2010年 12月 31日
F.E.Adcock『ギリシア人とマケドニア人の戦争術』 山田昌弘訳 新装版 第4講 本文 後半
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4 騎兵、象兵、攻城技術
攻城技術
戦争の手段についての話を終える前に、都市や城塞、陣営の防衛および攻略法について述べなくてはなるまい。我々が一つの単語──siegecraft(攻城技術)──に攻略と防衛の両方を含めているのは、少し語弊がある。考古学的な遺物はギリシアの英雄時代について、城塞都市と言うよりは中世の城を思わせる強力かつ複雑な小城塞の存在を、ティリンスなどでいくつか明らかにしている(31)。だが都市(polis)は要塞や避難所であることを止めて、共和的な都市国家へと生まれ変ろうとしていたのに、要塞は共同体の中枢、すなわち都心と王およびその側近を守れるにすぎなかった。ここで市壁が、市民の相当部分が永続的な安全を得られるだけの領域を、囲い込むようになった。市壁は通常礎石の上に煉瓦で築かれたが、未だ高くも強靱でもなく、またその必要もなく、市門を守ろうとする努力が多少見られる程度であった。小アジアでは多少強力な要塞の存在が、発掘の結果証明されているが、これは紀元前6世紀半ばの戦いで、ペルシア人がアッシリア人から学び取った攻城技術を防ぎきることができなかった。ただギリシア本土においては、簡素な市壁であっても、十分目的を達していた。
歴史時代のギリシアでは、ペロポネソス戦争の初期に至るまでは、ギリシア人によって強襲されたギリシア都市の存在を物語る確かな記録は存在していない。都市が恐れねばならなかったのは、飢えや敵への内通によって陥落することであった。ペリクレスはサモスに対して攻城装置を使用したと信じられているが(32)、都市は八ヶ月の抵抗の末に降伏したのであって(33)、このことから、直接攻撃ではなく、封鎖によって屈服したか飢えの恐怖によって屈服したと、推測することができる。ペロポネソス戦争では、小さな町のプラタイアが、当時の攻城技術の絶頂を極めたと思われる巧妙な攻撃を受けた後、封鎖用に巡らせた壁の中での二年の歳月の後、長引く飢えの圧力によって陥落した(34)。アテナイ軍は攻城技術についてある程度の名声を得ていたが、ポテイダイアは彼ら相手に三年近くも持ちこたえており、アテナイは、攻城戦における名声を保つため可能な限り素早く有利な結果を得る必要があったにもかかわらず、ここまでかかってどうにか条件付きで降伏させることができたにすぎない(35)。
攻囲戦は非常に高くつくものでポテイダイアの攻囲はアテナイの財政を大いに消耗させた(36)。ミュティレネがアテナイに対して反乱した際には、この都市は、飢えが始まって降伏を誘うとともに、市民の大群が武器を与えられて反乱の責任者の強硬派の貴族に反抗できるようになるまでは、攻略されなかった(37)。そしてシラクサに関してもアテナイ軍は、封鎖壁によるか都市の側の自発的な降伏に向けた動きに頼るかしなければ、攻略の見込みがなかった。メガラの長壁は、内通に助けられた一種の不意打ちによって(38)攻略されたが、ブラシダスもカルキディケで内通を得ていくつかの小都市を攻略した。デリオンの急造の防御施設は、巨大な吹管の一種から放射される炎に屈することになったが、これは柵以上のものではなかった(39)。結局、紀元前5世紀の最後の十年までは、いかなる規模のものであれ、ギリシア都市が強襲によって攻略されないというのは、厳然たる事実でありつづけた。その後シチリアにおいて強力なギリシア都市が、優れた兵器と蛮族傭兵の強襲部隊を擁するカルタゴ軍によって攻略された。このことは原則を証明する例外であって、その原則とは、ギリシア諸国は、強襲という無茶な冒険を強いることで、市民兵に重大な損害が出ることを望まないというものである。
紀元前4世紀になると変革が訪れる。ねじり式の弩の発明とその改良は都市の強襲を可能とした(40)。長射程で密度の高い弾幕を注いで、強襲の間守備隊の頭を押さえつけたり、守備隊の盾となる胸壁を破壊することが可能となった。この射撃は地上あるいは攻城塔から放たれた。長らくギリシアの軍隊につきまとってきた強襲の際の重大損害に対する恐れは、少なくとも弱められることになった。対壕や坑道を掘ったりはるかに強力な破城槌を打ち付けたりすることも容易になった。都市は門をますます念入りに固めたし、少し突き出した塔を用いることで、五世紀の単純な市壁に比べて攻撃軍に対する縦射が容易になったもかかわらず、外壁はどんどん簡単に攻略されるようになっていった。だがアイネイアス・タクティコスの都市防衛術に関するこの時代の著作から判断すれば、シチリアにおいてディオニュシオス1世が強固なモテュアの町に対し巧みな攻撃をかけたという例は見られるものの(41)、4世紀の前半には攻城装置の威力は完全には理解されていなかったようである。
それでもこの世紀の半ば頃には攻撃と防御の間にある種の均衡が成立するに至っており、マケドニアのピリッポス2世は、新式の攻城装置を備えギリシア人技術者を雇用していたにもかかわらず、ペリントスとビザンティオンの攻囲に失敗している。その後アレクサンドロス大王は攻城戦の達人であることを示した。彼は攻囲戦を、苛烈な意志と機略をもって断固たる態度で強力に推進した。都市がどれほど強固であっても、いかに技術と地勢を活かして防御しようと、彼の攻撃をくじくことはできなかったが、さもなくばペルシア帝国の征服などまるで不可能だったであろう(42)。なにより彼を際だたせているものは、勇気と忍耐の点で彼を失望させることの無い兵士達に支えられた、断固たる態度であった。彼の死後ギリシア人が反マケドニアに再起したときなど、彼らは決定的に重要なラミアの要塞の強襲に熱意を持って取り組まなかったし(43)、後にはデメトリオスは、巧妙な攻城技術を極めて攻囲者の異名を持ちながら、古代における最も有名な攻囲戦において、ロドス人の堅固で応変の防御を前に挫折している。
防衛技術は攻略技術に追いついてきた。この世紀の後期および次の世紀の要塞では、様々な種類の弩が、敵の攻城装置を遠く引き離し、工兵の隠れた壕や破城槌、攻城塔に射撃を浴びせるために使用されている。ギリシアの著述家の記述内に残った計算によると、様々な重さの弾を射出して様々な距離を飛ばすための計測が、科学的に行われていた。これらの記述の中には、投石用あるいは放矢用の弩や速射兵器の類といった、軍事器械に関する着想もまた残されていた。これはギリシア人の創造力に対する課題であって、紀元前3世紀には見事に達成されることになった。そして第二次ポエニ戦争におけるローマ軍に対するシラクサの防衛は、様々な方法を駆使して、哲学者アルキメデスの実用的な発明能力を見せつけている(44)。
これらのねじり式の弩とその変種の性能は、明らかに飛び道具を強化するものであった(45)。放矢用の弩は、単独の兵士を90メートルの距離から、兵士集団ならその倍の距離から、撃ち当てることができた。45度まで上げて高い弾道をとれば、450メートルも届かせることができたが、極度の長距離射撃は不正確であった。弩は、アレクサンドロスが行ったように、弓や投石の射程を超える幅の広い川を越えて射撃するのにも利用できた。投石用の弩は、180メートルまでは、最大級の石を狙い通り正確に射出する力があった。弩は全ての器械力によらない飛び道具に対し射程で優っていた。ただ、主に縄や髪の毛の特性である張力に頼って作り出した射出力が、たちまち低下してしまうために、弩は張り替えが非常に頻繁に必要となっており、結果、攻守の攻囲戦用兵器として使う場合を別にして、弩が戦争における真に有効な存在となることはできなかった(46)。さらに、弩が損害を減らすのに役立ったにせよ、実際に都市の防御を打ち破ったのは破城槌、対壕や坑道、あるいは巨大な攻城塔といった、古代中東の君主国起源の技術であったということも、思い起こしておくべきだろう。
攻防両面における創意工夫の競い合いが、軍事作戦を、17世紀のヨーロッパで行われたような攻囲中心の戦争へと、変貌させることはなかった。ヘレニズム時代の卓越した指揮官達は迅速な勝利の道を追い求めた。難攻不落の都市が軍事作戦の経過に大きな影響を与えたことはほとんど無かった。ただ強固な拠点、例えばアレクサンドロスの後継者の幾人かが築いた要塞化した大駐屯地は、戦略計画を支援する効果があった(47)。また強固な拠点には、デメトリオスの三つの要塞や、カルキス、マケドニアの支配の主柱でありギリシアの足かせと呼ばれたアクロコリントのように、政治支配を強化する効果もあった。
ところで目下の主題にとっては、これらの攻防設備が具体的に果たした役割には大して意味がなく、むしろそれら設備が、ギリシア人の創造力およびマケドニア人の判断力の戦争術への適用の証拠となる点に意味がある。そしてこの問題について論じるに際して、彼らの軍事的創造の例として、さらにいくつかの事項を持ち出すことも許されるだろう(48)。近代の発明を知る人は、その大半が、インドのゴムのようなギリシア人とマケドニア人には手に入らない素材、あるいは彼らが生み出す術を知らない高温が必要な製造技術によってしか実現できないと考えてしまうようである。彼らやコーカサスに住む彼らの隣人は、卓越した金属工であったが、高速度鋼を作る能力を持っていなかった。彼らは琥珀の小片を摩擦して観察しており、琥珀をelectronと呼んだにもかかわらず、電気を生み出す術を知らなかった。ギリシアの火の秘密をビザンツ帝国は慎重に保護していたが、だからといって古代人が褒賞を保証して発明を刺激する特許法の効用を知っていたわけではない。その上、明晰で鋭敏なギリシア人の精神は実用的な問題よりも理論的な問題にこそ敏感に反応した。それでも彼らは、弩や──これも彼らは道具の活用よりも計測の問題の方に惹きつけられていたが──その他の戦争に役立つ発明を行った。例えば梯子であり、改良された攻城梯子や観測用の盾付き梯子を目にすることができる。既に触れた破城槌はますます強力になったし、城壁の基礎を掘り抜くための装置も存在し、例えば振動させて対壕や坑道を掘り進める青銅盤が記録に残っている。火炎放射器の一種やヴェリー信号小銃の先駆的存在が、火薬の知識無しに実現していた。肉の絞り汁を軍隊で使用するための保存に際して酢が利用されたが、酢の利用に心を砕いたサックス元帥は、その効用について古典時代の先例を引用している。地中に潜めた柵や、地中海の軍港に干潮頃の防衛に役立つよう設置された杭も見ることができる。ギリシア人は、ローマ人と同様、炎や煙の幕によって軍隊の移動を隠したり妨害できることにも気づいていた。
もし単なる伝説以上の十分な信用性があれば、メッセニアの国民的英雄アリストメネスが高い崖から盾をパラシュートのように使って浮遊しながら降りていった物語も、一例として取り上げたいところだ(49)。私は疑いすぎることは良くないと考えるので、コルネリウス・ネポスとユスティヌスの伝える(50)、ハンニバルがヘレニズム諸国の艦隊を率いた際に、船員達を岸に送って毒蛇を生きたまま集めさせたという話も尊重するべきだと考えている。彼はこの蛇を割れやすい瓶につめ、敵船の中に投じて動揺と恐怖をかき立てたが、私は、これによって彼が、頼りにならない同盟諸国軍を寄せ集めたせいで怖じ気づいている自軍の船員達でも、互角に戦える状況を作り出したのだと考えている。私は本能と、たぶん常識のせいで、この物語を心底信用しようという気にはなれないのだが、それでもこれを考案しハンニバルと混同される至った無名の策略家に対する尊敬の念を失うことはない。なお、私はこの考案者がギリシア人であるとほぼ確信しており、それゆえこれを今回の講義の中に含めて良いと判断した。結局、私がここまでで何を言ってきたにせよ、本来ギリシア戦争術の最高の精華は、精神によって物質を征服することよりも、このように精神によって精神を征服することの中にこそ存在するのである。
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4 騎兵、象兵、攻城技術
攻城技術
戦争の手段についての話を終える前に、都市や城塞、陣営の防衛および攻略法について述べなくてはなるまい。我々が一つの単語──siegecraft(攻城技術)──に攻略と防衛の両方を含めているのは、少し語弊がある。考古学的な遺物はギリシアの英雄時代について、城塞都市と言うよりは中世の城を思わせる強力かつ複雑な小城塞の存在を、ティリンスなどでいくつか明らかにしている(31)。だが都市(polis)は要塞や避難所であることを止めて、共和的な都市国家へと生まれ変ろうとしていたのに、要塞は共同体の中枢、すなわち都心と王およびその側近を守れるにすぎなかった。ここで市壁が、市民の相当部分が永続的な安全を得られるだけの領域を、囲い込むようになった。市壁は通常礎石の上に煉瓦で築かれたが、未だ高くも強靱でもなく、またその必要もなく、市門を守ろうとする努力が多少見られる程度であった。小アジアでは多少強力な要塞の存在が、発掘の結果証明されているが、これは紀元前6世紀半ばの戦いで、ペルシア人がアッシリア人から学び取った攻城技術を防ぎきることができなかった。ただギリシア本土においては、簡素な市壁であっても、十分目的を達していた。
歴史時代のギリシアでは、ペロポネソス戦争の初期に至るまでは、ギリシア人によって強襲されたギリシア都市の存在を物語る確かな記録は存在していない。都市が恐れねばならなかったのは、飢えや敵への内通によって陥落することであった。ペリクレスはサモスに対して攻城装置を使用したと信じられているが(32)、都市は八ヶ月の抵抗の末に降伏したのであって(33)、このことから、直接攻撃ではなく、封鎖によって屈服したか飢えの恐怖によって屈服したと、推測することができる。ペロポネソス戦争では、小さな町のプラタイアが、当時の攻城技術の絶頂を極めたと思われる巧妙な攻撃を受けた後、封鎖用に巡らせた壁の中での二年の歳月の後、長引く飢えの圧力によって陥落した(34)。アテナイ軍は攻城技術についてある程度の名声を得ていたが、ポテイダイアは彼ら相手に三年近くも持ちこたえており、アテナイは、攻城戦における名声を保つため可能な限り素早く有利な結果を得る必要があったにもかかわらず、ここまでかかってどうにか条件付きで降伏させることができたにすぎない(35)。
攻囲戦は非常に高くつくものでポテイダイアの攻囲はアテナイの財政を大いに消耗させた(36)。ミュティレネがアテナイに対して反乱した際には、この都市は、飢えが始まって降伏を誘うとともに、市民の大群が武器を与えられて反乱の責任者の強硬派の貴族に反抗できるようになるまでは、攻略されなかった(37)。そしてシラクサに関してもアテナイ軍は、封鎖壁によるか都市の側の自発的な降伏に向けた動きに頼るかしなければ、攻略の見込みがなかった。メガラの長壁は、内通に助けられた一種の不意打ちによって(38)攻略されたが、ブラシダスもカルキディケで内通を得ていくつかの小都市を攻略した。デリオンの急造の防御施設は、巨大な吹管の一種から放射される炎に屈することになったが、これは柵以上のものではなかった(39)。結局、紀元前5世紀の最後の十年までは、いかなる規模のものであれ、ギリシア都市が強襲によって攻略されないというのは、厳然たる事実でありつづけた。その後シチリアにおいて強力なギリシア都市が、優れた兵器と蛮族傭兵の強襲部隊を擁するカルタゴ軍によって攻略された。このことは原則を証明する例外であって、その原則とは、ギリシア諸国は、強襲という無茶な冒険を強いることで、市民兵に重大な損害が出ることを望まないというものである。
紀元前4世紀になると変革が訪れる。ねじり式の弩の発明とその改良は都市の強襲を可能とした(40)。長射程で密度の高い弾幕を注いで、強襲の間守備隊の頭を押さえつけたり、守備隊の盾となる胸壁を破壊することが可能となった。この射撃は地上あるいは攻城塔から放たれた。長らくギリシアの軍隊につきまとってきた強襲の際の重大損害に対する恐れは、少なくとも弱められることになった。対壕や坑道を掘ったりはるかに強力な破城槌を打ち付けたりすることも容易になった。都市は門をますます念入りに固めたし、少し突き出した塔を用いることで、五世紀の単純な市壁に比べて攻撃軍に対する縦射が容易になったもかかわらず、外壁はどんどん簡単に攻略されるようになっていった。だがアイネイアス・タクティコスの都市防衛術に関するこの時代の著作から判断すれば、シチリアにおいてディオニュシオス1世が強固なモテュアの町に対し巧みな攻撃をかけたという例は見られるものの(41)、4世紀の前半には攻城装置の威力は完全には理解されていなかったようである。
それでもこの世紀の半ば頃には攻撃と防御の間にある種の均衡が成立するに至っており、マケドニアのピリッポス2世は、新式の攻城装置を備えギリシア人技術者を雇用していたにもかかわらず、ペリントスとビザンティオンの攻囲に失敗している。その後アレクサンドロス大王は攻城戦の達人であることを示した。彼は攻囲戦を、苛烈な意志と機略をもって断固たる態度で強力に推進した。都市がどれほど強固であっても、いかに技術と地勢を活かして防御しようと、彼の攻撃をくじくことはできなかったが、さもなくばペルシア帝国の征服などまるで不可能だったであろう(42)。なにより彼を際だたせているものは、勇気と忍耐の点で彼を失望させることの無い兵士達に支えられた、断固たる態度であった。彼の死後ギリシア人が反マケドニアに再起したときなど、彼らは決定的に重要なラミアの要塞の強襲に熱意を持って取り組まなかったし(43)、後にはデメトリオスは、巧妙な攻城技術を極めて攻囲者の異名を持ちながら、古代における最も有名な攻囲戦において、ロドス人の堅固で応変の防御を前に挫折している。
防衛技術は攻略技術に追いついてきた。この世紀の後期および次の世紀の要塞では、様々な種類の弩が、敵の攻城装置を遠く引き離し、工兵の隠れた壕や破城槌、攻城塔に射撃を浴びせるために使用されている。ギリシアの著述家の記述内に残った計算によると、様々な重さの弾を射出して様々な距離を飛ばすための計測が、科学的に行われていた。これらの記述の中には、投石用あるいは放矢用の弩や速射兵器の類といった、軍事器械に関する着想もまた残されていた。これはギリシア人の創造力に対する課題であって、紀元前3世紀には見事に達成されることになった。そして第二次ポエニ戦争におけるローマ軍に対するシラクサの防衛は、様々な方法を駆使して、哲学者アルキメデスの実用的な発明能力を見せつけている(44)。
これらのねじり式の弩とその変種の性能は、明らかに飛び道具を強化するものであった(45)。放矢用の弩は、単独の兵士を90メートルの距離から、兵士集団ならその倍の距離から、撃ち当てることができた。45度まで上げて高い弾道をとれば、450メートルも届かせることができたが、極度の長距離射撃は不正確であった。弩は、アレクサンドロスが行ったように、弓や投石の射程を超える幅の広い川を越えて射撃するのにも利用できた。投石用の弩は、180メートルまでは、最大級の石を狙い通り正確に射出する力があった。弩は全ての器械力によらない飛び道具に対し射程で優っていた。ただ、主に縄や髪の毛の特性である張力に頼って作り出した射出力が、たちまち低下してしまうために、弩は張り替えが非常に頻繁に必要となっており、結果、攻守の攻囲戦用兵器として使う場合を別にして、弩が戦争における真に有効な存在となることはできなかった(46)。さらに、弩が損害を減らすのに役立ったにせよ、実際に都市の防御を打ち破ったのは破城槌、対壕や坑道、あるいは巨大な攻城塔といった、古代中東の君主国起源の技術であったということも、思い起こしておくべきだろう。
攻防両面における創意工夫の競い合いが、軍事作戦を、17世紀のヨーロッパで行われたような攻囲中心の戦争へと、変貌させることはなかった。ヘレニズム時代の卓越した指揮官達は迅速な勝利の道を追い求めた。難攻不落の都市が軍事作戦の経過に大きな影響を与えたことはほとんど無かった。ただ強固な拠点、例えばアレクサンドロスの後継者の幾人かが築いた要塞化した大駐屯地は、戦略計画を支援する効果があった(47)。また強固な拠点には、デメトリオスの三つの要塞や、カルキス、マケドニアの支配の主柱でありギリシアの足かせと呼ばれたアクロコリントのように、政治支配を強化する効果もあった。
ところで目下の主題にとっては、これらの攻防設備が具体的に果たした役割には大して意味がなく、むしろそれら設備が、ギリシア人の創造力およびマケドニア人の判断力の戦争術への適用の証拠となる点に意味がある。そしてこの問題について論じるに際して、彼らの軍事的創造の例として、さらにいくつかの事項を持ち出すことも許されるだろう(48)。近代の発明を知る人は、その大半が、インドのゴムのようなギリシア人とマケドニア人には手に入らない素材、あるいは彼らが生み出す術を知らない高温が必要な製造技術によってしか実現できないと考えてしまうようである。彼らやコーカサスに住む彼らの隣人は、卓越した金属工であったが、高速度鋼を作る能力を持っていなかった。彼らは琥珀の小片を摩擦して観察しており、琥珀をelectronと呼んだにもかかわらず、電気を生み出す術を知らなかった。ギリシアの火の秘密をビザンツ帝国は慎重に保護していたが、だからといって古代人が褒賞を保証して発明を刺激する特許法の効用を知っていたわけではない。その上、明晰で鋭敏なギリシア人の精神は実用的な問題よりも理論的な問題にこそ敏感に反応した。それでも彼らは、弩や──これも彼らは道具の活用よりも計測の問題の方に惹きつけられていたが──その他の戦争に役立つ発明を行った。例えば梯子であり、改良された攻城梯子や観測用の盾付き梯子を目にすることができる。既に触れた破城槌はますます強力になったし、城壁の基礎を掘り抜くための装置も存在し、例えば振動させて対壕や坑道を掘り進める青銅盤が記録に残っている。火炎放射器の一種やヴェリー信号小銃の先駆的存在が、火薬の知識無しに実現していた。肉の絞り汁を軍隊で使用するための保存に際して酢が利用されたが、酢の利用に心を砕いたサックス元帥は、その効用について古典時代の先例を引用している。地中に潜めた柵や、地中海の軍港に干潮頃の防衛に役立つよう設置された杭も見ることができる。ギリシア人は、ローマ人と同様、炎や煙の幕によって軍隊の移動を隠したり妨害できることにも気づいていた。
もし単なる伝説以上の十分な信用性があれば、メッセニアの国民的英雄アリストメネスが高い崖から盾をパラシュートのように使って浮遊しながら降りていった物語も、一例として取り上げたいところだ(49)。私は疑いすぎることは良くないと考えるので、コルネリウス・ネポスとユスティヌスの伝える(50)、ハンニバルがヘレニズム諸国の艦隊を率いた際に、船員達を岸に送って毒蛇を生きたまま集めさせたという話も尊重するべきだと考えている。彼はこの蛇を割れやすい瓶につめ、敵船の中に投じて動揺と恐怖をかき立てたが、私は、これによって彼が、頼りにならない同盟諸国軍を寄せ集めたせいで怖じ気づいている自軍の船員達でも、互角に戦える状況を作り出したのだと考えている。私は本能と、たぶん常識のせいで、この物語を心底信用しようという気にはなれないのだが、それでもこれを考案しハンニバルと混同される至った無名の策略家に対する尊敬の念を失うことはない。なお、私はこの考案者がギリシア人であるとほぼ確信しており、それゆえこれを今回の講義の中に含めて良いと判断した。結局、私がここまでで何を言ってきたにせよ、本来ギリシア戦争術の最高の精華は、精神によって物質を征服することよりも、このように精神によって精神を征服することの中にこそ存在するのである。
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by trushbasket
| 2010-12-31 13:08
| My(山田昌弘)








