2010年 12月 27日
F.E.Adcock『ギリシア人とマケドニア人の戦争術』 山田昌弘訳 新装版 第3講 本文 前半
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第2講後半へ
注釈は別ページ
3 海戦
これまでの二つの講義では武器の製造については論じなかったが、古代の戦争術は盾と槍の寸法は別にして、武器の性質には大して影響されてはいない。ウェルギリウスの言う戦争の鍵である「武器と人」のうち、後者こそが重要問題であった。だが海戦のほうは保有する船の種類に間違いなく大きく影響された。最近の半世紀に出現した弩級戦艦、高速駆逐艦、潜水艦、航空母艦は、どれも海戦を変貌させるものであった。古代の船に急激な発展は起こらず、また当時の限られた物的資源では起こそうとしてできるものでもなかった。しかし、船と操船法の改良は進んでおり、それらは世界を揺るがすとまではいかないにせよ、興味深く有益なものではあった。そこでまずはそれらの要素から話を始めよう。
海戦は厳密に言えば、船が、軍事遠征において人を運搬するに留まらず、それ自体で戦闘器具として用いられたときに始まる。これは、戦闘員が飛び道具や切り込み部隊によって甲板上で他船の船員や戦闘員を攻撃できるという意味と、船を駆って敵船の船体や櫂を痛めつけるという意味の双方である。英雄時代にあっては船は輸送器具として、陸戦に従属しているように見える。船はトロイアの岸辺へとアカイア軍を運び、あとは海岸で帰還する日か、略奪部隊が戦利品と糧食を集めに行く日を待ち続ける。『イリアス(Iriad)』には、トロイア人がアカイア人を海戦に引きずり出すための船を保有していたと、うかがわせるものは何もない(1)。英雄時代の船でも帆に加えて櫂を使用していたのかもしれないが、英雄時代後になって船は戦闘を交えることも可能になった。ここに海戦術が始まる。
ここで船が、帆走するものとして建造されてときどき櫂を用いるに過ぎなくなった、あるいは漕ぐものとして建造されて時折しか帆走しなくなったとするのは、だいたい正しい物言いである。第二の型は軍船として普及し、紀元前7世紀までには、互いを標的に動くことのできる船が登場していた。切り込みや飛び道具の使用のために、それらの船は戦闘員を乗せる一種の甲板を有していた。またこの他に、それらの櫂船の構造は、船首を竜骨の前端部の両側で隔壁によって強化するようになった。言うなれば、それらが組み合わさって、敵船の船体や櫂に突き入れる衝角となったのである。初めは航海時に波の抵抗に打ち勝つ手段か、あるいは船を接岸時に岩から守る手段であったものが、船同士の直接戦闘の手段となり、さらに槍のように強化されることもあった。
紀元前7世紀と6世紀には、考古学資料から判断すると(2)、戦争で使用された船は戦闘員を乗せる甲板を犠牲にして、ますます衝角戦法に特化していった。すなわち切り込みや飛び道具の使用を犠牲にして、速度と戦術運動能力を追求したのである。これは漕ぎ手を増やし、船の長さを伸ばし、水面上の高さを減らし、甲板や甲板上の構造物の全てを放棄することで達成された。こうして両側に置いた二十五人ずつの漕ぎ手によって動かす五十櫂船(penteconter)が標準的な軍船となり、衝角戦法が基本戦法となった。この時期には、フェニキア人に倣ったと思われる二段櫂船の一時的な使用が見られるが、この方法で櫂を増やして速度を増すのは外海には適さないと判明し、放棄されたようである。
わずかな文献資料の批判的な調査は、考古学資料から引き出される結論を否定するものではなく、むしろある程度確証してくれる(3)。五十櫂船(penteconters)は戦争のみならず遠隔貿易のためにも使用された。ところが紀元前6世紀半ば(4)、無名の造船工が、軍船以外の何者でもない大型船、それまでギリシア人に知られていたものよりはるかに強力な軍船を、考案することになった。これがほぼ二世紀の間ギリシアの海戦の波間を支配し、さらにそこから数世紀の後にも使用され続けていた、三段櫂船(trireme)である。
三段櫂船(trireme)は、多数の漕ぎ手──百七十人もの──が各自一本の櫂を使う形で動かしたと確証されているが(5)、五十櫂船(penteconter)と比べてそれほど長大化していなかった。竜骨への負担に成りすぎるのでもはや長大化の余地はあまり無かった。いかにして問題を乗り越えたのかは依然として論争されている。だが幸運なことに、問題が乗り越えられたことは判明しており、当面の目的にとってはそれで十分である。ただ臆病に成りすぎるのも良くないので、私は、三段櫂船(trireme)が、三重に重なった櫂の列によって動かされたわけではなく、中世ヴェネツィアのガレー船のように三隊に編成された一列の櫂によって動かされたとする有力説を、支持していると付け加えておこう(6)。決定的な発明は、櫂を支え櫂に働くテコの作用を安定させる舷外浮材であった。とにかく、いかなる方法によったにせよ、快速で戦術運動能力に長けた船が、巧みな漕櫂と操舵を可能とする船が、敵の攪乱に使用されることで自らも木金複合の武器として機能する船が、製造されたのである。
船同士で戦うための艦隊も登場する。紀元前6世紀の半ばを過ぎてすぐ、アラリアの戦いにその最初の例を見ることができ、そこでは参戦したフェニキアの五十櫂船(penteconters)が、衝角を曲げられたり戦闘不能にされたりした(7)。ただ、三段櫂船(triremes)の大艦隊がその能力を発揮しようとしたと確認できる最初の戦いは494年のラデの戦いで、そこではイオニアの反乱の運命が完全に決した(8)。戦いの少し前には、イオニア人たちは素早さと艦隊全体の協調を志向して戦術運動を訓練していた。だがペルシア艦隊は、ギリシア側の逃走によって勝利したため、ラデの戦いはギリシアの三段櫂船(triremes)の能力の試金石とはならなかった。
十四年後、大ペルシア戦争が勃発したが、そこでアテナイは新型軍船の大艦隊を建造する。だが、漕ぎ手や操舵手が道具に完全に精通していたとは思えない。少なくともペルシア艦隊の一部は戦術能力で優っており、さらにペルシア艦隊は数において優位であった。アルテミシオン湾で行われた両艦隊の最初の対戦では、ペルシア海軍がやや優勢であり、ギリシア海軍が船を最大限に活用できていたのか疑わしい。彼らは、だまし討ちや敵の限定された攻撃力と混乱のおかげで、ようやくサラミスにおいて勝利することができた。八年後、自分たちの業績が描き出されるの聞きに来た、数千の聴衆で満たされた劇場で、アイスキュロスの壮麗な文章を演じて熱弁をふるったアテナイの役者は何とも幸運であった。ペルシア軍はギリシア軍が逃亡を決めたと教え込まれていた。
ところが逃亡を図っているようには見えず、
ギリシア軍はその時に勝利を祈る声(paean)を挙げ、
なんと、攻撃をかけようと、闘志と勇気をたぎらせていた(9)
その時ペルシア軍は──
狭い海峡に押し込まれ
互いの支援もなし得ずに、船と船とが押し合って、
無数の櫂がへし折れて、船の群れは秩序も無く
互いに互いの破滅となって、真鍮の舳先をお互いに
死へと向かって打ちつけあった…(10)
戦いに勝利したのはアテナイ軍だけでなかったが、──その同族たちも勇敢に突撃した──新造のアテナイ海軍はテミストクレスの優れた戦略を達成し、戦局を逆転させ、彼の洞察を証明して見せた。
サラミスの翌年には海戦はエーゲ海を越えて行われた。これより三十年、アテナイ艦隊と同盟国の艦隊群は、陸海共同作戦に使用されたり、より高い乾舷を持っていたであろう船団と戦わねばならなかった。キモン提督は三段櫂船(trireme)を改良し、船幅を広くして、艇身に沿った橋のようなものを付加して、それでより多くの戦闘員を運搬できるようにした(11)。この船団を使って彼は大いに成功を収めたが、その世紀の中頃にペルシアとの暫定協定が成立すると、アテナイ軍はかつての戦法に回帰してそこにも改良を加えることになった。デロス同盟の艦隊はほとんどアテナイ艦隊と化し、同盟諸国の供出する船はアテナイ式の構造と訓練を備えた状態で戦列に並んだ。アテナイ軍だけが最高の船を保有していたわけではないが、最良の漕ぎ手とそれよりずっと重要な最良の操舵手は、アテナイ軍だけのものであった。ペロポネソス戦争開戦の前には、アテナイ海軍と他のギリシア諸国の海軍では戦法と技量に顕著な差が生じており、ケルキュラとペロポネソス同盟の船団が交戦したシュボタの戦いで、アテナイ人は、それらの船団が主に切り込みや飛び道具によって陸戦のように戦うのを、目にすることになった(12)。
そこで行われたような戦闘方式は、その頃までに、最良の部類に属する海上諸勢力の間では場違いな存在に成り果てていた。船が発展するにつれて、船による戦闘では、卓越した速度と戦術運動能力を駆使する戦法が発見されていた。例えば、circumnavigation(周航)に当たるギリシア語の単語は、敵船の船尾や弱点を攻撃するために船や船列の周りを航行するという、専門的な意味を持つようになった。この他、もっと直進的でネルソン風のやり方もあった。これは、二隻の敵船の間を漕ぎ進むことで、敵船列を通り抜け、そこから旋回してその敵船のどちらか一方を、迎撃に向けた運動ができずにいる内に、追いつめるというものであった。明らかにこの運動は、大きな速度と、さらに重要な要素として巧みな漕ぎ手の正確な動きに支えられた見事な操船術を必要とした。それゆえこれは、最高の設計をされた船の高い練度を持った乗組員のための戦闘手法であった。この運動の変種として、前進中の船を曲げるものがあり、敵船との接触で壊れないよう自船は敵に向かう側の櫂を内側に引っ込めながら、突き出た隔壁によって敵船の片側の櫂を一掃してしまうというものであった。この作戦が成功すれば敵船は無力化し、良くても戦闘には参加できぬまま終わり、悪ければ後で沈められる運命が待っていた。これら全ての戦術運動に関して、海戦技術の絶頂期にあったアテナイ人は達人となっていた。
アテナイの海軍力に対しては、アテナイの技法を習得することによってのみ敵し得るということは、自明のこととして理解されており、それは、楽観的な敵対勢力は可能であると希望を持っていたけれど、その能力を超えるものであった。数に優るペロポネソス同盟の艦隊がアテナイの提督ポルミオンの小船団と交戦したとき、アテナイの乗組員が巧みな運動を黙々と素早く成し遂げる能力を自負してこれを信頼し、大胆な態度に出て戦ったのと対照的に、彼らは勇気に頼って戦うしかなかった(13)。最初の交戦の成り行きを説明すると以下のようになる。二十隻の三段櫂船(triremes)を率いるポルミオンは、早朝ペロポネソス側の船団、一部輸送隊を含めて四十七隻が、ペロポネソス半島から対岸へ渡ろうとしてるのを発見した。その船団は船首を外側に向けて円陣を組み、攻め時をうかがうアテナイ側三段櫂船(trireme)に戦術運動のための隙間を与えないようにし、円の中には五隻の選りすぐりの船がいて攻撃準備を整えていた。船団が隊形を維持できる限りは、彼らはかなり安全だったのだが、ところが実際には、どうすれば狙い通りの場所に移動できるか見抜くのは容易ではない。そしてポルミオンはじきに外海からの風が吹くと気づいていた。彼はまず自分の艦隊を縦一列に並べ、攻撃するそぶりを見せながら敵の円陣の周りを漕ぎ回った。攻撃のふりをする度に、ペロポネソス側の船団は予想される打撃を避けて後退し、円陣は狭まっていくことになった。そこへ風が吹き込んで円陣は混乱、アテナイの三段櫂船(triremes)は好機到来と、もはや味方同士の衝突防止に手を取られ防戦どころではない敵船団に、大々的な破壊を加えた。彼らは破れて全力で逃走し、アテナイ軍はそのうち十二隻とその乗組員等を捕獲した。
間もなく起こったこれに続く対戦は、また別の光景を見せてくれる。敗北したペロポネソス側の艦隊は船団を増強したのに加え、スパルタがそれまでに生んだ士官の中で最も応変の才に富むブラシダスの進言を採用していた。ポルミオンも増援を求めたが、しかし未だ到着していなかった。今度は敵艦隊は、縦一列になった彼の二十隻の船団と並行に、四列に並んで漕ぎ進んだ。そこから合図を出すと、ペロポネソス軍は回頭して突撃、アテナイ艦隊を背後の岸へと向けて追いつめていった。先行する十一隻は必死に漕いで逃れたが、ペロポネソス側の二十隻は喜び勇んで追跡した。このアテナイ船の末尾にいた一隻は、停泊中の商船の周りを漕行して、追跡隊の先頭の側面を衝角攻撃しこれを撃沈した。そしてこの船の僚船は混乱しつつ停止したが、トゥキュディデスによれば、「アテナイ軍は命令一下、勇躍急襲して」、戦いを取り戻した。商船を利用した見事な周航運動はアテナイ操船術の精華と言って良く、その三段櫂船(trireme)にポルミオン自身が登場していたと推測したくなるほどだ。
実際、戦争の最初の十年は絶頂にあったアテナイ人の海戦技術を示しているし、六年の後にシチリア遠征に向かった艦隊にしてもそれまでにペイライエウスから出航した最良の艦隊であった。ただその艦隊は二度と戻らなかった。シラクサの大港の相当に狭い水面では、素早く軽快に造られたアテナイの三段櫂船(triremes)は、船首同士が向き合った際の生き残りを優先した設計となっている敵船団に対しては、不利であった。なお、この遠征に先立つ平和は、コリントス人が以前より熟練した漕ぎ手を雇用することを可能としたと推測することができ、少なくともコリントスの船団はギリシア海域内ではアテナイ軍と互角に戦うことができるようになった(14)。そしてシラクサにおける壊滅的敗北は、良質な船と乗組員を余りに多く失わせることになり、盤石であったアテナイの海上支配は消滅するに至った。同盟諸国の離反はアテナイが漕ぎ手を集められる地域を減少させ、一方で敵のほうは増加した。シラクサの船団は勝利への希望を持ち来たり、やがてはペルシアの補助金がペロポネソス艦隊への支払いを支えることになった。だがそれでも、アテナイの船長の操船技術は、ダーダネルス海峡を通過する潮流を利用することでキュノスセマの戦いに勝利を収め(15)、巧妙な奇襲によってキュジコスの戦いを勝ち取り(16)、迅速な戦術能力の衰退を補うために考案された布陣でアルギヌサイの戦いを勝ち取った。海軍戦術についての著名な作家であるCustance提督は、この戦いは個々の船の巧妙な運動によってではなく、船団として戦闘に入り、奮戦したことによって勝利したのであり、トラファルガルの先駆を為していると指摘している(17)。その後、楽観論によって二つの戦勝で入手し得る最善の和平を拒絶し、無規律と不注意によってアイゴスポタモイで最後のアテナイ艦隊に対する奇襲を許した結果、アテナイは海上ですなわち完全に希望を失ったのである。
アテナイの海上支配の時代は、ギリシア人がthalassocracy(制海権)──海洋の支配という言葉を発見した、史上で最も印象的な時代であった。ペリクレスは、おそらく常に将軍というよりは提督と呼ぶべき存在だったのであって、海軍力の影響の強さと広さ、特に戦時のそれを、おそらくは過大評価ではあるけれど、同時代の小論文『アテナイ人の国制(Constitution of Athens)』の名も無き著者と同様に(18)、認識していた。それは南ロシアからペイライエウスの埠頭までの食糧輸送を安全に保つことができた。それは、サロニカ湾を通過しあるいはコリントス湾に沿って行われる敵の貿易を、湾口付近に海軍基地を設けていれば、大いに妨げることもできた。それはアテナイ陸軍をアテナイ帝国の諸地方へと護送し、また略奪部隊をペロポネソス半島沿岸部のあちこちに運び込むこともできた。
戦争における制海権の話はこれで置く。ところで三段櫂船(trireme)や三段櫂船(triremes)の艦隊は見落としがちな欠点があった(19)。長距離航海のための食料と水を運搬することができず、詰め込まれた乗組員に適正な休息を与えることもできなかった。夜間は盲目であり、海上での通信手段は貧弱であった。水面上に出た丈は低く(20)、たとえ帆走する場合であっても、簡単に敵に発見されてしまうようなあるいは互いに居場所を知らせてしまうほどの高い帆は使用しなかった。専ら戦闘艦隊として行動しているときでも、そこに搭載できる水兵は、敵地沿岸に多少なりと安全に上陸するには少なすぎた。好適な状況の港を封鎖することならできたが、海岸線を封鎖することはできなかった。敵陸軍の海上輸送を妨害する能力は確実性に欠けた。私は、ギリシア史において優勢な艦隊を使って敵の輸送船を破壊した例を、わずか二つしか思い浮かべることができない(21)。軍船は乗組員が膨大なので維持費が高くついたし、卓越した技量によって比較的小さな艦隊でも確実に勝利できたとはいっても、激戦になれば必ず回復困難な人的損失が発生した(22)。船自体も、活動していない時は常にきちんと収容しておかなければ、急速に老朽化し、悪天候も常に非常な脅威であった。そのあまりの脆弱さは、飾り立てられたレース用の八人乗りボートにも例えられよう(23)。三段櫂船(triremes)が同種の船との対決にどれだけ適合していると言っても、衝角攻撃に成功した三段櫂船(trireme)がついでに壊れてしまうような、丈夫な帆走商船に対してはかなり無力であった。追い風を受けた商船は三段櫂船(trireme)相手に長距離を逃げることができたし、商船には、陸地にほど近く留まらねばならない三段櫂船(triremes)を尻目に、はるか外海を進むという手もあった。これら全ての点が思い起こされるべき事項であるが、そうすると三段櫂船(triremes)が意のままに波間を支配できたことは、かなりの驚きと言って良いかも知れない。
紀元前4世紀には各地の艦隊は縮小したが、それでもアテナイにとって世紀中盤の海上における相対的弱体化から回復することは非常な重荷であった。そして三段櫂船(triremes)は有効性を完全には失わなかったけれど、徐々に船列の標準船ではなくなっていった。紀元前4世紀のはじめシラクサのディオニュシオス1世は、いくぶん大きな船を建造したと信じられているが(24)、その数と威力には古代の著述家による誇張があると考えられる。ただアレクサンドロス大王の時代までには、三段櫂船(trireme)の発展型である五段櫂船(quinqueremes)が使用されるようになり、ごくわずかの間にずっと強力な船も登場する。これらの船は櫂の力の比を示す数字を含んだ名称で、五倍船(fivers)、六倍船(sixers)、七倍船(seveners)などと呼ばれることもあった。ちなみに五段櫂船(quinqueremes)は、櫂一本を五人の漕ぎ手が引く形で長い櫂を使って航行し、それ以上の等級の船は、漕ぎ手の隊分けがどんなものであったにせよ、一本の櫂を漕ぐ人数を多くするか櫂の数を増やすかして航行した。
著しく高い等級の船をどうやって漕いだのかは、未だ疑問が解消しきっていない状態にあるが(25)、今はそれについて詳細な解答を求める場合ではない。仮に、合理的な推測として、三段櫂船(trireme)が構造上耐えうる最大限の漕力を有していたと想定すると、新たな漕力の増強は船体のさらなる強化を意味したはずである。巨大な船は一般的に、漕ぎ手が頭上にある甲板によって保護されていることを意味する「cataphracts」の語で呼ばれていた。この甲板は船の構造に強度を加え、船がはるかに大きな櫂の力の負担に持ちこたえることを可能にしたであろう。その上、平甲板を持つことで、十四人しか水兵を乗せていなかったペロポネソス戦争におけるアテナイの三段櫂船(trireme)とは対照的に、百人かそれ以上という大規模な切り込み部隊の一団を、積載することが可能であった。漕行には多くの漕ぎ手が必要とされたが、その大半は三段櫂船(trireme)戦術の絶頂期とくらべて技量に劣っていた。戦術運動は遅くまた柔軟性を欠くようになった。その一方でアレクサンドロス以降は、練達の漕ぎ手よりも良く訓練された歩兵の存在のほうが目立つようになっていた。こうした傾向はローマの資質からすれば好都合で、ローマが一級の海軍国へ成長するのを大いに助けており、その際、ローマ艦隊にとっての危険は敵の行動よりも、自分たちの海上活動への適正の欠如や注意の不足にこそ存在したのである。ルーパート公は、必ずしも正義の観点からではなく、艦隊を騎馬軍のように指揮したことで非難されたが、ローマの執政官(consuls)が艦隊をあたかも陸軍の軍団(legion)のように指揮したことは、より以上に非難に値するだろう。キプロスのサラミスの海戦における大勝利では、デメトリオスは陸上戦闘を採用するとともに、左翼船団によって海岸の方へと突き進み、騎兵の打撃部隊を使用する指揮官が実施したのと全く同じ戦術で、敵の船列を側面から包囲した(26)。これらの事実は、軽快で迅速な船が戦争や海上警備における価値を喪失したということを意味しているわけではなく、大海では三段櫂船(triremes)や小型船からなる艦隊が、巨船とともにあるいは巨船に替わって活動しているのを、見ることができる。海戦術は海軍設備と密接に関係するのであって、ポンペイウスとアグリッパの両者は──さらに彼らの前にはロドス人が──両方の型の船の価値を認識し、両者を駆使していた。
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3 海戦
これまでの二つの講義では武器の製造については論じなかったが、古代の戦争術は盾と槍の寸法は別にして、武器の性質には大して影響されてはいない。ウェルギリウスの言う戦争の鍵である「武器と人」のうち、後者こそが重要問題であった。だが海戦のほうは保有する船の種類に間違いなく大きく影響された。最近の半世紀に出現した弩級戦艦、高速駆逐艦、潜水艦、航空母艦は、どれも海戦を変貌させるものであった。古代の船に急激な発展は起こらず、また当時の限られた物的資源では起こそうとしてできるものでもなかった。しかし、船と操船法の改良は進んでおり、それらは世界を揺るがすとまではいかないにせよ、興味深く有益なものではあった。そこでまずはそれらの要素から話を始めよう。
海戦は厳密に言えば、船が、軍事遠征において人を運搬するに留まらず、それ自体で戦闘器具として用いられたときに始まる。これは、戦闘員が飛び道具や切り込み部隊によって甲板上で他船の船員や戦闘員を攻撃できるという意味と、船を駆って敵船の船体や櫂を痛めつけるという意味の双方である。英雄時代にあっては船は輸送器具として、陸戦に従属しているように見える。船はトロイアの岸辺へとアカイア軍を運び、あとは海岸で帰還する日か、略奪部隊が戦利品と糧食を集めに行く日を待ち続ける。『イリアス(Iriad)』には、トロイア人がアカイア人を海戦に引きずり出すための船を保有していたと、うかがわせるものは何もない(1)。英雄時代の船でも帆に加えて櫂を使用していたのかもしれないが、英雄時代後になって船は戦闘を交えることも可能になった。ここに海戦術が始まる。
ここで船が、帆走するものとして建造されてときどき櫂を用いるに過ぎなくなった、あるいは漕ぐものとして建造されて時折しか帆走しなくなったとするのは、だいたい正しい物言いである。第二の型は軍船として普及し、紀元前7世紀までには、互いを標的に動くことのできる船が登場していた。切り込みや飛び道具の使用のために、それらの船は戦闘員を乗せる一種の甲板を有していた。またこの他に、それらの櫂船の構造は、船首を竜骨の前端部の両側で隔壁によって強化するようになった。言うなれば、それらが組み合わさって、敵船の船体や櫂に突き入れる衝角となったのである。初めは航海時に波の抵抗に打ち勝つ手段か、あるいは船を接岸時に岩から守る手段であったものが、船同士の直接戦闘の手段となり、さらに槍のように強化されることもあった。
紀元前7世紀と6世紀には、考古学資料から判断すると(2)、戦争で使用された船は戦闘員を乗せる甲板を犠牲にして、ますます衝角戦法に特化していった。すなわち切り込みや飛び道具の使用を犠牲にして、速度と戦術運動能力を追求したのである。これは漕ぎ手を増やし、船の長さを伸ばし、水面上の高さを減らし、甲板や甲板上の構造物の全てを放棄することで達成された。こうして両側に置いた二十五人ずつの漕ぎ手によって動かす五十櫂船(penteconter)が標準的な軍船となり、衝角戦法が基本戦法となった。この時期には、フェニキア人に倣ったと思われる二段櫂船の一時的な使用が見られるが、この方法で櫂を増やして速度を増すのは外海には適さないと判明し、放棄されたようである。
わずかな文献資料の批判的な調査は、考古学資料から引き出される結論を否定するものではなく、むしろある程度確証してくれる(3)。五十櫂船(penteconters)は戦争のみならず遠隔貿易のためにも使用された。ところが紀元前6世紀半ば(4)、無名の造船工が、軍船以外の何者でもない大型船、それまでギリシア人に知られていたものよりはるかに強力な軍船を、考案することになった。これがほぼ二世紀の間ギリシアの海戦の波間を支配し、さらにそこから数世紀の後にも使用され続けていた、三段櫂船(trireme)である。
三段櫂船(trireme)は、多数の漕ぎ手──百七十人もの──が各自一本の櫂を使う形で動かしたと確証されているが(5)、五十櫂船(penteconter)と比べてそれほど長大化していなかった。竜骨への負担に成りすぎるのでもはや長大化の余地はあまり無かった。いかにして問題を乗り越えたのかは依然として論争されている。だが幸運なことに、問題が乗り越えられたことは判明しており、当面の目的にとってはそれで十分である。ただ臆病に成りすぎるのも良くないので、私は、三段櫂船(trireme)が、三重に重なった櫂の列によって動かされたわけではなく、中世ヴェネツィアのガレー船のように三隊に編成された一列の櫂によって動かされたとする有力説を、支持していると付け加えておこう(6)。決定的な発明は、櫂を支え櫂に働くテコの作用を安定させる舷外浮材であった。とにかく、いかなる方法によったにせよ、快速で戦術運動能力に長けた船が、巧みな漕櫂と操舵を可能とする船が、敵の攪乱に使用されることで自らも木金複合の武器として機能する船が、製造されたのである。
船同士で戦うための艦隊も登場する。紀元前6世紀の半ばを過ぎてすぐ、アラリアの戦いにその最初の例を見ることができ、そこでは参戦したフェニキアの五十櫂船(penteconters)が、衝角を曲げられたり戦闘不能にされたりした(7)。ただ、三段櫂船(triremes)の大艦隊がその能力を発揮しようとしたと確認できる最初の戦いは494年のラデの戦いで、そこではイオニアの反乱の運命が完全に決した(8)。戦いの少し前には、イオニア人たちは素早さと艦隊全体の協調を志向して戦術運動を訓練していた。だがペルシア艦隊は、ギリシア側の逃走によって勝利したため、ラデの戦いはギリシアの三段櫂船(triremes)の能力の試金石とはならなかった。
十四年後、大ペルシア戦争が勃発したが、そこでアテナイは新型軍船の大艦隊を建造する。だが、漕ぎ手や操舵手が道具に完全に精通していたとは思えない。少なくともペルシア艦隊の一部は戦術能力で優っており、さらにペルシア艦隊は数において優位であった。アルテミシオン湾で行われた両艦隊の最初の対戦では、ペルシア海軍がやや優勢であり、ギリシア海軍が船を最大限に活用できていたのか疑わしい。彼らは、だまし討ちや敵の限定された攻撃力と混乱のおかげで、ようやくサラミスにおいて勝利することができた。八年後、自分たちの業績が描き出されるの聞きに来た、数千の聴衆で満たされた劇場で、アイスキュロスの壮麗な文章を演じて熱弁をふるったアテナイの役者は何とも幸運であった。ペルシア軍はギリシア軍が逃亡を決めたと教え込まれていた。
ところが逃亡を図っているようには見えず、
ギリシア軍はその時に勝利を祈る声(paean)を挙げ、
なんと、攻撃をかけようと、闘志と勇気をたぎらせていた(9)
その時ペルシア軍は──
狭い海峡に押し込まれ
互いの支援もなし得ずに、船と船とが押し合って、
無数の櫂がへし折れて、船の群れは秩序も無く
互いに互いの破滅となって、真鍮の舳先をお互いに
死へと向かって打ちつけあった…(10)
戦いに勝利したのはアテナイ軍だけでなかったが、──その同族たちも勇敢に突撃した──新造のアテナイ海軍はテミストクレスの優れた戦略を達成し、戦局を逆転させ、彼の洞察を証明して見せた。
サラミスの翌年には海戦はエーゲ海を越えて行われた。これより三十年、アテナイ艦隊と同盟国の艦隊群は、陸海共同作戦に使用されたり、より高い乾舷を持っていたであろう船団と戦わねばならなかった。キモン提督は三段櫂船(trireme)を改良し、船幅を広くして、艇身に沿った橋のようなものを付加して、それでより多くの戦闘員を運搬できるようにした(11)。この船団を使って彼は大いに成功を収めたが、その世紀の中頃にペルシアとの暫定協定が成立すると、アテナイ軍はかつての戦法に回帰してそこにも改良を加えることになった。デロス同盟の艦隊はほとんどアテナイ艦隊と化し、同盟諸国の供出する船はアテナイ式の構造と訓練を備えた状態で戦列に並んだ。アテナイ軍だけが最高の船を保有していたわけではないが、最良の漕ぎ手とそれよりずっと重要な最良の操舵手は、アテナイ軍だけのものであった。ペロポネソス戦争開戦の前には、アテナイ海軍と他のギリシア諸国の海軍では戦法と技量に顕著な差が生じており、ケルキュラとペロポネソス同盟の船団が交戦したシュボタの戦いで、アテナイ人は、それらの船団が主に切り込みや飛び道具によって陸戦のように戦うのを、目にすることになった(12)。
そこで行われたような戦闘方式は、その頃までに、最良の部類に属する海上諸勢力の間では場違いな存在に成り果てていた。船が発展するにつれて、船による戦闘では、卓越した速度と戦術運動能力を駆使する戦法が発見されていた。例えば、circumnavigation(周航)に当たるギリシア語の単語は、敵船の船尾や弱点を攻撃するために船や船列の周りを航行するという、専門的な意味を持つようになった。この他、もっと直進的でネルソン風のやり方もあった。これは、二隻の敵船の間を漕ぎ進むことで、敵船列を通り抜け、そこから旋回してその敵船のどちらか一方を、迎撃に向けた運動ができずにいる内に、追いつめるというものであった。明らかにこの運動は、大きな速度と、さらに重要な要素として巧みな漕ぎ手の正確な動きに支えられた見事な操船術を必要とした。それゆえこれは、最高の設計をされた船の高い練度を持った乗組員のための戦闘手法であった。この運動の変種として、前進中の船を曲げるものがあり、敵船との接触で壊れないよう自船は敵に向かう側の櫂を内側に引っ込めながら、突き出た隔壁によって敵船の片側の櫂を一掃してしまうというものであった。この作戦が成功すれば敵船は無力化し、良くても戦闘には参加できぬまま終わり、悪ければ後で沈められる運命が待っていた。これら全ての戦術運動に関して、海戦技術の絶頂期にあったアテナイ人は達人となっていた。
アテナイの海軍力に対しては、アテナイの技法を習得することによってのみ敵し得るということは、自明のこととして理解されており、それは、楽観的な敵対勢力は可能であると希望を持っていたけれど、その能力を超えるものであった。数に優るペロポネソス同盟の艦隊がアテナイの提督ポルミオンの小船団と交戦したとき、アテナイの乗組員が巧みな運動を黙々と素早く成し遂げる能力を自負してこれを信頼し、大胆な態度に出て戦ったのと対照的に、彼らは勇気に頼って戦うしかなかった(13)。最初の交戦の成り行きを説明すると以下のようになる。二十隻の三段櫂船(triremes)を率いるポルミオンは、早朝ペロポネソス側の船団、一部輸送隊を含めて四十七隻が、ペロポネソス半島から対岸へ渡ろうとしてるのを発見した。その船団は船首を外側に向けて円陣を組み、攻め時をうかがうアテナイ側三段櫂船(trireme)に戦術運動のための隙間を与えないようにし、円の中には五隻の選りすぐりの船がいて攻撃準備を整えていた。船団が隊形を維持できる限りは、彼らはかなり安全だったのだが、ところが実際には、どうすれば狙い通りの場所に移動できるか見抜くのは容易ではない。そしてポルミオンはじきに外海からの風が吹くと気づいていた。彼はまず自分の艦隊を縦一列に並べ、攻撃するそぶりを見せながら敵の円陣の周りを漕ぎ回った。攻撃のふりをする度に、ペロポネソス側の船団は予想される打撃を避けて後退し、円陣は狭まっていくことになった。そこへ風が吹き込んで円陣は混乱、アテナイの三段櫂船(triremes)は好機到来と、もはや味方同士の衝突防止に手を取られ防戦どころではない敵船団に、大々的な破壊を加えた。彼らは破れて全力で逃走し、アテナイ軍はそのうち十二隻とその乗組員等を捕獲した。
間もなく起こったこれに続く対戦は、また別の光景を見せてくれる。敗北したペロポネソス側の艦隊は船団を増強したのに加え、スパルタがそれまでに生んだ士官の中で最も応変の才に富むブラシダスの進言を採用していた。ポルミオンも増援を求めたが、しかし未だ到着していなかった。今度は敵艦隊は、縦一列になった彼の二十隻の船団と並行に、四列に並んで漕ぎ進んだ。そこから合図を出すと、ペロポネソス軍は回頭して突撃、アテナイ艦隊を背後の岸へと向けて追いつめていった。先行する十一隻は必死に漕いで逃れたが、ペロポネソス側の二十隻は喜び勇んで追跡した。このアテナイ船の末尾にいた一隻は、停泊中の商船の周りを漕行して、追跡隊の先頭の側面を衝角攻撃しこれを撃沈した。そしてこの船の僚船は混乱しつつ停止したが、トゥキュディデスによれば、「アテナイ軍は命令一下、勇躍急襲して」、戦いを取り戻した。商船を利用した見事な周航運動はアテナイ操船術の精華と言って良く、その三段櫂船(trireme)にポルミオン自身が登場していたと推測したくなるほどだ。
実際、戦争の最初の十年は絶頂にあったアテナイ人の海戦技術を示しているし、六年の後にシチリア遠征に向かった艦隊にしてもそれまでにペイライエウスから出航した最良の艦隊であった。ただその艦隊は二度と戻らなかった。シラクサの大港の相当に狭い水面では、素早く軽快に造られたアテナイの三段櫂船(triremes)は、船首同士が向き合った際の生き残りを優先した設計となっている敵船団に対しては、不利であった。なお、この遠征に先立つ平和は、コリントス人が以前より熟練した漕ぎ手を雇用することを可能としたと推測することができ、少なくともコリントスの船団はギリシア海域内ではアテナイ軍と互角に戦うことができるようになった(14)。そしてシラクサにおける壊滅的敗北は、良質な船と乗組員を余りに多く失わせることになり、盤石であったアテナイの海上支配は消滅するに至った。同盟諸国の離反はアテナイが漕ぎ手を集められる地域を減少させ、一方で敵のほうは増加した。シラクサの船団は勝利への希望を持ち来たり、やがてはペルシアの補助金がペロポネソス艦隊への支払いを支えることになった。だがそれでも、アテナイの船長の操船技術は、ダーダネルス海峡を通過する潮流を利用することでキュノスセマの戦いに勝利を収め(15)、巧妙な奇襲によってキュジコスの戦いを勝ち取り(16)、迅速な戦術能力の衰退を補うために考案された布陣でアルギヌサイの戦いを勝ち取った。海軍戦術についての著名な作家であるCustance提督は、この戦いは個々の船の巧妙な運動によってではなく、船団として戦闘に入り、奮戦したことによって勝利したのであり、トラファルガルの先駆を為していると指摘している(17)。その後、楽観論によって二つの戦勝で入手し得る最善の和平を拒絶し、無規律と不注意によってアイゴスポタモイで最後のアテナイ艦隊に対する奇襲を許した結果、アテナイは海上ですなわち完全に希望を失ったのである。
アテナイの海上支配の時代は、ギリシア人がthalassocracy(制海権)──海洋の支配という言葉を発見した、史上で最も印象的な時代であった。ペリクレスは、おそらく常に将軍というよりは提督と呼ぶべき存在だったのであって、海軍力の影響の強さと広さ、特に戦時のそれを、おそらくは過大評価ではあるけれど、同時代の小論文『アテナイ人の国制(Constitution of Athens)』の名も無き著者と同様に(18)、認識していた。それは南ロシアからペイライエウスの埠頭までの食糧輸送を安全に保つことができた。それは、サロニカ湾を通過しあるいはコリントス湾に沿って行われる敵の貿易を、湾口付近に海軍基地を設けていれば、大いに妨げることもできた。それはアテナイ陸軍をアテナイ帝国の諸地方へと護送し、また略奪部隊をペロポネソス半島沿岸部のあちこちに運び込むこともできた。
戦争における制海権の話はこれで置く。ところで三段櫂船(trireme)や三段櫂船(triremes)の艦隊は見落としがちな欠点があった(19)。長距離航海のための食料と水を運搬することができず、詰め込まれた乗組員に適正な休息を与えることもできなかった。夜間は盲目であり、海上での通信手段は貧弱であった。水面上に出た丈は低く(20)、たとえ帆走する場合であっても、簡単に敵に発見されてしまうようなあるいは互いに居場所を知らせてしまうほどの高い帆は使用しなかった。専ら戦闘艦隊として行動しているときでも、そこに搭載できる水兵は、敵地沿岸に多少なりと安全に上陸するには少なすぎた。好適な状況の港を封鎖することならできたが、海岸線を封鎖することはできなかった。敵陸軍の海上輸送を妨害する能力は確実性に欠けた。私は、ギリシア史において優勢な艦隊を使って敵の輸送船を破壊した例を、わずか二つしか思い浮かべることができない(21)。軍船は乗組員が膨大なので維持費が高くついたし、卓越した技量によって比較的小さな艦隊でも確実に勝利できたとはいっても、激戦になれば必ず回復困難な人的損失が発生した(22)。船自体も、活動していない時は常にきちんと収容しておかなければ、急速に老朽化し、悪天候も常に非常な脅威であった。そのあまりの脆弱さは、飾り立てられたレース用の八人乗りボートにも例えられよう(23)。三段櫂船(triremes)が同種の船との対決にどれだけ適合していると言っても、衝角攻撃に成功した三段櫂船(trireme)がついでに壊れてしまうような、丈夫な帆走商船に対してはかなり無力であった。追い風を受けた商船は三段櫂船(trireme)相手に長距離を逃げることができたし、商船には、陸地にほど近く留まらねばならない三段櫂船(triremes)を尻目に、はるか外海を進むという手もあった。これら全ての点が思い起こされるべき事項であるが、そうすると三段櫂船(triremes)が意のままに波間を支配できたことは、かなりの驚きと言って良いかも知れない。
紀元前4世紀には各地の艦隊は縮小したが、それでもアテナイにとって世紀中盤の海上における相対的弱体化から回復することは非常な重荷であった。そして三段櫂船(triremes)は有効性を完全には失わなかったけれど、徐々に船列の標準船ではなくなっていった。紀元前4世紀のはじめシラクサのディオニュシオス1世は、いくぶん大きな船を建造したと信じられているが(24)、その数と威力には古代の著述家による誇張があると考えられる。ただアレクサンドロス大王の時代までには、三段櫂船(trireme)の発展型である五段櫂船(quinqueremes)が使用されるようになり、ごくわずかの間にずっと強力な船も登場する。これらの船は櫂の力の比を示す数字を含んだ名称で、五倍船(fivers)、六倍船(sixers)、七倍船(seveners)などと呼ばれることもあった。ちなみに五段櫂船(quinqueremes)は、櫂一本を五人の漕ぎ手が引く形で長い櫂を使って航行し、それ以上の等級の船は、漕ぎ手の隊分けがどんなものであったにせよ、一本の櫂を漕ぐ人数を多くするか櫂の数を増やすかして航行した。
著しく高い等級の船をどうやって漕いだのかは、未だ疑問が解消しきっていない状態にあるが(25)、今はそれについて詳細な解答を求める場合ではない。仮に、合理的な推測として、三段櫂船(trireme)が構造上耐えうる最大限の漕力を有していたと想定すると、新たな漕力の増強は船体のさらなる強化を意味したはずである。巨大な船は一般的に、漕ぎ手が頭上にある甲板によって保護されていることを意味する「cataphracts」の語で呼ばれていた。この甲板は船の構造に強度を加え、船がはるかに大きな櫂の力の負担に持ちこたえることを可能にしたであろう。その上、平甲板を持つことで、十四人しか水兵を乗せていなかったペロポネソス戦争におけるアテナイの三段櫂船(trireme)とは対照的に、百人かそれ以上という大規模な切り込み部隊の一団を、積載することが可能であった。漕行には多くの漕ぎ手が必要とされたが、その大半は三段櫂船(trireme)戦術の絶頂期とくらべて技量に劣っていた。戦術運動は遅くまた柔軟性を欠くようになった。その一方でアレクサンドロス以降は、練達の漕ぎ手よりも良く訓練された歩兵の存在のほうが目立つようになっていた。こうした傾向はローマの資質からすれば好都合で、ローマが一級の海軍国へ成長するのを大いに助けており、その際、ローマ艦隊にとっての危険は敵の行動よりも、自分たちの海上活動への適正の欠如や注意の不足にこそ存在したのである。ルーパート公は、必ずしも正義の観点からではなく、艦隊を騎馬軍のように指揮したことで非難されたが、ローマの執政官(consuls)が艦隊をあたかも陸軍の軍団(legion)のように指揮したことは、より以上に非難に値するだろう。キプロスのサラミスの海戦における大勝利では、デメトリオスは陸上戦闘を採用するとともに、左翼船団によって海岸の方へと突き進み、騎兵の打撃部隊を使用する指揮官が実施したのと全く同じ戦術で、敵の船列を側面から包囲した(26)。これらの事実は、軽快で迅速な船が戦争や海上警備における価値を喪失したということを意味しているわけではなく、大海では三段櫂船(triremes)や小型船からなる艦隊が、巨船とともにあるいは巨船に替わって活動しているのを、見ることができる。海戦術は海軍設備と密接に関係するのであって、ポンペイウスとアグリッパの両者は──さらに彼らの前にはロドス人が──両方の型の船の価値を認識し、両者を駆使していた。
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by trushbasket
| 2010-12-27 20:25
| My(山田昌弘)








