F.E.Adcock『ギリシア人とマケドニア人の戦争術』 山田昌弘訳 新装版 第6講 本文 前半
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6 戦術指揮
軍事作戦が戦闘を目的地とする徒歩旅行のような様相を呈していた、重装歩兵密集軍(hoplite phalanx)のみの素朴な戦いの時代から、ヘレニズム時代の遠大で複雑な作戦に至る間に、戦略面で極めて大きな発展を経たのと並行する形で、戦術指揮に関しても大きな発展が生じた。
ほとんどの歴史家の見解において、それなりの正当性を持って、トゥキュディデス、クセノポン、ポリュビオス、アリアノスといった幾人かの例外を除き、ギリシアの作家は軍事作戦全体を記述しようとせず戦闘を記述できただけだと信じられているように、古代の諸資料は戦略よりも戦術について良好な証拠を与えてくれている。そして、一部の古代の著述家は、距離や方角についての曖昧さにもかかわらず、どこで戦闘が起きたか知ることあるいは合理的に推測することを可能にしてくれるので、我々が現場を自らの目で見に行くことも可能となっている(1)。ただ私個人の経験から言って、そこでは悪意ある神が、河川の移動や海岸線の変化、湖の水位、町村の消滅によって、観察者を欺こうとし続けている。そのため、明敏で慎重な学者達による熟練かつ渾身の研究にもかかわらず、戦場の現地調査は、真相の解明をもたらすというよりは、想像力を刺激するだけに終わることが非常に多い。
戦術指揮を評価する最も分かりやすい基準は成功の程度である。マキャヴェリが著書の『兵術論(Art of War)』で言ったように、「指揮官が勝利すれば、あらゆる錯誤と失策は取り消される」(2)のである。引き分けの戦いは滅多になく、たいていの戦いは一人の指揮官を以前より有名にする。ただし運にたよった勝利もあれば、指揮官が何の貢献もしないか足を引っ張っただけの兵士の力による戦いもある。また名将になるには経験を積むだけでは十分ではない。「アームレは」フリードリヒ大王によれば「オイゲン公の下で二十の作戦に従事したが、それでもたいした戦術家ではない」。老齢であっても十分ではなく、また、若くとも十分ではないとも付け加えるべきだろう。偉大な将であるということは、単なる技巧の問題ではなく、知性の問題なのだ。よく言われてきたことだが、「アレクサンドロス、ハンニバル、スキピオ、カエサルは最高度の知的能力を備えていた。同様のことが大コンデ、リュクサンブール、偉大なオイゲン、フリードリヒ、そしてナポレオンにも当てはまる。ただしこれら全ての傑出した人物は、卓越した知性を授かっていたが、それ以上に偉大な器量の持ち主であった」(3)。さらにこの一覧に私はグスタフ・アドルフとロバート・E・リーも加えたい。
誰のためでなく自分のために勤務する兵士達に、信頼の念を引き起こすことは、指揮能力の一側面を成している。詩人アルキロコスは、「足長のっぽな指揮官も、髪が自慢の指揮官も、髭を落とした指揮官も、全くもって気にくわない。チビでがに股、どっしり構えた、勇気に溢れる指揮官が良い」(4)と自分の好みを包み隠さず語った。半島戦争で、軽歩兵師団がウェリントンについて、あの鼻の長い面は千人分の値打ちがあると言っている。アフリカ遠征においてカエサルの陽気さ──彼の持ち前のhiraritas──は、補給を乗せた輸送船を待ちこがれる軍団兵を落ち着かせた(5)。ブレンハイムでは、アディソンを信じるならば、マールバラの揺らぐことのない落ち着きが、つむじ風と突風の中を駆け抜けることを可能にした(6)。とりあえず、あくまで戦争術の一要素にすぎない偉大な人間性を云々するのはこれで十分だろう。
以前の講義で、ミルティアデス、パウサニアス、エパメイノンダス、ピリッポス2世の指揮、クレオメネス1世、テミストクレス、キモンの戦略、ポルミオンの操船術、イピクラテスの小盾兵(peltasts)の活用、ペロピダスによる騎兵戦闘については語った(7)。アテナイの指揮官デモステネスは、ピュロスとスパクテリアの事件の全過程を通じて、戦略戦術両面で、進取の気風と洞察力を発揮した。ただ、ペロポネソス戦争のはじめの十年に一度起こった相当規模の陸上戦闘、すなわちデリオンの戦いで勝利を収めた、テバイのパゴンダスは、彼が受けている賞賛には完全には値しないかもしれない。別にパゴンダスを不公平に扱うつもりはないので、少なくとも彼が名将を作り出すための有力要素である強い戦意を持っていたことは認めて良い。ところで、ここでこの戦いについて論じることを許してもらいたい(8)。アテナイ陸軍の主力部分はボイオティアの国境のすぐ内側、デリオンに拠点を築いた後、帰国の途についていた。兵力にかなり優るボイオティア軍を率いたパゴンダスは、これを補足することが可能であると見て、その実行を主張した。アテナイ軍がボイオティアに出入りすれば抵抗を受けずには済まないと示しておく必要があったので、これは優れた戦略であった。アテナイの指揮官ヒポクラテスは、デリオンの後方に騎兵の小部隊の一部を残していた上、軍事的に役に立つほどの軽装兵部隊を全く欠いていた。パゴンダスは、常にかなりの質を誇っていたボイオティア騎兵を、この時は一千人連れていた。彼はおそらく騎兵に適した戦場が見つかるまで後退することもできたはずである。ところが彼は、直ちに攻撃に取りかかり、アテナイ軍が縦深八列の通常隊形を組めば二本の小川でその両側面とも守ることができる地点で、アテナイ軍の進路を妨げてしまった。それでも彼は、アテナイの指揮官が戦列に沿って歩きながら行う演説の終わらない内に、時機を選んで攻撃した。通常の縦深を採ったアテナイの戦列は突撃を受けたが、右翼のテバイ兵は二十五列の縦深に配置されており、そのため残りの部分でボイオティア歩兵が、対面するアテナイ軍と比べて数的劣勢に立つことになった。結果はテバイ兵が大勝し、友軍のボイオティア兵が惨敗したのだが、戦闘中の一点におけるアテナイの優勢が他点における劣勢を補うことができたのか否かは、判断の難しい問題である。戦闘は不安定ながらも均衡状態に陥ったようだ。そこでパゴンダスは騎兵隊に丘を迂回させ、左翼の支援に差し向けた。これは賢明な運動であり、土地の形状がふさわしいものであれば、騎兵は効果的な介入に成功しただろう。ところが騎兵に適した地形ではなく(9)、これが成功するかどうかは疑いをぬぐいきれなかった。現実の結果は、勝ちに乗っていたアテナイの右翼が、騎兵が丘の上に現れたのを見て、これを新手のボイオティア軍の前衛だと思いこみ、恐慌を起こして崩壊、戦いの決着に至ったのである。察しの良すぎるアテナイ重装歩兵(hoplites)は、二の情報に二の情報を加えて、五の判断を組み立ててしまった。これが想像力に欠けるボイオティア兵であればそのまま四の判断に到達し(三の判断しかできないことさえあるだろう)、戦闘を勝てないにせよ引き分けるまで続けることができただろう。パゴンダスがアテナイ軍に対するこのような心理的効果を認識していたとは考えがたく、彼の指揮は、実際の価値よりも過剰に褒めそやされていると考えられよう。ただ公平を期すためには、戦闘を決定したのがこの地点でなければ、実際の結末同様に快勝でなかったとしても、それは正しい判断であったと明言しておかねばならないだろう。
アテナイの指揮官ニキアスは、シラクサ前での最後の惨敗から考えられるよりは、優れた軍人であった。彼が、この都市を前にした最初の戦いに臨んだときには、彼の評価は相当高かったであろう。彼の初登場以来の作戦指導は彼が戦争の新潮流を把握していたことを示していた。水陸両用の戦略や戦争機構を駆使する巧みさ、騎兵の威力に対する正しい認識、防御に際しての予備兵力の活用の点で、彼は時代の先頭に立っていた(10)。行動は迅速だが意志決定が遅いというのが、彼に対する公正な評価である。少なくとも、彼は為すべきことが分かっているときには、それを抜け目なく実行した。だが彼はその悲惨な最期においては、空しい希望と無分別な恐怖の中で、カエサルが「第一級の罪人のように疑いながら幸運を祈った」(11)と表現したパルサルスにおけるポンペイウスの様であった。スパルタ人ブラシダスの戦歴には、兵士と状況に対する巧妙な操縦と相伴った果断で時に激しい統率術による、長年に渡る成功を目にすることができる。彼はギリシア史上の他の指揮官と比べて、より少数の兵でより大きな成果を挙げることができたようだ。アンピポリス前でクレオンの軍を撃破するという彼の最後の武勲は、アテナイ軍の弛緩した士気を抜け目なく洞察するとともに、優勢な敵軍に対する攻撃の念を自軍にうまく引き起こし、奇襲を行うことで成し遂げられた(12)。けれども彼の戦争術への貢献は機会の割には乏しくて、当時の伝統的戦術に対して重要な発展を加えてはいない。紀元前5世紀の他のスパルタ人指揮官の内では、ギュリッポスが果敢な人物で、シラクサでスパルタ人らしからぬ俊敏さを任務に合わせて発揮しているが、この他、イオニア戦争におけるリュサンドロスも同じくらい果敢な人物で、ペルシアの王子の知遇を得ることに成功、さらに一目で海戦の機微を捉えてみせた。シラクサのディオニュシオス1世は戦闘における諸部隊の連携を習得していたが、彼の功績は戦闘での勝利よりも、むしろ組織や要塞、攻城技術の中にあった。それ以後のシチリアの歴史では、シラクサのアガトクレスの冒険的な戦略(13)とティモレオンのクリメソス川における運の良い勝ち戦が存在したにもかかわらず、戦争術への貢献はほとんど行われていない。
「ティモレオンの運の良い勝ち戦」。それでもそこには、もっと語るべき何かがある。私は指揮に際して、器量が果たす役割を語ったが、それは才能や技術よりも重要だと言って良い。そしてティモレオンの全戦歴は、ギリシア都市国家史上に現れた最高の器量による勝利であった。彼が軍事的な技量に優れていたことを示す証拠は全く存在しない。だが彼は果断な人物で、兵士をうまく鼓舞して危険な状況を好転させることができた。カルタゴ人が、重装の精鋭集団である神聖部隊を含む強力な軍で、シチリアに侵入した時、彼はクリミソス川で勇敢にも小規模の軍でこれと会戦した。彼が戦おうとする上で、これ以上に有利な戦場はなかったが、どう計算したところで希望には見放されていた。だが戦いは輝かしく決定的な勝利に終わり、シチリアのヘレニズム運動は救われることになった。どうしてだろうか?勇気を愛でた幸運の女神が天国の扉を開き、視界が奪われるほどの勢いで雨が降り注いだのだ。カルタゴ軍の一部が渡河したところで、クリミソスは──聖書に出てくる「古の川、キション川」のように──洪水となった。神聖部隊は堅い地面で突撃すれば阻止されることなどなかっただろうに、ぬかるみの中では重い鎧のせいでギリシア人の軽装兵部隊に手も足も出ず、皆殺しにされた。そして全軍が混乱して潰走させられた(14)。全く運の良い勝利であった。雨は最高の指揮官でも意のままに降らせるなどできないし、最も賢明な天気予報士でもクリミソスの渡河と同時に酷い雨が降るとは予知することはできない。ただ少なくとも勇気に関しては、彼は賞賛されるべきである。結局ナポレオンが言うように、「何の危険も冒さない者は、何も得られない」のであり、完勝か完敗か二者択一の時だったのである。
今度はスパルタに話を戻して、紀元前418年の第一次マンティネイアの戦いに勝利しスパルタの軍事的な優越を見せつけた、アギス王を扱おう。彼はこれ以前の軍事活動から大胆な戦略家であることが分かっているが、この時連携作戦のため、夜間でありながら三軍に完璧な協調を求めたのは、無茶だったかもしれない。十一時に行われた戦闘で、彼はより成功が望めるよう戦闘隊形の再編を命じたが、そのためには命令が敏速に実行される必要があった(15)。そう上手くはいかず、おそらく彼は軍隊の戦闘能力に頼って勝利を求めることになった(16)。彼は自らが統御できる以上のことを考えており、彼はナポレオンの言う「一度に多くのものを見過ぎてしまう」指揮官であったのだと、私は思っている。ただマンティネイアでの彼の行動は、重装歩兵(hoplite)戦闘の定型化した相変わらずのやり方の一変種を示している点では、注目する価値がある。彼の後継者のアゲシラオスは、紀元前394年のコロネイアの戦いで、これをさらに推し進めた形で型にはまった戦術を展開したが、テバイ軍の縦深隊形による攻撃を支えることができず、完璧な勝利を得ることはできなかった(17)。
この他コロネイアの戦いに先行するコリントスの戦いは「非科学時代のギリシアの戦争に見られる決戦」(18)の典型と評されてきた。これは最初の講義で述べたスパルタの伝統戦法の実例であった。だが既に戦争術の研究と応用が行われる時代に入っていた。もっとも修辞学者(Sophists)が指揮官の義務に一般教養の習得を含めるようになったり、その上ソクラテスとプラトンが戦争に熟練した男を哲学上描写しているといっても(19)、武器の使用と指揮能力の専門家として身を立てる人物は多いわけではなかった。クセノポンなど『アナバシス(Anabasis)』で(20)、ありとあらゆる雇い主に仕えながらギリシア中を旅するコイラタダスなる確かな腕を持った人物を、悪意ある筆致で描写している。ちなみにクセノポン自身は単なる実務に優れた軍人に留まらず、戦争術を研究し、常識的な小手引書や空想的に描いた『キュロスの教育(Cyropaedia)』の中で、戦争術について記述を残している。
戦闘指揮の進歩を、指揮官の地位にある者たちは進んで採用した。指揮官が戦闘開始後に重装歩兵密集軍(hoplite phalanx)の最前列に立つことはもはやなかった。カイロネイアにおけるピリッポスは、密集軍(phalanx)を意図的に後退させたときには戦列外で命令していたはずであり、自ら陣頭に立って戦うことがあったとしても、それは攻撃に転じた際の突撃においてであろう(21)。アレクサンドロスは戦闘時に友たる騎兵隊の先頭に立っていたが、ヘレニズム時代には指揮官は通常両翼で、しかも後方に位置を占めることまであったはずであり、これによって必要に応じて戦場を駆けめぐることができた(22)。十分な規模を持った有効な予備隊は、ギリシアとマケドニアで使用された例がほとんど見あたらないが(23)、それでもこの頃の指揮官の知力は戦闘の作戦として必要であれば新たな布陣を生み出すことができただろう。
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