2010年 12月 31日
F.E.Adcock『ギリシア人とマケドニア人の戦争術』 山田昌弘訳 新装版 第4講 本文 前半
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注釈は別ページ
4 騎兵、象兵、攻城技術
ギリシアの戦争においては馬が引く戦車の使用は古典時代以前に廃れていた。戦車は北アフリカのキュレネとバルケでは使用が続き、エウボイアのエレトリアでは六十台の戦車が閲兵や行進などの場合には登場したが──戦車はむしろ古代中東諸王国の軍事史に属しているのであって、我々にとってはほとんど語る必要がない。戦車によって戦いに勝利しようとする真剣な試みで我々に関係があるものは、ガウガメラにおけるダレイオスのそれであるが、これは完全に失敗している。おそらくこれはアレクサンドロスの軽装兵部隊が戦車を最高速度になる前に攻撃したためである(1)。同様の事態がマグネシアでローマ軍と戦ったアンティオコス大王の鎌付き戦車の場合にも起こっている。そこで私は、鎌があろうが無かろうが、戦車には退場してもらって構わないと考える。他方、紀元前7世紀までに、騎兵はいくつかの国家の武装兵力の内で正規の部隊を形成していたが、特に顕著なのは国土が平坦なテッサリアで、ボイオティアとその隣国もある程度は目立つところである。それより後には、騎兵は、カルキディケそしてシチリア、中でもシラクサにおいて、存在の形跡をたどることができる。アテナイは貴族の騎士軍を保有しており、パルテノンの彫刻壁には誇らしげに騎乗するその姿が見られるし、一時は多少の騎馬弓兵も存在した。マケドニアでは地主とその個人的な従者が、かの有名なアレクサンドロス大王の友たる騎兵隊の先駆を成した。小アジアではいくつかの都市が、隣人のリュディア人を真似て騎兵を保有していた。しかしながら、ギリシアの大半は馬の飼育や騎兵の使用にあまり適してはおらず、未だ蹄鉄が発明されていなかった以上は、岩がちのギリシアの国土では兵士の騎乗が馬の脚を痛めかねなかった。このことは、クセノポンが馬のひづめを鍛えるためにひづめと同等の大きさの丸石を敷き詰めた道を踏みしめさせるという手法を提示していることから、証明されている(2)。なお、北イタリアで発見された蹄鉄が、紀元前4世紀はじめまで時代を遡る可能性があるのは確かだが、それはケルト起源のものであって、ここで我々の為す議論には関係のないものだ。遠征においては馬は大量の水と馬草を必要とするので、水の乏しい夏に戦争が起こると馬は渇することになった。ギリシアでは騎馬隊はどこにおいても少数派だったようだ。大型の軍馬は、ギリシアの外界はるか、特に、広い平原と豊かな馬草に恵まれ尋常でない広大さと強盛を誇ったメディアにおいて飼育されていた(3)。そしてギリシアの大半の国々では、馬は、馬を保有できるだけの富と出自の象徴であり、富裕者は異境から競走馬を輸入した。だが戦争の実用目的という点では、地方貴族が広大な平原で半農奴の住人を支配する状態が続いたテッサリアはともかく、それより南の全ての諸国では馬は有力な兵器とは言えなかった。
騎兵には偵察という用途があったが、起伏の激しい地方では、これさえも軽装歩兵のほうが巧くできた。密集軍(phalanx)が崩れたときには騎兵は追撃に活躍できたが、既に見たように、初期においてはそれほど遠くまで追撃をかけることもなかった。密集軍(phalanx)は、側面や後背へと、騎兵が歩兵の動きを封じて攻撃をかけてきた際には、脆弱であった。アテナイの僭主ヒッピアスの同盟軍であるテッサリアの騎乗部隊が、やや小規模なスパルタ軍をパレロン湾の背後の平原で敗北させたときには、そのような事態が発生している(4)。また五十年後にも、アテナイのテッサリアへの侵入軍が騎乗した防衛軍に対して何もなし得ずに同様の事態に陥っている(5)。プラタイアの戦いの後には、ペルシア側で戦っていたテッサリアとボイオティアの騎兵が、ギリシア軍の勝ちに乗った追撃を遅らせている(6)。さらにシラクサの前面で行われた最初の決戦で、シチリアの騎兵は大活躍してアテナイ軍に対し同様の成果を挙げた(7)。スパルタ軍が小アジアで作戦を展開した際には、指揮官のアゲシラオス王は、自軍がペルシア騎兵に対抗できるとともに開けた地方を安全に進軍できるよう、多少は騎兵隊を集めようと苦労を重ねていた(8)。それでも全般的な状況としては、ギリシアの騎兵が記録に値する重要な戦果を挙げたことは、紀元前4世紀にいくつかの戦術が実施されるまでは、ごく僅かであった。
このことは全く驚くべきことではない。『アナバシス(Anabasis)』の興味をそそる文章では(9)、クセノポンは指揮下の歩兵達のペルシア騎兵に対する恐怖を払拭するため、千人の騎兵も千人の兵士に過ぎないと指摘している。「というのも、一人も」彼によれば、「今まで戦闘で、馬に咬まれたり蹴られたりして死んだことがないのである。そして歩兵は、馬の上で不安定に身構えて、敵に加えて落馬をも同じくらい恐れなければならない騎兵より、強く正確に打撃することができるのだ」。彼が認める騎兵の唯一の利点は、騎兵のほうが逃走の際に生き残る望みが大きいということであった。なお、この巧妙な弁舌は直接の目的を達成する上では成功を収めている。
不安定に身構えた騎兵というクセノポンの描写した状況をもたらした最大の原因は、ギリシア人が鐙や鐙を取り付けるための堅固な鞍を発明しなかったという事実である。現在明らかなこととしては、確かに、ローマ帝国の時代に、鞍の上で生活するも同然の遊牧民が最初に鐙を使用してみせるまでは、これらの発明は成されていなかったのである(10)。そしてクセノポンの騎兵に関する著作からは、鐙無しでは乗馬は困難な技術であったということと、起伏の激しい地形では馬と騎手はすぐに離れてしまったということを、推測することができる。この発明が成される以前は、騎兵は槍を腕より低く構えて強烈な突撃ができるほどには、しっかりと座ることができなかった。また騎兵は、騎兵が歩兵に対する際の最良の武器である、長い刀を使うこともできなかった。もし彼が攻撃を外せば、『鏡の国のアリス(Alice thorough the Lokking Glass)』の二人の騎士のように、落馬してしまうからである。
近代戦では火力が騎兵を消滅させてしまったし、騎兵はもはや馬術の会の伝説的な会長殿のおかげで手に入れた役割さえ果たしていない──この役割とは、単なる野卑な喧嘩にちょっとした彩りを添えることを言っている。だが古代においては火力によって脅かされることはなく、騎兵にとっての危険は、専ら堅固かつ勇敢に隊形を保った槍兵であった。騎兵は重装歩兵(hoplites)の隊列の側に乗り付けて、突きを繰り出したり槍を投げたりすることはできた。だがそれに続いて馬首を返す際には極度に無防備な瞬間が訪れたし、そこに留まり続ければ、敵の槍が騎手には届かなくとも馬には届くことになった。そして騎手は胴鎧と小型の盾を装備していたが、馬はパルティアの重装騎兵や中世の騎士の乗馬のように鎧を着用するほどには強健でなかった。
敵に向かって真っ直ぐ馬を駆るということは──突撃戦法を行うということは──衝撃で落馬するか敵を打ち倒すかの二者択一であった。騎兵が突撃戦法を最大限に効果的に実施するには、最高度に巧妙な乗馬術に加えて、断固としてひるまない前進の意志が必要であった。これら要素の融合はアレクサンドロスの友たる騎兵隊や、ヘレニズム時代の彼の後継者たちの重装騎兵隊の一部において成し遂げられている。ただ、たとえそうであっても、攻撃を成功させようと思えば、敵戦列の間隙や弱点を利用したり、突撃に立ち向かうための武装や準備に劣る部隊を狙ったりしなくてはならなかった。このような状況を作り出すために、他の兵科とりわけマケドニア密集軍(phalanx)との協働が必要であった。アレクサンドロス以前にも、時折、騎兵突撃が見られ、そこでは縦深隊形をとった騎兵隊が薄い隊形の騎兵隊を蹂躙するか突破している(11)。同様に重装騎兵は、柔軟な防御に熟練するとともに突撃の直撃を避ける能力を有していた軽装騎兵に対したときでさえ、勝利することができた(12)。なお、アレクサンドロスの戦列の防御側の翼に姿を見せているテッサリア騎兵は、おそらくはヘレニズム時代の軽騎兵のようにそれらの防御法を訓練されていた。また、いくつかの軍隊では、テバイでそうであったように、時に騎兵に随伴する軽装歩兵が散開しているが、この散開隊形は、攻撃ではなく防御を、強烈な突撃ではなく攪乱を意図したものだろう。
騎兵が敵の歩兵や騎兵を突破することに成功した場合に、戦場の他の地点でさらなる勝利が必要となるのに備えて、適時に停止と隊形の再編を為すことは、高度な規律と強力な統率力を必要とする。「この世に存在しないものとは」とマルモンが記したのは「完璧な騎兵指揮官より貴重な存在である。必要な資質は非常に多岐に渡るうえ互いに矛盾していて一人の人間の内に並存することが滅多にない。何より重要なのは、確かで素早い眼力と、慎重さを兼ね備えた迅速で力強い決断である。移動を始めるに当たって錯誤や過失があれば、瞬時に実行されてしまう以上、取り返しがつかないのだから」(13)。これらの貴重な資質をアレクサンドロスは高い水準で備えていた。彼の偉大さは、いつどこへ突撃するかの素早い決断(14)、友を鼓舞して真っ直ぐ強烈に突撃させる力、そして突撃で敵を突破した際に為す行動の制御に現れている。
アレクサンドロスは騎兵で戦いを決着する術以外に、ガウガメラの後の徹底した追撃によって、騎兵で戦いを決定的なものとする術をも示している。William Tarn卿の文章を引用して良いならば、「勝利とは何であるかについてのアレクサンドロスの理解はネルソンのそれに等しく、兵士が落伍し馬がつぶれようと、彼は夜が来るまで追撃を続け、真夜中まで休むと再開し、戦場から90キロ離れたアルベラに着くまでの間、手綱を引くことはなかった。彼は、敵に軍隊としての再編をさせないと決めていたのである」(15)。勝ちに乗った騎兵が、他の地点で必要とされているときに、まっしぐらに勝ちを追いかけすぎると、戦いに敗れることにもなった(16)。このような失策を彼が犯すことはなく、彼の後継者達もごくまれにしか犯さなかった。ヘレニズム時代の大きな戦いの大半において、騎兵は進撃の命令も停止の命令にも従うことができた(17)。なお、マルモンは騎兵のいない戦いでは決定的な戦果を挙げることはできないと断言している。これは完全な真理ではないけれど、かつてのギリシアとマケドニアの戦争と比べれば、アレクサンドロス以降の時代では真理に近い状態にあったと言える。
マルモンの警句に戻ろう(18)。彼は騎兵の行動について、「瞬時に実行されてしまう」と語ったことで、彼の時代すなわちナポレオン戦争期の騎兵、特に軽騎兵についての真理を暴き出している。スウェーデンのカール12世以降、騎兵はしだいに高速での移動を習得していった。フリードリヒ大王の戦いにおける騎兵の絶大な威力は、ツィーテンとザイドリッツが指揮して成し遂げた高速移動のおかげであった。決定的攻撃の好機とは瞬く間に過ぎ去ってしまうものだが、この機を捉える騎兵の能力が、騎兵という兵科を特別な期待を受ける存在に仕立て上げている。アレクサンドロスも後継者たちも戦闘において軽騎兵を見事に活用しているし、マケドニアの軍事的興隆以前のギリシア都市国家が生んだ騎兵指揮官テバイのペロピダスは、素晴らしい速度で騎兵攻撃に駆け出している。ちなみにギリシア人とマケドニア人は東洋で飼育されているような良馬は持っておらず、そのため、たとえばペルシア人騎士やバクトリア人騎士にくらべて馬では劣ったかもしれないが、それ故かえっていくつかの点では優れた力を発揮した。抑制が大きな価値を持つ場面では、気位の高い馬を持たないことは、馬が暴れるおそれがないので、かえって利点となった。冷静な精神の具現化とでも言うべきウェリントン公が、友人のスタンホープに対して思い出語りした言葉があるが、それをここで持ち出すのも的はずれではあるまい。「フランスの騎兵は」彼によれば「イギリスのものより扱いやすく優秀であったが、それは常に制御され、命令を下して停止することができたからだ。これには、我々の馬のほうが良馬で、状態も良好だったことも影響している」(19)。
馬と騎手については十分に語ったので、今度は、もっと巨大なもの、象および象使いへと話を移そう。特別な訓練を受けていない馬は象の姿と鳴き声にひるむので、象を馬に対して、単独であるいは馬ととともに差し向けることは間違ってはいなかった。ついでにここで、ラクダの姿と臭いも馬に対して同様の効果を持つことを付け加えておこう。ラクダは古代の軍隊には時折姿を現しており、紀元前6世紀にはリュディアのクロイソスの高名な騎兵隊を敗走させている(20)。ただ、ラクダは見た目は不快で攻撃精神も備わっていたけれど、厚皮動物の象ほどには素質に恵まれていなかった。そして──象に話を戻すと──象は、ヘレニズム時代の初期においては、主に敵の優勢な騎兵を無力化するのに使用されており、例えば紀元前301年のイプソスの戦いにおいては、象部隊を一列間に置くことで、勝ちに乗って行ったデメトリオスの騎兵が戦闘に復帰するのを妨げている(21)。
アレクサンドロス自身が象をどのように使用したかは語ることが不可能である。彼が象と真剣に戦ったのは、ヒュダスペスにおける激戦一度きりである。ペルシア軍はガウガメラにおいて十五頭の象を保有していたが、いかなる理由かはともかく、象が戦闘で姿を現すことはなかった。アレクサンドロスはインド遠征からの帰路において百頭を優に超える象を伴っていたが、彼がこれを戦闘で使う機会を得ることはなかった。彼の後継者たちのほとんどは多くの象を集めており、特にヒュダスペスで象と戦ったセレウコスは、象を自分の王朝の象徴に採用していた(22)。実際、彼は象を手に入れるため、広大な領土をインド王チャンドラグプタに割譲しており、その多くはイプソスの戦いで使用されて大いに効果を発揮することになった。アンティゴノス1世は敵手であるカルディアのエウメネスの象部隊を不意打ちで捕獲しようと多大な労力を払ったが、彼らは巧みな動きで身を守っている(23)。プトレマイオス朝では獣のプトレマイス(Ptlemais Theron)(24)と呼ばれる町を、この貴重な四足獣の捕獲に派遣される狩人の基地として建設している。幾人かのヘレニズムの指揮官達は象に評判通りの働きをさせようと大いに創意工夫している。象は互いを守れるよう軽装兵とともに姿を現し──あるいは密集軍(phalanx)の大隊の間に配置されて、全軍が塔を連ねた城壁に例えられることもあった。象は時には怯えないよう訓練された騎兵のための遮蔽幕として使用されることもあったし、時には歩兵の隊列の前衛部隊であるかのように、敵の攻撃を粉砕しあるいは遅らせるのに利用されることもあった。紀元前317年のパライタケネの戦いでは、ディオドロスによって得られる隊形から判断して、エウメネスの114頭の象部隊とアンティゴノス1世の65頭の象部隊の両方がこの使い方をされたようである。ただ一旦戦闘が開始して以降については、おそらくディオドロスが原資料を写し取る際に見落としたせいで、それ以上は何も分かっていない。
一方、五年後のガザの戦いでは、プトレマイオスは象部隊を持っておらず、敵手のデメトリオスの象部隊を、杭と鎖をつなぎ合わせたとげ状の移動施設を使用して、阻止することになった(25)。そして象は柔らかく傷つきやすい足でとげを踏みつけた。ちなみにこれは六年前にギリシアで町の防衛に使われた設備である。とげには発見する前に接触することになったはずで、要するに、移動能力付きの古代式地雷原とでもいうべきものであった。
ただ、あらゆる新発明を喜んで受け入れた技術開発の時代にありながら、指揮官達は少しずつ象に失望していった。象は戦争の霧の中に巨大な存在感をもって姿を現したものの、勝利をもたらす秘宝ではなかった。実際、象は、登場する戦い全てを検討すれば、勝利の最前線に立っているよりは敗北の中にいるほうが多い。象が古代の戦争において近代戦車の地位にあったという近代に行われた魅惑的な想像は過大評価である(26)。ローマ軍が第一次ポエニ戦争時にシチリアで行ったように、巧妙に攻撃すれば、象が逆進することもあった(27)。その上、象は恐慌に陥りがちで、マグネシアのように味方を踏みにじることがあった。結局、象は戦力としては当てにならず、乗り手に非常に高い技能が要求されたのである。この事実からすれば、配置転換によって、象の反対側に象使いが布陣されるという皮肉な状況が出現するようになるのも当然のことであろう(28)。
時には、象部隊は柵のような脆弱な防御施設に対して効果的に使用されたし、カルタゴに仕えたスパルタ人指揮官クサンティッポスは一度、歩兵の密集戦列に対しても非常に効果的に使用している。だがほとんどの戦いでは、騎兵に対する計略として使用するのを別にして、象部隊は壊れた笛のように役立たずであり、何も期待をかけられてはいなかった。象部隊の歩兵戦闘における最大の成功としては、それまで象を見たことのなかったガリア人の軍隊を相手にした紀元前275年の有名な「象の戦い」があり(29)、またピュロスのローマに対する最初の勝利もそうであるが、この時のローマ人もこの動物を知らなかったことは、彼らが象について「ルカニアの牛」などという奇妙な記述をしていることから証明されている。さらには既に述べたクサンティッポスの勝利も挙げることができる。時の経過とともに象はあちこちの軍隊に姿を現している。紀元前197年のキュノスケファライでは、ローマ軍の数頭の象が、マケドニア密集軍(phalanx)の布陣の致命的な遅れを引き起こしたのかもしれない。カエサルはヌミディア王ユバの象部隊を攻撃するため自軍を特別に訓練している(30)。クラウディウス帝がブリタニアに現れて、既に達成された勝利に、自分の栄誉ある参戦という事実を押しつけようとした際、彼は象を伴うことで自らの威厳を強化しようとした。その後、象部隊は戦争から姿を消すが、時折見られる彼らの勝利についてそれなりの評価を与えたとしても、象が登場から消滅までの間、役割を果たしていたと断言することは不可能である。
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4 騎兵、象兵、攻城技術
ギリシアの戦争においては馬が引く戦車の使用は古典時代以前に廃れていた。戦車は北アフリカのキュレネとバルケでは使用が続き、エウボイアのエレトリアでは六十台の戦車が閲兵や行進などの場合には登場したが──戦車はむしろ古代中東諸王国の軍事史に属しているのであって、我々にとってはほとんど語る必要がない。戦車によって戦いに勝利しようとする真剣な試みで我々に関係があるものは、ガウガメラにおけるダレイオスのそれであるが、これは完全に失敗している。おそらくこれはアレクサンドロスの軽装兵部隊が戦車を最高速度になる前に攻撃したためである(1)。同様の事態がマグネシアでローマ軍と戦ったアンティオコス大王の鎌付き戦車の場合にも起こっている。そこで私は、鎌があろうが無かろうが、戦車には退場してもらって構わないと考える。他方、紀元前7世紀までに、騎兵はいくつかの国家の武装兵力の内で正規の部隊を形成していたが、特に顕著なのは国土が平坦なテッサリアで、ボイオティアとその隣国もある程度は目立つところである。それより後には、騎兵は、カルキディケそしてシチリア、中でもシラクサにおいて、存在の形跡をたどることができる。アテナイは貴族の騎士軍を保有しており、パルテノンの彫刻壁には誇らしげに騎乗するその姿が見られるし、一時は多少の騎馬弓兵も存在した。マケドニアでは地主とその個人的な従者が、かの有名なアレクサンドロス大王の友たる騎兵隊の先駆を成した。小アジアではいくつかの都市が、隣人のリュディア人を真似て騎兵を保有していた。しかしながら、ギリシアの大半は馬の飼育や騎兵の使用にあまり適してはおらず、未だ蹄鉄が発明されていなかった以上は、岩がちのギリシアの国土では兵士の騎乗が馬の脚を痛めかねなかった。このことは、クセノポンが馬のひづめを鍛えるためにひづめと同等の大きさの丸石を敷き詰めた道を踏みしめさせるという手法を提示していることから、証明されている(2)。なお、北イタリアで発見された蹄鉄が、紀元前4世紀はじめまで時代を遡る可能性があるのは確かだが、それはケルト起源のものであって、ここで我々の為す議論には関係のないものだ。遠征においては馬は大量の水と馬草を必要とするので、水の乏しい夏に戦争が起こると馬は渇することになった。ギリシアでは騎馬隊はどこにおいても少数派だったようだ。大型の軍馬は、ギリシアの外界はるか、特に、広い平原と豊かな馬草に恵まれ尋常でない広大さと強盛を誇ったメディアにおいて飼育されていた(3)。そしてギリシアの大半の国々では、馬は、馬を保有できるだけの富と出自の象徴であり、富裕者は異境から競走馬を輸入した。だが戦争の実用目的という点では、地方貴族が広大な平原で半農奴の住人を支配する状態が続いたテッサリアはともかく、それより南の全ての諸国では馬は有力な兵器とは言えなかった。
騎兵には偵察という用途があったが、起伏の激しい地方では、これさえも軽装歩兵のほうが巧くできた。密集軍(phalanx)が崩れたときには騎兵は追撃に活躍できたが、既に見たように、初期においてはそれほど遠くまで追撃をかけることもなかった。密集軍(phalanx)は、側面や後背へと、騎兵が歩兵の動きを封じて攻撃をかけてきた際には、脆弱であった。アテナイの僭主ヒッピアスの同盟軍であるテッサリアの騎乗部隊が、やや小規模なスパルタ軍をパレロン湾の背後の平原で敗北させたときには、そのような事態が発生している(4)。また五十年後にも、アテナイのテッサリアへの侵入軍が騎乗した防衛軍に対して何もなし得ずに同様の事態に陥っている(5)。プラタイアの戦いの後には、ペルシア側で戦っていたテッサリアとボイオティアの騎兵が、ギリシア軍の勝ちに乗った追撃を遅らせている(6)。さらにシラクサの前面で行われた最初の決戦で、シチリアの騎兵は大活躍してアテナイ軍に対し同様の成果を挙げた(7)。スパルタ軍が小アジアで作戦を展開した際には、指揮官のアゲシラオス王は、自軍がペルシア騎兵に対抗できるとともに開けた地方を安全に進軍できるよう、多少は騎兵隊を集めようと苦労を重ねていた(8)。それでも全般的な状況としては、ギリシアの騎兵が記録に値する重要な戦果を挙げたことは、紀元前4世紀にいくつかの戦術が実施されるまでは、ごく僅かであった。
このことは全く驚くべきことではない。『アナバシス(Anabasis)』の興味をそそる文章では(9)、クセノポンは指揮下の歩兵達のペルシア騎兵に対する恐怖を払拭するため、千人の騎兵も千人の兵士に過ぎないと指摘している。「というのも、一人も」彼によれば、「今まで戦闘で、馬に咬まれたり蹴られたりして死んだことがないのである。そして歩兵は、馬の上で不安定に身構えて、敵に加えて落馬をも同じくらい恐れなければならない騎兵より、強く正確に打撃することができるのだ」。彼が認める騎兵の唯一の利点は、騎兵のほうが逃走の際に生き残る望みが大きいということであった。なお、この巧妙な弁舌は直接の目的を達成する上では成功を収めている。
不安定に身構えた騎兵というクセノポンの描写した状況をもたらした最大の原因は、ギリシア人が鐙や鐙を取り付けるための堅固な鞍を発明しなかったという事実である。現在明らかなこととしては、確かに、ローマ帝国の時代に、鞍の上で生活するも同然の遊牧民が最初に鐙を使用してみせるまでは、これらの発明は成されていなかったのである(10)。そしてクセノポンの騎兵に関する著作からは、鐙無しでは乗馬は困難な技術であったということと、起伏の激しい地形では馬と騎手はすぐに離れてしまったということを、推測することができる。この発明が成される以前は、騎兵は槍を腕より低く構えて強烈な突撃ができるほどには、しっかりと座ることができなかった。また騎兵は、騎兵が歩兵に対する際の最良の武器である、長い刀を使うこともできなかった。もし彼が攻撃を外せば、『鏡の国のアリス(Alice thorough the Lokking Glass)』の二人の騎士のように、落馬してしまうからである。
近代戦では火力が騎兵を消滅させてしまったし、騎兵はもはや馬術の会の伝説的な会長殿のおかげで手に入れた役割さえ果たしていない──この役割とは、単なる野卑な喧嘩にちょっとした彩りを添えることを言っている。だが古代においては火力によって脅かされることはなく、騎兵にとっての危険は、専ら堅固かつ勇敢に隊形を保った槍兵であった。騎兵は重装歩兵(hoplites)の隊列の側に乗り付けて、突きを繰り出したり槍を投げたりすることはできた。だがそれに続いて馬首を返す際には極度に無防備な瞬間が訪れたし、そこに留まり続ければ、敵の槍が騎手には届かなくとも馬には届くことになった。そして騎手は胴鎧と小型の盾を装備していたが、馬はパルティアの重装騎兵や中世の騎士の乗馬のように鎧を着用するほどには強健でなかった。
敵に向かって真っ直ぐ馬を駆るということは──突撃戦法を行うということは──衝撃で落馬するか敵を打ち倒すかの二者択一であった。騎兵が突撃戦法を最大限に効果的に実施するには、最高度に巧妙な乗馬術に加えて、断固としてひるまない前進の意志が必要であった。これら要素の融合はアレクサンドロスの友たる騎兵隊や、ヘレニズム時代の彼の後継者たちの重装騎兵隊の一部において成し遂げられている。ただ、たとえそうであっても、攻撃を成功させようと思えば、敵戦列の間隙や弱点を利用したり、突撃に立ち向かうための武装や準備に劣る部隊を狙ったりしなくてはならなかった。このような状況を作り出すために、他の兵科とりわけマケドニア密集軍(phalanx)との協働が必要であった。アレクサンドロス以前にも、時折、騎兵突撃が見られ、そこでは縦深隊形をとった騎兵隊が薄い隊形の騎兵隊を蹂躙するか突破している(11)。同様に重装騎兵は、柔軟な防御に熟練するとともに突撃の直撃を避ける能力を有していた軽装騎兵に対したときでさえ、勝利することができた(12)。なお、アレクサンドロスの戦列の防御側の翼に姿を見せているテッサリア騎兵は、おそらくはヘレニズム時代の軽騎兵のようにそれらの防御法を訓練されていた。また、いくつかの軍隊では、テバイでそうであったように、時に騎兵に随伴する軽装歩兵が散開しているが、この散開隊形は、攻撃ではなく防御を、強烈な突撃ではなく攪乱を意図したものだろう。
騎兵が敵の歩兵や騎兵を突破することに成功した場合に、戦場の他の地点でさらなる勝利が必要となるのに備えて、適時に停止と隊形の再編を為すことは、高度な規律と強力な統率力を必要とする。「この世に存在しないものとは」とマルモンが記したのは「完璧な騎兵指揮官より貴重な存在である。必要な資質は非常に多岐に渡るうえ互いに矛盾していて一人の人間の内に並存することが滅多にない。何より重要なのは、確かで素早い眼力と、慎重さを兼ね備えた迅速で力強い決断である。移動を始めるに当たって錯誤や過失があれば、瞬時に実行されてしまう以上、取り返しがつかないのだから」(13)。これらの貴重な資質をアレクサンドロスは高い水準で備えていた。彼の偉大さは、いつどこへ突撃するかの素早い決断(14)、友を鼓舞して真っ直ぐ強烈に突撃させる力、そして突撃で敵を突破した際に為す行動の制御に現れている。
アレクサンドロスは騎兵で戦いを決着する術以外に、ガウガメラの後の徹底した追撃によって、騎兵で戦いを決定的なものとする術をも示している。William Tarn卿の文章を引用して良いならば、「勝利とは何であるかについてのアレクサンドロスの理解はネルソンのそれに等しく、兵士が落伍し馬がつぶれようと、彼は夜が来るまで追撃を続け、真夜中まで休むと再開し、戦場から90キロ離れたアルベラに着くまでの間、手綱を引くことはなかった。彼は、敵に軍隊としての再編をさせないと決めていたのである」(15)。勝ちに乗った騎兵が、他の地点で必要とされているときに、まっしぐらに勝ちを追いかけすぎると、戦いに敗れることにもなった(16)。このような失策を彼が犯すことはなく、彼の後継者達もごくまれにしか犯さなかった。ヘレニズム時代の大きな戦いの大半において、騎兵は進撃の命令も停止の命令にも従うことができた(17)。なお、マルモンは騎兵のいない戦いでは決定的な戦果を挙げることはできないと断言している。これは完全な真理ではないけれど、かつてのギリシアとマケドニアの戦争と比べれば、アレクサンドロス以降の時代では真理に近い状態にあったと言える。
マルモンの警句に戻ろう(18)。彼は騎兵の行動について、「瞬時に実行されてしまう」と語ったことで、彼の時代すなわちナポレオン戦争期の騎兵、特に軽騎兵についての真理を暴き出している。スウェーデンのカール12世以降、騎兵はしだいに高速での移動を習得していった。フリードリヒ大王の戦いにおける騎兵の絶大な威力は、ツィーテンとザイドリッツが指揮して成し遂げた高速移動のおかげであった。決定的攻撃の好機とは瞬く間に過ぎ去ってしまうものだが、この機を捉える騎兵の能力が、騎兵という兵科を特別な期待を受ける存在に仕立て上げている。アレクサンドロスも後継者たちも戦闘において軽騎兵を見事に活用しているし、マケドニアの軍事的興隆以前のギリシア都市国家が生んだ騎兵指揮官テバイのペロピダスは、素晴らしい速度で騎兵攻撃に駆け出している。ちなみにギリシア人とマケドニア人は東洋で飼育されているような良馬は持っておらず、そのため、たとえばペルシア人騎士やバクトリア人騎士にくらべて馬では劣ったかもしれないが、それ故かえっていくつかの点では優れた力を発揮した。抑制が大きな価値を持つ場面では、気位の高い馬を持たないことは、馬が暴れるおそれがないので、かえって利点となった。冷静な精神の具現化とでも言うべきウェリントン公が、友人のスタンホープに対して思い出語りした言葉があるが、それをここで持ち出すのも的はずれではあるまい。「フランスの騎兵は」彼によれば「イギリスのものより扱いやすく優秀であったが、それは常に制御され、命令を下して停止することができたからだ。これには、我々の馬のほうが良馬で、状態も良好だったことも影響している」(19)。
馬と騎手については十分に語ったので、今度は、もっと巨大なもの、象および象使いへと話を移そう。特別な訓練を受けていない馬は象の姿と鳴き声にひるむので、象を馬に対して、単独であるいは馬ととともに差し向けることは間違ってはいなかった。ついでにここで、ラクダの姿と臭いも馬に対して同様の効果を持つことを付け加えておこう。ラクダは古代の軍隊には時折姿を現しており、紀元前6世紀にはリュディアのクロイソスの高名な騎兵隊を敗走させている(20)。ただ、ラクダは見た目は不快で攻撃精神も備わっていたけれど、厚皮動物の象ほどには素質に恵まれていなかった。そして──象に話を戻すと──象は、ヘレニズム時代の初期においては、主に敵の優勢な騎兵を無力化するのに使用されており、例えば紀元前301年のイプソスの戦いにおいては、象部隊を一列間に置くことで、勝ちに乗って行ったデメトリオスの騎兵が戦闘に復帰するのを妨げている(21)。
アレクサンドロス自身が象をどのように使用したかは語ることが不可能である。彼が象と真剣に戦ったのは、ヒュダスペスにおける激戦一度きりである。ペルシア軍はガウガメラにおいて十五頭の象を保有していたが、いかなる理由かはともかく、象が戦闘で姿を現すことはなかった。アレクサンドロスはインド遠征からの帰路において百頭を優に超える象を伴っていたが、彼がこれを戦闘で使う機会を得ることはなかった。彼の後継者たちのほとんどは多くの象を集めており、特にヒュダスペスで象と戦ったセレウコスは、象を自分の王朝の象徴に採用していた(22)。実際、彼は象を手に入れるため、広大な領土をインド王チャンドラグプタに割譲しており、その多くはイプソスの戦いで使用されて大いに効果を発揮することになった。アンティゴノス1世は敵手であるカルディアのエウメネスの象部隊を不意打ちで捕獲しようと多大な労力を払ったが、彼らは巧みな動きで身を守っている(23)。プトレマイオス朝では獣のプトレマイス(Ptlemais Theron)(24)と呼ばれる町を、この貴重な四足獣の捕獲に派遣される狩人の基地として建設している。幾人かのヘレニズムの指揮官達は象に評判通りの働きをさせようと大いに創意工夫している。象は互いを守れるよう軽装兵とともに姿を現し──あるいは密集軍(phalanx)の大隊の間に配置されて、全軍が塔を連ねた城壁に例えられることもあった。象は時には怯えないよう訓練された騎兵のための遮蔽幕として使用されることもあったし、時には歩兵の隊列の前衛部隊であるかのように、敵の攻撃を粉砕しあるいは遅らせるのに利用されることもあった。紀元前317年のパライタケネの戦いでは、ディオドロスによって得られる隊形から判断して、エウメネスの114頭の象部隊とアンティゴノス1世の65頭の象部隊の両方がこの使い方をされたようである。ただ一旦戦闘が開始して以降については、おそらくディオドロスが原資料を写し取る際に見落としたせいで、それ以上は何も分かっていない。
一方、五年後のガザの戦いでは、プトレマイオスは象部隊を持っておらず、敵手のデメトリオスの象部隊を、杭と鎖をつなぎ合わせたとげ状の移動施設を使用して、阻止することになった(25)。そして象は柔らかく傷つきやすい足でとげを踏みつけた。ちなみにこれは六年前にギリシアで町の防衛に使われた設備である。とげには発見する前に接触することになったはずで、要するに、移動能力付きの古代式地雷原とでもいうべきものであった。
ただ、あらゆる新発明を喜んで受け入れた技術開発の時代にありながら、指揮官達は少しずつ象に失望していった。象は戦争の霧の中に巨大な存在感をもって姿を現したものの、勝利をもたらす秘宝ではなかった。実際、象は、登場する戦い全てを検討すれば、勝利の最前線に立っているよりは敗北の中にいるほうが多い。象が古代の戦争において近代戦車の地位にあったという近代に行われた魅惑的な想像は過大評価である(26)。ローマ軍が第一次ポエニ戦争時にシチリアで行ったように、巧妙に攻撃すれば、象が逆進することもあった(27)。その上、象は恐慌に陥りがちで、マグネシアのように味方を踏みにじることがあった。結局、象は戦力としては当てにならず、乗り手に非常に高い技能が要求されたのである。この事実からすれば、配置転換によって、象の反対側に象使いが布陣されるという皮肉な状況が出現するようになるのも当然のことであろう(28)。
時には、象部隊は柵のような脆弱な防御施設に対して効果的に使用されたし、カルタゴに仕えたスパルタ人指揮官クサンティッポスは一度、歩兵の密集戦列に対しても非常に効果的に使用している。だがほとんどの戦いでは、騎兵に対する計略として使用するのを別にして、象部隊は壊れた笛のように役立たずであり、何も期待をかけられてはいなかった。象部隊の歩兵戦闘における最大の成功としては、それまで象を見たことのなかったガリア人の軍隊を相手にした紀元前275年の有名な「象の戦い」があり(29)、またピュロスのローマに対する最初の勝利もそうであるが、この時のローマ人もこの動物を知らなかったことは、彼らが象について「ルカニアの牛」などという奇妙な記述をしていることから証明されている。さらには既に述べたクサンティッポスの勝利も挙げることができる。時の経過とともに象はあちこちの軍隊に姿を現している。紀元前197年のキュノスケファライでは、ローマ軍の数頭の象が、マケドニア密集軍(phalanx)の布陣の致命的な遅れを引き起こしたのかもしれない。カエサルはヌミディア王ユバの象部隊を攻撃するため自軍を特別に訓練している(30)。クラウディウス帝がブリタニアに現れて、既に達成された勝利に、自分の栄誉ある参戦という事実を押しつけようとした際、彼は象を伴うことで自らの威厳を強化しようとした。その後、象部隊は戦争から姿を消すが、時折見られる彼らの勝利についてそれなりの評価を与えたとしても、象が登場から消滅までの間、役割を果たしていたと断言することは不可能である。
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by trushbasket
| 2010-12-31 13:05
| My(山田昌弘)








