本居宣長『国号考』 訳:NF (五)
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(四)はこちらです。
・「倭」の字
「倭」の字は、元来は中国から付けられた名で、それが初めて文献に見えるのは『前漢書(NF注:漢書)』地理志で、
「東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設桴於海、欲居九夷、有以也夫、楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云」(東夷は性質が温和で素直であり、他の三方角の異民族とはその点で異なっている。だから孔子が中国で道が正しく行われないのを悲しみ、筏を海に浮かべて東夷の地に行きたいといったのは、理由がないことではない。楽浪郡から先の海の向こうに倭人がいて、百余りの国に分かれている。決まった年月に来朝して貢物をするという)
と言っている。その後の書物でも、皆このように「倭人」と言っており、また省略して「倭」とだけ言ったりもする。さて「倭」とは、どのような意味で名付けたのであろうか。その理由がはっきり明記されたものはないが、上述した『漢書』で、「東夷天性柔順」と書き出して「有倭人」と続けていっているのを考えると、『漢書』著者である班固の意図は、「設文」で、この「倭」の字の本質的な意味について、「温順な顔貌」と注釈しているのと同じであり、温和で素直であるから「倭人」というと考えたように思われる。しかしこれも字を手がかりにした推定に過ぎない。また皇国の古い説として、
「此国之人、昔到彼国、唐人問云、汝国之名称如何、自指東方答云、和奴国耶云々、和奴猶言我也、自其後謂之和奴国也」(この国の人が、昔中国に到達した。その際に中国の人が「お前の国の名は何と言うのだ」と聞いた。そこで東方を指して「和奴(わぬ)国である」といったという事だ。「和奴」とは自分といった意味である。それから、以降は中国では「和奴国」とこの国を呼ぶようになった。)
といった内容が『釈日本紀』や『元々集』などに掲載されているが、これも信じがたい説である。その理由は、まず「倭奴国」という名は、『後漢書』に初めて見え、「倭国之極南界也」とあるので、皇国の内で南方の一国の名であるのを、『唐書』などで勘違いして、皇国の古い国号のように書いているのを、それ以降みなその間違いをそのまま伝えて、中国でもこちらでも、ただそういったないようだとばかり思っているのは、大変な間違いである。この事は私が『馭戎慨言』に詳細に論じている。というわけで「倭奴」は、元から国の名前だったにせよ、「私」という意味で答えたにせよ、皇国の中の一国の名であるから、ここから天下全体の称号としての「倭」を論じてはいけない。またある別の説として、「倭奴国」を中国の発音で言えば「於能許(おのこ)」であり、「磤馭盧嶋(おのころしま)」という意味である、と言っているのも間違いである。「磤馭盧嶋」は、大八洲より前に出来ているが、淡路島のそばにある一つの小島の名前であって、神代から天下全体の称号として用いた例は全くない。だから皇国人が言わない名称を、外国の人が知ってそのように名付ける理由はないではないか。この説は元来、近世に神道者という人々が、この「おのごろ嶋」を、皇国の本来の名称のように説いた事から始まっている。また「倭奴国」というのは「おのころ嶋」であり、「おのころ嶋」というのは「丈夫(をのこ)嶋」という意味であるという説は、全くの見当はずれである。これは「於(お)」と「袁(を)」の発音の違いすら理解していない誤りである。「夜麻登(やまと)」という読みに、やがてこの「倭」という字を当てて書くのは、大変昔からのようである。『古事記』でもみなこの字を書き、また『日本書紀』でも、「日本」と書いて「夜麻登(やまと)」と読む事については、神代巻で、「此云耶麻騰」(これを耶麻騰【やまと】という)と注釈している一方で、「倭」の字を書いた際にはそういった注釈も何もないので、世間で一般にこの字が用いられていた事がわかる。一般に文字は、全ての物の名も何もかも中国の文字を借りて表す習慣があるので、これも中国が名付けた書いた字を、そのまま使用しているというのは、大変ありそうな事だ。とは言えこの字は良い意味の名称ではない、といって嫌う人があるが、字の元来の意味がなんであれ、皇大御国の称号となった以上は、その時点で良い名称ではないか。ところでこの「倭」の字は、中国から名付けたのは、この国全体の称号としてのみであって、畿内の大和国については、皇国人が言ったのを聞いてそのまま書いたと思われ、『後漢書』『魏志』などに「耶馬台(やまと)」とあり、『隋書』『北史』などにも「耶摩堆(やまと)」といっている。しかし皇国では、畿内の大和国にも同じようにして、みな「倭」の字を用いたのである。
・「和」の字
「和」というのは、皇国で後世になって「倭」から改められた字である。したがって、異国の書には、我が国全体の称号としてこの字を書いた例は全くない。思うにこれは、古くから「倭」の字を使用してきたけれど、元来は異国から付けられた名であり、良い意味の字でもないということで、同じ音でよい意味の文字を選んで、改めたものであろう。というのは昔はただ、「夜麻登(やまと)」という名だけを主として、文字はどうであれ、仮のものでしからないから、意味合いの良し悪しはそれほど気にせず、使われたままに「倭」の字を用いてきたのであるが、やや後になると、文字の意味合いの良し悪しをもえり好みするようになったからである。さてこの「和」の字についてであるが、上述した『漢書』の文には、やはり「順貌」と注釈していることや、「和順」というように続けて用いる事も併せて考えると、『詩経』の「大雅」で「雝々」という部分の注釈で、「鳳凰鳴之和也」(鳳凰の鳴き声が穏やか)とも「和之至也」とも書いている。また聖徳太子の憲法の始めに、「以和為貴」(和を大事にせよ)とある。また中国で「雍州」というのは、元来は王都がある国の名であったため、皇国でも後世になってこれに倣い、山城国を「雍州」と言うようになった。この「雍」の字も「雝」と意味合いが通じており、「和也」とする注釈がある。これらはどれも理屈が通っているので、どれにせよその意味合いをとったのかと思われるが、そういったものではないであろう。全ての事は後になって考えれば、自然とそれらしい理屈は、色々と出てくるものである。また「子葉子」という書物には、「太和之国」という説も載せられているが、これは上述したものより更に理屈に合わない。
「倭」を、この「和」の字に改めたのは、どの御時代かと考えて見ると、斎部正通の『神代巻口決』に、「天平勝宝改為大和」(天平勝宝年間に「大和」と改称した)とあり、『拾芥抄』でも、「天平勝宝年月日改為大和」(天平勝宝年間に「大和」と改称した)とある。これらは後世に書かれた書であるが、根拠がありそうに見えるため、更に古い書物を考察して見ると、まず『古事記』には全く「和」と言われておらず、『日本書紀』にも「和」の字で書いている場所はない。『日本続紀』になって、初めてこの「和」の字をあてている場所が見られる。これによって考えれば、例の天平勝宝年間に改称されたというのが、全くのでたらめでもない事がようやく分かる。しかし確かに改称されたと言う事実は記されていない。そこで更に詳細に『日本書紀』を検討すると、最初のうちは「倭」の字でのみ書いており、その期間には「和」の字で書いている部分は一つもない。元明天皇の御世である、和銅六年五月の大命で、「畿内七道諸国郡郷名著好字」(畿内や七地方の諸国・郡・郷の名に良い意味合いの字を用いよ)とあるが、これによって「倭」が「和」に改まったわけではないようで、それ以降もやはり元のままの「倭」の字である。そして聖武天皇の御世である、天平九年十二月丙寅、「改大倭国為大養徳(おおやまと)国」(「大倭国」の名を改めて「大養徳国」とする)とあり、天平十九年三月辛卯には、「改大養徳国依旧為大倭国」(「大養徳国」の名を改めて元の通りに「大倭国」とする)とあるので、この時にもやはり「倭」の字であった事が分かる。その後も孝謙天皇の天平勝宝四年十一月乙巳日の条で、「以従四位上藤原朝臣永手為大倭守」(従四位上である藤原永手を大倭守【大和の国司】とする)とあるまではどれも「倭」の字であり、その後の天平宝字二年二月己巳日の勅命で、初めて「大和国」と見える。これ以降は、みな「倭」でなく「和」の字のみを用いている。ここからまず、天平勝宝四年十一月から、天平宝字二年二月までの間に改められたと分かる。それもこれといった理由なく「和」の字を書き始めたのではないはずである。上述した「養徳」と改められたときの例を考えると、この「和」の字に改められたときも、必ず詔勅によって告げられたのであろうが、『日本書紀』にはその事が記録に漏れているのであろう。『類聚国史』などにもそうした記録が見えないので、後世になって書写し忘れたのではあるまい。
そしてまた『万葉集』を考えると、十八巻までは、歌にも詞書にも、「和」の字を書いている所はなく、十九巻の、「天平宝字四年十一月二十五日、新嘗会肆宴、応詔歌六首」(天平宝字四年十一月二十五日、新嘗祭の祝宴で、詔勅に応じて詠んだ歌六首)の中で、「右一首大和国守藤原永手朝臣」とあるのが、「和」の字を用いた最初である。また二十巻で、
「先太上天皇詔陪従王臣曰、夫諸王卿等宜賦和歌而奏」(まず太上天皇が付き従う皇族や臣下に勅命して仰るには、「さあ、皇族も臣下も和歌を作って詠み上げようではないか」と)云々「右天平勝宝五年五月」云々
とある。ここで初めて「和歌」とかかれており、そもそもかの永手朝臣を「大倭守」となされたのは、上述した『日本書紀』の文にあるように、天平勝宝四年十一月乙巳日であり、乙巳とは二日の意味であるから、その時点で「倭」の字を書いており、また『万葉集』で、その同じ月の二十五日で、「和」の字を書いているのを引き合わせて考えると、まさに天平勝宝四年十一月の、三日から二十四日までの間に改められたのであろう。そしてまた「大倭宿禰」という姓は、あの「倭」が「養徳(やまと)」と改められた時も、その字に従って、「大養徳宿禰」と書かれていたので、「和」の字に改まった際も、それに従うはずであるのに、天平宝字元年六月のところまで、依然として「倭」の字で書いており、同年十二月の文で、初めて「大和宿禰」とある。その頃には既に姓氏の文字も、私的に思いのままには書かず、必ず朝廷から勅命があって、定められた事であるから、国名が「和」の字となったとき、この「大倭宿禰」の姓の字も、そのように改めるようにという勅命があるはずなのに、その後もしばらく旧来のままに書いているのは、この姓の字を改めるようにと言う勅命は、天平宝字元年になって出たのであろう。さて天平宝字元年の条で、この姓を「大和宿禰」と書いているので、国名の方は、それ以前に既に改まっている事は、ますます間違いない。一般に『日本続紀』には、当初の「倭」の字である時期は、全て「倭」の字のみで書き、「和」と書くことはなく、「和」の字で書き始めた後は、これまた全て「和」の字だけで、「倭」を交えて書くことはないので、字が改められた年月も、自然と上述のように推測されるのである。しかし『田令』の中に、「大和」と書いている場所がある。そして『日本書紀』崇神天皇御巻にも、「和」と書いている箇所が一つある。また『日本続紀』八巻にも、二ヶ所「大和国」と書き、「和琴」とも書いており、『万葉集』七巻にも「和琴」と書いているが、これらはみな後世に写し間違えたものであろう。その根拠は、前後にも数多くある「やまと」に、みな「倭」の字だけを書いている中で、大変稀に一つ二つ「和」の字を書く理由がないからである。後世には、思うままに通じればよいという考えで書くので、ただそれと同じ事だと考え、ふと写し間違えたものであろう。また「和銅」という年号もあるが、この「和」は「やまと」という意味ではない。さて上述した『日本続紀』に出ているのは、みな畿内の大和一国(NF注:現在の奈良県)の名における字であり、天下全体の称号の「やまと」についてではない。天下全体の称号としては、『日本書紀』からして、多くは「日本」という字を用いているので、その問題は波及しなかったのであろうか。「和」の字に改められた後も、畿内の大和国の名でない場合は、やはり「倭」の字をも廃止することなく、『日本続紀』などにも、「倭根子天皇」などと書かれており、その他にも似た例が多く見られる。ではあるが、天下全体の称号も元来はあの畿内の大和国一国から起こっているので、その由来が改められた以上は、いずれにもみな、「和」の字を用いるのが良いというべきであろう。
(六)に続きます。