2010年 12月 27日
F.E.Adcock『ギリシア人とマケドニア人の戦争術』 山田昌弘訳 新装版 第3講 本文 後半
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3 海戦
今度は戦術ではなく戦略分野における海軍の活用に話を向けよう。古代の船舶が割と発見しにくかったために、海上支配の価値が制限される一方、戦略的な便宜の確保や奇襲の実行が可能となったことは、観察しておく価値がある。全ての優れた戦争の判定者によって奇襲は高い価値を与えられており、奇襲実行の能力は陸海の軍事的才幹を判定する一つの基準となる。だが奇襲はギリシアとマケドニアの戦争では陸海ともに一般的でなかった。偵察と情報収集の技法が古代の軍隊で重視されていなかったというのは全く真実である。そして奇襲を達成するには通常良質の情報が必要であり、奇襲を防ぐ場合も全く同様である。ところが驚くべきことに、軍隊も艦隊も巧妙に計画された奇襲の犠牲者になることがあまりないのである。そこで、古代の司令官達は、ローマのみならずギリシアとマケドニアにおいても、敵に不意を突かれかねない無鉄砲な行動や冒険的な計画を好まなかったと、推測するより他あるまい。ただトゥキュディデス(27)の時代以降は、戦争には予測不能な要素が存在し、必然的に巨大化していくのを、はっきり見て取ることができる。それでも古代の将軍と提督達は、その状況を、馴染んで利用するよりは嫌い恐れていたのであろう。
だが艦隊と艦隊の素早く密かに軍隊を輸送する能力を活用した戦略は存在していた。すなわち紀元前5世紀はじめのスパルタ王クレオメネスは、敵対するアルゴス軍を防御拠点から誘い出すため、自軍を夜の闇に紛れて敵の後背地の海岸へと海上輸送し、別方面からアルゴスに向かって前進し、決戦することを強いた(28)。さらに艦隊が陸上作戦に随伴することで陸海の連携作戦が成立し、戦略家の活躍の場が用意されることもあった。すなわち大ペルシア戦争のテルモピュライにおけるレオニダスの抗戦の主目的は、ギリシア艦隊に勝利が期待できる狭い海域での決戦の機会を与えて、ペルシア陸軍の前進を阻止しようとするものであった。この期待が叶えられることはなく、レオニダスと彼の指揮下のスパルタ兵たちは無駄死にすることになった。
これより成果のあった戦略としては、サラミスでギリシア艦隊を、ペルシア軍の陸海における進撃の側面を制する形で、配置した例がある(29)。ギリシア艦隊は、プリマス付近のイギリス艦隊が英仏海峡を通って低地帯諸国にいるパルマ公の元を目指すスペイン無敵艦隊に与えたのと同様の脅威を、ペルシア軍に与えることになった。ペルシア軍は脅威を取り除こうとして攻撃をかけ破滅することになったし、スペイン軍は脅威を軽視したため成功を収めることができなくなった。
より広義の海軍戦略の分野においては、ギリシア人と東洋人の混住するキプロス島が戦略的な重要性を有している。その重要性は主にその地理上の配置からくるものである。 この島は、ギリシアの政治経済の一員となるにはエーゲ海のギリシア海域から遠すぎたが、ペルシアの海軍力の最大の基盤となっているフェニキア海岸には近く、ペルシア海軍の発展を妨害するのに有益であった。したがって、ギリシアの海軍力がキプロスをしっかりと掌握することができれば、エーゲ海東部をペルシア艦隊の介入から守る上で大きな効果がある。二度──紀元前5世紀初頭と紀元前4世紀初頭に──ギリシアは海軍の前線基地たるキプロスを十分掌握できなくなったことがあり、それは致命的な危険を招くことになっている。イオニアの反乱の時には、初期の成功が過ぎるとギリシア人はキプロスの支配を喪失してしまい(30)、フェニキア艦隊の大規模なエーゲ海侵入が可能となって、反乱は失敗するに至っている。さらに一世紀後、小アジア西部のペルシアの太守たちの巧妙な戦略によって同じ事態が引き起こされ、スパルタ人の小アジア支配の最後の希望を打ち砕き、ペルシア人のギリシアへの介入路を復活させるに至っている(31)。間の一世紀において堅実な戦略家である、アテナイの提督キモンは、二度キプロスへと海軍による攻撃を仕掛けている(32)。一回目には、彼がアテナイの戦略の指導権を失い、彼の艦隊はエジプトのペルシアに対する反乱を支援するのに転用されることになった。二度目には事業が完全に成功する前に彼が死んだ。だがそれはフェニキア艦隊のギリシア海域への進出を封じる暫定協定が、アテナイとペルシアの間で成立するのに大きな貢献を果たし、一世代の間エーゲ海はアテナイの湖水と化した。キプロスの物語はこれでは終わらない。ペルシア人は王の平和と言われる時期において、この島の完全な支配を注意深く回復したが、その世紀の半ばにはこの島は独立してペルシアにとって重大問題と化し、やがてアレクサンドロスや後のアンティゴノスにとっても戦略的な重要性を持つことになった(33)。アンティゴノスの息子デメトリオスが海戦で大勝利を収めたのもキプロスの海域であったし(34)、その頃までにこの島は、プトレマイオス朝の、海軍活動の末端かつエジプトと地中海東岸の中継地として、その海洋戦略の目標となっていた。そしてその後も、ヘレニズム諸国の海軍が紀元前3世紀後半に全般的に衰退するまでは、この島は紛争の対象となることを止めなかったのである。
アテナイの海洋戦略のより一層重要な課題は、自国の商業活動にボスポラス海峡とダーダネルス海峡の通航を保証することであった。紀元前5世紀と4世紀を通じて、黒海北岸からアテナイにアッティカの商品と引き替えにもたらされる穀物が、アテナイの食糧供給の生命線であった。アテナイはこれらの海峡を支配する敵対勢力の出現を許すことはできなかった。これらの海域と、ダーダネルスの外側の護りたるレムノス、イムブロスの二つの島は、平時にあってはアテナイの外交の、戦時にあってはアテナイの戦略の重大問題であり続けた。紀元前5世紀の大半においてアテナイのこの方面における海洋戦略は、アテナイ帝国の全般的な海上支配体制の中に紛れ込んでいた。だがこの問題がペロポネソス戦争の最後の十年になると表面化する。敵が小アジアの西海岸に勢力基盤を手に入れ、海戦がダーダネルスへと近づいていったためである(35)。敵勢力はそれらの区域の重要性を見落とすことはなく、有能なスパルタの提督ミンダロスは大胆な移動を行って海戦の舞台をこの海域へと移した。これ自体は惨敗に終わったが、それらの区域におけるアテナイ海軍の回復不能な敗北は確かにアテナイの降伏を引き起こすことになるのである。
ダーダネルスにおける圧迫は紀元前4世紀のアテナイ人に屈従を強い、彼らはレムノスとイムブロスの保持を保証すると規定する王の平和に従うしかなかった(36)。この世紀のうちに多大な費用を投じて、アテナイの海上における勢力回復が、慎重な現実主義者のエウブロスによって推進されたが、それは海軍力がアテナイの生存そのものを保証する一つの道だったからである。マケドニアのピリッポス2世は、最低でもアテナイ人を彼のギリシア政策に服従させる効果があると期待し、ペリントスとビザンティオンというボスポラスの通航を支配する強力な都市に向けて進撃した。これらの都市が彼の手に落ちれば、アテナイの食糧供給は、アテナイ海軍の卓越した力にもかかわらず、危機に陥ったであろう。アテナイ人はビザンティオンを前に展開する彼の作戦を妨げようと活発に動き回った。同時にペルシアも急遽ペリントスを支援しており、その結果、海峡問題の別の側面の存在までも明確化することになった──この行動によってペルシアはマケドニアが小アジアに侵入するという将来の危険を予防しようとしたのである。ビザンティオンへの奇襲攻撃が買収しようのない番犬たちの吠え声のせいで看破されてしまうなど、ピリッポスはその攻城戦の手腕にもかかわらず、両都市ともに攻略に失敗した。こうしたボスポラスにおける積極的な防衛の結果、ピリッポスはアテナイへの直接的な作戦にうったえることになった。彼のカイロネイアでの勝利は、彼にアテナイの政策および海峡に対する支配をもたらし、小アジアへの進入路を開く効果があった。これら全ての海峡経由のアテナイへの作、あるいはアテナイ経由の海峡への作戦は、いわゆる間接戦略(strategy of indirect approach)(37)の古典的実例である。
海軍力の維持には根本的に船の素材が──中でも地中海世界では貴重であった重厚な木材が──必要であり、獣皮と樹脂も造船所で必要になった。そしてこれらは海軍力によってこそ確保することができた。『アテナイ人の国制(Constitution of Athens)』の著者が言うように、「造船用の樹木に富んだ都市があっても、海の支配者の許し無しにそれを処分することができるだろうか?そしてそれは鉄や青銅、帆布という船の建造に必要な他の物資であっても同様である。海の支配者はそれらの行き先を問うことができるのだ」(38)。海軍から生じる需要が、紀元前5世紀のアテナイのマケドニアとの交渉に反映しており、そこではマケドニアからの適切な輸出に関して事前に損害賠償を保証することが要求されている(39)。同様のことはヘレニズム時代についても言えるのであって、大海軍国を目指したエジプトにとっては、シリアはエジプト内で入手不能な重厚な材木の産地として重要であり、エジプトの海上への野望が、シリアへ支配を伸ばそうと熱望する原因の一つとなっていたのである。これはエジプトの外交政策にも影響しており、ちょうど、スカンディナビアの森林から輸入する背の高い木々をネルソンの74隻の帆柱に、タールをそれらの船体の継ぎ目の詰め物にしようとして、戦略と外交政策が影響された、ナポレオン戦争時のイギリスと同じようなものである。
最後により広い視野から見た陸海の相互作用について一言しておこう。歴史に対する海軍力の影響に関するマハンの著作以降、海軍の強さが陸上の戦争に与えた影響については大いに意識が向けられるようになっている。「視界にはいることのない、遠くの船団の風雨にさらされた帆」によって阻止された、ブーローニュの断崖上のナポレオンの大陸軍の姿を想像することは、少なくとも私にとっては、感謝と喜びをもたらすものだ。だが既述のいくつかの理由のせいで、古代の艦隊はこのような遠距離からの圧力を発揮することができなかった。ギリシアとマケドニアの艦隊は、ローマの艦隊もそうであったように、敵の陸軍の移動を妨げると言うよりは、味方の陸軍の移動を保証するのにより適した存在であった。それでも古代において、海軍力による圧迫が敵の陸軍を孤立させたり阻止することはできた。シラクサを目前にしたアテナイ軍が大港での戦いで敗北すると、それとともに陸軍も敗北した。ギリシア軍がサラミスの戦いに勝利したことは、ペルシア陸軍の撃破可能な兵力への縮小を意味した。紀元前3世紀のエジプト海軍の敗北は、プトレマイオス朝から、ギリシア本土とエーゲ海世界へ有効な干渉を行うための力を奪い取った(40)。ただ陸海の軍事的な相互作用が双方向に働いていたとしても、海軍活動は陸軍活動に制圧されていたと言って良いであろう。
アレクサンドロス大王の戦歴からその例を一つ挙げよう。強大なペルシア海軍を滅ぼすことは彼にとって絶対的な重要性を持っており、さもなくばペルシア海軍はギリシアに接近して彼にとっての大きな脅威となったであろう。この問題を乗り越えるためにアレクサンドロスが採った方法は、小アジアの西海岸の支配を奪取し、ついでフェニキアを支配し、ペルシア船団の乗組員にペルシア王への忠勤と帰郷の二者択一を突きつけることであった(41)。根を断たれたことでペルシア艦隊は枯れ果てた。そして転向者の姿をアレクサンドロスのインダス平野への侵入の際に見出すことができる。これは実行可能な範囲では最大級の陸上作戦であった。そしてアレクサンドロスはこれを、有能で応変の才に富んだ提督の指揮する海軍の航行と、注意深く連携させていた(42)。時と場所しだいで、海軍力と陸軍力が、友でも敵でもあり、同僚でも競争相手でもあると認識すること、そして両者の最善の活用を為すことは、戦争術の重要要素であった。
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3 海戦
今度は戦術ではなく戦略分野における海軍の活用に話を向けよう。古代の船舶が割と発見しにくかったために、海上支配の価値が制限される一方、戦略的な便宜の確保や奇襲の実行が可能となったことは、観察しておく価値がある。全ての優れた戦争の判定者によって奇襲は高い価値を与えられており、奇襲実行の能力は陸海の軍事的才幹を判定する一つの基準となる。だが奇襲はギリシアとマケドニアの戦争では陸海ともに一般的でなかった。偵察と情報収集の技法が古代の軍隊で重視されていなかったというのは全く真実である。そして奇襲を達成するには通常良質の情報が必要であり、奇襲を防ぐ場合も全く同様である。ところが驚くべきことに、軍隊も艦隊も巧妙に計画された奇襲の犠牲者になることがあまりないのである。そこで、古代の司令官達は、ローマのみならずギリシアとマケドニアにおいても、敵に不意を突かれかねない無鉄砲な行動や冒険的な計画を好まなかったと、推測するより他あるまい。ただトゥキュディデス(27)の時代以降は、戦争には予測不能な要素が存在し、必然的に巨大化していくのを、はっきり見て取ることができる。それでも古代の将軍と提督達は、その状況を、馴染んで利用するよりは嫌い恐れていたのであろう。
だが艦隊と艦隊の素早く密かに軍隊を輸送する能力を活用した戦略は存在していた。すなわち紀元前5世紀はじめのスパルタ王クレオメネスは、敵対するアルゴス軍を防御拠点から誘い出すため、自軍を夜の闇に紛れて敵の後背地の海岸へと海上輸送し、別方面からアルゴスに向かって前進し、決戦することを強いた(28)。さらに艦隊が陸上作戦に随伴することで陸海の連携作戦が成立し、戦略家の活躍の場が用意されることもあった。すなわち大ペルシア戦争のテルモピュライにおけるレオニダスの抗戦の主目的は、ギリシア艦隊に勝利が期待できる狭い海域での決戦の機会を与えて、ペルシア陸軍の前進を阻止しようとするものであった。この期待が叶えられることはなく、レオニダスと彼の指揮下のスパルタ兵たちは無駄死にすることになった。
これより成果のあった戦略としては、サラミスでギリシア艦隊を、ペルシア軍の陸海における進撃の側面を制する形で、配置した例がある(29)。ギリシア艦隊は、プリマス付近のイギリス艦隊が英仏海峡を通って低地帯諸国にいるパルマ公の元を目指すスペイン無敵艦隊に与えたのと同様の脅威を、ペルシア軍に与えることになった。ペルシア軍は脅威を取り除こうとして攻撃をかけ破滅することになったし、スペイン軍は脅威を軽視したため成功を収めることができなくなった。
より広義の海軍戦略の分野においては、ギリシア人と東洋人の混住するキプロス島が戦略的な重要性を有している。その重要性は主にその地理上の配置からくるものである。 この島は、ギリシアの政治経済の一員となるにはエーゲ海のギリシア海域から遠すぎたが、ペルシアの海軍力の最大の基盤となっているフェニキア海岸には近く、ペルシア海軍の発展を妨害するのに有益であった。したがって、ギリシアの海軍力がキプロスをしっかりと掌握することができれば、エーゲ海東部をペルシア艦隊の介入から守る上で大きな効果がある。二度──紀元前5世紀初頭と紀元前4世紀初頭に──ギリシアは海軍の前線基地たるキプロスを十分掌握できなくなったことがあり、それは致命的な危険を招くことになっている。イオニアの反乱の時には、初期の成功が過ぎるとギリシア人はキプロスの支配を喪失してしまい(30)、フェニキア艦隊の大規模なエーゲ海侵入が可能となって、反乱は失敗するに至っている。さらに一世紀後、小アジア西部のペルシアの太守たちの巧妙な戦略によって同じ事態が引き起こされ、スパルタ人の小アジア支配の最後の希望を打ち砕き、ペルシア人のギリシアへの介入路を復活させるに至っている(31)。間の一世紀において堅実な戦略家である、アテナイの提督キモンは、二度キプロスへと海軍による攻撃を仕掛けている(32)。一回目には、彼がアテナイの戦略の指導権を失い、彼の艦隊はエジプトのペルシアに対する反乱を支援するのに転用されることになった。二度目には事業が完全に成功する前に彼が死んだ。だがそれはフェニキア艦隊のギリシア海域への進出を封じる暫定協定が、アテナイとペルシアの間で成立するのに大きな貢献を果たし、一世代の間エーゲ海はアテナイの湖水と化した。キプロスの物語はこれでは終わらない。ペルシア人は王の平和と言われる時期において、この島の完全な支配を注意深く回復したが、その世紀の半ばにはこの島は独立してペルシアにとって重大問題と化し、やがてアレクサンドロスや後のアンティゴノスにとっても戦略的な重要性を持つことになった(33)。アンティゴノスの息子デメトリオスが海戦で大勝利を収めたのもキプロスの海域であったし(34)、その頃までにこの島は、プトレマイオス朝の、海軍活動の末端かつエジプトと地中海東岸の中継地として、その海洋戦略の目標となっていた。そしてその後も、ヘレニズム諸国の海軍が紀元前3世紀後半に全般的に衰退するまでは、この島は紛争の対象となることを止めなかったのである。
アテナイの海洋戦略のより一層重要な課題は、自国の商業活動にボスポラス海峡とダーダネルス海峡の通航を保証することであった。紀元前5世紀と4世紀を通じて、黒海北岸からアテナイにアッティカの商品と引き替えにもたらされる穀物が、アテナイの食糧供給の生命線であった。アテナイはこれらの海峡を支配する敵対勢力の出現を許すことはできなかった。これらの海域と、ダーダネルスの外側の護りたるレムノス、イムブロスの二つの島は、平時にあってはアテナイの外交の、戦時にあってはアテナイの戦略の重大問題であり続けた。紀元前5世紀の大半においてアテナイのこの方面における海洋戦略は、アテナイ帝国の全般的な海上支配体制の中に紛れ込んでいた。だがこの問題がペロポネソス戦争の最後の十年になると表面化する。敵が小アジアの西海岸に勢力基盤を手に入れ、海戦がダーダネルスへと近づいていったためである(35)。敵勢力はそれらの区域の重要性を見落とすことはなく、有能なスパルタの提督ミンダロスは大胆な移動を行って海戦の舞台をこの海域へと移した。これ自体は惨敗に終わったが、それらの区域におけるアテナイ海軍の回復不能な敗北は確かにアテナイの降伏を引き起こすことになるのである。
ダーダネルスにおける圧迫は紀元前4世紀のアテナイ人に屈従を強い、彼らはレムノスとイムブロスの保持を保証すると規定する王の平和に従うしかなかった(36)。この世紀のうちに多大な費用を投じて、アテナイの海上における勢力回復が、慎重な現実主義者のエウブロスによって推進されたが、それは海軍力がアテナイの生存そのものを保証する一つの道だったからである。マケドニアのピリッポス2世は、最低でもアテナイ人を彼のギリシア政策に服従させる効果があると期待し、ペリントスとビザンティオンというボスポラスの通航を支配する強力な都市に向けて進撃した。これらの都市が彼の手に落ちれば、アテナイの食糧供給は、アテナイ海軍の卓越した力にもかかわらず、危機に陥ったであろう。アテナイ人はビザンティオンを前に展開する彼の作戦を妨げようと活発に動き回った。同時にペルシアも急遽ペリントスを支援しており、その結果、海峡問題の別の側面の存在までも明確化することになった──この行動によってペルシアはマケドニアが小アジアに侵入するという将来の危険を予防しようとしたのである。ビザンティオンへの奇襲攻撃が買収しようのない番犬たちの吠え声のせいで看破されてしまうなど、ピリッポスはその攻城戦の手腕にもかかわらず、両都市ともに攻略に失敗した。こうしたボスポラスにおける積極的な防衛の結果、ピリッポスはアテナイへの直接的な作戦にうったえることになった。彼のカイロネイアでの勝利は、彼にアテナイの政策および海峡に対する支配をもたらし、小アジアへの進入路を開く効果があった。これら全ての海峡経由のアテナイへの作、あるいはアテナイ経由の海峡への作戦は、いわゆる間接戦略(strategy of indirect approach)(37)の古典的実例である。
海軍力の維持には根本的に船の素材が──中でも地中海世界では貴重であった重厚な木材が──必要であり、獣皮と樹脂も造船所で必要になった。そしてこれらは海軍力によってこそ確保することができた。『アテナイ人の国制(Constitution of Athens)』の著者が言うように、「造船用の樹木に富んだ都市があっても、海の支配者の許し無しにそれを処分することができるだろうか?そしてそれは鉄や青銅、帆布という船の建造に必要な他の物資であっても同様である。海の支配者はそれらの行き先を問うことができるのだ」(38)。海軍から生じる需要が、紀元前5世紀のアテナイのマケドニアとの交渉に反映しており、そこではマケドニアからの適切な輸出に関して事前に損害賠償を保証することが要求されている(39)。同様のことはヘレニズム時代についても言えるのであって、大海軍国を目指したエジプトにとっては、シリアはエジプト内で入手不能な重厚な材木の産地として重要であり、エジプトの海上への野望が、シリアへ支配を伸ばそうと熱望する原因の一つとなっていたのである。これはエジプトの外交政策にも影響しており、ちょうど、スカンディナビアの森林から輸入する背の高い木々をネルソンの74隻の帆柱に、タールをそれらの船体の継ぎ目の詰め物にしようとして、戦略と外交政策が影響された、ナポレオン戦争時のイギリスと同じようなものである。
最後により広い視野から見た陸海の相互作用について一言しておこう。歴史に対する海軍力の影響に関するマハンの著作以降、海軍の強さが陸上の戦争に与えた影響については大いに意識が向けられるようになっている。「視界にはいることのない、遠くの船団の風雨にさらされた帆」によって阻止された、ブーローニュの断崖上のナポレオンの大陸軍の姿を想像することは、少なくとも私にとっては、感謝と喜びをもたらすものだ。だが既述のいくつかの理由のせいで、古代の艦隊はこのような遠距離からの圧力を発揮することができなかった。ギリシアとマケドニアの艦隊は、ローマの艦隊もそうであったように、敵の陸軍の移動を妨げると言うよりは、味方の陸軍の移動を保証するのにより適した存在であった。それでも古代において、海軍力による圧迫が敵の陸軍を孤立させたり阻止することはできた。シラクサを目前にしたアテナイ軍が大港での戦いで敗北すると、それとともに陸軍も敗北した。ギリシア軍がサラミスの戦いに勝利したことは、ペルシア陸軍の撃破可能な兵力への縮小を意味した。紀元前3世紀のエジプト海軍の敗北は、プトレマイオス朝から、ギリシア本土とエーゲ海世界へ有効な干渉を行うための力を奪い取った(40)。ただ陸海の軍事的な相互作用が双方向に働いていたとしても、海軍活動は陸軍活動に制圧されていたと言って良いであろう。
アレクサンドロス大王の戦歴からその例を一つ挙げよう。強大なペルシア海軍を滅ぼすことは彼にとって絶対的な重要性を持っており、さもなくばペルシア海軍はギリシアに接近して彼にとっての大きな脅威となったであろう。この問題を乗り越えるためにアレクサンドロスが採った方法は、小アジアの西海岸の支配を奪取し、ついでフェニキアを支配し、ペルシア船団の乗組員にペルシア王への忠勤と帰郷の二者択一を突きつけることであった(41)。根を断たれたことでペルシア艦隊は枯れ果てた。そして転向者の姿をアレクサンドロスのインダス平野への侵入の際に見出すことができる。これは実行可能な範囲では最大級の陸上作戦であった。そしてアレクサンドロスはこれを、有能で応変の才に富んだ提督の指揮する海軍の航行と、注意深く連携させていた(42)。時と場所しだいで、海軍力と陸軍力が、友でも敵でもあり、同僚でも競争相手でもあると認識すること、そして両者の最善の活用を為すことは、戦争術の重要要素であった。
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by trushbasket
| 2010-12-27 20:27
| My(山田昌弘)








