalanx)の創出は、密集軍(phalanx)が決定的な役割を担わず打撃部隊である騎兵の決定的な突入を支援するにすぎない、新種の戦闘技術の前触れとなった。全戦線にわたる均等な圧迫によって勝利するのではなく、交戦中の軍隊の特定部分に頼って勝利を追求するようになったことの中に、古い戦闘から新しい戦闘への変容が端的に表現されている。さて、ここからしばらくは歩兵を離れ、軍事力の別の形態へと向かうことにしよう。ただ、まず陸から目を転じて海へと乗り出し、海戦の問題を検討することにしよう。
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by trushbasket
| 2010-12-23 11:47
| My(山田昌弘)








